ミッドナイトウルブス

石田 昌行

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五章:ワインディング

第二十九話:教え子たち、それぞれ

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 高山正彦が八神街道へ通うようになってから、およそ半月ばかりが経過していた。
 専門の講師が関わらないいわゆる私的なセミナーであるとはいえ、翔一郎が伝えてくるその内容は、初心者である高山にとって十分過ぎるほど高いレベルのそれだった。
 運転中の視点の置き方から始まり、基本的な荷重移動、旋回時における姿勢制御、そして無駄のない加減速に至るまで──…
 ドライビングというものがどれほど奥深く、そして知的能力を要求されるものなのかを、彼は文字どおり思い知った。
 眼から鱗が落ちるとはまさしくこのことであった。
 その日、予定されたレクチャーがひと段落したあと、空いた小腹を満たすために翔一郎と高山は「宗義」のラーメンをすすっていた。
 お代は翔一郎のおごりだった。
 高山は、「むしろこっちが支払う立場です。それが駄目なら、せめて自分の分だけは自分に支払わせてください」と主張したのだが、翔一郎は「未成年はオトナにたかるもんだ」と言ってのけて、彼に財布を開かせようとはしなかった。
 翔一郎の講習は、実際にクルマを走らせて行うものと、座学のように言葉で語るものとが互い違いに訪れる。
 まるで科学の実証実験のようだった。
 いや、どちらかというとそれは、哲学の講義にこそ近かったかもしれない。
 「経験に裏打ちされていない理屈は机上の空論に過ぎないし、理屈で説明できない経験は自己満足に終わる場合が多々ある」と翔一郎は高山に語った。
「まあ、要するに、だ。頭と身体をバランスよく鍛えろよってことだね」
 なるほど、と頷く高山。
「じゃあ、壬生さんの理屈だとクルマで速く走るコツってどんなのですか?」
「そりゃ簡単だ」
 高山の質問を予期していたかのように、翔一郎はさらりと答えた。
「短い距離を速いスピードで走ることだよ」
 あたりまえのことをあたりまえのように言う翔一郎の魂胆を図りかねて、高山が言葉を失う。
 それを確認した翔一郎は、軽く破顔して解説を続けた。
 クルマの走行スピードを制限する理はふたつある、と翔一郎は述べた。
 ひとつは物理的限界で、もうひとつは心理的限界だと。
「心理的限界、ですか」
「そうさ」
 翔一郎の言う物理的限界というものは高山にもある程度の理解はできた。
 要するに、一定の行程を辿って走行できるクルマの最高速度は物理法則を超えられないという、言を待たない事柄だ。
 ただ、翔一郎が口にした物理的限界という言葉には、少々禅問答的な意味合いがあった。
 彼は、ドライバー固有の技量というものを、ある側面においてきっぱりと否定してのけたのである。
 翔一郎に言わせると、細かい操作の積み重ねによるタイム削減を別にすれば、クルマの性能が同じである限り最良のドライバーが走った行程を標準的なドライバーがトレースできない制限など存在しないとのことだった。
「ドライバーのテクニックって奴は、物理法則を超えてクルマを制御できるわけじゃないからね。プロがそいつをできるのなら、それは必ずほかのひとにもできるはずなんだ」
 高山が頷いた。
「でも、現実にはそうじゃない。つまり、上手下手ウマヘタを分ける最たる要因は、行き着くところ物理的なものじゃないってことさ」
 ここで翔一郎は奇妙な質問を高山に発した。
「地面に引いた幅三十センチのラインを外さずに百メートル歩ききったら十万円あげる、って言われたら、君はそれを拒絶するかい?」
 「いいえ」と高山は即答した。
 その理由を尋ねた翔一郎に彼は、「そんな誰でもできることで大金がもらえるなら、やらない奴はいないと思います」と応じた。
 それを聞いたうえで、さらに翔一郎はこう言った。
「じゃあ、その三十センチ幅のラインが地上三百メートルにある鉄骨だったら、どうだい?」
「え」
 高山は絶句した。
「与えられた条件は何も変わらないよ」
 いたずらっぽく翔一郎が笑う。
「幅三十センチを外さずに百メートルを歩ききる。君がさっき言ったように、誰だってできる簡単な行為だ。ためらう必要はどこにもないはずだけどね」
「でも、落ちたら死にます」
「それが心理的限界だよ」
 翔一郎は言った。
「人間は、能力的に可能な行為であってもそこにリスクが存在すれば、自分の中で天井を造って『できないもの』と考えてしまう。それを取り除くには、地道な練習で自分自身の壁を崩す必要があるのさ。
 君にだって経験があるはずだ。免許取り立ての頃といまの自分を比べて見ればいい。当時は四十キロ出すのも怖かったはずなのに、もう平気な顔してずっと速い速度も出せているだろ?」
「要するに『慣れ』ですね」
 高山が頷いて言った。翔一郎がそれを肯定する。
「そうだ。そして、それは『自分を信じること』と言いかえてもいいだろうね」
 心底納得したような面持ちで、ふたたび高山は大きく首肯してみせた。
 翔一郎と出会うまでの高山にとって、いわゆる「走り屋」という人種は、完全に「アウトロー」という枠で括られている存在だった。
 派手で悪趣味なクルマに乗り、集団で公道を爆走する不貞の輩。
 暴走族とイコールだったと言ってもいい。
 ドライビングを知的遊戯の一種として認めつつある彼であったが、その認識だけは依然として払拭できずにいた。
 だから、ふと思った。
 なぜこのひと翔一郎は走り屋なんかになったのだろう?
 とてもあんな連中走り屋どもと同じようには見えないのに。
 湧き上がる疑問を押さえきれず、高山はつい不躾な質問を口にしてしまった。
 唐突に発せられた高山からの問いかけに、翔一郎は伸ばした箸をしばし止め、続いてじっと考え込んだ。
「走り屋になった理由、か」
 うまく言葉にできないのか、小さく唸りながら彼は答えた。
「快感、だったからかな。走るのが」
「クルマで飛ばすのが、ですか?」
「いや、自分の中のハードルを越えるのが、だな」
「自分の中のハードル?」
 翔一郎は頷いた。
「こう見えて、俺も学生時代はスポーツをやっていたのさ。たいした成績でもなかったけどね。それでも、膝を痛めて引退を強制されたのは結構ショックだった」
 クルマに出会ったのはそんな時だった、と翔一郎は続ける。
「頑張って練習して昨日の自分よりも速く走れたこと。昨日の自分よりもうまくクルマをコントロールできたこと。そいつがな、楽しくて楽しくて仕方がなかった。気が付けば変なふたつ名付けられて有名になっていたけど、正直な話、他人との競争なんて端から眼中になかったな」
 いつだって、戦う相手・比べる相手は昨日の自分だったよ、と彼は結んだ。
 その心理は、高山にも理解できた。
 スポーツを志す者は、多かれ少なかれそういった思いを胸に日々の練習で多量の汗を流しているはずだ。
 なんとなくだが、走り屋という連中のことを理解できたような気が、高山にはした。
 もちろん、その全員に当てはまるわけではないのだろうが、彼らもまたある意味でアスリートたるを目指しているのだと。
 この時、高山は、さほど親しくもない若造の、それもいささか礼を失した質問にまでまっすぐな答えをくれた翔一郎に、明確な尊崇の念を覚えた。
 と同時に、見たこともない対戦相手に勝ちたいと思っている自分は、いったい何を目指しているのだろう、と軽い自己嫌悪を感じてもいた。
 そしてその嫌悪感は、日を改めたのちも彼の中で完全に消え去ることがなかった。

 ◆◆◆

 日曜日の朝。
 眞琴は極めて不機嫌だった。
 その不機嫌さの理由となった翔一郎は、だがひととおり大笑いしたうえで、きっちりとフォローを入れることも忘れなかった。
「いや、笑っちまったことは謝る。すまなかった」
 傍らの「CR-X」を横目で見ながら、彼は言った。
「だが、ZCのCR-Xも十分に名車だぞ。俺が保証する」
 それは、早朝のことだった。
 愛車CR-Xの足回りがゴトゴトする、という眞琴の訴えを聞いた翔一郎が、彼女を助手席に乗せて週末の八神街道へと繰り出したのだ。
 さすがに日曜日ともなれば、明るい時間帯であってもクルマの通りはほとんどない。
 見晴らしのいい直線区間で翔一郎がぐっとアクセルを踏み込んだ時、それは判明した。
「おかしいな。カムが切り替わらない」
 高回転時のエンジンフィールに違和感を覚えた翔一郎は、大事を取って路肩にクルマを停止させた。
 EF-8型「CR-X」がボンネット下に搭載しているB-16Aエンジンは、ホンダが開発したV-TECブイテック機構を装備していることでNAとは思えぬ大出力を発揮していた。
 V-TEC機構とは、エンジンの低回転域と高回転域とで吸気バルブの開閉時間とリフト量とを変化させ、それぞれで最良の効果が出るよう調整を行う技術のことである。
 そのため同機構を持つエンジンは、ある一定の回転数を境にして、エンジンフィールが激変するはずなのである。
 だが、眞琴の「CR-X」にはそれがなかった。
 カムの切り替えがまったく感じられず、あたかも普通のエンジンのような滑らかなフィーリングを発揮したのだ。
 力感も、公称値から予想されるそれより、ひとまわりほど貧弱なように思える。
 元々が年代物の中古車ゆえ、翔一郎はエンジン系のトラブルを予想した。
 ボンネットを開け、エンジンルームを覗き込む。
 彼が声をあげて笑い出したのは、その瞬間のことだった。
 何が起こったのか、と助手席から飛び出してきた眞琴に向かって、翔一郎はエンジン本体を指さし告げた。
「眞琴。こいつはB-16AじゃなくってZCだ」
 ZC型エンジンとは、本田技研興業が開発した八十年代を代表するスポーツエンジンのひとつである。
 F1からの技術をフィードバックされた同エンジンは、トヨタの4A-G型エンジンと激しいライバル関係にあったと言える。
 ダッシュボードを開けて車検証を取り出した翔一郎は、それを眞琴に提示してわかりやすく説明した。
 この「CR-X」は、EF-8じゃなくてEF-7なんだ、と。
 早い話、眞琴の愛車は彼女が考えていたものよりもひとつ前の型だったというわけだ。
 さすがの眞琴も、これにはかなりのショックを受けた様子だった。
 驚きの表情を浮かべたまま、身動ぎひとつしない。
 まあ、それもやむをえない反応だろう。
 百六十馬力を発揮するB-16Aと比較すると、いかに名器とはいえZCのそれはわずか百三十馬力に留まる。
 最大出力が三十馬力も違えば、その力強さには文字どおり雲泥の差があるはずだ。
 それは、走りの性能を重視してクルマを選んだ眞琴にとって、極めて重大な意味を持つ。
 しょせんは中古車であるとはいえ、それでもやはりクルマはクルマ。
 高い買い物なのだ。
 ましてや眞琴は現役の高校生。
 金銭の重みは、一般的な社会人の比ではない。
 現実を認識するにつれ、彼女の顔に失望感が滲んできた。
 その膝からは、いまにも力が抜けそうな雰囲気だ。
 このままでは、眞琴が地面にへたり込むのも時間の問題であっただろう。
 しかし、すかさず翔一郎がそれを阻んだ。
 彼はむしろEF-7型の長所を高々と謳いあげ、それを手に入れた眞琴の幸運を本気で賞賛したのだった。
 B-16Aは高回転域での出力に優れ、競技の場では確かにZCが及ぶものではない。
 ただし、ZC型のエンジンは実用域でのトルクに勝り、峠道ワインディングが舞台であれば優位な点もいくつかある。
 何よりも、EF-7はEF-8と比較して百キロばかり軽量だ。
 ダウンヒル区間であれば、これは馬力差を十分に補えるメリットになる。
 などなど。
「本気でいい買い物したと思うぞ、眞琴」
 自信満々に翔一郎は言い切った。
こいつEF-7AE-86ハチロクと同じさ。走り屋が腕を磨くには最適のクルマだよ」
「そう、かな?」
 それでもまだ不満げな顔付きの眞琴を、翔一郎は畳みかけるように説き伏せる。
「使えない大馬力よりも使い切れる低馬力さ。だいたい、おまえはまだ若葉マーク付きなんだ。四の五の言わず、まずはこのクルマでガンガン走り込んでみな。馬力云々はそれから考えても遅くはないぞ」
 煮え切らない眞琴を振り切るようにして、翔一郎は「CR-X」の運転席へと乗り込んだ。
 足回りからの異音問題が未解決のまま残っているからだ。
 眞琴を助手席に積み込むや否や、さっさとクルマを発進させる。
 この手の違和感は実際に発生させてみないと何が原因かわからないことが多い。
 実走で再現する必要があった。
 原因はたちまち判明した。
 スタビライザーの取り付けボルトが緩んでいたのだ。
 過走行車なので、こういった部分のトラブルはある意味仕方がないと言える。
 八神街道から帰還した翔一郎は猿渡家前の往来を借り、「CR-X」をジャッキアップして馬にかけ、手の届く範囲にあるボルトやナットを片っ端から締め上げていった。
「サンキュ、翔兄ぃ」
 作業終了を待っていたかのように、眞琴が入れ立ての熱いコーヒーを持ってきた。
「翔兄ぃがいてくれて助かったよ。ボク独りじゃクルマ弄りなんてできそうもないし」
「できない作業をショップに頼るってのは悪いことじゃないぞ」
 湯気の上がるコーヒーカップを口に運びながら翔一郎は言った。
「餅は餅屋、だからな。自分のクルマだから全部自分で手をかけないといけないってわけじゃない。腕のいい店に任せるのも選択肢のひとつだ」
 眞琴は無言で頷いた。
 しばらく会話のない時間だけが過ぎていく。
 やがて、コーヒーを飲み干した翔一郎が思い出したように切り出した。
「こいつがV-TECじゃなくて不満か? さっきも言ったが、こいつはこいつで十分以上に楽しめるクルマだと思うぞ」
「正直に言うと、そうだと思う」
 隠し立てせず眞琴は答えた。
「やっぱり走るクルマにはパワーが大事だよ。ボクは、リンさんみたいなになってみたいから」
「強くなってどうすんだよ、まったく」
 呆れ顔で翔一郎は言った。
「走りなんて身の丈に合わせた自己満足で十分だと、俺は思うがね」
「う~ん、よくわかんないや」
 眞琴は、翔一郎の発した言葉に自嘲気味な笑顔で応えた。
「でも、ボクはで高みを目指したいと思ってる。うまく言えないけど、走り屋じゃなくって、走り屋って呼ばれたい」
「強さ、ねえ」
 仕方がない奴だ、とばかりに翔一郎は膝を払って立ち上がり、諭すように眞琴へ告げた。
「それが望みだって言うのなら、できない責任をクルマに求めちゃ駄目だな。おまえの相棒が実際どれだけ走れるのかを確認してやるから、今晩顔貸せ」

 ◆◆◆

 その夜、ノーマルに等しい眞琴の「CR-X」を駆って八神街道を攻めた翔一郎は、たまたまちょっかいを出してきたEK-9型「シビック・タイプR」、すなわち戦闘力に勝る同系のクルマをいとも容易くぶっちぎってみせた。
 しかも、所有者本人を助手席に乗せたままというウェイトハンデを背負ってだ。
 それからのち、眞琴が自らの愛車に不満をもらすようなことは一度もなかった。
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