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四章:ロックアップ
第二十二話:伝説への敬意
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「MR-S」を駆る倫子が対向車のヘッドライトを認めたのは、彼女が駐車場をあとにしてからものの一分も経たないうちの出来事だった。
桜野市方向から街道を登ってくる煌々とした灯火。
曜日や時間帯のことを考えると、その光源は緑ナンバーのものとは思えない。
まず間違いなく、個人所有の自家用車のものだ。
それもおそらくは、この界隈を根城にしている走り屋絡みの連中の──…
たぶんあれは、翔一郞の「レガシィ」だ。
手持ちのネタを分析し、素早く彼女は推測した。
無論、そこに確固たる証拠があったわけではない。
しかし倫子は、その推測が間違っているなどとは微塵も思わなかった。
と言うより、それ以外の解答はないものと思っていた。
その一方で、彼女は自分の解答に、どこかもやっとした違和感をも覚えていた。
それは、「あれが翔一郞なのだとしたら、なぜ彼はわざわざ桜野市側から登ってきたのだろう」という、半ば疑問に近い感触であった。
武蔵ヶ丘市に居住する翔一郞の場合、より自宅に近い八神口側から登るルートこそが、八神街道に至る最短のコースである。
言い換えるなら、まるで反対側の登り口である九十九坂──すなわち桜野市側を選択すべき理由など、普通に考えればどこにもない。
その普通に考えればありえない状況が発生したということは、必ずそこに普通ではない意図が隠されているはず。
ではいったい、それはなんだ?
魔術のネタの最終確認をしてきたんだ。
接近してくる白い灯りを意識して見詰めながら、倫子は自問に自答した。
それが具体的にどのようなものであるのかはわからなかったが、それでも彼女は自分の答えに確信を抱く。
そして確信を抱いたからこそ、予想どおりの存在とニアミスした瞬間、愛車「MR-S」のコックピットの中で彼女は口元を綻ばせた。
件の「魔術師」がいま間違いなく本気であることを、はっきり悟ったからだった。
ワインディングを抜けた「レガシィ」が衆目の前に姿を見せたのは、それからほどなくのことであった。
ただし、エンジン音も高らかに、という雰囲気では決してない。
不等長エキマニ特有のドコドコ音も随分と控え目な感じだ。
少なくともそれは、目前にバトルを控えた戦闘機の持つ空気とは思えないものだった。
にもかかわらず、その妖しげな存在感はギャラリーたちの耳目を一瞬にして掌握した。
合理的な認識力のもたらした結果、では当然ない。
本能的な感応力が、そこから放たれる独特のオーラを敏感に察したゆえのことだった。
「来たぜ」
「あれが噂の」
期待に心臓を高鳴らせた数寄者たちが口々に呟く。
間を置かずパーキングエリアに進入して来たその黒色のセダンは、狙い澄ましたかのように敷地の一角で足を止めた。
あろうことかその場所は、二階堂の愛車の真ん前だった。
もはや誰が見てもわかるほどの、明白すぎる挑発行為である。
たっぷりと数秒の間、睨み合うような形で対峙する二台のクルマ。
ギャラリーたちの見守るなか、やがてその一方がひとりの男を吐き出した。
「八神の魔術師」壬生翔一郞。
彼は、目下の挑戦者を見付けるや否や、開口一番こう言った。
「待たせたみたいだな」
「なァに、時間どおりさ。別に謝るこたァねェよ」
不敵に笑い、「弾丸野郎」がそれに応える。
「お互いにいまさらっちゃあいまさらなんだが、一応礼儀としてだけ名乗っとくぜ。俺の名は二階堂和也」
「壬生翔一郞だ」
「『ミッドナイトウルブス』のミブロー……伝説の狼か。へへッ、さすがにいい顔付きしてるぜ、いまのあんた」
歓喜を隠さず二階堂は言った。
「いつぞやのふぬけた面とは段違いだ。たまんねェな、畜生。惚れちまいそうだぜ」
「お褒めにあずかり光栄至極」
おどけた調子で翔一郞が返す。
「しかし、エボⅨのMRとはねェ。寄りによって最強バージョンじゃないか」
「不満かい?」
「別に。ただ、そんなマシンにSタイヤ履かせてまでオートマのレガシィいじめようってのは、随分とまあ大人気ない話なんじゃないかな、と思ってな」
「生憎だが、アンフェアだとは思ってねェぜ」
歯をむき出しにして二階堂は告げた。
「なんたってあんたは、四百馬力のFDをそのオートマのレガシィで仕留めちまったオトコなんだからな。正直な話、これぐらいしたところで罰は当たらねェと思ってるよ。ま、言い換えりゃあこいつは、あんたに対する俺からの敬意の証ってところだ。こっちとしちゃあ、むしろ名誉だと思って欲しいくらいだぜ」
「ありがた迷惑、ここに極まれりってところだな」
頭をかきつつ「魔術師」が言った。
「じゃ、時間もないことだし、さっそく始めるとすっか」
数分後、ともに主を迎え入れた二台のクルマが、深夜の路上にくつわを並べた。
アイドリングするエンジンの音が、帳を破って静かに轟く。
左側の車線に停めた愛車。
その運転席に身体を収めた二階堂は、開けた窓越しに戦う相手を認めつつ、ゆっくり静かに息を吐いた。
興奮を鎮め、精神を落ち着かせる。
負けるわきゃねェ。
カウントまでの時間を利用し、彼は自分に言い聞かせた。
二、三度アクセルを空吹かしし、強く自身を暗示する。
その最大の根拠となったものは、互いのクルマの性能差であった。
同じ四駆のハイパワーセダンとはいえ、翔一郞の「レガシィB4」と二階堂の「エボⅨ」とではその走りの質に格段の差がある。
いみじくも以前「カイザー」の芹沢が述べたように、前者の本質は「走って楽しい実用車」であって、どれだけ手を加えようともその点だけは変えようがなかった。
しかし「ランエボ」は違う。
この日本を代表する「路上の戦闘機」は、WRC、世界ラリー選手権を勝ち抜くために調教された、文字どおり純粋極まる戦士の血統なのである。
そして二階堂の駆るCT9A型「ランサー・エボリューションⅨ・MR」は、そんな続種の九代目に当たった。
「Mitubishi Racing」を意味する称号「MR」を戴いたこのマシンは、カタログスペック二百八十馬力の強心臓でもって一.三トンのボディを軽々と引っ張る。
言うまでもなく、その戦闘力は圧倒的なものだ。
少なくとも、並のクルマの比ではない。
バケットシートに身を包んだ二階堂が、ぺろりと舌なめずりをした。
スターターを務める加奈子の存在を、ガラス越しに確認する。
「カウント行きます!」
右手を掲げて彼女が叫んだ。
五秒前!
四
三
二
一
GO!
タイヤを軋ませ二匹の野獣が前に出た。
荒々しいエキゾーストが、静かな山野に轟き渡る。
息を呑みつつその時を待っていた数寄者たち。
彼らの口腔から、思わず「おおッ」と声が上がった。
特段バトル初観戦の者でなくとも、この瞬間だけはとても興奮せずにはいられまい。
それはまさしく剣客同士の果たし合い、互いを賭けたその初太刀の激突にすら等しかった。
だが続く刹那、彼らの浮かべた熱情は、奇妙な疑惑に戸惑いを見せることとなる。
それは、目の前に出現した想定外の現実を、咄嗟に飲み込むことができなかったからにほかならない。
凄まじい速度で闇の向こうへ消えていく二台分のテールライト。
その経緯をただただじっと眺めながら、山本加奈子は呆然とした調子で呟いた。
「エボが……B4の後ろに付いた?」
なぜ?
どうしてそんな真似を?
咄嗟に湧き出た困惑は、時を経ずして疑問符と化した。
そして妥当な答えを得ないまま、それは、ギャラリーポイントにいる倫子のもとへと伝えられる。
「もしもし、リン? 私だけど、実はね──」
そんな現場からの連絡を倫子が受け取ったのは、下で待っていた眞琴たちと合流を果たした、ちょうどその矢先での話だった。
ただでさえ鋭さを帯びた彼女の瞳が、報告を聞いた途端、きらりと猛禽類のごとく輝く。
されど端から見えるその対応は、努めてクールなものだった。
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」と、どこか事務的な応答を返しただけで、指先が通話終了のボタンを押す。
「誰からですか?」
「加奈子さんから」
眞琴の問いに倫子は答えた。
「スタートダッシュで二階堂が壬生さんの後ろに付けたそうよ」
「エボがですか!?」
少女が両目を丸くする。
「いったいなんのために!?」
眞琴が驚くのも無理はなかった。
真剣勝負の常として、パワーに勝る側のクルマが最初の加速で前に出るのは、もはやセオリー以前の常識だからだ。
確かに翔一郞のB4は、過給圧を上げることによって三百馬力という存外の出力を絞り出している。
その数字だけを見るなら、間違いなく彼の愛車は、カタログ値二百八十馬力の二階堂の「エボⅨ」を出力面で凌駕していた。
だがカタログスペックは、あくまでもカタログスペックに過ぎない。
その実測値において、ランエボシリーズの搭載する4G63型エンジンは、目録の数字を若干上回っていることが常だった。
「インプレッサWRX」のEJ-20型、「スカイラインGT-R」のRB26型と並んで、かつての自主規制枠を有名無実化した張本人だとも言える。
おそらくだが、実車をそのまま計測器にかけた場合、発揮される数字はわずかに三百を超えるだろう。
圧倒的なトルクの違いも加味すれば、パワーにおける「エボⅨ」の優位性は、文字どおり鉄板とすら言ってよかった
もちろんそうした現実を、当の二階堂自身が知らないはずなど微塵もない。
ではなぜ彼は、自分からあえて不利なほうのポジションを選択したのか。
そのことについて、おのれの予想を倫子は説いた。
「つまり、それだけの自信を持ってるってことよ。ひとたび抜こうと思いさえすれば、自分はいつだって前に出ることができるんだって。たぶん勝負を賭けてくるのは中盤以降。それまではじっくりいまの位置をキープして、壬生さんの走りを丸裸にするつもりなんだわ」
「翔兄ぃの?」
「ええ」
軽く頷き倫子は言った。
「二階堂和也……見た目によらず慎重派だったみたいね。正直、暑苦しい直情莫迦だとばかり思ってたんだけど、これはどうやら認識を改める必要がありそう。もっとも、策士気取りが策に溺れるなんてことは、実戦じゃあよくあること。いまの余裕が後々命取りにならなけりゃいいんだけどね。ところで、純さん──」
彼女が話題を切り替えたのは、そのタイミングでのことだった。
言葉の矛先を純に向け、「青い閃光」が質問を放つ。
「壬生さんが教えてくれたその『とっておきの情報』ってのは、結局どんなのだったんですか?」
「うん。それがねェ」
困ったように純が答えた。
「ギャラリーするならここにしろって意味ありげに指定してきただけで、詳しいことはぜ~んぜん。はっきり言って、期待外れもいいとこだったわ」
「本当に、それだけだったんですか?」
「ここで嘘言っても仕方ないでしょ」
訝る質問者に彼女は告げた。
「一応ね、眞琴ちゃんが『どういうこと?』って突っ込み入れてはくれたのよ。そしたら、『ホンモノのバトルを見たかったら言うとおりにしろ』って軽くはぐらかされちゃってさ。こっちとしては、もっとこう『今日の魔術の種明かし』的なのを本人の口から直接聞きたかったのに、もらった言葉がそれじゃあねェ。ま、ご飯奢ってもらってる立場でわがまま言うのもなんだから、さすがにそれ以上の詮索はしなかったけどさ」
「ホンモノのバトル、ですか」
走り屋の顔付きで倫子が笑った。
おもむろに頭を振って、コースの流れに目を向ける。
いま現在、彼女らが立っているのは、やや大き目のカーブの外縁、車道に沿って走る歩行者道の部分である。
そこから見える光景は、ほぼ直角の中速コーナーだ。
雑草の生い茂る山の手の傾斜は、その内側に配されてあった。
八神表の長い坂を下ってきたクルマは、まずこの場所で右へと曲がり、次いで左の高速コーナーへと突入する。
展開としては、スピードの乗る直線から減速してのコーナリング、そしてパワーを生かした立ち上がり勝負に至るというラインナップだ。
少なくともそこは翔一郞にとって、いや翔一郞の愛車にとって地の利を得られるステージではない。
むしろ馬力に勝るランエボにとって、ここはおのれの戦場だ、と言い切ることさえ可能な舞台だ。
にもかかわらず、「八神の魔術師」はあえてこの場所を指定してきた。
その理由は改めて語るまでもあるまい。
彼にとっての勝因が、この場所にこそ眠っているからだ。
そしてその事実をわかっているからこそ、倫子はゆるりと上を眺めた。
数分後には目の前を通過するであろう黒いセダンのオーナーに対して、高まる想いを別の言葉で口にする。
「ありがたく拝見させてもらいますね、壬生さん」
彼女は言った。
口の端に、なお一層の凄みが増す。
その表情は紛れもなく、猛虎の備えたそれであった。
桜野市方向から街道を登ってくる煌々とした灯火。
曜日や時間帯のことを考えると、その光源は緑ナンバーのものとは思えない。
まず間違いなく、個人所有の自家用車のものだ。
それもおそらくは、この界隈を根城にしている走り屋絡みの連中の──…
たぶんあれは、翔一郞の「レガシィ」だ。
手持ちのネタを分析し、素早く彼女は推測した。
無論、そこに確固たる証拠があったわけではない。
しかし倫子は、その推測が間違っているなどとは微塵も思わなかった。
と言うより、それ以外の解答はないものと思っていた。
その一方で、彼女は自分の解答に、どこかもやっとした違和感をも覚えていた。
それは、「あれが翔一郞なのだとしたら、なぜ彼はわざわざ桜野市側から登ってきたのだろう」という、半ば疑問に近い感触であった。
武蔵ヶ丘市に居住する翔一郞の場合、より自宅に近い八神口側から登るルートこそが、八神街道に至る最短のコースである。
言い換えるなら、まるで反対側の登り口である九十九坂──すなわち桜野市側を選択すべき理由など、普通に考えればどこにもない。
その普通に考えればありえない状況が発生したということは、必ずそこに普通ではない意図が隠されているはず。
ではいったい、それはなんだ?
魔術のネタの最終確認をしてきたんだ。
接近してくる白い灯りを意識して見詰めながら、倫子は自問に自答した。
それが具体的にどのようなものであるのかはわからなかったが、それでも彼女は自分の答えに確信を抱く。
そして確信を抱いたからこそ、予想どおりの存在とニアミスした瞬間、愛車「MR-S」のコックピットの中で彼女は口元を綻ばせた。
件の「魔術師」がいま間違いなく本気であることを、はっきり悟ったからだった。
ワインディングを抜けた「レガシィ」が衆目の前に姿を見せたのは、それからほどなくのことであった。
ただし、エンジン音も高らかに、という雰囲気では決してない。
不等長エキマニ特有のドコドコ音も随分と控え目な感じだ。
少なくともそれは、目前にバトルを控えた戦闘機の持つ空気とは思えないものだった。
にもかかわらず、その妖しげな存在感はギャラリーたちの耳目を一瞬にして掌握した。
合理的な認識力のもたらした結果、では当然ない。
本能的な感応力が、そこから放たれる独特のオーラを敏感に察したゆえのことだった。
「来たぜ」
「あれが噂の」
期待に心臓を高鳴らせた数寄者たちが口々に呟く。
間を置かずパーキングエリアに進入して来たその黒色のセダンは、狙い澄ましたかのように敷地の一角で足を止めた。
あろうことかその場所は、二階堂の愛車の真ん前だった。
もはや誰が見てもわかるほどの、明白すぎる挑発行為である。
たっぷりと数秒の間、睨み合うような形で対峙する二台のクルマ。
ギャラリーたちの見守るなか、やがてその一方がひとりの男を吐き出した。
「八神の魔術師」壬生翔一郞。
彼は、目下の挑戦者を見付けるや否や、開口一番こう言った。
「待たせたみたいだな」
「なァに、時間どおりさ。別に謝るこたァねェよ」
不敵に笑い、「弾丸野郎」がそれに応える。
「お互いにいまさらっちゃあいまさらなんだが、一応礼儀としてだけ名乗っとくぜ。俺の名は二階堂和也」
「壬生翔一郞だ」
「『ミッドナイトウルブス』のミブロー……伝説の狼か。へへッ、さすがにいい顔付きしてるぜ、いまのあんた」
歓喜を隠さず二階堂は言った。
「いつぞやのふぬけた面とは段違いだ。たまんねェな、畜生。惚れちまいそうだぜ」
「お褒めにあずかり光栄至極」
おどけた調子で翔一郞が返す。
「しかし、エボⅨのMRとはねェ。寄りによって最強バージョンじゃないか」
「不満かい?」
「別に。ただ、そんなマシンにSタイヤ履かせてまでオートマのレガシィいじめようってのは、随分とまあ大人気ない話なんじゃないかな、と思ってな」
「生憎だが、アンフェアだとは思ってねェぜ」
歯をむき出しにして二階堂は告げた。
「なんたってあんたは、四百馬力のFDをそのオートマのレガシィで仕留めちまったオトコなんだからな。正直な話、これぐらいしたところで罰は当たらねェと思ってるよ。ま、言い換えりゃあこいつは、あんたに対する俺からの敬意の証ってところだ。こっちとしちゃあ、むしろ名誉だと思って欲しいくらいだぜ」
「ありがた迷惑、ここに極まれりってところだな」
頭をかきつつ「魔術師」が言った。
「じゃ、時間もないことだし、さっそく始めるとすっか」
数分後、ともに主を迎え入れた二台のクルマが、深夜の路上にくつわを並べた。
アイドリングするエンジンの音が、帳を破って静かに轟く。
左側の車線に停めた愛車。
その運転席に身体を収めた二階堂は、開けた窓越しに戦う相手を認めつつ、ゆっくり静かに息を吐いた。
興奮を鎮め、精神を落ち着かせる。
負けるわきゃねェ。
カウントまでの時間を利用し、彼は自分に言い聞かせた。
二、三度アクセルを空吹かしし、強く自身を暗示する。
その最大の根拠となったものは、互いのクルマの性能差であった。
同じ四駆のハイパワーセダンとはいえ、翔一郞の「レガシィB4」と二階堂の「エボⅨ」とではその走りの質に格段の差がある。
いみじくも以前「カイザー」の芹沢が述べたように、前者の本質は「走って楽しい実用車」であって、どれだけ手を加えようともその点だけは変えようがなかった。
しかし「ランエボ」は違う。
この日本を代表する「路上の戦闘機」は、WRC、世界ラリー選手権を勝ち抜くために調教された、文字どおり純粋極まる戦士の血統なのである。
そして二階堂の駆るCT9A型「ランサー・エボリューションⅨ・MR」は、そんな続種の九代目に当たった。
「Mitubishi Racing」を意味する称号「MR」を戴いたこのマシンは、カタログスペック二百八十馬力の強心臓でもって一.三トンのボディを軽々と引っ張る。
言うまでもなく、その戦闘力は圧倒的なものだ。
少なくとも、並のクルマの比ではない。
バケットシートに身を包んだ二階堂が、ぺろりと舌なめずりをした。
スターターを務める加奈子の存在を、ガラス越しに確認する。
「カウント行きます!」
右手を掲げて彼女が叫んだ。
五秒前!
四
三
二
一
GO!
タイヤを軋ませ二匹の野獣が前に出た。
荒々しいエキゾーストが、静かな山野に轟き渡る。
息を呑みつつその時を待っていた数寄者たち。
彼らの口腔から、思わず「おおッ」と声が上がった。
特段バトル初観戦の者でなくとも、この瞬間だけはとても興奮せずにはいられまい。
それはまさしく剣客同士の果たし合い、互いを賭けたその初太刀の激突にすら等しかった。
だが続く刹那、彼らの浮かべた熱情は、奇妙な疑惑に戸惑いを見せることとなる。
それは、目の前に出現した想定外の現実を、咄嗟に飲み込むことができなかったからにほかならない。
凄まじい速度で闇の向こうへ消えていく二台分のテールライト。
その経緯をただただじっと眺めながら、山本加奈子は呆然とした調子で呟いた。
「エボが……B4の後ろに付いた?」
なぜ?
どうしてそんな真似を?
咄嗟に湧き出た困惑は、時を経ずして疑問符と化した。
そして妥当な答えを得ないまま、それは、ギャラリーポイントにいる倫子のもとへと伝えられる。
「もしもし、リン? 私だけど、実はね──」
そんな現場からの連絡を倫子が受け取ったのは、下で待っていた眞琴たちと合流を果たした、ちょうどその矢先での話だった。
ただでさえ鋭さを帯びた彼女の瞳が、報告を聞いた途端、きらりと猛禽類のごとく輝く。
されど端から見えるその対応は、努めてクールなものだった。
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」と、どこか事務的な応答を返しただけで、指先が通話終了のボタンを押す。
「誰からですか?」
「加奈子さんから」
眞琴の問いに倫子は答えた。
「スタートダッシュで二階堂が壬生さんの後ろに付けたそうよ」
「エボがですか!?」
少女が両目を丸くする。
「いったいなんのために!?」
眞琴が驚くのも無理はなかった。
真剣勝負の常として、パワーに勝る側のクルマが最初の加速で前に出るのは、もはやセオリー以前の常識だからだ。
確かに翔一郞のB4は、過給圧を上げることによって三百馬力という存外の出力を絞り出している。
その数字だけを見るなら、間違いなく彼の愛車は、カタログ値二百八十馬力の二階堂の「エボⅨ」を出力面で凌駕していた。
だがカタログスペックは、あくまでもカタログスペックに過ぎない。
その実測値において、ランエボシリーズの搭載する4G63型エンジンは、目録の数字を若干上回っていることが常だった。
「インプレッサWRX」のEJ-20型、「スカイラインGT-R」のRB26型と並んで、かつての自主規制枠を有名無実化した張本人だとも言える。
おそらくだが、実車をそのまま計測器にかけた場合、発揮される数字はわずかに三百を超えるだろう。
圧倒的なトルクの違いも加味すれば、パワーにおける「エボⅨ」の優位性は、文字どおり鉄板とすら言ってよかった
もちろんそうした現実を、当の二階堂自身が知らないはずなど微塵もない。
ではなぜ彼は、自分からあえて不利なほうのポジションを選択したのか。
そのことについて、おのれの予想を倫子は説いた。
「つまり、それだけの自信を持ってるってことよ。ひとたび抜こうと思いさえすれば、自分はいつだって前に出ることができるんだって。たぶん勝負を賭けてくるのは中盤以降。それまではじっくりいまの位置をキープして、壬生さんの走りを丸裸にするつもりなんだわ」
「翔兄ぃの?」
「ええ」
軽く頷き倫子は言った。
「二階堂和也……見た目によらず慎重派だったみたいね。正直、暑苦しい直情莫迦だとばかり思ってたんだけど、これはどうやら認識を改める必要がありそう。もっとも、策士気取りが策に溺れるなんてことは、実戦じゃあよくあること。いまの余裕が後々命取りにならなけりゃいいんだけどね。ところで、純さん──」
彼女が話題を切り替えたのは、そのタイミングでのことだった。
言葉の矛先を純に向け、「青い閃光」が質問を放つ。
「壬生さんが教えてくれたその『とっておきの情報』ってのは、結局どんなのだったんですか?」
「うん。それがねェ」
困ったように純が答えた。
「ギャラリーするならここにしろって意味ありげに指定してきただけで、詳しいことはぜ~んぜん。はっきり言って、期待外れもいいとこだったわ」
「本当に、それだけだったんですか?」
「ここで嘘言っても仕方ないでしょ」
訝る質問者に彼女は告げた。
「一応ね、眞琴ちゃんが『どういうこと?』って突っ込み入れてはくれたのよ。そしたら、『ホンモノのバトルを見たかったら言うとおりにしろ』って軽くはぐらかされちゃってさ。こっちとしては、もっとこう『今日の魔術の種明かし』的なのを本人の口から直接聞きたかったのに、もらった言葉がそれじゃあねェ。ま、ご飯奢ってもらってる立場でわがまま言うのもなんだから、さすがにそれ以上の詮索はしなかったけどさ」
「ホンモノのバトル、ですか」
走り屋の顔付きで倫子が笑った。
おもむろに頭を振って、コースの流れに目を向ける。
いま現在、彼女らが立っているのは、やや大き目のカーブの外縁、車道に沿って走る歩行者道の部分である。
そこから見える光景は、ほぼ直角の中速コーナーだ。
雑草の生い茂る山の手の傾斜は、その内側に配されてあった。
八神表の長い坂を下ってきたクルマは、まずこの場所で右へと曲がり、次いで左の高速コーナーへと突入する。
展開としては、スピードの乗る直線から減速してのコーナリング、そしてパワーを生かした立ち上がり勝負に至るというラインナップだ。
少なくともそこは翔一郞にとって、いや翔一郞の愛車にとって地の利を得られるステージではない。
むしろ馬力に勝るランエボにとって、ここはおのれの戦場だ、と言い切ることさえ可能な舞台だ。
にもかかわらず、「八神の魔術師」はあえてこの場所を指定してきた。
その理由は改めて語るまでもあるまい。
彼にとっての勝因が、この場所にこそ眠っているからだ。
そしてその事実をわかっているからこそ、倫子はゆるりと上を眺めた。
数分後には目の前を通過するであろう黒いセダンのオーナーに対して、高まる想いを別の言葉で口にする。
「ありがたく拝見させてもらいますね、壬生さん」
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