ミッドナイトウルブス

石田 昌行

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五章:ワインディング

第三十話:過ちの放課後

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 部活動を終え、グラウンド脇にある芝生の斜面に腰を下ろした高山は、昨日書店で購入した一冊の本に目を通していた。
 疾走するクルマを表紙に配してある雑誌だ。
 誌名は「Over-Speed」
 もっぱら走り屋御用達のチューニング情報誌である。
 そこに書かれてある内容のほとんどは、サーキット走行についてのものだった。
 深夜の峠道に関する記事は一文も見られない。
 高山も読み始めた当初、これは自動車競技の入門誌なのか、と疑ったほどだった。
 事実、今月号の特集記事とされていたのは、「ヒール&トーをマスターしよう」というものだった。
 言うまでもないが、ヒール&トーとは代表的な競技技術のひとつである。
 少なくともいまの高山にとり、それはいささかハードルの高い世界だと言えた。
 だが、高山はページをめくり続けた。
 その手を止められなかった理由は、誌面に掲載されている走り屋プライベーターたちの表情だった。
 彼の目には、それらの大半が純粋に「走ること」そのものを楽しんでいるように映って仕方がなかった。
 ドライビングという行為を「趣味とは異なる別の何か」として捉えている面々を、そこに見出すことはできなかった。
 やはり走ることを通して自分が目指している目標は、いわゆる「不純」なものなのであろうか。
 誌面の中で瞳を輝かせている数寄者たちを見詰めながら、そう高山は自問した。
 彼の望みは、「クルマを速く走らせたい」とか「クルマをうまく操りたい」とかいう走り屋的なものではない。
 それはあくまでも目的を果たすためのいち手段に過ぎなかった。
 いま高山が目指しているもの──それは、「恋敵である男性を、あえて相手の土俵に登って倒す」、ただそれだけのことであった。
 冷静になって考えてみると、それは随分と空しい願いだ。
 たとえ望みが叶ったからといって、自らの想い人猿渡眞琴がこちらを向いてくれる保証などは、これっぽっちもないのである。
 そして何よりも、彼女がそんなことで心変わりをするような女性ではないことを、当の高山本人が半ば確信してしまっていた。
 そんなことはありえない。可能性は絶無だ、と。
 だとしたら、自分はいまとても莫迦な真似をしているのかもしれない。
 不意に高山は自身を悔いた。
 先日来、ずっと引きずったままの自己嫌悪が、またぞろ顔を出し始める。
 なんて格好悪いんだろう、と、おのれのことを疎ましくさえ思う。
「何やっているんだろうな、俺……」
 自虐的な呟きが、思わずその口からこぼれ出た。
 どっと胸の奥が重くなる。
 立てた両膝の間に顔を埋め、大きくひとつため息をついた。
「押忍、高山くん。面白そうな本開いているね」
 頭上から声が降ってきたのは、まさにその瞬間の出来事だった。
 それは、明朗快活な女性の声だった。
 誰だろう?、と高山が顔を上げるのより早く、声の主は腰を折って、上から彼を覗き込む。
 ポニーテールが弧を描き、人好きのする明るい笑顔が高山の視界に飛び込んできた。
「猿渡!」
 驚いて声をあげる少年を尻目に、彼女──猿渡眞琴は、彼のすぐ隣に並ぶよう、すとんと腰を下ろしてみせた。
 高山と同様、後輩たちの面倒を見ていたのだろう。
 その出で立ちは、白い運動服と紺のスパッツというものだ。
 彼女は、そのまま許しを得ることもなく高山の手から雑誌を奪い取ると、膝の上で無造作にページをめくる。
 心底嬉しそうに眞琴は言った。
「高山くんもこういうの読むんだね。免許取ったの?」
 問われて高山は、ああ、と短く返事した。
 想い人眞琴と言葉を交わすことを素直に嬉しく思える半面、胸の奥にどしりと重いしこりが感じられる。
 それが不快だった。
 半ば怒りに近い。
「猿渡」
「なぁに?」
「おまえって、残酷だな」
 彼は、思ったことをまっすぐな言葉で口にした。
「自分から交際断ったオトコに、なんでそんな風に自然体で声かけられるんだ?」
「そういう考え方って嫌いだな」
 高山の発言を受け、眞琴は彼を非難した。
 その眉根が、軽く眉間にしわを刻む。
「男の子と女の子が仲良くするためにはふたりがお付き合いしてないといけない、なんてなんだか変。そう思わない?」
 真面目な顔で眞琴は言った。
「確かにあの時、ボクは君とお付き合いできないって言ったけど、別に君のことを嫌いになったわけじゃないよ。それとも高山くんは、あの一件でボクのことを嫌いになったのかな? だったら、ボクのほうも君に気をつかわなきゃなんないけど」
 嫌っていたわけではない、という眞琴の真意を知ると同時に、高山は、その目に自分が交際対象として映っていないのだ、という厳しい現実をも思い知らされた。
 意中のひとから異性として認められていないというのは、一般的な感性を有する成人男女にとってかなり大きなダメージとなりうる。
 そんなことならまだ意図的に避けられたほうがマシ、とすら感じる者も多いだろう。
 そして不幸なことに、高山正彦もその中のひとりであった。
 心の中で彼は呟く。
 そういうのを「残酷」って言うんだよ、猿渡。
 そんな思いを眞琴に伝えることができたなら、あるいはこの時、高山もすっきりできたのかもしれなかった。
 しかし残念なことに、彼にはそれができなかった。
 やってのけるには、募る想いがあまりにも大きすぎた。
「いや、そんなことないよ。いままでどおりに話かけてきてくれても全然構わないさ」
 半ば無理矢理笑顔を作って、高山はそう応えた。
 その言葉を受けて、よかった、と微笑み返す彼女のすべてが、より一層眩しく見える。
 そんな高山に眞琴が言った。
「でも、高山くんには彼女候補がたくさんいそうだし、ボクもきちんとTPOをわきまえないといけないね」
「彼女候補なんていたら、おまえにあんなことは言わないよ!」
 眞琴の発言をさすがに無神経だと感じた高山が、抗議の言葉を口にした。
「猿渡こそ、彼氏がいるのにほかのオトコと仲良くしてもいいのかよ」
「やだなぁ、高山くん。ボクに彼氏なんているわけないじゃない」
 からからと笑いながら眞琴は応えた。
 その発言は、高山にとって驚き以上の何かだった。
 彼は眞琴に意中の男性がいるという情報を信じることで、ここしばらくの行動計画を立案していたわけであったからだ。
 その前提があっさりと崩れた。
 えも言われぬ衝動が、喉元すぐにまで駆け上がってくる。
 困惑しながら少年は言った。
「で、でも、野々村さんが猿渡には付き合ってるオトコがいるって──」
「そっかぁ~、デマの発信源は早苗かぁ」
 少女の顔に苦笑いが浮かぶ。
「高山くんはね、早苗に担がれたんだよ。君があのから何聞いたのかは知らないけど、早苗にとって、ボクに彼氏がいないことなんて周知の事実のはずだから」
「じゃあ、学校まで男のひとのクルマで送ってもらってきたってことは? おまえ、確かひとりっ子のはずだろ? 見た奴の話じゃ、運転手はお父さんって年のひとじゃなかったって──」
「ああ、そのことね。それってたぶん、隣の家のお兄ちゃんだよ」
「隣の家のお兄ちゃん?」
「うん」
 自信満々に眞琴は頷く。
「そのひとのウチとボクのウチとは、むかしっから家族ぐるみの付き合いでね。そのひとも、お願いしたら時々足になってくれるんだ。高山くんにそのネタを伝えたひとは、きっとそれ見て誤解しちゃったんだよ」
「ということは……」
「ボクに関するそういう話題は、全部デマだったってことだね」
 きっぱりと彼女は断言した。
「だいたいさぁ、普段のボクを見てたら、男っ気なんかどこにもないってわかりそうなものだけどなぁ。大概のオトコのひとから見たら、絶対につまんないオンナだと思うよ、ボクってオンナは」
「そんなことない!」
 そのネガティブな自己評価に高山が反発する。
 いつもの彼らしからぬ激しさで、少年は素の感情を炸裂させた。
「そんなことないよ、猿渡! おまえ、すっごく魅力的だよ。自信持っていいよ。じゃないと、この俺がおまえに告白なんてするわけないだろ!」
「あ……ありがと」
 怒濤の勢いに押されつつ、たじたじになって眞琴は応えた。
「そういうのってさ、やっぱりお世辞でも嬉しいもんだね。あはは」
「お世辞なんかじゃない。本音だ」
 畳みかける高山。
「俺だけじゃない。ほかのオトコだって、おまえのことそう思ってるよ。気付いてなかったなんて言わせないぞ」
「う、うん。そう改めて言われてみれば、思い当たる節がないわけでもないというか、なんというか……」
 ポニテの少女は、俯きながら答えに窮した。
 こういった青春のひとコマに際し、まったく適応できずにいる。
 それは、明らかにではなかった。
 それだけは、素人目にもわかる事実だった。
 一度は諦めようと努力したはずの想いが、高山の中で急速に膨れあがってくる。
 少年らしい純な好意が、言葉となって口を突いた。
 彼は尋ねた。
「なあ、猿渡。おまえ、本気で彼氏欲しいって思ったことないのか?」
「う~ん、どうかなぁ」
 少年の問いかけに、はにかみながら少女が答えた。
「そんなこと、真剣に考えたこともないや」
「だったら、もう一度、じっくり考えてみてくれないか?」
「何を?」
「俺の告白の返事をだよ」
 高山は言った。
 遠回りすることなく、ストレートに自分の意志を彼女に伝えた。
「好きな奴いないんだろ? それなら」
 まずはお試しでもいいから、俺と向かい合ってくれ──高山はわずかに身を乗り出し、想い人に向けその言葉を告げようとした。
 が、続く彼女の発言がそれを少年に飲み込ませてしまう。
 眞琴は言った。
「あ、でもいま、彼女になってあげたいってひとはいるな」
 出会い頭に強烈なカウンターパンチを受け、高山の心身は動きを止めた。
 衝撃のあまり、一瞬で体中の力が抜けてしまいそうになる。
 だが、彼のそうした心情を知ってか知らずか、眞琴は、まるで歌うような軽やかさでその続きを語った。
「さっき言った隣に住んでるお兄ちゃんなんだけどね。これがまた全然かっこよくないんだよ。休みの日は昼まで寝てるし、部屋はちっとも片付けないし、服はいつも脱ぎっぱなしだし。それに加えて、口は悪いは、お洒落じゃないは、女の子にモテる要素なんてこれっぽっちも見当たらないんだ。
 だからね、せめてこのボクが好きになってあげなくちゃいけないかな、って」
 そんな眞琴の陳述を、高山は表情ひとつ変えず、ただ呆然と聞いていた。
 そして、ひと呼吸置いたのちに吹き出し、次いで顔に手を当て大声で笑い出した。
「なんだよそれ。それって、絶対恋愛感情とは違うものだと思うぞ」
「あはは、やっぱり? 実は自分でもそう思ってたりする」
 照れ臭そうに笑う彼女の顔を横目で眺め、高山は思った。
 なるほど、猿渡らしいや。
 ごめんごめん、と短く謝罪を繰り返しながら、彼は自分がいかに愚かな真似をしていたのかをはっきりと悟った。
 この猿渡眞琴という少女との心の距離を詰めること。
 それは、男女の間に厳然と存在する壁を乗り越えることとイコールではない。
 もっと単純に、同じ時間をふたりで好ましくすごすこと。
 それこそが、彼女に受け入れられる最短距離であったのだ。
 高山は、自らの過ちを自覚した。
 自分は何を焦っていたのだ。
 思えばあの告白の瞬間、文字どおり彼女に声をかける寸前まで、自分には、このと親しく言葉を交わした回数が、いったいどれだけあったというのであろう。
 周りの女性からちやほやされることに慣れ、自分の知名度を過大評価していたにもほどがある。
 ひとしきり笑い終えると高山は眞琴と言葉を交わし合い、ともに下校することをあっけなく約束できた。
 普段ならロードバイクで通学している眞琴が、今日に限って電車を利用していたことも幸いした。
 ひと足先に更衣室へと向かった眞琴の背中を見送った高山は、芝生の上に置かれたままのクルマ雑誌へ視線を落とした。
 これがなければ、今日、猿渡が俺に声をかけてくれることもなかっただろうな。
 そう思えば、なんだか感慨深くもなる。
 そんな少年の頭の内に、次の刹那、壬生翔一郎の相好がなんの前触れもなく浮かび上がった。
 どこか厭世観を漂わせているような、そんな独特の雰囲気を持つ三十路男。
 その姿をなんとはなしに反芻しつつ、彼は思った。
 そうだ。もしあのひと翔一郎に出会っていなかったなら、自分が今日この日、クルマ雑誌をここで開いていることもなかったはずだ。
 今度会ったら、きちんと礼を言っておこう。
 たぶんあのひとはなんのことやらわからないといった顔をするだろうけど、そうしなくては自分の気持ちがおさまらない。
 短い間ではあったけど、あのひとには随分と色んなことを教わった。
 そして、これからも多くのことを教わりそうな、そんな気がする。
 機会があれば猿渡にも紹介してあげよう。
 きっと彼女も、あのひとを気に入ってくれるに違いない。
 やや遅れて服を着替えた高山は、校門付近で眞琴と合流。
 最寄りの駅へと、ふたり並んで歩いて向かった。
 その間中、眞琴は心底楽しそうに高山と交流した。
 友達のこと。
 近況のこと。
 そして、クルマのこと。
 年頃の女性らしい艶っぽい話題など、その口からは欠片も出てきはしなかった。
 気が付くと、高山にとって「八神街道の走り屋」──すなわち戦うべき相手と決めた男のことなど、もはやどうでもいい存在へと成り果てていた。
 そんな人物は、初めっから存在していなかったのだ。
 およそ確信にも近い認識が、彼を新しい進路へと誘っていた。
 やがて自宅への帰投ルートを大きく外れた彼は、郊外の商店街で眞琴の買い物に付き合う羽目になっていた。
 眞琴の側がどのように思っているのかを知る術はなかったが、それは高山にとってデートに近い。
 居心地は格別だった。
 「トルコ行進曲」をご機嫌なテンポで口ずさみ、ポニーテールをひょこひょこと動かしながら元気良く商店街を往く眞琴。
 そんな彼女に、高山は尋ねた。
「本当に楽しそうだな、猿渡」
「楽しいよ。楽しい!」
 踵を軸にくるりと振り向き、少女は、見ているこっちが嬉しくなるほどの笑顔を振りまく。
「毎日が楽しいことばかりだよ。今日も楽しいし、きっと明日も楽しいに決まってる」
 まったくもって根拠のない発言だったが、実際彼女がそう言い切ると、なんとなくだがそれも説得力を帯びてくるから不思議だ。
 それを受けて高山も笑った。
 眞琴が「特に今日は、尽生学園全女生徒のアイドル、高山正彦に荷物持ちをさせているんだもの。鼻高々だよ」などと冗談めいて言うものだから、見せる笑顔も自然体に近くなる。
 商店街で眞琴は、バラ肉とジャガイモ、それと豆腐をいくつか購入した。
 会話の流れで話を聞けば、今夜の献立は肉じゃがと豆腐の味噌汁にするそうな。
 高山はこの時、彼女が歴戦の家事職人であることを初めて知った。
 思いがけず想い人のプライベートを知ることのできた彼は、それだけでも十分な満足感を味わっていた。
「せっかくだから、お茶でも飲んでく?」
 それは唐突な申し出だった。
 眞琴の口から放たれたその言葉に、高山は軽く両目を丸くする。
 いまふたりのいる場所は、商店街を少し離れた閑静な住宅街。
 若者が好んでたむろするような場所が近くにあるとは思えなかったからだ。
「お茶って、どこで?」
 疑問を呈する高山に、眞琴は短く「ボクの家」と返答した。
 彼女が指さしたのは、まさに目の前にある一軒の住宅であった。
 広葉樹の生け垣に囲まれた二階建ての白い建物。
 赤い煉瓦を積み重ねて形作られた正門の脇には、確かに「猿渡」の表札が掲げられている。
 高山は、その誘いに二の足を踏んだ。
 それはそうだろう。
 交際しているわけでもない女性の家にいきなり招かれたのだ。
 いかにあちらの側が言い出したこととはいえ、下心のない普通の男性であれば、ふたつ返事というわけにいくはずもない。
「大丈夫だよ」
 ためらいを隠さない高山を気遣って、眞琴は告げた。
「ウチの親、まだ帰ってくる時間じゃないから」
 そっちのほうがまずいのでは。
 眞琴の発言は高山の背中を押すどころか、まったく正反対の効果を及ぼした。
 しかし、当の発言者のほうは至極あっけらかんとした態度を崩すこともなく、すいすいっと自宅の玄関へと吸い込まれていく。
 軽く息を飲みつつも、高山はおっとり刀でそのあとを追った。
 きれいに掃除された玄関で靴を脱ぐと、彼は二階にある眞琴の部屋へと通された。
 八畳程度の広さであろうか。
 室内にはベッドと箪笥、本棚、それと学習机とクローゼットがあるくらいで、どちらかと言えば質素な構成だ。
 年頃の女性的なデコレーションはほとんど見られず、それがかえって猿渡眞琴という少女の性格を明確に表していた。
「飲み物持ってくるから、適当に座ってて」
 カーペットを敷いた床の上に折りたたみ式のテーブルを置き、眞琴は小走りに階下へと降りていった。
 独り残された形になった高山だが、実は女性の私室に足を踏み入れた回数はそんなに多くない。
 ことにそれが同年代の少女ともなれば、皆無であると言ってよかった。
 自然と心臓が高鳴ってくる。
 落ち着かない心拍数をどうにも押さえ切れず、少年はせわしなく視線を動かし続けた。
 ふと、箪笥の上に置かれた写真立てに目が行った。
 眞琴自身が誰かと一緒に写ったもののようだ。
 おもむろに立ち上がり、無造作にそれを手に取る。
 夏らしい季節の中、おそらくは近くの山へピクニックにでも出かけた際に撮影されたものだろう。
 透き通るような青空と瑞々しい緑の木々を背景に、は写っていた。
 写真の中で眞琴は、ひとりの男性に身体ごと抱きついていた。
 積極的なその姿勢に恥じらいの色は見られない。
 まるで仲のいい恋人同士がじゃれ合っているような様子だ。
 そう思えるのは、そこに写っている眞琴の表情──真夏の日差しにも似たその笑顔が、とびっきりに輝いていたからだった。
 だが、高山がその写真から衝撃を受けたとすれば、それはむしろ写真に写った眞琴の姿からでなく、その腕の中で困惑した表情を浮かべている男性のほうからであった。
「壬生さん……」
 高山は、小さく呟いて絶句した。
 眞琴とともに写真の中にいたその男性は、週末限定ではあるが、彼が心から師事している人物、壬生翔一郎そのひとに間違いなかった。
 どういうことだ? なぜ、あの人が猿渡と。
 咄嗟に頭の中が混乱する。
 そういえば、猿渡が付き合っているという噂だった走り屋は、「彼女よりずっと年上」で「4WDの使い手」なのだと聞いている。
 翔一郎も自分たちよりはるかに年長で4WDの「レガシィB4」に乗っているから、その条件に合致しているのは確かだ。
 でも、そんな偶然って本当にありえるものなのだろうか。
 壁掛けのコルクボードに貼り付けられたほかの写真にも目をやった。
 そのほとんどに翔一郎が写っていた。
 そして、その傍らには常に眞琴自身の姿も。
 どの写真の中においても、彼女はこれまでの高山が見たこともないほど生き生きとした表情を浮かべていた。
 それは、ただ単なる好意の表現と捉えるにはあまりにも眩し過ぎるものだった。
 不意にどす黒い感情が胸の奥から込み上がった。
 嫉妬である。
 高山は、それを無理にでも噛み殺そうと懸命に努力した。
 だが、その努力が実を結ばないうちに部屋の主が軽快な足音とともに階段を上ってきてしまった。
 最悪のタイミングだった。
「お待たせ」
 明るく告げて、眞琴は持ってきたお盆をテーブルに置く。
 お盆の上に載せられてきたのは、急須と茶碗、そして数枚の醤油煎餅が入った木製の容器だ。
 彼女は手際よくふたつの茶碗に緑茶を注ぐと、高山と向かい合うようにして正座した。
 左手を前に差し出し、どうぞどうぞと席を勧める。
「ごめんね。ウチ、和食党だからジュースとかは常備してないの。高山くんはコーヒーにケーキのほうがよかったかな?」
「いや十分だよ。ありがとう」
 勧められるがまま、高山は眞琴の正面に腰を下ろした。
 少しでも気分を落ち着かせようと、出されたお茶を軽くすする。
 少し熱めの温度だった。
「あ、もしかして熱いの駄目だった?」
 わずかに顔をしかめた高山に、申し訳なさそうな声で眞琴が尋ねた。
「ボクの周りは熱いの好きな人ばかりだから──」
 それを聞いた高山は、翔一郎が何気なくもらしたひと言を思い出していた。
 壬生さんも「日本茶は熱いのに限る」なんて言ってたっけ。
 押し込めようとしていた感情が、ふたたび膨張を始める。
 駄目だ──必死の制止も及ばず、高山の中からその一端がこぼれ落ちた。
 それは悪魔の尻尾に近かった。
「なぁ猿渡」
 彼は言った。
「そこの写真のひとなんだけど」
「ああ、そのひとがさっきお話しした『隣の家のお兄ちゃん』だよ」
 高山の質問を先読みして、隠し立てすることなく眞琴は答えた。
 それも、このうえもなく嬉しそうな表情で。
「そのひとは、役所勤めの公務員。ウチとは家族ぐるみの付き合いで、ボクが生まれる前からずーっとお隣に住んでるの。もちろん独身。でも全然かっこよくないから、きっとこれからも彼女なんてできるわけないと思う。
 本当に世話の焼ける駄目兄貴。もう三十過ぎてるのに、ボクがいないと部屋の片付けひとつ満足にできないんだから」
 彼女はそう言い放つと、締めに感慨深くひと言を付け加えた。
「でも、そのひとはボクの『英雄ヒーロー』なの」
英雄ヒーロー?」
「うん、『英雄ヒーロー』 ボクの──そう、ボクだけの『英雄ヒーロー』」
 そう言ってにこりと笑う眞琴を見た高山の中で、音を立てて何かが切れた。
 心臓の鼓動が妙に大きく感じられ、音を立てて飲み込んだ唾液が渇いた喉を下っていく。
 少しだけ開いた窓から微風が吹き込み、少女のまとったかすかな体臭を高山の鼻腔へと運び込んだ。
 それが引き金となった。
「猿渡!」
 理性ではなく動物的な欲望が彼の肉体を突き動かした。
 ひと声叫んで立ち上がった高山は、迷うことなく最短距離を突進した。
 テーブルを引っ繰り返すほどの勢いで、真っ正面から眞琴の身体を抱き締める。
 緑茶の入った茶碗がカーペットの上に落下して、中身を広範囲にまき散らした。
 そして我が身に何が起こったのかもわからず目を白黒させる眞琴を、高山は力任せにカーペットの上へと押し倒した。
 おのれよりひと回り以上も大きい肉体にのしかかられ、押し潰された肺の中身が少女の口から音を立てて吐き出される。
 一秒、二秒──実際にどれぐらいの時間が経過したのであろうか。
 高山は自らの腕の中に求める女を掻き抱いたまま、その体温と息吹、そして心音とをじっくりと堪能した。
 お互いの衣類を挟んで、彼女の持つ胸の膨らみすらも実感できる。
 左手を相手の後頭部へと回し、その豊かな頭髪をおのれの指で弄んだ。
 達成感に近い何かが高山の胸中を満たしていく。
「猿渡!」
 少年は叫んだ。
「好きだ! 好きだ、猿渡! あのひとじゃなく、俺を選んでくれ! 俺のものに、俺だけのものになってくれ!」
 所有者の意志とは無関係に、高山の利き手が下方に伸びた。
 スカートの中に乱入したその指先が、掌が、少女の持つ滑らかなヒップラインを無造作に愛撫する。
 温かい人肌の弾力と、それとは異なる下着の手触り。
 生まれて初めて経験する新しい知覚。
 若い男の脈動が、身体の変化を高山にもたらす。
 眞琴からの抵抗はまったくなかった。
 彼女の四肢、いやその身体中から力というものは完全に抜け落ちてしまっていた。
 もちろん、その理由のほどは高山にもわからない。
 だが少年は、その無抵抗を少女の示した受託の意思だと受け取った。
 達成感が強い征服欲へと変化する。
 彼女の肩を荒々しく両手で押さえ付けながら、高山は上体を起こした。
 ひとたび受け入れられたのなら、速やかに次の行動へと移らなければならない。
 それが男性側から見たあまりにも自分勝手な義務感であるとわかってはいても、いまの高山にはそれを止めることができなかった。
 激しい鼓動と乱れた呼吸とを気にも留めず、高山は眞琴の双眸を覗き込んだ。
 このオンナを自分だけのオンナにする!
 しなければならない!
 種族保存のために与えられたオスの本能が彼のすべてを支配するのも、いまや時間の問題かと思われた。
 それをかろうじて阻止したのは、高山の中に残っていたひと握りの「想い」であった。
 至近距離で高山の「獣」と対峙した少女の瞳に、彼はいまにも溢れだしそうな大粒の涙を見出したのである。
 そう。
 眞琴は、少年の暴走を受け入れたがゆえに無抵抗だったわけではなかった。
 直面した現実があまりにも衝撃的だったがため、一時的な思考停止状態に陥っていただけのことだったのだ。
 震えおののく少女の視線が自分のそれと重なった時、ドライアイスで形成された氷点下の刃が、高山の胸板を問答無用に貫いた。
「猿渡……」
 眞琴の両肩を鷲掴みにしている高山の手から、すっと力が抜けていく。
 彼は悟った。
 自分はいま、この女性がおのれに委ねてくれた「信頼」という名の宝物を、自らの手で地の底深く投げ捨ててしまったのだと。
 激しい怖気が背筋を走り、文字どおり音を立てて血の気が引いた。
 身震いとともに胃の内容物が逆流しそうになった。
 少年の中に生まれた邪欲という名の醜い獣は、それでもなお、荒れ狂う津波のごとくそのわずかな「想い」に殺到した。
 眼前の少女を力尽くで蹂躙し、そのすべてを穢し尽くすよう彼自身に要求した。
 だが高山は──猿渡眞琴を好きになった高山正彦という少年は、きわどいところでその圧力を跳ねのけた。
 がっと強く息を吐き、激しく頭を左右に振る。
 もう一度、眞琴の顔を直視しようと試みた。
 しかし、その思いが叶うことはなかった。
 おのれそのものを否定したくなるほどの罪悪感が、それを許しはしなかったからだ。
「ゴメン!」
 自分の身体を少女のそれから引き離し、高山は脱兎のごとくその場を離れた。
 逃げ出したと言ってもいい。
 あとを振り返ることなどできるはずもなかった。
 絶望と後悔とが身体中から溢れだし、彼は目的地もなくただ懸命に走り続けた。
 途中で片方の靴が脱げてしまっていることにさえ気付かなかった。
 どれだけの距離を、どのような行程で走り続けたのかすらおぼえていない。
 正気を取り戻した時、彼は見知らぬ石橋の上で数メートル下を流れる暗い水面をただ呆然と眺めていた。
 あたりはすでに夜の帳が降りており、車道を走るクルマのヘッドライトが、規則正しく高山の姿を照らし出しては消えていった。
 取り返しの付かないことをしてしまった。
 過去に経験したことのない凄まじい自責の念が彼をさいなみ、それはいつしか滂沱の涙となって累々とその頬を流れ落ちた。
 涙だけではない。
 鼻腔からも同様の液体があふれだし、多くの女生徒に好意を抱かせたその容貌を、泣き叫ぶ幼児にも似たそれに変えてしまっていた。
 できればこのまま消え失せてしまいたかった。
 欄干の上で握り締められた両の拳が、少年の慟哭に合わせて小刻みに震える。
 顔中から滴り落ちる液体がその甲に落下して、小さな水溜まりをいくつも作りあげていた。
 自らが実力で想い人猿渡眞琴を強奪しようと試みた時、彼女が見せた震える瞳。
 高山が、いやおそらくは彼女と接したことのある者のすべてがいまだ垣間見たこともないだろう、涙で歪んだその瞳。
 あの絶望と恐怖とを奥底に滲ませた眼と、部屋に張られた写真の中で壬生翔一郎に向けられていた眼とを無意識のうちに比べてしまう。
 それがすべてであった。
 もしかしたら自分は、眞琴からあの眩しい瞳を向けられることができたかもしれない。
 あの栄誉を一身に受ける身に成り上がれたかもしれない。
 これは自惚れではない。
 少なくとも忌まわしいあの瞬間まで、彼女は自分との距離を縮めるよう努力してくれていたのだから。
 それを崩したのは自分だ。
 どす黒い感情に負けておのれを見失い、大切なあのを傷付けてしまったのは、すべて自分の責任だ。
 自分は、猿渡眞琴というひとりの女性と真っ正面から対峙する資格を永遠に失ってしまったのだ。
 そう確信した時、高山の両膝から不意に力が失せ消えた。
 がくっと垂直に崩落しそうになる身体をかろうじて持ち直すのが精一杯だった。
 あまりにも自分が情けなさ過ぎて、自然と口元が綻んでくる。
 乾いた笑いが、その口元から溢れ出た。
 その時だった。
 高山の脳裏に翔一郎の言葉が鮮明に蘇ってきた。
 彼は敬意のこもった高山の眼差しを受けながら、気楽に、自然体のままこう語っていた。
『賢く行く道を選んであとから後悔するよりも、勢いだけで足を踏み出してずっこけるほうがはるかにマシさ。失敗するってのも、何かに挑んだ結果として初めて手にする勲章だと思えば、何ほどのことでもない』
 心中に響いた彼の言葉は、崩壊寸前にあった彼の自我を強力に支えた。
 失敗すること、すなわち負けることだって勲章だ。
 その台詞を高山は何度も何度も噛み締めた。
「そう……そうですよね、壬生さん」
 見失いかけていた何物かを寸前のところで掴みとり、高山は右腕でぐいっと勢い良く涙を拭いた。
 崩れそうな両膝を叩いて起こし、意識して背筋を伸ばす。
 だらしなく緩んでいた口元は、いつの間にか真一文字に引き締まっていた。
 そして、あたかも自分自身に言い聞かせるような呟きがその口から漏れると同時に、少年は決然として天を仰いだ。
「僕にはやらなくてはならないことがありますものね。背を向けて逃げたままじゃ、負けることだってできやしないですから」
 ひと呼吸置いて高山はポケットから携帯電話を取り出した。
 震える手を意志の力で制御して、アドレスを参照しボタンを押す。
 連絡先には数度の呼び出しで繋がった。
 ゆっくりと息を吸い込んで高山は名乗り、電話先の相手に向かって包み隠さずすべてを伝えた。
 とある覚悟を胸中に抱いたままで。
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フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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