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2.麒麟の息子

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半年が経った。


この日、高司様の初登楼の日が定まった。


早い時間から支度をして、部屋で待つ。帯を前に締めたときから、わたしは緊張していた。続きの部屋には床の支度も出来ている。高司様は、その場でわたしを好きなようにしてもいい。


夜の花街の騒々しさが、窓から入り込んでくる。


長い時間が過ぎた。


形だけ手に持つキセルを前に投げ捨てた。控えたおちょぼがすかさず拾う。


「遅いお成りですね」


「もう来ない」


時計は深夜に近い。もう店を閉める頃合いだ。来ると約束して、知らせもなくすっぽかされる。花魁になって、こんな目に遭ったことがない。


「馬鹿にして」


「お忙しいのですよ。きっと」


「知らせくらい寄越せるだろう」


けれど、腹立ちの他に少しほっととした自分もいる。


翌日、昼前に高司様の使いが現れた。


部屋にあふれるほどの花が届けられた。詫びの簡単な手紙が添えられてある。そこに、『次は必ず』と、書かれてあった。


先代のおじい様とは雰囲気の違うやり方だ。ともかくこの方の意を迎えなくては、わたしは花魁でいられない。


丁重な礼の手紙をしたため、使いを通じて届けさせた。


そのことがあってから三日ほどして、また高司様の登楼が伝えられる。


次こそは、とわたしも覚悟を決めた。


支度前に浴室で湯に浸かっていると、紫がやってきた。


「おじいちゃん専門のあんたで、若様を満足させられるの? きれいなだけの人形でいたら捨てられるわよ」


むっつり黙り込むわたしへ、誇った笑みを浮かべた彼女が言う。


「新時代よ。若い人には吉原なんかより楽しく遊べる場所もあるのに。あんたに大金を落とす価値があるか、しっかり吟味なさるのじゃない?」


紫の嫌味は痛烈だが的を得ている。わたしは閨の何も知らない。


わたしの沈黙をどう受け取ったのか、彼女は肩をぶつけた。


「ちょっとしっかりしてよ。『武器屋』のエースでしょ。頼むわよ」


「えーす?」


「何にも知らないのね。お父さんの所で新聞くらい読みなさいよ。花形役者って意味の外国語」


「どういう風の吹き回しだ? わたしに成り替わりたいのじゃないのか?」


「次元が低いのね、あんた。」


紫は白い腕を前に伸ばした。楼主から、売上が減少の傾向にあると聞いたと言った。


「潮目が変わったの。お大尽が雨のようにお金を降らせてくれたお江戸の頃のようにはいかない」


それに、遊郭のような女を売る店は、世の風紀を乱すと、今後取り締まりの対象になる恐れもあるという。


「今は、まだ昔の名残でお客も多い。花魁を買うのが男の一等の名誉みたいなものよね。それがいつまで続くかしら…。吉原の遊郭はどんどん減るわ」


紫がそんな先を考える女だとは知らなかった。わたしの持たない知識も得ている。それで今後を模索しているようだ。


「ともかく、高司様は超太客。先代は、麒麟を持っていたのじゃないかと言われる人よ。その若様だもの、人脈もピカイチよ。せいぜいご奉仕して、頻繁に足を運んでくれるようにしてほしいの」


高司様からの流れで、新たな上客を獲得したいのだ。


「あんたがわたしのおこぼれを狙うのか?」


「個人の欲のために言ってるんじゃないわ。店のためよ。生き残らないと。一人も二人も『武器屋』の馴染みにしてほしいの」


「女将みたいだの」


何気なく出た言葉に、紫は黙り込んだ。湯のせいばかりでもなく、顔が赤くなる。楼主に気があるのはすぐ知れた。


大学出の彼の影響での新聞や外国語なのだろう。逆で、知識欲の後に恋がついてきたのかもしれない。


こんな世界に首まで浸かり、恋をする彼女をちょっと違った目で見てしまう。持ち前の図太さで、現実離れした恋愛を夢見るのか。それこそが現実からの逃げなのか。


邸にいた姫の頃、わたしには親の決めた婚約者があった。一万五千石の佐和野様のご嫡男一成様だ。一度だけ披露目の茶会で会うことがあった。幾度か目で確かめるだけで、会話も何も許されなかった。涼しい目元の素敵な方だと嬉しく思ったのを覚えている。


ただ、それきりだ。いつしか縁談どころかわたしの家も消え、今に至る。自分に置き換えてみて、恋にちなんだ思い出などこれしかない。未だ鮮明に覚えているのだから、初恋と言っていい。


紫は湯で顔を洗い、


「悔しいけど、『武器屋』の一番の売りはあんたよ。わたしじゃない。極上のお姫様をはべらせることが出来るのが、ここの魅力。しゃんとしなさいよ。花魁でしょ? 麒麟のじい様を長いこと股にくわえこめたのだから、その息子ぐらいたらしこめなくてどうするの」


「公家はそんなに口が悪いのか?」


「武家ほどじゃないわ」


競い合い、時にいがみ合うのが遊女、花魁だ。互いに、心底うんざりすることもある。けれど、ざまあ見ろは思っても、その先の不幸を願うことはない。


だって、似た者の吹き溜まりだから、『武器屋』は。



念入りに化粧をして、時を待つ。


登楼の知らせが来て、わたしは脇息に預けた身を起こした。


伏せた鏡に目がいくが、すぐに逸らした。支度は完璧だ。紅も艶やかで、髪も乱れがない。


女中の声がかかり、襖が開く。


洋装の紳士が入ってきた。案内で席に着く。白い柔和な顔立ちの若い男性だった。


高司様ではない。


すぐに気づく。これまで出た宴席で見かけたことのある、某宮家の方だった。高司様と親しいという。その後ご友人も加わり宴席が始まった。高司様の姿はない。


この夜も彼が現れることはなかった。


店としては花代がつくから文句はない。


どういうつもりなのか。


使える手段は手紙しかない。本人の登楼を待っていることをつづり、送った。


珍しく、それには返事があった。



           『手紙をありがとう。


            僕は君を父より譲り受けた。

            遺言もあり、君への援助は絶やすつもりはない。


            君を親子二代で囲われ者としよう。

            父に継いで、今度は僕の欲望に隷属する。


            君が孕み、産んだ子は認めないことを記しおく。

            その際の金銭的な責は持つが、それに留まる。


            男児であれば邸に引き取り、下男に雇うことも
            やぶさかではない。

            女子であれば『武器屋』で処遇をしてもらいたい。


            これを契約ではないが、君との取り決めにしたい。

                                  

                                高司柊理』



読み終えて愕然となった。


ひたすらに優しかったおじい様とはまったく異なる。事務的で一方的で屈辱的な言葉が並んだ。


ざっくりと心がえぐられた。


知らない間に頬を涙が伝っていた。悔しさに出たものだった。


花魁でい続けることは、この人の侮りと差別を受けながら侍ること。それでもあまたの遊女たちより恵まれていると、自分を慰めながら身体を許していくことだ。


受け入れがたい痛みだった。


自分以外に守るものもないわたしが、それに耐える意味が見出せない。


全部を捨てて、ここにいると思っていた。けれどそうではなくて、売り物のはずの姫だった過去が、わたしの誇りの中核になっている。わたしそのものと言っていい。それを引き渡したら、わたしは消えてしまう。


「姉様?」


おちょぼが声をかけた。それに返事を返す余裕もない。彼女の目も気にせず、わたしは泣き崩れた。


嫌だった。


花街に落ちて、今日ほど呪わしく思ったことはない。

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