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ビジョンの中でもがく

6、告白

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 まだスカウトの話など聞かない『ガーベラ』時代から「プロだったらこんな線は描かない」「同人だからって舐められたくない」「納得のいくものを描いていこうよ。プロのつもりで」…。

 そんな過去の彼女をわたしは知り抜いている。だって、一緒にやってきたのだから。笑いながら、悔しがりながら。それでも夢見がちに楽しみながら…。

 時が移ろうのをしっくりと噛みしめた。

 息をのむほどに意外だったが当たり前でもある。仕事なのだから。

「どうして?」

 それでもこう聞くのは驚きが尾を引いたためかもしれない。

 彼女がぽろぽろこぼすため息のような愚痴を、曖昧な相槌を挟みつつ聞いた。アシスタントが使い辛いといった、いつか誰かづてに聞いた軽いものもあれば、

「話を延ばせ、切れ。他人の指示が入るが嫌。好きに描かせて欲しい」

 という切実なものもある。

 千晶レベルの人気漫画家なら自由が効くのかと思えば、そうでない場合もあるのだという。

 最初から予定してあった展開やエンディングを変更させられた例を二、三挙げ、彼女は唇を噛んだ。苦いもののように甘口のワインを喉に流している。千晶が口にしたものは単なる一ファンで読者のわたしですら「へえ」と驚くような路線変更だった。

 正直、当初のパターンの物語を読みたかったと思う。ネームの一つ一つに物語の先への伏せられた意味があるはず。

 しかし、編集側は売るためには買い手を常に考慮してマーケティングもしているはず。求められる傾向のものを「これを!」と作り手に要求して来るのは当然ともいえる。

 ささやかながら専業で同人を再開したわたしでさえ、純粋に「好き」だけでは描けないことを痛感していた。

 だから単純に「ひどいね」と相槌は打てない気がする。そんなこと千晶だって頭位知り抜いている。長く売れっ子漫画家をやっているのだから。

 わかるから、職人気質の彼女がつむじを曲げつつ気分を害し、誰かの表現で言えば「ぶーたれ」ながらも、それでも描き続けている。

 多分、漫画をよく読む女性に『好きな女性漫画家は?』などのアンケートを取れば、千晶はきっと五位までに入る。『好きな作品は?』であっても、彼女の描いたものがきっと入るだろう。

 がんがんヒットを飛ばし確たる地位を築いていく彼女は、道は違えどわたしの誇りだった。同人を再開してからは、技術といい人気といい、間違いなく憧れだった…。

「若い子はどんどん下からやって来るしね…」

 髪を後ろにまとめ流し、ちょっと笑う。自嘲のように。

「うちにバイトのアシに来てた子がいるの、上手いよ。その子が一昨年デビューして、今、勢いすごいんだ。同じ本に連載描いててね。実写化に動いてるって噂もあって。しかも二十二歳だよ…」

 かつて聞いたことのない千晶らしくない弱音にびくりとなる。

「ベテランにはまだキャリアが浅い気がするし、かといって若手のセンスは枯れてきてるしね。どっちつかず。ははは…」

 疲れているのだ、と思った。

 この日は空いているといっていたが、厳しい締め切りがある仕事柄、生活は不規則になりがちだろう。柔らかな間接照明に彼女の肌は美しく、雰囲気も若やいで見えた。それでも、伏せたまぶたの影に当たり前の加齢をほんのりと見る。

 そこで千晶が「ごめん」と断ってラックに賭けたバックからタバコを取り出した。細いタイプのメンソールらしい。総司が寝るまで我慢してくれていたらしい。駄目だという理由がない。

 ただ、やはりと思っただけ。

 彼女がうっすらと煙を吐き出すのを幾度か眺めた後で、「⚪︎⚪︎じゃない? その人」と聞いた。さっき千晶が言った「勢いのある若い元アシ」に当雑誌をちょくちょく買っていたわたしは心当たりがある。

「そう。よくわかるねー」

「千晶の絵に結構似てるなって思ってた。特に女の子。そっくりなときがあるよ」

「そうかな? でも誰かのアシしてたら似ちゃうからね。ははは」

 わたしの難クセをさらりと彼女は笑い飛ばした。けれども否定はしない。初めて耳にする意見ではないのだろうと思った。誰かからそんな言葉はもう聞いているのかもしれない。自身でも何かの拍子にそう感じたのかもしれない…。

 惹かれたときにその誰彼の影響を受けることはどこでもある。いい意味でも悪い意味でも。漫画の場合、完全なトレースでない限り、見る者の印象には個人差があり曖昧だ。文句をつけた側が恥をかくだけじゃないだろうか…。

 何であれ、物の作り手にとって見えにくい、でも絶対に小さくない問題。

 タバコを唇に挟んだつぶれた声で、千晶は、

「何やってるんだろう、って思う時がある。どんどん違う方に行っちゃってるんじゃないかって…」

 そうこぼす彼女は「パクられた」の「真似された」のといった次元とは全然違う場所に気持ちを置いているようだった。元々、外野の声ばかりで、彼女自身は気に留めてなかったようでもある。

 そんな彼女を眺めながら、やっぱり千晶は「大物」なのだ、としみじみ思う。

「気づけば三十六だよ」

「わたしも三十六だよ」

 その相槌がツボに入ったのか、彼女はけらけら笑う。それがおかしくてわたしも笑った。

 ひとしきり笑った彼女は首を振る。

「雅姫はいいよ」

「何が?」

「だって…」

 千晶が更に言葉をつなぐ前に、ケイタイが鳴った。

 わたしのものではない。千晶は片手でチェストの上のケイタイを取った。「ごめん」とこちらに短く言い、電話に出る。器用にタバコを灰皿に揉み消した。

「はい」「うん」と相手に彼女が応えている。わたしはグラスのワインをちろりと舐めてから、総司の様子を見に立った。

 ぐっすり眠っているのを確かめ、しばらく時間を取ってからリビングに戻る。すると、千晶がバックをつかんで立つところだった。サブリナパンツの部屋着からすとんとしたワンピースに着替えている。

「ごめん、ちょっとだけ出てきていい? すぐ帰るから」

 申し訳なさげな顔をする。久しぶりに会ったわたしを置いて外出することに気が咎めている。それでも出かけるのだから、重要な用なのだろう。

 恋人からの呼び出しかもしれない。気分は下がるがしょうがない。

「うん、いいよ」

「ごめんね。そんなに時間かからないから。ちょっとだけ…。ワイン飲んでて」

「いいよ、ゆっくりで」

「何でも好きに使って」と言い置いて、千晶は慌ただしく出かけて行った。一人ぽつんとリビングに残ったわたしは、所在なくテレビをつけた。興味を引く番組もなく、間もなく消す。

 もしかしたら、千晶は遅くなるのかもしれない。とぼんやり思う。十二時前待って、まだ帰らないようなら「何でも好きに~」の言葉に甘えてお風呂を借りようか…。

 ラックの漫画雑誌をぱらぱらめくりつつワインを飲んだ。あまり飲み慣れないロゼだが、優しい味でおいしい。テーブルのぽってりとしたボトルからお替わりを注いだ。

「沖田さんの手土産」と千晶は言った。可愛い色味もきれいなボトルも、実に女性向きのワインだ。安くもないはず。

 こんな品のいいものを提げてふらっとここを訪れる…。彼女の砕けた口調から二人が親しいのはわかる。

 そりゃそうだ。

 わたしが沖田さんと再会したのはたった数ヶ月前のことでしかない。引き換え、二人は十三年もの間、仕事上とはいえつき合いがあった。

 わたしが知らない様々なことを当たり前に共有している。遠慮もとれ(昔からあんまりなかったが)、彼がこの家を訪れるくらいのことはごくごく自然だ。プライベートであっても…。

 おつまみに、と千晶がテーブルにばらばらと置いたチョコをまた口に入れた。ワインとは甘いものをちょこちょこつまみながらが、重くなくて好きだ。

 もう一度総司を見に立った。寝返りを打っている。起きる気配のない寝顔を眺めるうち、やや酔った頭にある言葉が浮かぶ。千晶が出かける間際に言いかけたさっきのものだ。

「雅姫はいいよ」。

「だって…」と彼女が言おうとした理由は、これ、と想像がつく。

 わたしが結婚しているからだ。そして子供がいるからだろう。それらは彼女の目に、わたしを穏やかで満ちた女に見せているのかもしれない。

 結婚は破綻している。離婚はそう遠くない。それが総司にどう影響するのかと、不安に揺れている…。ついた決心とはいえ、ふとすれば今後の気がかりは胸にどんと重い。

 リビングに戻った。

 ふっくらとしたソファに掛け、滑らかな革をそっと(高そうだから)押して感じた。

 部屋に置かれたものは千晶の好きな物ばかりだ。さりげなく重厚感のあるカーテンも、猫脚のヨーロッパ風の凝った家具類も。見るだけで高価だと知れる。

 こんな素敵な環境に包まれて好きな仕事に存分に専心できる。わたしはそれを単純に羨ましく、成功者への憧れを込めて見ているのに…。
 
 持っているものへの価値、重さは人それぞれ。そして、自分に足りないものなど本当のところ、その人にしか、わからない。
 
 ふうっとため息と一緒に、ソファから床へ滑り降りた。子供時代の滑り台のようで、ちょっと楽しい。
 
 ワインの残るグラスを手に取ったところで、インターフォンが鳴った。千晶だと思った。壁の時計を見れば、出かけて一時間にもならない。リビングの入り口にあるセキュリティーシステムで確認する。
 
 入居者の彼女が自分で入ってこないのは、「帰ったよ~」とわたしに知らせるつもりだろう。と、モニターをのぞき、驚きにぎょっとなった。
 
 え。
 
 エントランスに立つのは、沖田さんだった。やや不機嫌な顔が、カメラ越しに映る。千晶は、彼が来ることなど、何も言っていなかった。
 
 親しいのだろうし彼が訪れるのは珍しいことではない、と感じてはいた。が、既に深夜と言っていい。女性宅に、不意にやって来るには、非常識な時間だ。
 
 通常の仲ならば。
 
 ふうん。
 
 一つにならない思いが、もやもやと胸に広がっていく。そんなまだらになった感情の中、わかるのが、ただ不快であること。
 
 モニター部の操作に迷いながら、通話のボタンを押す。いきなり、遠慮のないぶっきらぼうな声が流れ込む。
 
「おい、千晶、早く開けてくれ」
 
 ふうん。
 
 わたしは返事をせずにボタンを押し、施錠を解いた。
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