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手に残るもの

1、気持ちは強く、したたかに

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 弁護士との通話を終えて受話器を置いた。夫との離婚に絡む問題を依頼している人だ。こちらの言い分を、夫側がのんだという。
 
 懸案の一億円を巡ってわたしは妥協はしなかった。さすがに全額を請求はしないが、どうしても譲れないレベルは絶対に曲げなかった。これからの総司の将来に関わるとなれば、欲も張れるし背筋が伸びた。担当の弁護士も親身になってくれた。
 
 驚天動地の事実を知ってからひと月強。ようやく大問題が片付き始め、肩の荷が下りたようになる。
 
『お渡しした離婚届は、記入後追ってご返送下さるとのことです』
 
 夫に役所に提出してもらうより自分がそれを出しに行きたかった。ちゃんと約束を守ってくれるのかという夫への不信の他、やはり自分でけりをつけたいという気持ちがある。
 
 ほっと息をついた後で、実家に連絡をする。心配をかけている皆に解決を伝えた。
 
『よかったね~。お父さんは欲張らずに半分こでいいじゃないか、なんて言ってたけど、違うよね。責任に見合った額があるもん。何でもかんでもお互いさま、じゃ駄目。先に撃ってきたら、やっぱり撃ち返さないと。目には目を。因果だよね、これこそ』
 
 坊守には似つかわしくない物騒なことを、あっけらかんと姉は言う。
 
 ダグに代わる。『おめでとう』の後で『落ち着いたら、また弁護士を通して資産の管理を相談した方がいい』と、アドバイスをくれた。
 
『運用までしなくとも、分散したりリスク回避のために手を打っておくべきだよ』
 
 通帳を作って預けておくだけのつもりだったが、ダグの意見にへえとなる。そうだ、それも考えよう。
 
 いろいろありがとう、と改めて礼を言い、電話を切った。
 
 ちょっと迷い、続けて沖田さんにも結果をメッセージで送る。離婚はまだだが、問題の一番厄介な部分が解決したのだ。気分が浮き立った。
 
 ソファアにケイタイを放り、うんと伸びをする。
 
 原稿にまた向かい始める前に冷蔵庫をのぞいた。前に買った発泡酒が残っていた。普段は飲まないが、今夜は特別で飲みたい気がした。一人でもささやかに祝いたい。お風呂上りに飲もう。
 
 時計を確認し、ダイニングのテーブルに戻る。広げた原稿にまたペンを走らせ始めた。
 
 
 この日、咲耶さんのお宅にお邪魔した。
 
 以前コンビを組んでやった同人誌がイベント外でも好評で、その続編のようなものをまた組んでやる話が進んでいた。
 
 SNSや電話でも済むが、なるべく顔を見て確認し合いたいのは、わたしも同じだ。意見も言い合いやすい。遠方でもない。勧められるままにまたあの門を潜った。
 
 咲耶さんは用があるようで、ちょっとだけお待ちを、とリビング?に案内された。
 
 リボンいっぱい、ひらひらふっわふわのいつもの甘~いコーディネートで、ゆったりソファに座るのは、アンさんだ。わたしは居心地悪く鹿やトラの剥製が置かれた豪奢なリビング?で、もじもじとしていた。
 
「ごめんね、無理言って…」
 
「まあ、友だちに頼まれたら、嫌とは言えないけど。友だちだしね、遠慮なんかいいわよ」
 
 やや甲高く「友だち」部分を連呼した。
 
 やっぱり、まったくの素人が、咲耶さんのような特殊な(気合いのの入った若い衆がうろうろする)お宅にお邪魔するのは敷居が高い。それでただ者ではないこの人にまた同道を願った。何かよくわからないけど、凄い人みたいだもの、アンさんって。
 
 レモネードを飲みながらリビング?で待つことしばし。部屋のドアがいきなり開いた。
 
 咲耶さんかと顔を向ければ、入ってきたのは若い男性で、こちらに背を向けながら誰かと何やら話している。
 
「だから、本家なんかに僕が行くつもりはありません。あの人にそう言って伝えて下さい。それから、そろそろ帰してほしい。用もあるし…」
 
「ああ、予備校のバイトしてはるんでしたね。ですがね、ボンのそのお返事、オヤジんとこ持って帰ったら、えらいどやされます」
 
「またそんな。無理を言っているのは向こうだ…」
 
 そこで背を向けた男性が、部屋のわたしたちに気づいた。「え?」といった顔をして、後ろの人物を振り返った。
 
「田所代行、お嬢のお客人が…」と、誰かの声が廊下からする。「ふうん、ほな、ボンこちらへ」と会話の相手が彼を招いた。
 
「すいませんでした」
 
 男性は軽く頭を下げ出ていく。ドアが閉まり、何事もなかったように部屋が静まった。
 
 幕間のような出来事だった。
 
「きれいな顔だったわよね、今の人。大学生くらいかな…」
 
「ああ、そうだっけ」
 
「『本家』とか言ってたわね。きっとどこかの御曹司よ。後ろのしゅっとした男が『ボン』なんて、あんな若い子に丁寧だったしさ。『代行』って幹部よね…?」
 
 後ろの男が「しゅっとしていた」ところにまで観察がいくとは。若い彼は普通の人っぽかったかも。
 
 それから間もなく、またドアが開き今度は咲耶さんが現れた。待たせたことを大仰に詫びる。
 
「申し訳ございません。とんだ野暮用で、姐さん方にご迷惑をおかけ…」
 
 それを遮ってアンさんが、さっきの若い男性のことを持ち出す。「誰?」とあけすけに聞く。
 
「美馬さんのことかな?」と、咲耶さんが首を傾げた。
 
「だったら、うちがお預かりしたお客人ですよ」
 
「名前もいいわね」と、わたしに頷く。何にいいのだ。
 
「本家がどうのって…」
 
「ああ、お話しされたんですか? 美馬の坊っちゃんは父の恩人の息子さんです。地元じゃ事情があって落ち着かないらしいんで、うちにしばらく滞在されているんですよ」
 
 アンさんは悦に入った様子で、わたしへ笑って見せた。
 
「訳あり美形の御曹司に何かを説得する「代行」…。BL魂にいろいろ火がつく設定じゃない? 雅姫さん」
 
「ははは…」
 
 つかねえよ、いろいろ。
 
 
 急なお客で忙しげな咲耶さんの家を辞して(ご大層な仕出しを断って)、アンさんとランチをして帰った。パスタとかオムライスとかの普通の値頃のものだ。セレブな彼女にどうかなと思ったが、口にあったよう。喜んでくれた。
 
「次は我が家にいらっしゃいよ。咲耶さんも呼ぶわ。庭で火を焚きながら鮎でも焼いて、季節外れの流しそうめんでもしましょうか、ごく身内だけで、ね。送らせるから、火にあたってグリューワインでも飲みましょ」
 
 いいのか、ありなのか。リッチピープルの感覚は理解不能。お誘いは嬉しいから「うん」と答えておいた。
 
 家に着いたのは二時前で、幼稚園から帰る総司のお迎えには余裕があった。咲耶さんちで詰めた原稿の件はメモに控えたから、それをキッチンの壁のボードにピンで留めた。
 
 そこで、玄関のチャイムが鳴る。セールスか宅配便か…。インターフォンで確認すると、なんと夫だった。
 
 え?!
 
 声も出せないでいると、聞き慣れた声が笑いを含んでいる。記入済みの離婚届を持って来たという。
 
『手渡ししたくなって…』
 
「そう…」
 
 それだけしか、返せなかった。

『まだ、俺の家だろ?』
 
 その声にも返事が出なかった。地元での生活を始めている夫には、もうこの家はローンや維持費を払う意味がない。夫からは既に「要らない」と答えをもらっていた。
 
 名義を変更しわたしが住み続けるか、また別の場所に移るか…。総司のこれからのこともあり、まだ決めかねている問題だった。
 
 荷物もある。住所もまだ移していないはず。
 
「住所変えなくても就職できるの?」
 
 そんなことを聞いて時間を稼ぐ。興味などない。新しい会社は個人経営の小さなとこで、融通が利くという。ごたごたが済んでからでいいと、上から言ってもらっているらしい。
 
 ふうん。

 心でつぶやいた。以前は中規模以下の会社には目もくれなかったのに。あの病院との和解を取り付け、離婚と総司を捨てることを決めた後なら、簡単に信条も変わるんだ。
 
 今更どうでもいいことだが、この人にとって守りたいものは何だったのだろう。ふと、そんなことを思う。
 
『おい、渡すだけだから。早く頼むよ』
 
 ダグにアドバイスされ、鍵は変えてしまっていた。夫は前の鍵を持ってこの家を出たが、それはもう使えない。空き巣も聞くし子供と二人で不用心だったから、と言い訳は立つ。だが、まだ彼の名義の家に勝手に手を加えたことが、ほんのわずかに後ろめたい。
 
「うん、今いく」
 
 インターフォンを切り玄関に向かう。ドアを開ければ、既に勤め人らしく日に焼けた肌の夫が立っていた。まず、わたしに封筒を手渡した。
 
 中には、言葉通りに記入済みの離婚届があった。
 
「わざわざありがとう」
 
 これを提出すれば、この人とのすべてが終わる。その先走った解放感に、礼が口を出た。
 
 夫はそれにちょっと頷いて返し、肩に下げたスポーツバッグを示す。
 
「着替えが足りなくてさ。要る分持って帰りたい。いいよな?」
 
「うん」
 
 夫はわたしの脇を抜け、家に上がった。階段を小気味よく上って行く。わたしはリビングに戻り、夫が離婚届を持って来てくれたことを報告しようと、姉に電話をかけた。
 
 伝えると、姉はちょっと唸るような声を出す。
 
『家に上げちゃったの?』
 
「うん、…そうだけど、服を持って帰りたいって言うから。それくらい…」
 
 それに返事はない。受話器の向こうで姉の甲高い声がした。多分ダグに話しているのだろう。

 声が戻った。
 
『やっぱりよくないって、ダグも。すぐそっちに行ってくれるって』
 
「え、何で? もう帰るよあの人、きっと」
 
『帰ってくれなかったときのことを心配しなさいよ。理由もなく不意に出向いてくるなんて、ちょっとおかしいじゃない』
 
 だから、理由は離婚届と着替えだ。でも、そんなものは、姉が指摘するように宅配や郵便で手軽に便利に片が付く。
 
 そして夫は妻のわたしはともかく、総司をあんなに簡単に捨てられる人だ。
 
『こんなこと縁起でもないけど…、あの病院の示談金ね、あんたに何かあったら全部浩司さんの物になるんだから』
 
「え」
 
 まさか。
 
 そんな…。
 
『何もないなら何もないでいいの。浩司さんには疑って「ゴメンねゴメンね~」て胸で言っとけばいいし、ね』
 
「ゴメンねゴメンね~」って…。
 
 姉との電話を切ったすぐ後に、背中に声がかかった。
 
「なあ雅姫」

 それに、どきりと心臓が跳ねた。
 
 夫はほどよくふくらんだスポーツバッグを床に置き、冷蔵庫を指す。
 
「何か、冷たい物ない?」
 
「あ、うん…、アイスコーヒーならある」
 
 変な緊張で声が裏返りそうだ。息を吐いて挙動不審にならないよう冷蔵庫を向かった。
 
 姉の話はあまりに突拍子ない。だが、それに冷静なあのダグが頷くとなると、自分の軽率さも後悔し始めてしまう。
 
 平日の昼間、始めたばかりの仕事はどうしたのだろう…。
 
 彼から視線を逸らし、グラスに注いだコーヒーを渡した。喉が急に乾く。自分もお茶でも飲もうと再び冷蔵庫のドアを開ける。
 
 背に、その声はぽんと刺さった。
 
「やっぱり、やり直さないか、もう一回」
 
 はあ?!
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