ミッドナイトウルブス

石田 昌行

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六章:ミッドナイト

第三十七話:夕暮れの再会

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 武蔵ヶ丘市郊外に建つ大型のアミューズメント施設。
 ひとむかし前なら、より低俗に「ゲームセンター」と呼ばれていた店舗だ。
 ショッピングセンター並みに広い駐車場を敷地内に持ち、食堂やビリヤード場なども併せて営業しているその施設は、巷では「レジャーランド」と称されることが多かった。
 夕方の入り口にほどよく近い午後四時。
 それは、学舎をあとにした学生たちが一時の楽しみを求めて同施設にやってくる、まさにそんな頃合いの時間帯だった。
 壬生翔一郎は、そんな空間の一角で、しばしの惰眠を貪っていた。
 喫煙所のソファーに浅く腰かけ、両脚をだらしなく前に投げ出した格好で、である。
 眼前のテーブルには、飲みかけの缶コーヒーがぽつんと置かれたままになっていた。
 午後四時と言えば、普段の翔一郎にとってはまさに就業時間の真っ最中のはず。
 にもかかわらず、彼はおよそ数時間もの間、ずっとこの場所でこうしていた。
 むろん、今日という日がこの男にとっての休日というわけではない。
 事実、そのアイロンの効いた白いワイシャツとグレーのスラックスという出で立ちは、今朝、彼が出勤時に見せた服装そのままであった。
 実は本日、翔一郎は心身の不調を口実に、午後からの仕事に有給休暇を取ったのだった。
 ただしその症状は、口から出任せの詐称に過ぎない。
 俗に言う仮病の類いという奴だ。
 いち社会人として考えると、それは明確な背任行為のひとつである。
 非難されて当然の行いだと断言できた。
 場合によっては、処罰の対象にすら成り得るだろう。
 だがたとえそうであったとしても、いまの翔一郎は、何もかもをほっぽりだしたくてほっぽりだしたくて仕方がなかった。
 仕事の類は言うに及ばず、体を動かすことも、ものを考えることも、極端なことを言えば息をすることさえがおっくうだった。
 ありとあらゆることに対し、まったく張り合いを感じられなかった。
 頭がずっしりと重たい。
 ちょっと先のことにすら意識を向ける気になれなかった。
 まるで自分が生きる屍ゾンビにでもなってしまったんじゃないか、とまで思ってしまうほどだ。
 それは、いったいいつからだろう?
 何度か、そんな風に自問した。
 いつから俺は、こんな風になっちまったんだ?
 言うまでもなかった。
 あの、八神街道での出来事以来だ。
 軽蔑してくれても構わない。俺は「ひと殺し」なんだ。
 そう伝えた時に眞琴の浮かべたあの表情。
 おのれに問いかけるたび、それがまぶたの裏へと蘇ってくる。
 胸の奥には歴然とした淀みがある。
 実に不快だった。
 眞琴か。
 翔一郎は、心の中で独白した。
 そういえば、次の日からだったな。毎朝欠かさず耳にしていた起床の合図を、俺が浴びせてもらえなくなったのは。
 呟きながら、無意識のうちに現状を反芻する。
 あの頭ごなしの一撃に代わって彼の目覚まし時計となったものは、気後れしたようなノックの音と、扉越しに聞こえてくるどこか遠慮がちな確認の声だった。
 確かにそれは、十分以上の機能を発揮していた。
 いままでのがいわば過剰性能であったという事実に、疑う余地はないだろう。
 だが、翔一郎には物足りなかった。
 間違いなく、何かが物足りなかった。
「翔兄ぃ、起きろ! この寝ぼすけ」
 軽快に鼓膜で弾ける眞琴の叱責。
 それがどこか遠くで響いた気がして、彼はおもむろに両目を開いた。
 ゆっくりとソファーに腰かけ直し、缶コーヒーの中身を飲み干す。
 適度な甘さと苦さとが口の中に広がって、目覚めたばかりの乾いた身体に、じわりと浸透していった。
 がつんと右手でこめかみを叩く。
「何やってんだろうな、俺は」
 頭をかきながら翔一郎は立ちあがった。
 目的があってのことではない。
 ただ、この場に長居すること、そのこと自体に飽きてきただけだった。
 随分と自分勝手な理由だな、と、彼は自分自身を鼻で笑う。
 自然と嘲りが口の端に浮かんできた。
 どうしても、それを止めることができなかった。
 数名の少年たちが騒々しく施設の中に入ってきたのは、ちょうどその時のことだった。
 年代的には中学生か高校生といったところだろう。
 眞琴や高山とほとんど変わらない年代なのに、その仕草や態度は彼らと比較して随分とコドモっぽく見える。
 少年たちはその足並みを緩めることなく、あるゲームの筐体へとまっすぐに向かっていった。
 それは、連載中の青年漫画を題材にした最新型のレースゲームだった。
 ゲームの題材にされた漫画は、「やまの走り屋」を主人公として捉えた作品だった。
 連載開始からかなりの年月が経過しているにもかかわらず、いまだに多くのファンを抱えている名作だ。
 その作品に登場するさまざまな峠道を戦場に、実在するクルマ同士がバトルを行う──それが、このゲームの普遍的なコンセプトとなっていた。
 翔一郎は、彼らがゲームの展開に一喜一憂する様子をしばらく呆然と眺めていた。
 そして少年たちが去ったあと、何気なく、そう本当に何気なく、彼らが楽しんでいたそのゲーム機へと歩み寄っていった。
 なぜそんな真似をしたのか。理由は彼自身にもわからなかった。
 翔一郎はすとんと筐体のなかに身体を沈め、おもむろに百円玉を投入した。
 さすがに「走り屋」というものを前面に押し立てたゲームらしく、筐体に設けられたその座席は現実のバケットシートを模した形状となっていた。
 ただし、実際のそれとは雲泥の差がある。
 座面は妙に固いし、ホールド性も皆無に等しい。
 さらに言うと、ステアリングも剛性感なくふらふらで、アクセルペダルにもブレーキペダルにも、すべての面で強い違和感が漂っていた。
 硬貨の投入とともにオープニングデモがキャンセルされ、軽快な音楽とともにゲームそのものがスタートした。
 使用車種のセレクト画面が、ディスプレイいっぱいに映し出される。
 翔一郎はここで、原作漫画の主人公が乗るクルマを選択した。
 白と黒とに塗り分けられた、AE-86型の「スプリンター・トレノ」
 三十年以上も前にデビューした、リトラクタブルライトを持つ小型のクーペだ。
 作品内でこそまだまだ現役の戦闘機だが、現実にはネオ・ヒストリックカーの一角を成すクルマだと言ってもいい。
 そのシルエットを見た瞬間、味覚とは別種の苦みが翔一郎の口内にあふれてきた。
 しかし無理矢理にそれを飲み込んだ彼は、意識して大型のゲーム画面を凝視する。
 そこに映し出された光景は、ある意味見慣れた「深夜の街道」そのものだった。
 ヘッドライトに浮かびあがる対戦相手も、まるで実写の動画を見ているかのように美しい。
 それを目の当たりにした翔一郎は、映像技術の進歩というものについて感嘆させられることしかりだった。
 仮想現実の世界が現実世界を上書きする時代がくるのももうすぐか、などと本気で思ってしまうほどだった。
 それでもやはり、画面の中に存在するそれらはしょせん紛い物に過ぎないんだな、と翔一郎は強く感じる。
 確かに映像そのものは、非の打ち所がないくらいに素晴らしい。
 今後の発展を考えると、それはもう空恐ろしくなるくらいの完成度だ。
 されど、その作られた世界の中には、ステアリングを通して伝わる路面の感触も、座席越しに身体を震わすエンジンの振動も、クルマの挙動に応じて三半規管を振り回す激しい加速度も、まったく存在してはいなかった。
 本能的に血液を沸騰させてくれる熱さが、そこからは微塵も感じられないのである。
 やはり代替品にはならないか。
 どこかで覚悟していた虚しさを心の奥底にしまいこんで、翔一郎はそのままゲームのプレイを終了した。
 結果自体は無惨なものだった。
 「八神の魔術師」は、このゲームのファーストステージさえクリアすることができなかった。
 だが、彼はあえて再挑戦の道を選ばなかった。
 それが自分のいるべき世界ではないと、はっきりわかってしまったからだ。
 空調の効いた施設の中から、翔一郎が退出したのはそれからすぐのことである。
 日に焼けた駐車場をとぼとぼと横切り、まっすぐ愛車のもとへと向かう。
 敷地の端にぽつんと停めた黒色の「レガシィB4」
 翔一郎はその傍らに立つと、胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえて火を点けた。
 まだ何も知らなかった学生時代に戯れで犯した校則違反。
 それ以降、初めて行う喫煙だった。
 無造作に、紫煙を肺へと流し込む。
 だが、喉の粘膜が受け付けなかった。
 激しく咳き込む翔一郎。
 手中のそれを地面に投げ捨て、足で踏みつけ火を消した。
 まるで八つ当たりのようであった。
 いらつきが神経を逆なでする。
 ただし、いったい何にいらついているのかは、当の本人にすらわかっていなかった。
 どこか聞き慣れたように感じる会話が翔一郎の耳に届いたのは、まさにそんなおりのことであった。
「おまえ、あそこの五連ヘアピン、どんな風にクリアする?」
「おまえの愛車、『ハチロク』だったよな。だったら、ブレーキングしながら進入して、イン側の溝にタイヤはめればタイム出るぞ。でも、基本的にはアウト・イン・アウトのラインで立ち上がり重視の走りしたほうがいいと思うぜ」
「サンキュー。なんとか二分台に乗っけたいんだよな、あのステージ」
「ま、何事も努力次第ってことで」
「違いねえ、ははは」
 それは、翔一郎の前にレースゲームをプレイしていたあの少年たちであった。
 施設の中にいたほうが涼しくて快適だろうに、わざわざ日光の照りつける駐車場にたむろして何やら熱心に語り合っている。
 おそらくは、ゲームの攻略についての話なのだろう。
 走り屋じみた内容がその中に垣間見られるのは、なれば当然のことだと言えた。
 そんな少年たちの様子を、いつのまにか翔一郎はまんじりともせず見詰めていた。
 かつて自分たちが演じた姿といまの彼らの有様とが、見事なまでに重なって映る。
 確かに共通点は多かった。
 あの時、そうあの時の俺たちも、世間一般からはとても高尚と思われていなかった「遊び」について、熱く言葉を交わしていたのだ。
 羨ましいな。
 率直に彼はそう思った。
 と同時に、まったく別の疑問符がその脳裏へと浮かびあがる。
 彼は、無意識のうちに自分自身へと問いかけた。
 なぜそれがなのだ? ではなく──…
『何をわかりきったことを』
 唐突に彼の前へと現れたもうひとりの翔一郎が、嘲るように言い放った。
『そんなのは決まっているだろ。おまえの中に、まだたっぷりと未練が残っているからさ』
 未練か。
 なるほど、確かにそうだ。
 その侮辱に近い言われ方にも動じず、翔一郎は深く得心した。
 「走り屋」として鳴らしていたあの頃。
 いまからは想像もできないほどエネルギッシュだった自分は、本来ならありえていたはずの可能性におのれの意志で背を向けた。
 ランナーとしての未来を失った自分の眼前に突如として現れた新しいゲート。
 親友に手を引かれてそこを潜った自分が見たもの。
 それは、無限に広がる非日常の世界であった。
 若かった自分は、文字どおり夢中になってその地を駆けた。
 ありとあらゆる空気を貪欲に吸い込み、おのれの中で燃焼させ、それを血肉として、レコードという新たな歴史を刻み付ける──…
 もし人生に最良のときというものがあるとしたら、あのときこそが自分にとってのそれなのだ、と翔一郎は改めて確信した。
 間違いなく自分は、あの瞬間を激しく燃え盛りながら過ごしていた。
 その事実に疑いなど微塵もない。
 ではなぜ、いまになって俺はあの頃に未練などを覚えているのだろう。
 あれ以上のときは俺の人生にはない。
 決して。
 決してだ。
 そう言い切ることにやぶさかではないにもかかわらず、なぜ俺は──…
『本当にそうか?』
 ふたたび、もうひとりの翔一郎が茶々を入れた。
 彼は腕組みしながら口元を歪ませる。
『では聞くが、おまえはあそこで本当にと言えるのか? 目の前に立ちはだかった壁にぶちあたり、尻尾を巻いて逃げ出したへたれ野郎が、本当に心の底からそう断言できるのか?』
 そうおのれの分身に罵られた翔一郎は、その言葉にあえて反論しなかった。
 無言のまま、愛車「レガシィ」のボンネットに右手を置く。
 その指先に不自然な力がこもった。
 あたかもそこに爪を立てるような、そんな仕草を思わせる動きだった。
 彼の口元が苦虫を噛み潰したのは、その次の刹那の出来事だった。
「わかっているさ。自分がへたれ野郎だなんてことは」
 苦々しげに魔術師が呟く。
 そうだ。
 そのとおりだ。
 「走りから脚を洗った」「そんなものに興味などない」なんて嘘っぱちだ。
 それは、このクルマのありようが見事なまでに証明している。
 見るがいい、このチューニングを!
 「ドライビングフィールを向上させるため」なんて言いわけをかましているが、その本質は、走行性能を底上げする改造以外の何物でもない。
 特に足回りの調整については、何度も何度も八神を走り、そこから得たデータをもとに徹底的にこだわり抜いたセッティングを施してある。
 なんだかんだ言って、これまでこのクルマに費やしてきた金額は、コイツBE-5を新車でもう一台買える額以上になってるはずだ。
 俺はあの時、間違いなく俺の戦場夜の峠から逃げ出した。
 そして、自らそれを振り返ることのないよう、自分自身に嘘を吐いてこれまでの人生を生きてきた。
 あの場所でやり残したままのことなんて、それこそ山のようにある。
 逃げ出したことを後悔していないなんて戯言は、口が裂けたって言えるものじゃない。
 もしできるものならもう一度、あの生命そのものを燃料とした真っ青な炎でこの身を焦がしてすらみたい。
 そう、できるものならいますぐにでも。
 いますぐにでもだ!
 それが本音だった。
 それが本心だった。
 いままでの自分は嘘つきだった。
 そうはっきり認めてしまえば、随分と楽になるのだろう。
 正真正銘、自らの思いを実行に移すことができたなら、あるいは充実感すらも覚えるのだろう。
 それを想像することはあまりにも容易い。
 口ではいろいろぼやいていたが、高山や眞琴にドライビングを教授している時間は本当に楽しかった。
 芹沢聡が駆るFD-3S「RX-7」を相手に久方ぶりのバトルに及んだ瞬間は、まさに身震いするほどの快感が背筋を駆け抜けていた。
 忘れない。
 忘れたくない。
 ひとたび走り屋としての感覚を思い出してしまった心身が、再度それらを忘却することを必死になって拒んでいた。
 だが、翔一郎がとある一線を越えようとすると、決まってあの光景が彼の意識へ割り込んでくるのだ。
 それは、ガードレールに頭から突っ込んだ白い「ハチロク」の姿だった。
 大破した「ハチロク」のドアを勢い良く開けた瞬間、彼の眼に飛び込んできた血塗れの親友の姿だった。
 そして、自分を抑え沈黙するしかない翔一郎に泣きながら感情を叩き付けてくる、ひとりの女性の姿だった。
 彼女の叫びが耳の奥から離れない。
 離れようとしない。
「ひと殺し! たかしを返して!」
 その声が脳裏で木霊するたび、翔一郎の中から新たな一歩を踏み出すために必要な「勇気」という二文字が雲散しながら消えていく。
『よくわかっているじゃないか』
 もうひとりの翔一郎は、改めて彼のことを嘲った。
『彼女の言ってることは間違っちゃいない。おまえはひと殺しさ。ひと殺しはな、この世の薄暗がりを背中を丸めながら歩くものだ。もうおまえを照らす光なんてものはこの世に存在しないんだよ』
「だよな……」
 そう独り言を口にして、翔一郎は小さく肩を落とした。
「他人の輝きを羨む権利なんて、俺には過ぎた贅沢だ」
 気が付けば、もう結構な時間が経過していた。
 いささかうつの入った精神を無理矢理に叩き起こし、翔一郎はその場を黙ってあとにする。
 渋滞の始まる市街地を抜け自宅付近へと帰り着くまでには、それからおよそ半時を要した。
 駐車場から歩いて自宅へと向かうさなか、翔一郎の目は路上に停まっている一台の愛らしいクルマを見出した。
 黄色い軽のオープンカーだ。
 「コペンか。ここいらじゃ見ないクルマだな」と口の中で感想を述べつつ、だが我関せずとばかりに翔一郎は歩を進める。
 オープンカーの運転手がたおやかな仕草で愛車から降り立ったのは、そんな彼が十メートルほどの距離にまで近付いた、その時のことだった。
 翔一郎の脚がぴたりと止まった。
 その双眸が驚愕に染まる。
 それは、彼と同年代であろうと推測される、ひとりの優しげな女性であった。
 落ち着いた地味な衣装で上下をまとめたその女性は、翔一郎の姿を認めるや否や、すべての者を魅了する素敵な笑顔を浮かべてみせた。
 さっとその場に吹き込んできた微風が、彼女の黒髪をさらりと小さくなびかせる。
 刹那ののち、重々しい沈黙がふたりの間を支配した。
 呆然と立ちすくむ翔一郎の口がやっとのことで言葉を紡いだのは、それから数秒を挟んでのことだ。
 彼は信じられないものを目の当たりにしたかのような表情を貼り付け、そして短くこう口走ったのであった。
「理恵……なのか?」
「ひさしぶりね。ミブロー」
 そんな翔一郎に対し、彼女──尽生学園の養護教諭「河合理恵」は、まるで旧友に会うがごとき気楽さで第一声を放った。
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