逢魔時に穿つ

夏蜜

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木枯らし

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「ねえ、なんか疲れてそうだけど大丈夫?」
 バッシングから厨房に戻ってきた深幸を、同僚の紗奈絵が気遣った。エスプレッソマシンでコーヒーを淹れていた彼女は、シンクで項垂れる深幸に腰を捻り、穏やかな笑顔を向ける。
「あはは、わかります? 来るときにトラブっちゃって、仕事には遅れるし最悪ですよ」
 深幸はスポンジを泡立てて、皿洗いを始めた。時おりバブルがポンッと弾けては鼻をくすぐる。それにも増して、厨房にはコーヒー豆の豊かな香りが充満しているというのに、鼻ではいつまでもアルコール臭を嗅ぎとっていた。居酒屋にいるみたいだなと、深幸は気分を滅入らせる。
「恋人と喧嘩した、とか?」
 紗奈絵の手が肩に触れ、深幸はビクリと震えた。好奇心旺盛な瞳が横から覗き込んでくる。紗奈絵はひとつ上の大学四年生である。就活も終わり時間に余裕があるようで、深幸とはよくシフトが一緒になるのだった。今日は深幸が中番で紗奈絵が遅番のため、顔を合わせるのはこの日が初めてだ。
「やだな。恋人なんて、いるわけないじゃないですか。」
「え、そうなの?」
「そうですよ。だいたい、僕は恋愛が得意じゃないんです。トラウマっていうか……」
 いらぬ記憶が甦った深幸は、そこで口を閉ざす。高校卒業後、地方から上京した深幸は元はホームセンターに勤めていた。初めは堆肥の袋を破ったり、商品を探している客と一緒に迷子になったりと散々だったが、徐々に仕事にも慣れ、いつしかプライベートな話をする同僚もできた。
「ねえ、今度何処かへ遊びに行きましょう? 紅葉狩りなんかが最高よね」
 周囲に人がいる休憩室で、同僚の女性が囁く。そして昼飯を口に運ぶ深幸の手を包み、目を弧にして優しく微笑んだ。デートに誘っているのだ。 
 一年経った頃、いつものように閉店作業をしていると、いくらか歳上の男性客がふと現れ、深幸に声をかけてきた。
「鈴木深幸って、あんたか?」
 乱暴な物言いに深幸はムッとしたが、感情を抑えて穏便に対応した。
「そうですが、何かご用でしょうか?」
 すると男は深幸の胸ぐらを掴み、目を吊り上げて凄んだ。
「てめえ、人妻に手を出しやがって。ただで済むと思ってんのか!」
「は、はあ、人妻?」
 人妻とは誰のことかと思案する暇もなく、怒鳴り声を聞いて駆けつけてくれた上司に引き離された。男は酷く興奮した様子で、バックヤードに連れていかれる。幸い他に客はおらず、現場を目撃されなくてよかったが、深幸が仕事を辞める発端となったのは事実である。
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