ミッドナイトウルブス

石田 昌行

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四章:ロックアップ

第二十五話:魔法の真価

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「近いッ! すぐそこのコーナーまで来てるッ!」
 ギャアアッ、という凄まじいスキール音を耳にして、興奮気味に眞琴が吼えた。
 彼女の立つ位置からは、まだヘッドライトの灯りを確かめることなどできはしないが、それでもなおその推測に誤りがあるとは思えなかった。
 おそらく十秒も経たぬうちに、二台のクルマが少女の眼前を通過することとなるだろう。
 だからこそこの時、倫子も純も、眞琴の言にあえて異を唱えるような真似はしなかった。
 されど同意の意志を示すこともなく、ただじっと息を呑みつつ街道の先へと視線を送る。
 パワーに劣る「レガシィ」で二階堂の「エボキュー」を抜くには、相手よりもずっと速いスピードでコーナーから飛び出すしかない──冷め切りながらも熱い頭脳で、倫子は推論を弄んだ。
 そうしなければ、加速力の差はカバーできない。
 でもそうすることが叶えば、次のコーナー入り口で敵の真横に並ぶことができる。
 問題は、どんな手段でもってその結末を導くかだ。
 ほんの数秒の間に、彼女の脳裏を無数の予想が通り抜ける。
 だがしかし、倫子はそのいずれをも我が手で掴もうとはしなかった。
 むしろ、それ以外の現実を、身をよじらんばかりに熱望した。
 さあ壬生さん、「魔術師」のお手並みとやらを拝見させてもらいましょうか。
 絡み合う二対の光源がコーナーの向こうから飛び出してきたのは、「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」がそう呟いてみせたのとほとんど同じタイミングだった。
 鋭角的なスキール音とエキゾーストノートとが耳朶を震わすハーモニーを奏でる。
「来たァッ!」
 またしても眞琴が声を迸らせた。
 胸の前でぐっと両手を握りしめる彼女の視界に、インベタで立ち上がる「ランエボ」と遅れてそれに追従する「レガシィ」の姿とが飛び込んでくる。
 双方の車間距離は、クルマひとつかひとつ半分といったところ。
 遅れているとも喰らい付いているとも言い切れない、少し微妙な間隔だ。
 そんな両者が飛び出した先には、長いとは言えないまでも確実にスピードの乗る直線区間が存在していた。
 眞琴たちが陣取っているコーナーは、その週末地点だと言っていい。
 これがサーキットであるなら、高速シケイン減速区間とでも評すべき配置である。
 その短いストレート部分を利用して、二階堂の「ランエボ」が怒濤のように加速した。
 おのれに有利なこの場所でなお少しでもマージンを稼ぐべく、四つのタイヤに鞭を入れる。
 センターラインを跨いで駆ける鉄の騎兵の鼻先が、たちまちのうちにコーナー入り口へと差し掛かった。
 常軌を逸した凄まじい速度だ。
 伊達に「公道の戦闘機」を他称されているわけではない。
 「魔術師」の「レガシィ」は、追従できずこれに遅れた。
 紛れもないマシンスペックの差によるものだ。
 パワーも、セッティングも、履いたタイヤのグリップも、速さを支えるありとあらゆる条件が「現実リアル」の有利に働いていた。
「ああ、駄目だァ」
 それを見た純の口から、思わず諦めの言葉がこぼれ出た。
 馬の備えた実力の違いが、いま誰の目にもわかる形で具現化しようとしているのだ。
 よほどの楽観主義者オプチミストでない限り、それはまず仕方のない反応であった。
 だがこの時、眞琴の、そして倫子の目線は、後退する黒いセダンレガシィB4になど向けられてはいなかった。
 彼女らふたりが注視していたもの、それは刹那にみせた「レガシィ」の挙動変化、それ自体であったのだからだ。
 「レガシィ」が外に動いた!
 コーナリングラインが「ランエボ」と違う!
 言葉に出さず眞琴は叫んだ。
 「魔術師」の愛車が「エボキュー」を追ってコーナーに突入したのは、まさしくその瞬間の出来事だった。
 コーナリングにともなう摩擦音が轟き、観客たちの耳を鋭く貫く。
 差し込みを警戒したミドル・イン・イン、しかも側溝に気を配った窮屈なラインを行くエボと比較し、「レガシィ」のそれは、道幅を目一杯使った教科書どおりのアウト・イン・アウトだった。
 否が応にも進入速度は高くなる。
 互いの車間距離が見る見るうちに削り取られた。
 だがその流れは、敵の優位を揺るがすものでは決してなかった。
 むしろここからがハイパワー四駆ランエボの真骨頂なのだと言っていい。
 四つのタイヤがそろって路面を蹴飛ばす時、これを追跡できる市販車などは、この世にそうそう存在しまい。
 力こそ正義。
 剛よく柔を制す。
 ある意味それは、クルマの形をしたマッチョイズムの表れだ。
 そしてその事実を、二階堂の「エボキュー」は、これまで幾度となく証明してきた。
 無論、過去の実績だけではない。
 今回のバトルにおいても、まったく例外なく、である。
 だからこそ、「弾丸野郎バレットクラブ」は、おのれの愛馬を疑わなかった。
 その戦力に全幅の信頼を預けた。
 それが絶対の真実であると盲信し、すべてのチップを躊躇すらせず注ぎ込んだ。
 速い者、優れた者のみがバトルにおいての勝者となり得る。
 それはこの男ただひとりではなく、ほとんどの走り屋が等しく抱いていた、いわば常識にさえ近い漠然とした感覚だった。
 しかしながらひとの世は、そういっただけで作り上げられているわけではない。
 少数とはいえ、神の寵愛を受けた人物は確実に存在する。
 そして、そんな彼らの手腕が信じがたい結末を現出させたおり、畏怖を覚えた人々は短い言葉でそれを表す。
 翔一郞のB4が高速でクリッピングポイントを通過した瞬間、「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」三澤倫子が口にした、その二文字がそれだった。
 魔術マジック
 戦慄に身を震わせつつ彼女は呟く。
 その直後、この場に居合わせたすべての者が──そう倫子だけではない。眞琴も、純も、それ以外のギャラリーたちも、全員が全員、想定外の現実というものを目撃した。
 山肌を一気呵成に切り裂いた「レガシィ」のノーズが、増速する「ランエボ」と縁石との間に稲妻のごとく割り込んだのである!
 パワーで劣るB4が、コーナー立ち上がりでエボに並んだァ!?
 いったい何が、何が起きたァッ!
 驚愕に目を見開いたのは、何も彼女たち部外者ギャラリーだけではない。
 当事者本人である「ランエボ使い」の男もまた、その例外の立場にはいられなかった。
 マシンの実力に絶対の自信を持っていた二階堂は、この時、「レガシィ」の動きにまったく注意を払ってなかった。
 とはいえ、それを「油断」と決めつけるのは、いささか早計に過ぎるだろう。
 なぜならば、この状況下における自己の優越は、この男にとり文字どおり鉄壁のレベルに近かったからである。
 平和な都市部を行く若者が、物陰に潜む野獣の脅威を果たして警戒するだろうか?
 立ち上がりにおけるエボの優位は、いわばそれほどのものだった。
 そしてそれは、このバトルにおいてでさえ何度となく立証されてきた、そんな代物なのであった。
 明々白々の結果に基づく、理に適っているはずの優しい怠慢。
 されどその選択は、「弾丸野郎バレットクラブ」に極めて手痛い失点を与えた。
 青天の霹靂とはまさにこのことか。
 おのれの左に差し込んでくる黒いセダンレガシィB4の姿を見た時、二階堂の頭は軽いパニック状態に陥った。
 大脳が現実認識を拒絶する。
 な……んだとォッ!
 声にならない絶叫が、その口腔から迸った。
 いってェ何が、何が起きたっていうんだァッ!?
 凄まじい驚愕が、状況の把握を妨害した。
 コンマ数秒にも満たないわずかな空白。
 二階堂を支える走り屋としての本能が、彼の負けん気を無意識のうちに突き動かした。
 右足になお一層の力がこもり、彼の「エボキュー」は力任せに相手の進路を押さえにかかる。
 だがそれこそがふたつ目の、そして決定的な失策となった。
 次のコーナー入り口に、併走しながら突入する二台のクルマ。
 もし二階堂がいつもどおりであったなら、とてもでないがこんな選択はしなかったであろう。
 いったん後退して「レガシィ」のバックに付き、虎視眈々と再度抜き返すチャンスをうかがったはずだ。
 しかし混乱した彼は、その合理的判断を下せなかった。
 愛馬エボのパワーにすべてを賭けて、大外から無理矢理に敵の前へと出ようとする。
 感情のみに誘引された、あまりに無謀な決断だった。
 いかに「エボキュー」の性能が相手のそれより優れていても、コーナー内側という圧倒的な位置の有利は軽々にひっくり返せるものではない。
 二階堂がさんざん謳ってきた物理法則の限界が、今度は自身に牙をむいた。
 遠心力に抗し得ず、エボのタイヤが悲鳴を上げる。
 無理な突っ張りが生み出した典型的なアンダーステア。
 王者としてはあまりに無様な光景が、その瞬間に発生した。
 そんな敵手を置き去りにして、一気に加速していく「魔術師」のB4。
 唖然としたままひと言もしゃべらないギャラリーたちの見ているさなか、赤く輝くテールランプが闇夜の向こうに消えていく。
「これが、翔兄ぃの……『八神の魔術師』の……実力?……」
 一度大きく身震いしたのち、ぐっと両手を握った眞琴は、それを頭上に突き上げた。
 「やったァッ!」と大声を張り上げ、身体全体で喜びを表す。
 他人の視線が集まることなど、気にも留めてない様子だった。
 続けざま、矢も楯もたまらずといった風情で彼女は倫子に絡みつく。
「凄い凄い凄いッ! ホントに凄いッ! 凄すぎるッ! ねェ、リンさん! このバトル、これからいったいどうなっちゃうんですかッ!?」
「どうにかなるわけないじゃない。これでオシマイ」
 滾る少女とは対称的に、冷めた態度で倫子が応じた。
 まるで教え子を諭す教師のごとき口振りで、彼女は自説を主張する。
「いまので、走り屋としての格付けが済んじゃった。もう今晩の二階堂じゃあ壬生さんを抜けない。完全に『勝負あった』、よ」
 バトルの結果を、倫子はきっぱり請け負った。
 戦いは下駄を履くまでわからないというのに、この段階で一方翔一郞の勝利を明言している。
 客観的に見れば、それは偏っているとさえ評し得る予想だ。
 だが眞琴はおろか、それを聞いていたギャラリーたちの誰からも、これに対する反論はただひと言も漏れ出さなかった。
 彼らもまた、等しく同じ感触をその胸中に抱いていたからである。
 「八神の魔術師」が現出せしめた鮮やかすぎる追い抜きオーバーテイクは、それほどまでに説得力あるものだった。
 軍配が「伝説」の側にこそ上がったとギャラリーたちが確信するのも、ある意味、当然の結末だと言えた。
「あのさァ、リン。あたし、どうしてもわかんないことがあるんだけど教えてくれる?」
 純の口から疑問符が飛び出したのは、それからすぐのことだった。
 どこか気まずそうにこめかみをかきながら、彼女は倫子に解説を求める。
「さっきのコーナリング勝負、壬生さんはどうやってランエボを抜いたの?」
 もっともな質問であった。
 「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」が困ったように首をすくめる。
「かなりの部分でわたしの推測が入りますけど、それでもよろしいですか?」
 口の端を綻ばせつつ倫子は告げた。
 もちろん、否と言う者はひとりもいない。
 皆が皆、彼女の言葉を聞き逃すまいと左右の耳をそばだてる。
「手品のタネは、たぶんこれよ」
 すたすたと道を横切りそう宣言した倫子の足下、とんとんと上下するその爪先のあたりを見て、眞琴は思わず声を上げた。
「側溝のフタ!」
「ご名答」
 さくっと応えて倫子は続ける。
「ご存じのとおり、八神表の中盤以降には山側部分に排水用の側溝があるわ。それもフタのない、むき出しの危ない奴がね。ところがなぜかこのコーナーの近辺だけには、こんな風にしっかりとしたコンクリート製のフタがある。壬生さんはね、これを利用したのよ」
「そっか!」
 ポニテの少女が柏手を打った。
「フタの付いた側溝部分を利用すれば、その分だけコーナーの内側を通ることができる。そうすればコーナリングラインの効率が良くなって、脱出速度が上がるって寸法なんだ」
「簡単に言えばそういうことね」
 倫子がすかさず補足を入れる。
「フタのある範囲が限定的だからいきなりやっても事故のもとでしょうけど、壬生さんには、あの『八神の魔術師』には全然それが可能だった。おそらく走り込みの差でしょうね。そしていったんそれができてさえしまえば、溝の幅三十センチにプラスアルファした分、たぶん五十センチ近くは二階堂より内側を走れる。もちろん、それでゲットできる速度なんてたかが知れてるでしょうけど、ギリギリのバトルじゃ、そのたかが知れてる速度だって莫迦にできたもんじゃないわ。でも──」
「でも?」
「でも、それだけじゃあ不十分。パワーに勝るエボキューに対抗するには、まだ足りない。ハンデを負わせて全力発揮できないようにさせなきゃ、五分以上には持ち込めないわ」
「……」
「純さん。さっきの場面、エボの走りに何か違和感を覚えませんでしたか?」
「えッ?」
 いきなりのタイミングで話を振られ、純は一瞬困惑した。
 それでも必死に思考を巡らせ、ひとつの答えを導き出す。
「そう言えば、コーナリングラインがアウト・イン・アウトじゃなかったわよね。まるで壬生さんのレガシィをブロックしてるみたいな感じで」
「それがエボにかかった足枷だったんですよ」
 あっけらかんと倫子は説いた。
「これはもう半分以上わたしの推測に過ぎないんですけど、たぶん壬生さんは、ここまでのやりとりの中で二階堂対戦相手にふたつの思い込みを強要したんです」
「ふたつの……思い込み?」
「ええ。ひとつは、『壬生さんにインを突かれたら抜かれるかもしれない』という思い込み。そしてもうひとつは、『インを突かれさえしなければ抜かれることはない』という思い込み。
 このバトルの序盤、二階堂は壬生さんの後ろに付けて、その実力をじっと吟味してたんだと思います。でも、何かの弾みでその内容が覆った。それは壬生さんのテクニックに関するものなのかもしれませんし、B4のスペック的なものなのかもしれません。とにかく、二階堂が壬生さんの前に出たあと、その中で何か心理的な変化が起きたんだと思います。
 『攻めて勝つ』から『守って勝つ』って方向に」
「攻めから、守りに?」
「はい。もしさっきの二階堂に少しでも攻めっ気が残っていたなら、あそこまでイン側を締めるラインは取らなかったと思います。窮屈で速度の乗らないミドル・イン・インじゃなくって、スピード重視のアウト・イン・アウト。そのラインを選んで小細工なしの真っ向勝負を挑むことこそが、あの時のランエボと二階堂にとって、『攻めて勝つ』にはベストの選択であったはずです。
 仮に二階堂がその戦術を選んでいたなら、少なくともさっきみたいな醜態は、まず晒さなかったことでしょう。Sタイヤとランエボとの組み合わせをまともに相手できるほど、壬生さんのB4に戦闘力はありませんからね。
 もちろん二階堂も、九分九厘そうであるとわかってたでしょう。
 でも初めの思い込み抜かれるかも知れないがあったから、彼は一気に守りに入った。たった一厘のリスクを素直に看過できなかった。抜かれたくない、抜かれたら抜き返せないかもしれない、そんな不安にがっちりと、その心根を掴まれてた。
 そして、ふたつ目の思い込みが、そうした心理を後押ししたんです。おそらくですけど、このバトルの中で何度も実証できてたんじゃないでしょうか。インを締めながらのコーナリングでも余裕でB4を突き放せる、自分のクルマの加速力を。
 そこで彼は誘惑に負けた。だったら無理に危険を冒す必要はない。徹底的に相手のラインを潰せれば、振り切ることはできなくっても抜かれることもないはずだ。そうした守りの戦法が、今回、二階堂の中に確立した勝利のための方程式だったんですよ」
「だけど……その方程式がひっくり返った」
 呆然とした表情で、純がそのあとを受け継いだ。
「あの側溝のフタを利用した壬生さんのコーナリングが、二階堂の前提を突き崩した……」
「ですね」
 倫子はそれを首肯する。
「その勝利のための守備重視が実は自分にかけた足枷だったってことに、彼はまったく気付いてなかったんです。見かけによらず堅実な性格だったのかもしれません。でもとにかく、あの男は自分のテクと自分の愛車とを本当のところで信じてやることができなかった。リスクを払って勝利を掴む、その選択をできなかったんです。
 相手のいないタイムアタックならそれでも良かったんでしょうけど、ハードなバトルでそんな温さは通用しない。ましてや、その相手があの『伝説の魔術師』とくればなおさらのこと。結局のところ、単に速いだけの走り屋だったってことですよ、二階堂和也って男は」
 眞琴を初めとするギャラリーたちは、そんな倫子の解説を惚けたままで聞いていた。
 異論を挟む人間は誰もいない。
 仮にそのような者がいたとしても、それを口に出せるような雰囲気では到底なかった。
 だからであろう。
 数秒後、不意に声を上げた純の存在は、完全無欠に浮き上がったものとなった。
 周囲の目線が彼女ひとりに集中する。
 にもかかわらず、純は発言を止めなかった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ、リン!」
 おのれの気付きに仰天し、目を見開いて彼女は尋ねる。
「っていうことは何!? 壬生さんは、『ミッドナイトウルブス』のミブローは、バトルが始まるずっと前からこの展開を目論んでて、それだからこそ、あらかじめあたしたちにこの場所を指定してきたっていうの!? 対戦相手が何考えるかまで完全無欠に読み切って、この場所でこうなるように、延々てのひらの上で転がしてきたっていうの!?」
 その質問に倫子は答えた。
 そういうことに……なりますね、と──…
「信じ……られない」
 それを聞き、改めてぽかんと大口を開ける純。
 口腔から飛び出した言葉が、眼前の「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」へと向けられる。
「次元が、違う……バトルの、バトルの次元が、あたしたちの思ってるのとは違い過ぎてる」
 続けざま、強い調子で彼女は言った。
「ねェッ! 勝てるの、リンッ!? こんなモンスター相手に、本当に勝つ気でいるのッ!?」
 その問いかけに、倫子は答えを返さなかった。

 ◆◆◆

 同じ頃、「和食処やまぐち」の駐車場にて二階堂和也は、対戦相手たる翔一郞の口から直々に手品の種明かしを聞いていた。
 「八神の魔術師」が蕩々と語るその内容は、倫子が眞琴たち相手に語ったそれとほとんど違いのないものだ。
 技術論とはとても言えない、むしろ兵学にすら近いその言葉。
 それを聞かされた二階堂もギャラリーたちも、半ば惚けたように立ちすくんだまま応じる言葉を持たなかった。
 人間とは、そもそもミスをする生き物である。
 その人間が行うものである以上、戦事いくさごとからミスの存在を除外することは不可能だ。
 むしろ、互いに連発するミスをどれだけ迅速にリカバリーできるかが勝負の行方を左右するのだと言ってもいい。
 油断、過信、困惑、誤認。
 翔一郞の指摘したそれらひとつひとつの陥穽は、実際のところ、ごくあたりまえに発生するちょっとした心理的過誤でしかない。
 だがしかし、その勃発するミスがことごとく相手の意志によって誘発されたものだとしたらどうだろう?
 相手の側が同等以上のミスを犯しても、それに付け込む隙間など探したところでどこにもあるまい。
 効果的なリカバリーはおろか、次に発生したおのれのミスに気付かない可能性すら存在する。
 ひとたびそんな状況下に陥れば、勝利の目などあろうはずもない。
 うまうまと弄ばれたことを認識し、二階堂は天を仰いで大笑した。
 おのれ自身の敗北を完膚なきまでに心得たからだ。
 負けた理由は、クルマを操る技量にはない。
 もっと大事なそれ以外の部分、そう、戦いの本質を理解していなかった自分の甘さにこそあると、彼は本能的に悟ったのである。
「負けた負けた。完敗だ」
 どこか晴れ晴れした顔付きで二階堂は宣言した。
「武勇自慢の猪武者が、知恵者軍師におもちゃにされたってわけか。そりゃあ、負けんのもあたりまえだな。刀振り回すだけの一騎打ちしか知らねェ筋肉莫迦ドン・キホーテが、遮二無二突撃して一人前に戦争やろうってんだ。きっちりやってる人間から見りゃあ、楽勝過ぎてお茶の子さいさいってところか」
「いや、そうでもないぞ。正直、紙一重の差だった」
 自虐的な「弾丸野郎バレットクラブ」に翔一郞がさらりと応えた。
「そもそもまともにやりあってたら、こっちに勝ち目なんかなかったからな。捨て鉢になってのはかりごとが、たまたま上手くいったってだけの話さ。もう一度やったらそっちが勝つよ。保証してもいい」
「へッ、慰め事にもならねェや」
 二階堂が鼻を鳴らして自嘲する。
「ひょっとしてあんた、芹沢の奴にも同じことを言ったのかい?」
「まあな」
「性格悪ィな、あんた。大のオトコが一番傷付くやりかたを知ってやがる」
「おいおい。そいつは誤解もいいところだぜ」
「自覚ねェのかよ。もっと悪質じゃねェか」
 「ランエボ使い」は言い切った。
 表情が崩れ、声の調子が一変する。
「ま、どうしてもそっちが誤解だって言い切るんなら、近いうちにこの俺と、もう一回バトルしてくれよ。そしたらその発言、信じてやらねェこともねェぜ」
「なんだ? もうリターンマッチの申し込みか?」
「当然だろ。俺はしつこいんだ。忘れたとは言わせねェぞ」
「悪いが断る」
 翔一郞は即答した。
「改めて言うけどな。俺は、金輪際バトルなんかする気はないよ」
「勝ち逃げかよ。冗談だろ?」
「前にも言ったろ? この俺は、とうのむかしに走り屋を引退した身だってな。だからもう、こっち走り屋の世界に関わるつもりなんてさらさらないんだ。申し訳ないが、リターンマッチの件は綺麗さっぱり諦めてくれ」
「なあ、ミブローさんよォ」
 そんな彼に二階堂が問いかけたのは、その発言からひと呼吸置いたあとの話だった。
 いかにもおそるおそるといった雰囲気でもって、「弾丸野郎バレットクラブ」は「魔術師」に尋ねる。
「あんたまさか、例の一件のこと、まだ引きずってんじゃねェだろうな?」
 翔一郞はその質問に答えなかった。
 その代わり、投げかけられた言葉を振り払うように、くるりとその場で踵を返す。
 「待てよ、おい!」と二階堂の声がその背を叩いた。
 視界から消えるまでのわずかな時間に、狼の表情がずしりと重く曇るのを、彼ははっきりと現認したのだ。
 二階堂の背中を、確信という名の衝撃が一直線に走り抜けた。
 歩み去る「伝説」に向け、追いすがるがごとく彼は言う。
あんたんとこミッドナイトウルブスのリーダーが死んじまったのは、もとよりあんたの責任じゃねェだろうが! なんであんたがそれを背負しょい込む必要がある!? おい、待てよ! 答えろよ、おい!」
 だが翔一郞は、その呼びかけに対し足を止めようとはしなかった。
 振り返ることもせず無言のままB4の運転席に乗り込むと、周囲のざわめきを無視してスターターを回す。
 やがて静々と発進した彼の「レガシィ」は、ギャラリーたちの視線を浴びつつ闇夜の向こうへと消えていった。
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