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10.絵の中の帰蝶
しおりを挟む柊理は紋様のことをたずねるのを許さなかった。
「大丈夫だ」とわたしの問いを遮ってしまう。気にかけてやっているのに、と腹も立つが、どうしようもない。
医者に見せるものでもないだろうし、かといって専門家が見つかる種のものでもない。おじい様も研究に異国に行くまでしたが、詳細はつかめなかったようだ。
不調なそぶりもなく快活にしている彼を見ると、わたしもそれ以上は詰問しにくい。それに関してはぴしゃりと戸を閉じるように、距離を取られるのを感じた。
面白くなく、気になりながらも日が過ぎて行く。
邸に礼司が現れた。わたしを絵のモデルにしたいという。
「柊理は、帰蝶さんがいいのなら構わないと」
「わたしを?」
「あなたははかなげな美人で、ひどく画家心をくすぐります。僕の描きたいテーマ性とも合う」
花魁の頃は憂いがあるなどとよく言われた。憂いのない遊女などいるはずもないのに。しかし、はかなげとは初めてだ。柳腰の自覚はあるから、そういうことかもしれない。
描かれるのは初めてだが、別に嫌でもない。柊理の応援する彼の助けになるのなら、と応じることにした。
「何枚かスケッチをさせて下さい。その中から絵の具を乗せるものを決めたい」
椅子に座ったり、花を持ったり。立ったり、振り返りもした。礼司の求める姿勢をとった。
そのわたしを前に、真剣な眼差しで鉛筆を走らせる。その姿は画家そのものだ。
関心ではなく、その目は写し取る対象としかわたしを見ていない。それがよくわかる冷たい視線だ。
「以前にも絵のモデルを?」
「え」
「帰蝶さんは視線慣れしているというか。驚きです。女友達にモデルを頼むと、てんで駄目なんです。照れてしまって、見られることに慣れてもらうのに時間がかかる」
「そうなのですか?」
わたしの頃には花魁道中こそ廃れていたが、花魁は見られる仕事だ。宴席、酒席で数多くの熱っぽい酔眼にさらされるのは常のこと。たった一人に見られるなどなんてことはない。
仕事の終わった礼司のスケッチブックを見せてもらう。鉛筆描きの簡単なものながら、さすがに描き込まれていて、素人の線描とはものが違う。
じっと絵に見入っていると、礼司が笑う。
「きれいでしょう? それが帰蝶さんだ」
礼司の描く鉛筆画のわたしは、たおやかで美しかった。彼がわたしを「はかなげ」と評した意味がわかる。
花魁を降りた自分の美醜をそれほど意識してこなかった。それで稼ぐ必要もない。柊理が「姫は美人だ」と言ってくれる言葉だけで十分満たされていた。
けれど、誰かが巧く切り取ったものの中に自分の美しさを見られたら、こんなにときめくのかと思った。
「でも、これは礼司さんが美人に描いてくれたのでしょう?」
「絵の基本は写実です。写し取ることが本質なのに、そこに虚飾を入れたら意味がない。色の濃淡、線の濃さ、配置などで画家の個性を出すんです。嘘は入れない」
説得力のある言葉だった。確かに嘘を描くのなら、モデルは要らない。
スケッチは五枚ある。礼司はどれを選んで本当の絵にするのか興味があった。
無言でスケッチブックのページを繰る彼の指が、行ったり来たりする。
「難しいな」
「絵にできないのですか? すごく上手に描けているのに」
「そうじゃない。選べない。全部描きたいんだ。これのすべてを絵にしたい」
午後からの作業だったので、日が暮れていた。
お茶のお代わりなら、酒がいいと言うので酒を出した。礼司はグラスに入った琥珀色の液体を舐めながら聞いた。
「絵にするとなると、またモデルを頼みます。アトリエに来てもらうことになる。それでも構いませんか?」
「今日と同じようなことなら」
しばらくした頃、柊理が帰ってきた。
礼司は彼にもスケッチブックの絵を見せた。
丁寧に絵を見た後で、
「いいじゃないか。お前の描く線と姫の清楚な雰囲気がよく合うな」
と意見を言う。
「うん、帰蝶さんは実に絵に映える美人だよ。自分でも融和に驚いている」
「どれを絵にするんだ?」
「全部描く。色を乗せる時にはアトリエに来てもらうけど、いいよね?」
柊理がわたしを見た。礼司が言い添える。
「帰蝶さんのOKはもらってる」
「ならいいか」
その後、柊理が夕食を勧めたが、礼司は断った。
「続きを描きたい。悪いけど、失礼するよ」
グラスの酒を干して、帰って行った。
「いやいや、珍しく創作意欲が盛り上がったようだな」
「礼司は真面目に絵を描いていたぞ。まだ鉛筆画だが上手い」
「姫があいつの熱意を刺激したのかもな。画家の気まぐれも才能か。機械的に描くというわけにはいかないんだな」
「わたしは「はかなげな美人」だからな」
「気に入ったのか? 嬉しそうだな」
そう言う柊理の声も明るかった。目をかけている礼司の絵への意欲を目にし、安堵したのかもしれない。
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