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29、ワーグスビューのもの思い

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 翌日もダイアナの熱は続いた。

 エマは付き添い、ハミルトン氏も日に何度も顔を出した。

 ワーグスビューに滞在して二日経ち、徐々にダイアナの熱も下がってきた。顔色も冴え、食欲も出来てきた。

「明日には動けるわ」

 そう微笑むと、ハミルトン氏は首を振る。

「明日一杯はこちらにいよう。医者の言うことは違えない方がいい」

 と許さない。

「でも……」

 ダイアナは困ったように小首を傾げた。そんな仕草もひどく可憐で、ハミルトン氏がじっと見つめている。

 旅では常に間にエマがいて、二人きりの時間はなかったはずだ。ダイアナもベッドに身を起こせるようになった。互いに話したいこともあるだろう。

(少しの間二人にしてあげたい)

 窓の外は風があるが、天気はいい。歩くのも悪くないと思った。

「姉をお願い出来ますか? 外を歩いてきたくて」

「わたしも行こう」

「ほんの近くだもの。少しだから、大丈夫です」

 許可をもらい、彼女は部屋を出た。


 部屋を出て、階段を降りる前に図書室をのぞいた。誰かが奥で椅子に掛け、本を読んでいる。

 戻ったら一冊借りて来ようと考えた。

 階下のサロンもがらんとしている。豪華な内装の建物で、季節がよければ大勢の人々で賑わうに違いない。

 ボンネットを押さえ、外に出る。通りも閑散とし、人の姿は少ない。あてはないが、近くだと聞く海は見てみたいと思った。

 舗装の整った道だ。そこを行き、広場のようなところに出た。大きな噴水があり、水がふんだんに溢れていた。何かを書いた碑がある。取り立て興味もないが、その前に立った。

『隕石落下の地。二百年前、この地に天空から炎を纏った隕石が落下した。隕石は落下ののちも盛んに燃え、三日その炎は絶えなかったと伝わる……』

 落ちた隕石は加工され、側の噴水の飾りに埋め込まれているのだという。

 ふと影を感じ、そちらへ目をやった。紳士の装いの若い男性が同じように碑文を眺めていた。熱心な様子に、彼女は場を譲る。読んでしまったし、取り立ての興味もない。

「どうも、ご親切に」

 ほっそりとした男性は帽子に手をやり、彼女へ辞儀をした。

 彼女は噴水にあるという隕石を探した。

「水の噴き出るあの辺りでしょうね」

 先ほどの男性だ。何気ない口調で、彼女の前に指で示した。

 素性の知れない男性だ。これ以上のやり取りは、普段の彼女ならきっと控えた。しかし、家を離れた旅の気分が気持ちを軽くしていた。

(どうせ、二日後にはここにいないもの)

 彼女の方から問いかけてみた。

「こちらにご滞在ですの?」

「ええ。おそらく同じ宿ですよ。失礼ですが、あなたを食堂でお見かけしました。男性とご一緒でした」

「あら、そうなのですか。旅の途中で、姉が体調を崩して、急遽こちらに立ち寄ることになりました。もう随分いいのですけれど」

「なるほど。こんな寂れた時期のワーグスビューにわざわざいらっしゃるのは、奇妙に思っていました」

 軽く頷く男性こそ、エマはちょっと妙に思った。

(ご自分だって、同じ場にいるのに)

 細面の優しげな顔立ちの人物だ。

「マシュー・コックス。北西部の方から来ました。連れが本を読みたいと言うので、置いてきました」

 そこでエマは、図書室にいた誰かを思い出した。あれがこの男性の連れの人物なのかもしれない。

「エマ・スタイルズです。一緒の紳士は、姉が教師をしているご家庭のご主人です」

「お姉様は教師を? 僕も教師をしています」

 そこでマシューと名乗った男性は微笑んだ。共通項が嬉しいようだ。あるミドルスクールで教鞭をとっていると言った。

 ミドルスクールについてはエマも興味がある。アシェルがこの先進学する予定だ。

「八歳の弟が二年後に入る予定ですの。お勉強は大変でしょうか?」

「それでは季節入学でしょうね。体験期間のようで、先どった授業をする場合もあるのです。早めの経験は重要です」

「そうですか。まだ幼くて、大丈夫なのかと今から不安ですわ」

「子供は案外逞しいですよ。見ていて可哀想に思えた生徒も、一週間後にはちゃんと馴染んでいるものです」

 初対面の人物と共通の話題もあり、つい話し込んだ。エマ個人のことには質問のないあっさりした態度だったから、話しやすかったのもある。

 そこへ背後から足音がした。ハミルトン氏だった。一人の彼女を気遣い、来てくれたようだ。

 マシューとはそこで辞儀をして別れた。

 少し距離が出来てから、ハミルトン氏が問う。

「あの彼は?」

「同じ宿に滞在されているそうです。マシューさんとおっしゃったわ。教師をしていらっしゃるから、ミドルスクールのことをお聞きしていました」

 それから、海まで歩いた。堤防で砂場は遮られていた。その奥から見える海は暗い色をして高く波打っている。何より海風が冷たく強い。散策する人物はほぼいない。

 繁忙期にはこの辺りは人が満ち、物売りや見せ物も多い。

「季節のいい時にぜひまた来よう。人が多いが、活気があってあなたもきっと楽しい。観劇や舞踏会など催しも多いから」

「わたしまで、ありがとうございます。お嬢さん方も喜びますね」

 頬が冷たくなった。メイドがいるとはいえ、一人にしたダイアナも気になる。

 宿へ戻る道すがらだ。

「エマさんは、もうわかっているはずだ。お姉さんへのわたしの思いが」

 不意の告白に、彼女は戸惑った。どう返せば良いか迷い、曖昧に頷いた。

 二人きりにして、部屋を出てきた。自分が消えた後の二人に何かあったのだろうか。

「求婚しようとしても、お姉さんははぐらかしてしまう」

「え」

 エマは隣のハミルトン氏を見上げた。ダイアナは絶対にこの彼を好きだ。それは側で見てきた彼女の確信だ。間違いはない。

「何か理由があるのだろうか。わたしではいけない何か…」

 苦そうに頬を歪ませている。

 優しさも親切も、ダイアナへ注ぐ愛情のある眼差しも。エマは側で見て知っている。この彼は姉への愛情を通して彼女へも親愛を向けてくれる。

(なのに、どうして?)

 彼を悩ますダイアナの気持ちが読めなかった。

 エマは首を振った。

「まさか。いけないだなんて絶対にないわ。姉はハミルトンさんをお慕いしているはずです。ただ、ひどく控えめで慎重なところがあって…。きっとそのせいで、躊躇ってしまうのだと思います」

「奥ゆかしい人だとは知っているが、嫌われているのじゃないかと、気になってしまってね」

「嫌うだなんて、あり得ません」

「エマさんは、わたしがお姉さんの夫になることについて、どう思う?」

「姉は幸せになれる結婚を望んでいます。…ハミルトンさんとなら、きっとそうなれると思いますわ」

「だと嬉しいな。もう彼女しか目に入らない」

 熱っぽい言葉がもれ、エマは人ごとながら頰が熱くなった。そして、ふふと笑みが上る。

 羨ましさがないと言えば嘘だ。しかし、誰よりも親しいダイアナが幸せな結婚をつかもうとしている事実は、すべての感情を凌駕して嬉しい。

「わたしは、お二人の子供のお世話をするのが夢なんです。姉が忙しくなったら、わたしがいつでも面倒を見ます」

 ハミルトン氏はエマの言葉に笑った。

「それは気が早い」

 その返しに、彼女は胸の内で、

(そうかしら?)

 とつぶやいた。

「将来をそう決めてしまうのは早計ではないかな。決まった相手はいないの?」

 その問いに言葉が詰まった。レオを想起させ、ざらりと感情がこすられた。

 表情にも出たのかもしれない。

「申し訳ない。失礼をした。あなたといると、つい妹に対するような気持ちになってしまって。不躾な質問は忘れてほしい」

「いいえ。お気になさらないで。妹のようなと言っていただけて、とても嬉しいです。そして、お答えですけれど、何もありませんわ」

 偽りもない。彼のような兄がいれば、ひどく頼もしいだろう。困った時は相談にものってくれ、節度を保ちながら甘えることも出来る。彼女は微笑みかけた。

 何となく、口をついて出た。

「…実は、少し前、求婚して下さった方がいました」

 彼の視線が彼女へ注ぐ。

「お断りしてしまいました」

「気持ちに沿えなかったのなら、しょうがない」

「親しいご近所の方の弟さんで、母に知られたらショックで寝込んでしまうわ。内緒にして下さいね」

「それは誓って。もしかして、晩餐で会ったあの海軍提督の?」

「ええ。とてもいい方で、何がいけなかったのか今でもわからない」

「兄上と同じ軍籍で?」

「はい、艦にお乗りです。中佐でいらしたわ」

「それは凄い。軍は身贔屓に厳しいから、よほど優秀なのだろう」

 感嘆の声だ。

「惜しいと思われます? 友人からも、そんな方はわたしにはもう現れないかもしれないって、忠告されていたのに」

「あなたはどうなの?」

「わかりません」

 折りに、自分の選択の正確さに揺れることがある。しかし、どちらを選んだにせよ悔いはあったに違いないと今では思う。

 なのに、こと毎にリュークからの求婚を繰り返し思い浮かべてしまうのは、なぜか。自分にも選んでくれる男性があったのだという自己満足か、憐憫か。

 ただ、わかることがある。

 変わっていく周囲。幼なじみも嫁いで行く。姉もじきその列に加わることだろう。アシェルも進学し、彼女の手から離れていく。

 そんな中、彼女には何もない。失った恋を思い続けることももう許されない。

(寂しいのだわ)

 せめて、誰かに求められた記憶を取り出して、その輝きを眺めていたい。そんな感情なのだろう。

 ふと、ハミルトン氏の手が彼女の腕に置かれた。軽く何度も叩く。

「時に、よくわからない直感が差すことはある。わたしも何度もそれに助けられてきた。もう少し、自分を信じてみては? きっと正しい」

「そうでしょうか…?」

 彼女は瞳が潤むのを感じた。涙が頬をつたい、指で押さえようとした。それより早くハミルトン氏がハンカチを差し出した。

 清潔なそれに目を押し当てる。

「ごめんなさい。みっともないわ…」

「どうして? ダイアナさんもそうだが、あなた方は自分に厳しい。人には優しいのに」

「エマと呼んで下さい」

 はにかみながら彼女はそう返した。

「喜んで。わたしのこともフィッツと。ハミルトンさんは他人行儀で仰々しい」

「はい」

 そういえば、と思い返す。どうしてかしら、と思った。

(リュークさんには、この申し出を思いつかなかったわ)
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