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第3話 白い道

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 わたしは再び道を歩き始めた、さっきまでとなんの変わりもない白い道。
 空を見上げると、蒼穹に所々真っ白な雲が浮かんでいる。

〝こんなところで雨が降ってきたら困るな〟
 そう考えていると、ぽつりぽつりと雨粒が肩に落ちてきた。
 あいかわらず空は晴れている。

「狐の嫁入り?――」
 わたしは小さく呟いた。
 確かあの時もこんな天気雨だった。


 足下を見ると一匹の黒い仔猫が身体をこすりつけながら、よちよちと歩いている。

「あら、あなたいつからいたの? お母さんはいないの?」
 わたしはその場にしゃがみ込み、仔猫の額を人差し指でそっとなでた。

「ねえ、おねえちゃん、なんで迎えに来てくれなかったの。ボクずっと待ってたんだよ」
 猫が哀しげな目でそう話しかけてきた。

「おねえちゃん? あ、そうか」
 わたしは今まで、自分の性別さえ気にならないでいた。

「そうか、わたし女だったんだ――」
 仔猫の言葉でそう気付かされた。


 まだ小学生だった頃、そう確か三年生の秋だった。
 あの日も下校途中で、天気雨が降り出した。
 そこで小さな空き箱に入れられた仔猫を見つけた。

「ニャー、ニャーニャー、ニャー」
 道ばたの藪から鳴き声がするので、繁っている草を掻き分けると箱に入った真っ黒で可愛らしい仔猫が一匹、弱々しい声で必死に泣いていた。

「わあ可愛い」
 わたしはひと目見て、その可愛らしさに目を奪われた。

「クロちゃん、どうしてこんな所にいるの? 捨てられたの?」
 しゃがみ込み、仔猫に顔を近づける。

 するとその小さな生き物は、さらに泣き声を強くした。
 そう、それは鳴き声ではなく泣き声だった。

「助けて、ボクを助けて、ボクはここに居るよ、助けて」
 まるでそう訴えているようだ。
 口を開け必死に泣いている。

 小さな犬歯が覗き、まん丸の瞳がなにかを訴え掛けている。
 箱の縁に掛けられたか弱い前脚は、力一杯爪を剥き出して頼れるものにすがろうとしていた。


 わたしは仔猫を抱き上げ、そっと両手で支え胸に抱いた。
「ニャー、ニャー、ニャー」
 腕の中でも泣き声は止まない。

 額を撫で顎の下を人差し指でこすってやると、心地よさそうに目を細める。
 指を放すと、もっと撫でてと言うようにまた泣き始める。

 わたしは学校に持っていった水筒の水を、仔猫に飲ませることを思いついた。
「クロちゃん、ちょっと待ってね」
 いったん仔猫を元に戻そうと箱を確認した瞬間、わたしは驚きのあまり尻餅をついた。

 その箱の中には、三匹の仔猫が横たわっていた。
 明らかに息をしていないのが分かる。

〝この子の兄弟は、みんな死んじゃったんだ〟
 子供心にそう悟った。

 息をしているかしていないかだけの違いのはずなのに、ほかの三匹には触れてはいけないような気がした。
 死んだ生き物には触っちゃ行けない、誰かに教わったのではないがそう直感していた。

 斜め掛けの水筒から掌に水を溜め差し出すと、仔猫はピチャピチャとそれを舐めるように飲んでゆく。
 水筒に残っていた水をすべて飲み干しても、仔猫は水をねだり泣き続けた。

「ごめんねクロちゃん、お水はもうないの。あとでミルクをあげるから待ってて」
 わたしは立ち上がると、仔猫にそう声を掛けた。
 あいかわらず仔猫は泣き続けている。

〝置いていかないで、ボクをひとりにしないで。抱っこしてよ、ひとりは嫌だよ〟
 仔猫の泣き声はそう聞こえた。

「おうちに帰ってお母さんに言うから、仔猫を飼いたいって言ってくるから。それまで待っててね、きっと戻ってくるよ」
 でも結局わたしは母にそのことを言い出せなくて、仔猫を迎えに行くことはなかった。


「ずっと待ってたんだよ、ボクはお姉ちゃんを待ってたんだよ。でも来てくれなかった、寂しかったよ、怖かったよ。なぜ来てくれなかったの」
 目の前の仔猫がそう言って、哀しそうな目でわたしを見上げる。

「ごめんね、でもしょうがなかったの。お母さんは生き物が嫌いで、言いたかったけどどうしても言えなかったの。ごめん――」
 わたしは心の底から仔猫に謝った。

「あの時ボクの前には、ふたつの道があったんだよ。そのひとつはお姉ちゃんの弟になって、温かい家の中で倖せに暮らす生活。そしたらきっと、いまでもボクはお姉ちゃんの側に居ただろうな。そしてもうひとつが、あの日ボクが小さな足で歩いた道」
「もうひとつの道? でも朝おなじ所を通ったけど、箱の中にはもうあなたは居なかった。きっと誰かに拾われたんだと思ったわ」
「嘘つき、お姉ちゃんは嘘つきだ。ホントは知ってたでしょ、ボクが死んじゃったこと」
 澄んだ真摯な目でそう言われ、わたしの心は動揺した。


「ボクはあの日、いくら待っても迎えに来てくれないお姉ちゃんを探して、箱から外の世界へ足を踏み出したんだ。怖かったよ、心細かったよ。でも優しくしてくれたお姉ちゃんに、どうしても会いたかったんだ」
 仔猫の目が潤んでいる。

「ボクの前の道は土と草から、冷たくて固いものに変わっていた。その冷たい道が、ボクが歩いた道だった。お姉ちゃんどこにいるの、怖いよ、そう言ってずっと泣きながら音のする方へ歩いて行った。そうしてなにが起きたかも分からないまま、ボクは死んじゃったんだ。凄い衝撃がボクを包んだ瞬間、ボクの命は終わっちゃった」
「でも、でもわたし――」

「あの時お姉ちゃんの前にも、ふたつの道があったんだよ。お姉ちゃんが選んだのは都合の悪いことは見なかったことにするって言う、大人になるための狡い道。あの朝、お姉ちゃんはボクを見なかったことにしたんだよ」
 わたしはその時、まざまざとあの朝の光景を思い出していた。

 アスファルトに黒いなにかの残骸があった。
 昨日仔猫を見つけた辺りの道路上だ。
 それはなん度も、なん十度も車に轢かれ、ぺったんこになった黒い仔猫の死骸だった。

「本当にごめんなさい、でも今度は一緒にいるよ。今度はもう離さない」
 わたしはその仔猫を抱きかかえようとした。
 その瞬間、仔猫の姿は消えていた。

〝ボクはお姉ちゃんと一緒の道は歩けない、一度手放してしまった道はもう戻って来ないんだよ。出来ればボクも、お姉ちゃんの弟になりたかったな〟

 そんな声だけがわたしの耳に残った。
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