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37、レオ

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 レオは彼女の前に立ったまま、俯くようにしている。飾り棚の花瓶から、朝に活けた庭の花の香りが届いた。

 時間の止まったようにも感じる暗がりの密室で、沈黙を破ったのは彼だった。

「いつこちらに帰ったの?」

「五日前よ」

「君たちがホープ州へ向かったのは、コックス君から聞いたよ。向こうでは何を?」

 コックス君とは、ワーグスビューで出会ったマシューという青年のことだ。

「フィッツ…、ハミルトン氏のお邸に滞在していたわ。姉の勤め先なの。ダイアナはそちらでお嬢さん方の家庭教師をしているの」

「覚えているよ」

 ぽつりと返される、その言葉が彼女の胸につきんと刺さった。

「…マシューさんはお元気でいらして? ワーグスビューがお気に入りのようだった」

「ああ」

「こちらにはいついらしたの?」

「午前に着いた」

「またボウマン邸に滞在されるの?」

「いや、シャロックの自邸に」

 そこで会話が途切れてしまう。当たり障りのない問いかけは、もう尽きた。

 彼へ真にぶつけたい問いは、幾つもある。けれど、それらを投げてある答えをもらう。

(それで、今更どうしようというの?)

 彼が今もここに残るのは、彼女への罪悪感からではないか。気持ちを弄んだことへの詫びをしたいのでは?

 そうだとしても、もう十分に思った。

(アシェルを思って、助けてくれたのだもの。その行為だけで、わたしは満たされる)

 エマは手のハンカチを畳み、彼へ差し出した。自分の恋を返すように。

 決意の端から、まなじりを涙が滲む。

「ありがとう」

 彼にとって彼女との交流は、他愛のないものだった。旅の際のひと時の恋だ。そんなものを本気に捉えた彼女が愚かで、うぶであり過ぎた。

(わたしをなじったオリヴィアの言葉が一番正しかった)

 そう苦く振り返る事もできた。反発したのは、現実を否定したいから、自分の恋の正当性を信じていたいがためだ。

「エマ」

 彼は彼女の手をハンカチごと握った。彼女はその行為に驚き、振り解こうと手を引いた。レオがそれを許さず、強く力を込めた。

 片膝をついた彼が、彼女の手を自分の両手に包んで握る。

「僕の君への行為は恥ずべきことだと思う。その弁解はしない。真摯に詫びる。投げ出すようなことをして、申し訳なかった」

 エマは顔を背け、首を振る。

「いいの。もう、いいの…」

 そう返しながら、どうして放っておいてくれないのか、苛立たしく思った。彼女への仕打ちを悔やむのなら、詫びれば済む。もう帰って欲しかった。

「君の目に信用のならない男に映ったとしても、しょうがない。僕がいけなかった」

「大したことではないわ。過ぎたことよ。…もうお終いにしましょう」

「君にはそうなのか?」

 低い声だった。その問いに、彼女ははっとした。

 彼女の中で彼との日々は輝かしい思い出だった。彼女は自分だけのことと思っていたが、そうではないのかもしれない。

(レオにとってもそうだった?)

 その発見は一瞬彼女の気持ちを慰めた。しかし、すぐに悲しい現実が目に前に迫る。

(これは彼にのみ必要な心の処理だわ)

 きちんと詫びて、美しい思い出として封をする。それは、心の整理として納得がいく。結婚を控えているのなら、尚のこと。過去も含め、身を律したい思いもよくわかる。

 彼女は顔を戻し、彼を見た。瞳が合う。

(もう、これが最後)

 切ない恋に何度泣いただろう。会えない日々に、彼のきれいな鼻梁をどれほど思い描いたか。

 なのに、恋の終わりには、こんなに近く見つめ合えることが叶う。その皮肉な現実は、彼女の胸を悲しさで満たしていく。

(独りよがりな思い出に縋っていたくない)

 終わりにしないといけない。

(なのに、終われない)

 瞳から溢れた涙が頬を伝う。彼女の手は彼の手に包まれていた。それが解かれて、取り返した手が目を押さえるより早く抱きしめられる。

(え)

 驚きの後で、すぐに羞恥と理性が戻ってきた。

「いけないわ」

 エマは身じろぎし、手のひらでシャツの胸を押した。その抵抗に少しも腕の力は弱まらない。

「レオ、止めて…」

 くぐもった声が、更に強い力で途切れた。

「君に会いたかった。ずっと会いたかった」

 ふっと腕が緩み、抱擁が解かれた。彼女は涙の残る目がぼんやりと彼を映す。頬を彼の両手が挟んだ。

「君が好きだ。苦しくなるくらい好きだ」

「え」

「愛している」

 彼の唇が、額に押し当てられた。

その行為に彼女の胸が大きく鳴った。戸惑いが、波のようにときめきをかき乱す。

「…だって、あなた、婚約しているのでしょう…? そんな……」

「え」

 凝らした瞳が彼女を見た。

「誰と?」

「…知らないわ。ただ、そう聞いたから」

「君はそれを信じたの?」

 彼女は小さく頷いた。告げたオリヴィアの勝ち誇った声は今も耳に残る。あの心が破られるような衝撃は、今も鮮明に覚えていた。

「本当だって、強く言われたから…」

 彼は強く首を振った。

「婚約なんて出鱈目だ。だから、ワーグスビューで君は逃げたのか……。てっきり僕は、君をひどく怒らせていると思っていた…」

 思いがけない場所で再会した彼から、エマは咄嗟に逃げ出していた。彼は一度追い、転びかけた彼女を助けてくれた。なのに、彼女は更に逃げた。

「キースの友人の誰かと間違えたのだろう。…それを言った人物は聞かないでおくよ」

「キースの友人の誰か」とレオは言ったことから、キースに身近な者を指すはず。彼にも彼女へそれを告げた者の見当はついているようだった。紳士らしく、言及はしないが。

 しかし、新たな事実だ。

 これまで彼女は、彼の婚約という決定事項のために苦しんできた。葬らねばならない恋をいつまでも胸に宿している自分を情けなく思ったこともある。

 心に刺さった大きな杭が、今、彼自身によって抜かれた。嫉妬で埋まった心に風が通るように、楽になる。

「この地に来たのも、君に会うためだ。アシェルの病は予想外だったけれども」

「…どうして?」

「前に言えずにいたことを伝えるために」

「でも…、それは、終わったことでしょう? だって…」

 彼女は困って唇を噛んだ。混乱していた。

 何の言葉も残さず、彼は不意に彼女の前から去った。その後も音沙汰はなかった。それらのことが、全ての答えだと彼女は信じてきた。

 自分の中の理想を描き続けるには、材料が少な過ぎた。そうすることが惨めに思え、切なかった。

(何を信じれば良かったの?)

 彼が小さく笑う。

「君は困るとそうやって唇を噛む。すごく可愛いと思っていた」

 エマは視線が恥ずかしくなり、彼の目を避けるように顔を背けた。

「ねえ、僕はまだ聞いていない。君の気持ちを」

「え」

「まだ僕を思ってくれているの?」

 その声には余裕があった。仕草や涙、表情から彼女の答えを既に知った上で、言葉が欲しいと言外に告げている。

「ええ。忘れたくても、忘れられなかった…」

 レオが彼女の手の甲に口付けた。ちくんとときめきが熱く胸を刺した。頬が染まるのがわかる。

 今に溺れそうにいる自分に比べ、エマは彼のゆとりがほのかに恨めしかった。

「もしわたしが、あなたを忘れていたら?」

 彼と別れて半年が経った。儚い恋を忘れるには長過ぎる時間だろう。その流れを足掻きに足掻いて、やっとこの場に辿り着いた実感がある。逆らわず身を任せてしまうのも、心を守る悪手ではない。

 実際、親しい人は彼女へ新たな出会いを選ぶよう強く推した。

 レオはぎゅっと彼女の指を握った。

「また僕だけを見てくれるようにする」

「……遅過ぎたら? わたしだって、適齢期よ。周りは嫁ぐ人もあるわ。いつまでも風来坊を待てない」

『風来坊』は言葉が過ぎた。思わず唇を噛んで小さく詫びた。その唇に彼の指がわずかに触れた。

「君は僕のものだ。奪うくらいの覚悟はある」

「無茶な人」

 心が彼に鷲づかみにされる。もう彼以外は決して内に入れない。

「一人にしないで」 

「約束する」

 引き寄せられ、彼の肩に額が当たる。彼と別れ、初めて切なさからではない涙が瞳を溢れた。

「僕の妻になって欲しい」

「…答えが要る?」

 小さく笑みが返った。
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