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褪せない花(3)

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「お嬢さまがいらしてから、ぼっちゃまは快活にしていらして、嬉しゅうございますよ」
「え」
「よくお笑いになります」

意外な話だった。

わたしが来る以前のガイは、元気ではなかったというのか。

「病気だったのですか?」
「いいえ」

ドラは首を振り、ためらった後で口を開いた。

「よろしゅうございます。秘密でも何でもございませんから」

そう前置きする。

「随分とふさいでいらっしゃいましたよ、長い間。社交にも、ぱったりとお出ましにならなくなりましたしね」

え。

ガイがあれほど誘いの来る社交を拒絶しているのは、嫌いだから。そのはず。

ドラの口ぶりでは、以前はその社交も行っていたように取れる。

どうして?

頭が混乱する。
何か、ガイに起きたのだろうか。

知らずに、座っていたいすのひじ置きをぎゅっとつかんでしまっている。衝撃に耐えるかのように。

「ご離婚は、大きな悲劇でございましたよ」

あ。

ひどく驚いたのに、声が出なかった。

ガイが過去に結婚していたことなど、わたしには思いも寄らなかった。

「奥さまでいらっしゃったのは、夕風の子爵令嬢のアリナさまとおっしゃいます。それはお美しい、ご結婚の前から社交界の華と呼び声の高い方でございましたよ」

ガイとは非常に似合いの、仲睦まじい夫婦だったという。

「社交にお出ましの時などは、アリナさまがぼっちゃまをお仕度にお呼びなさって、髪をとくようねだられるのが、ほんの前の光景のように思い出されますですよ」

往時を思うのか、ドラの声はしみじみと懐かしい響きがあった。

「ぼっちゃまは、奥さまに非常にお優しくていらっしゃいまして、アリナさまがいいとおっしゃるまで、いつまでもといて差し上げて…。腕がだるくなる、とぼやかれても終いまでおつき合いなさるのでございますよ」

ドラは、「奥さま」と今でもそうあるかのように言った。

どうしてか、涙が出そうになり、うつむいた。
そうしながら、やっと口を開く。

「…どうして、離婚を?」
「奥さまと、お子さまの件でぼっちゃまのご意見がどうしても沿わなかったとおうかがいしました」

アリナさんは、子供を望まない女性だったという。

「とてもお親しい叔母さまをお産で亡くされたご経験を、忘れることがお出来にならず...。ご出産に対して、どうしても前向きにお考えにはなられなかったようでございます」

対して、ガイは伯爵家の当主だ。どうであっても後継者を求めた。

「ぼっちゃまは、ご離婚などより、ご養子をともお考えになられたようですが、アリナさまが春告げる伯爵家のお為にと、身をお引きなったそうでございます」

それが、三年前。

以来、ガイは頻繁に行っていた社交を一切断った。

「ご離婚の後すぐは、学究院の長期休暇をご利用になって、ご領地に長くご滞在でもいらっしゃいました。お帰りになって、ご様子はすっかりお変わりになりました」

離婚したガイだけの話ではなく、邸も火が消えたように寂しくなったという。

「奥さまは人気がおありで、お客さまの多いお方でございましたから。当時は邸内での催しも多く、それはにぎやかでございましたわ。大がかりな会の時は、奥の棟も使って、お客さまをお泊めしたものでございますよ」

再び、彼女はアリナさんを「奥さま」と呼んだ。
そして、間違いに気づきもしない。

ちなみに、ドラの言う奥の棟は現在ほぼ閉ざしてある。調度類にはほこり避けの布がかぶされ、使われることもない。

彼女の声は今も二人の離婚を惜しむように、生々しく耳に届く。
ガイには今更言えない、尽きない繰り言を、わたしを相手に吐き出しているのだろうか。

まるで、小さく窮屈な箱にでも閉じ込められた気分だった。
心が押しつぶされるように思った。

「あらあら、おしゃべりが過ぎましたわ」

我に返ったドラが、取って付けたように、わたしが邸にやって来たことがめでたいとつなぐ。

「明日からのお勤めでお元気が出るよう、お夕食はお嬢さまのお好きなパイをご用意しましょうね」
「ありがとう...。嬉しいわ」

反射的に微笑んで返す。

ここでのパイは、わたしの慣れたパイではなく、クレープを重ねたようなもののこと。わたしの知るパイは、こちらではサクレと言った。

一人になれば、新たな情報がわたしをすっかり虚脱させた。

書斎の窓から射す光が弱まっている。午後も遅いのだ。
本当なら私室へ上がり、明日着るドレスをリンと用意しておこうと思っていたのに。楽しみにしていたのに。

驚きと悲しみと切なさ。そこにわずかな怒りも混じる。
胸からあふれ出す感情は、わたしを理不尽に責めた。

好き勝手に胸を刺していく。

少しだけ、泣くことを自分に許した。
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