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G6第二戦:カーアイランドRd

第十話:これって、初デート?

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「生中ひとつね」
「俺はウーロン茶」
 付け出しに塩だれキャベツを持ってきた男性店員に向け、薫子と俺は、口々にまず飲み物を注文した。
 肉のオーダーは、まだしない。
 いまのうちにメニューを眺め、めぼしい品を選んでおくっていうのが、こういう焼肉店では効率のいいやり方だった。
 俺の自宅からほど近くにある、焼き肉チェーン店「牛虎うしとら
 三千五百円からの食べ放題プランに代表されるコストパフォーマンスの良さと、深夜三時まで営業という時間的な都合の良さから、俺のお気に入りとなっている店だ。
 G6ジムカーナが終わったあと、別々の足取りで地元に戻った俺と薫子が合流を果たしたのは、夜も九時を過ぎてからのことだった。
 もっとも、現地集合というわけではない。
 自分では妥当と思っていたその案は、薫子から真っ先に拒絶されていたからだ。
 「お酒を飲むあたしに、クルマで現地まで来いって言うの?」と、はっきり正論を述べられてしまっては、さすがの俺も、自分の都合をごり押しするわけにいかなかった。
 薫子が指定してきた待ち合わせ場所まで、いそいそと「パルサー」を走らせ、俺は彼女を迎えに出かけた。
 そこは、市街地外れにある地方鉄道の駅前だ。
 日曜日の夜間とはいえ、往来が閑散としているような場所柄じゃない。
 その片隅で凛と澄まして俺を待ってた薫子の姿は、道行く男どもの目を惹きつけるに足る、とびっきりの名花だった。
「お待たせ」
 むしろ待たせていたのは俺のほうなのに、薫子はそう告げてから「パルサー」の助手席に腰を下ろした。
 思えば、愛車にオンナを乗せたのは、生まれて初めての経験だ。
 不意に甘い芳香が鼻を突いた。
 シャワーでも浴びてきたんだろうか。
 石鹸の香りが、奴のうなじからふわりとほのかに立ち上っていた。
 急に汗臭いままの自分が恥ずかしく思えてきた。
 くそっ、こんなことなら面倒臭がらず、俺もひと風呂浴びてくればよかった。
 強く後悔するが、すべてはアフターカーニバルだ。
 車内で俺の口があんまり開かなかったのは、半分以上そのせいだった。
 今回のG6ジムカーナ。
 薫子は、参加したクラスFF3で表彰台のトップに立った。
 参加者には地方戦を制したほどの猛者までいたのに、そいつらを薙ぎ倒してきっちり一位を獲るなんて、はっきり言って凄いと思う。
 半端な腕前じゃ、まずありえない結果だった。
 もっとも当の本人は、至極あっさり、その事実を受け止めてたみたいだ。
 もちろん嬉しくないわけじゃないんだろうけど、大袈裟な感情を表に出したりもしてなかった。
 曰く、「たまたまコースレイアウトが得意なそれだっただけで、あたしごときが地区戦追っかけても、優勝できるかどうかはわからないわよ」とのことだった。
 謙遜という雰囲気じゃなく、本当にそう自分を分析しているのだなって俺は感じた。
 そうこうしているうちに、生ビールとウーロン茶が、さっきの男性店員によって運ばれてきた。
 「ご注文はお決まりですか?」と聞いてきた店員に向け、さっそく薫子が山のような注文を口にする。
「とりあえず、カルビ二人前、ロース二人前、ハラミ二人前、シロ二人前、タン塩二人前、豚トロ二人前、牛レバー二人前、若鶏二人前。あっ、このつぼ漬けカルビってのも美味しそうね。これも二人前。あとは塩キュウリとユッケ、それと冷麺をお願い。圭介くんは何か食べたいものある?」
「じゃあ、白菜キムチとライスを中で」
 薫子に促され、俺もまた、自身の注文を店員に告げる。
 オンナのくせに、いったいどれだけ喰うんだよ。
 旺盛な薫子の食欲に圧倒されてか、俺の声は幾分か小さかった。
 品数も圧倒的に少ない。
 その点に関して薫子が、すぐさまツッコミを入れてきた。
「駄目よ、圭介くん」
 あまりにも堂々とした口振りで、こいつは俺に言い切った。
「男の子はもっと食べなきゃいけないわ。まだ身体だって大きくなるかもしれないんだから。ほら、あたしに遠慮なんかしないで、どんどん注文しなさいな」
「誰の奢りだと思ってんだ!」
「あらまあ、お尻の穴の小さいこと」
 脊髄反射で大声出した俺をたしなめるように、薫子は艶めかしくも微笑んだ。
 大人の余裕って奴が、その中にありありと浮かんでいた。
 毒気を抜かれ、つい黙り込んでしまう俺。
 店員が下がったのをきっかけに、薫子が、右手で大きくジョッキを掲げた。
「では、圭介くんのジムカーナ・プレ参戦を祝いまして」
 薫子は宣った。
「乾杯」
 ほとんど無理矢理、俺のグラスにジョッキを当て、次いで、蜂蜜色の液体を喉の奥へと流し込む。
 いまにも「ぐびぐび」という擬音が聞こえてきそうな、勢いのいい飲みっぷりだ。
 ジョッキの中身、その半分ほどを一気飲みして、ぷはー、と豪快に息継ぎをする。
「か~ッ。やっぱ、ひと汗かいたあとの一杯は最高だわ」
 どこのオヤジだよ。
 そのひと言を耳にした俺は思った。
 もっとお淑やかにしてりゃあ誰もが振り返る「イイオンナ」なのに、なんでまた、そう男の純情打ち砕くような真似してみせるんだろう。
 何か狙いでも持ってるのか?
 そんなんじゃ、彼氏だってできないだろうに──…
 額から無数の縦線垂らしつつ、手に持ったグラスをちびりとやる俺。
 そんな態度が気に障ったのか、早々にジョッキを空にした薫子が、ニヤニヤ笑って絡んできた。
「ところで圭介くん」
「なんだよ」
「いまふと、あたし思ったんだけど」
「だから、なんだよ」
「『ナマチュウ』ってさ、『ナマナカ』って読んだら、妙にエロくなるって思わない?」
 それを聞いた俺は、深々と、それはもう見せ付けるように深々とため息を吐いてやった。
 こんなやりとりに慣れてきた自分自身が、ちょっとだけだが怖く感じる。
「あのさ」
 その思いを下敷きに、俺は応えた。
「前にも言ったけど、女の癖に下ネタ連発するのってどうかと思うぞ。自重しろよ」
「女が性的な話題をネタにして何が悪いの?」
 口先を尖らせ、薫子が反論する。
「男が幻滅するから? それとも世間体が悪いから? 冗談じゃないわ。なんで女だけが一方的に自分を押さえて生きて行かなきゃいけないの。男女差別はんたーい」
「なんだよ。もう酔ってんのか?」
「このあたしが、たかがナマチュウ一杯で出来上がるわけなんてないでしょ。莫迦にしないでちょうだいな。もっとも、ナマナカ一発でできちゃうことはあるかもだけどね」
 薫子は、俺の忠告なんて全然聞く耳持たずって奴だった。
 さらに露骨な言葉を続ける。
「男ってのはさ、自分の中の理想像を女に重ねて、散々いろんなことを言ってくれちゃうんだけど、それってさ、要は『自分が支配できるカワイイ奴隷ちゃんが欲しい』ってだけのことじゃない。違って?」
 ズバリ本質を指摘されたような気がして、俺はむっと口をつぐんだ。
 否定の言葉は出て来なかった。
 薫子が、勢い付いて畳みかける。
「男は認めたくないでしょうけど、女だって人間なんだから、ウンコもするし、オシッコもするし、オナラだってするわ。それは画面の向こうの芸能人キレイどころだって全然同じよ。そもそも、君の大好きな漫画のキャラだって、わざわざそういう生理現象を描いてないだけで、実際いたならトイレに行かないなんてありえないわ。
 だって、『人間』なんだもの。
 憧れの対象が自分と同じ生き物なんだって認められないなら、初めから恋なんてするなっての。外面よくきっちりこしらえた部分だけを切り取って、それで『好きです! 付き合って!』なんて言われてもさ、こっちははっきり言って迷惑だわ。
 圭介くんも、おぼえておきなさい。オンナって生き物の大半はね、オトコの気を引くために、ちゃあんと自分を造ってから世の中に身を晒してるのよ。かくいうあたしも、ここ来る前にムダ毛の処理はしてきてるし、ヒゲも剃ってきてる。鼻毛だって、しっかり切ってきてるんだから。それも、ただ君に会うためだけに、ね。光栄に思いなさいな。
 だから、圭介くん。清純派に夢見るのは大概にしておくべきだって忠告するわ。オンナだって、裏に回れば頭の中はセックス、セックス、セックスよ。『あたし、男のひとに興味ないんですゥ~』なんて、ウソウソウソのニホンカワウソ。そういったヌルキャラ演じてればお莫迦なオトコがいっぱい釣れるから、意識してそんな自分を装ってるだけ。
 もっとも、そんなのに釣られちゃうオトコのほうも、どうかしてるとは思うけどね。
 何度も言うけどさ、オンナだって生き物なのよ。いいオス捕まえて、それを自分の中に受け入れて、後世に子孫を残す。そういう本能が生まれつき備わってるわけ。
 機会があったら、一度でいいから女子会ってのに来てみなさいな。オトコの目が届かないところでオンナって生き物がどんな会話をしているか、そりゃあもう思い知ることになるんだから。圭介くんみたいな純情派だったら、一発で女性不信になりかねないわね」
「でもさ」
 もうとっくに女性不信だよ、というひと言を口の中で噛み締めながら、俺は反論を口にした。
「そいつは、オトコをオンナに言い換えたって通じる話なんじゃないか?」
 言ってから、当然返ってくるだろう反撃に備え、心の中で身構える。
 ところが、だ。
 なんと薫子は、俺の言葉を素直に首肯してみせたのだ。
 そいつは俺にとって、まったく想定外の反応だった。
「そうよ」
 さらりと奴は言ってのけた。
「そんなのあたりまえじゃない」
 あまりにもあっけらかんと放たれた回答に、俺は思わず絶句した。
 応じる言葉が喉の奥から出て来なかった。
 ぽかんと小さく口を開け、思わず我が身を固めてしまう。
 だけど薫子は、そんな俺に改めてツッコミを入れてこようとしなかった。
 いままで何度も見せてきた、あのいたずらっぽい表情を浮かべただけだ。
 まるで会話を打ち切るみたいに店員を呼ぶ。
 俺は、そんなこいつのさまを無言のままに眺めていた。
 なんで自分がそんな風になっちまったのかは、正直言ってわからなかった。
 だから、注文の時、ナマチュウをナマナカって読んで若い男性店員をからかっている薫子に、直言食らわすこともできずにいた。
 お待ちかねの肉が運ばれてきたのは、そんなおりでの話だった。
 金属製の皿に載せられた牛豚鶏の成れの果てが、テーブル狭しと並べられていく。
 うまい具合に場が切り替わった。
 本音を言うと、俺はこの時、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 あのまま沈黙を強いられることに耐えられる自信が、それこそこれぽっちもなかったからだ。
 肉の焼き順は、完全に薫子が仕切った。
 そのかしらに「ほぼ」なんて二文字は付かない。
 当然、俺の意向なんてものはガン無視だ。
 世に「ナベ奉行」って存在は多いと聞くけど、果たして「ニク将軍」って奴はどれぐらいいるもんだろうか、と、詰まらぬ疑問を抱いてしまう。
 いや、こいつの場合、もう将軍ではなく独裁者のレベルだな。
 心の中で、俺は密かに呟いた。
 今後は薫子のことを「金網上のスターリン」とでも呼んでやろう。
 それからしばらくの間、俺と薫子は、ひたすら食べることに専念した。
 ただし、猛烈な勢いで言葉の応酬ラリーを展開しながら、だ。
 薫子のほうが何かにボケて、この俺がそれにツッコむというワンパターンなやりとりが、金網を挟んで繰り返される。
 でも、さすがは高学歴の女医さんだけあって、薫子の語る話には、妙に含蓄あるものが多かった。
 しかも、その題材はリアルに起きたものばかり。
 へぇー、と、びっくりさせられることしかりだった。
 お腹が満たされ、空けられたビールのジョッキが数を重ねるごと、薫子の舌は滑らかになっていく。
 もちろん、下ネタの類も大爆発だ。
 それこそ下らないオヤジギャグから、オトコとして「あ~あ~聞きたくない」と耳を塞ぎたくなる内容まで、玉石混合。
 単なる情報の伝達手段でしかないはずなのに、なんで互いに言葉を交わすってことが、こんなにも楽しく感じられるんだろう。
 ふと我に返って、俺は思った。
 そう、楽しい。
 実に楽しい。
 少なくともそれは、ここ数年間じゃあ覚えたことない高揚感だ。
 いや待て。
 俺の中で、知らぬ誰かが警告を発した。
 同じような覚えは、以前にも確かにあったぞ、と。
 背筋に嫌な警戒感が走り、同時にひとりの女がまぶたの裏で微笑んだ。
 そいつの名は「山崎あかね」
 高校時代のクラスメートだった女だ。
 容姿端麗、学歴優秀。
 温厚で、社交的なキャラクターで知られた人気者。
 責任感も強く、真面目で、見るからにお嬢さま然としたその容貌に、心惹かれるオトコたちは、星の数ほども存在した。
 俗に言う、「学園のアイドル」って奴だ。
 聖少女──そんな風に、あいつを呼ぶ奴すらいた。
 かくいう俺も、そんなあいつに心を奪われたひとりだった。
 生まれて初めて出会った「理想の彼女」
 そいつは紛れもなく、俺にとっての「初恋」だった。
 自分のツラも顧みないで、一方的に熱くなっちまったことを、いまでも鮮明におぼえている。
 だから、勇気を振り絞って手渡した渾身のラブレターを好意的な笑顔と一緒に受け取ってもらったとき、足が宙に浮くんじゃないかと思えるほど嬉しかった。
 学校からの帰り道、何度も跳び上がりながら万歳を叫んだ。
 それを恥ずかしいだなんて、ちっとも思わなかった。
 こいつと初めてのデートにこぎ着けた日。
 待ち合わせ場所の公園で、うきうきしながら時計の針を気にしていた時。
 それが、俺の人生における頂点だったんだと確信している。
 でも、そこが頂点であるからこそ、行く先に待つのは下り坂しかないんだってことを、その時の俺は全然気付いていなかった。
 もっとも、たとえ気付いていたとしても、まさかそれがあれほどの絶壁の入り口だっただなんて、思ってもみなかっただろうけど──…
 その頂点で感じたものといま味わっている感覚とが、なぜだか俺の中で、ぴたりと正確に符合した。
 不意にぞわっと鳥肌が立ち、熱を帯び始めた俺の心に、冷たい氷水がバケツ一杯ぶちまけられた。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
 相方の沈黙で勢いを削がれた薫子が、心配そうに眉根をしかめた。
「気分でも悪くなったのなら、店員さん呼ぶ?」
「いや、そうじゃないんだ」
 手に持ったグラスをテーブルに置いて、俺は知らぬ間に俯いていた顔をゆっくり上げた。
 なんの前振りもなく薫子に問いかける。
「なあ、俺たちってさ。これで会うの何回目だったっけ」
「そうね」
 怪訝そうな顔を形成しながら、それでも薫子は真面目に答えた。
「お店で二回、G6の会場で一回だから、今回で四回目かしらね」
「それなのに──」
 俺は言った。
「なんでこんなに近いんだ?」
「近い? あたしが馴れ馴れしいってこと?」
 薫子が応じる。
「そんなこと言ったら、君だってあたしのこと呼び捨てじゃない。お互いさまだと思うけどな」
「そんなんじゃなくってさ」
 俺は答えた。
「あんた、オンナだろ。なのに、なんで出会ったばっかりの俺みたいなの相手に、こんなに親しくできんだよ」
「ふ~ん」
 薫子は鼻を鳴らした。
「要するに、圭介くんはあたしの態度に、オトコとして納得できる理由が欲しいってわけね」
「そう、なるかな」
「ホント、オトコって面倒な生き物よね。降ってきた幸運を素直に楽しんでればいいのに」
「ゴメン」
 思わず謝った俺を見て、薫子は相好を崩した。
 頬杖をつきながら、すっとその眼を細めてみせる。
「あたしが君を気に入ったから、じゃ理由にならないかしら?」
 薄笑いを浮かべながら奴は言った。
「だって君、面白いんだもの」
「面白い?」
「そうよ」
 薫子が応える。
「圭介くん。あたしと初めて会ったとき、自分で何を言ったのかおぼえてる? 君、いきなり初対面の人間に向かって、『この俺と戦えッ!』って、挑戦状叩き付けてきたのよ。
 あたしもこの歳まで生きてきて、そりゃあもういろんな男性から声かけられてきたけど、懇願でも要求でもなく、挑戦っていうのは初体験だったわ。わかりやすく言うとね、『お願いだからヤらせてくれ』でも『四の五の言わず黙ってヤらせろ』でもなく、いきなり『ヤってやるから、覚悟しろ』が、君の言い分。誰だって興味湧くわよ、オンナならね。
 ましてや、それがまっさらな童貞くんとくれば、とーぜんその行く末を見守りたくなるってのは、おねーさんとして、まずまず妥当な反応だと思うんだけどな」
「ど、童貞は関係ないだろ! 童貞は」
「そうね、圭介くん@チェリーボーイ」
 目の前でクルクルと箸先を回しながら、薫子は俺に告げた。
「でもまあとにかく、それがあたしにとって君と親しくお話しする理由ってとこかな。納得できた?」
「できねえよ」
 むすっとした態度を装って、俺は答えた。
「でも、いまはそれで納得しといてやる」
「意地っ張りねェ」
 くすっと笑う薫子と目を合わせられず、皿の上の牛レバーを、生のまま口内に掻き込んだ。
 そいつは極度の「照れ」だった。
 かっと顔中の血管が拡充する。
 これもまた、いままで経験したことのない反応だった。
 正直、戸惑いって奴を禁じ得ない。
 だから、薫子が「生レバーってさ、アノ日に出てくる血の塊とそっくりね」なんて莫迦なネタを口にしてくれたことには、心の底から感謝した。
 会話の流れが、ちょっと前のそれに見事軌道修正されたからだった。
 会話の内容は、やがてジムカーナについてのそれになった。
 薫子の口調はいささか呂律の悪いものに変わりつつあったけど、それでもなお、奴の語る内容は、俺にとって貴重極まる生の情報に違いなかった。
 おもむろにポケットから小さな機械を取り出し、テーブルの片隅にそれを置く。
 どこかとろんとした薫子の視線が、その一点に注がれた。
「何よそれ?」
「ICレコーダー」
 奴の疑問に俺は答えた。
「ほら、俺って漫画家だろ。ネタになりそうな話が転がってきたらそいつを記録しておけるようにって、普段からこいつを持ち歩くようにしてるのさ」
 俺は、薫子にそう説明した。
 嘘だった。
 ICレコーダーを持ち歩く本当の理由は、そんなあたりまえのものじゃあなかった。
 けれど薫子は、俺の説明に鼻を鳴らし、素直に納得してくれたようだ。
 少なくとも俺には、そんな風に見えた。
 ありがたい話だった。
「要するに」
 薫子が言う。
「使える話をこれで録音して、持って帰ってから仕事の役に立てようってわけね」
「ま、まあ、そういうことかな」
 少しどもりがちに俺は応えた。
「おまえの話って、俺みたいな初心者には結構タメになりそうな気がするし」
「な~るほどね」
 薫子の手が伸びて、ICレコーダーを自分のもとへ持っていく。
 すでにスイッチはオンになっていた。
 手の中でその物体を弄びながら、独り言のように繰り返す。
「な~るほど、な~るほど。これに録音された内容を、帰ってから圭介くんが『使う』のかァ。ふ~ん」
 不意に嫌な予感が脳をよぎった。
 それも最大級に強烈な奴だ。
 咄嗟に俺は、こいつからICレコーダーを取り戻そうとした。
 ちょっと強い口調で名前を呼ぶ。
 でも、遅かった。
 俺の指先がICレコーダーに触れるよりもひと足早く、薫子は次の行動に移ったんだ。
 自分の両肩をひしっと抱き、小さく身体を捩らせながら、悩ましげな顔付きで、作ったように眉根を寄せる。
「ああッ!」
 その口から、色気のある声が情感たっぷりに漏れ出した。
 明らかな嬌声だった。
 発情したオンナが、オトコの情欲を刺激するため口にする声。
 何事か、と言わんばかりに、周囲の眼が、余さず俺らのほうを向いた。
 当然の反応だろう。
 俺も思わず耳を疑い、同時に全身を凍り付かせた。
 これ以上もないほど目を見開き、薫子の姿を凝視する。
 そんな周囲の状況などどこ吹く風で、こいつはなおも喘ぎ続ける。
 AV女優もびっくり仰天な、それはとんでもないレベルの激しさだった。
 とにかく喘ぐ。
 喘ぐ。
 喘ぐ。
 喘ぐ。
 喘ぐ。
 喘ぐ。
 セクシーボイスが店の中一杯に響き渡り、それを聞いた男たちの色欲を、それこそ目一杯に刺激する。
 興奮して鼻息を荒くしてた奴も、さぞかし多かったことだろう。
 そりゃそうだ。
 たとえそいつが演技であっても、薫子ほどの別嬪が、オンナそのものって奴を見せ付けてるんだ。
 妄想も裸足で逃げ出すこの展開にオトコを反応させない野郎がいたなら、参考までに、そいつの尊顔を拝見したいとさえ思う。
 もちろん、この俺だって例外じゃない。
 顔面と下半身の一部に熱い血液が流入するのを、不覚にもはっきり認識した。
 もはや我慢の限界だ。
 これ以上、あられもないこいつの姿を、他人の目には晒したくない。
 弾かれたように俺は動いた。
「いーかげんにしろッ! このエロオンナッ!」
 俺が薫子からICレコーダーを引ったくったのは、ちょうど一人芝居中のこいつがエクスタシーの演技をみせた、その直後でのことだった。
 釜ゆでされたタコみたいな顔色を浮かべ、ほとんど脊髄反射で激高する。
「人前でなんて真似しやがるッ! 周りの迷惑考えろッ!」
 俺は絶叫した。
 こちらもまた、衆目を集めるには十分過ぎる音量だ。
 だけど薫子は、平然とした表情でこれに応えた。
 一瞬前までの艶めかしい態度とは一転、すっと冷めた言葉が台詞を紡ぐ。
「もしかして、お気に召さなかったかしら? あたしの渾身のサービス」
 さも中断が不本意だとばかりに口元を歪め、こいつはぬっと俺の顔を覗き込んだ。
「録音したのを持って帰って使うっていうから、君の役に立ちそうなの入れてあげたんだけど、やっぱり聴覚だけじゃオカズには足りなかった?」
「巨大なお世話だッ!」
 俺は叫んだ。
 そうすることしかできなかった。
 それから先のやり取りは、ほとんど記憶に残っていない。
 余った肉や料理の類を無理矢理口にねじ込んで、俺たちは逃げるようにして店を出た。
 いや逃げるように、じゃなく、本当に尻に帆かけて逃げ出したんだ。
 客と店員、その両方から放たれた絶対零度の眼差しが、数限りなく俺の背中に突き刺さった。
 漫画にするなら、弁慶の立ち往生もびっくり仰天な有様だったろう。
 もう二度とこの店には来れないな、と思った。
 少なくとも、そんな度胸は俺にない。
 ただし、俺の脇でケタケタと笑ってるこの酔っぱらいに限って言えば、そんなわけでもなかったようだ。
 正直な話、この肝の据わり方だけは尊敬に値する。
 真似したいとは到底思えなかったけど。
「今夜はごちそうさま」
 店先を出てもなお顔中を朱に染めていた俺に向かって、薫子はそんな言葉を口にした。
 もちろん、反省の色なんてものはいっさいない。
 かぶく、っていうのは、まさにこのことなんだろう。
 平然と胸を張り、悪びれもせずこいつは言った。
「久し振りに楽しめたわ。君、その筋の才能あるわよ。道を誤ったわね」
 薫子の言う「その筋の才能」ってのが一体全体なんなのか、それを聞き出したい気持ちはあった。
 でも、俺は速やかにその選択を断念した。
 いまはとにかく、この場を離れたくて離れたくて仕方がなかった。
 自分が恥を掻いた場所なんかには、一瞬だっていたくない。
 それは誰だって抱く感情のひとつに違いないって、この時の俺は信じていた。
「とりあえず家まで送ってく」
 そんな心情とは別に、俺は薫子に申し出た。
 オトコとしてケジメを付けるためだ。
「それで文句はないだろう?」
「ありがとう、と言いたいところなんだけど、今回は遠慮しとくわ」
 だけど、薫子は至極あっさりその申し出を断った。
 自分はそこいらでタクシーでも捕まえて帰宅するという。
 最後の最後までこいつにこき使われるものだと覚悟していた俺は、その発言を拍子抜けした思いで聞いていた。
 ちょっとしたオトコの矜持が顔を出し、改めて俺は薫子に持ちかける。
「いいのかよ。俺のことなら、足になってやっても構わないんだぜ」
「彼氏じゃないオトコにそこまで面倒見させられないわよ。コドモじゃあるまいし」
 でも、こいつの意志は変わらなかった。
 折良く通りかかったタクシーに向かって、薫子はためらうことなく手を挙げる。
 それを見付けたタクシーは、目の前の路肩に停車して、後部座席の扉を開けた。
「またね、圭介くん」
 別れ際に薫子が告げた。
「次のG6、君の奮闘に期待してるわ。あたしが欲しいなら、せいぜい全力を尽くして頑張ることね」
 それは、挑発とも激励とも、どちらにも取れる発言だった。
 わかっているのは、薫子が自分の負けをこれっぽっちも考えてないって事実だけ。
 ちぇっ、余裕かよ。
 薫子が飄々と去ったあと、俺は、その場で独り言ちた。
 あいつ、俺の実力が全然足りないことを、しっかり認識してやがる。
 もちろん、そう思われているのは悔しかったけど、不思議なことにそれは、ある種の清々しさが感じられる台詞だった。
 たっぷりとその余韻を味わった俺は、踵を返して相棒パルサーのもとへと歩き出した。
 妙に気分が良かった。
 足取りも軽い。
 今度あいつに会う時が心底楽しみでならなかった。
 その時、あいつは、どんな表情を見せてくれるのか。
 どんな話をしてくれるのか。
 はたまた、どんなトラブルを引き起こしてくれるのか。
 不意に浮かんだ事柄が俺の足を止めたのは、そんな思いを弄んでいる真っ最中の話だった。
 そう、唐突に俺は気付いちまったんだ。
 今日のこれって、いわゆる「デート」って奴なんじゃね?、と。
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公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

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