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二章:ドッグファイト
第十二話:コークスクリュー
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そんな莫迦な。
もう何度目になるだろう。
芹沢は、うろたえたようにその言葉を口にした。
緩い下り坂のヘアピンを抜けた直後、本来なら垣間見る必要すらなかったバックミラーへと視線を移す。
それは、とうのむかしに振り切っているはずの存在だった。
いや、振り切るとか振り切らないとか、そういったステージにさえ立っていない相手のはずだった。
だが、後続するヘッドライトの光源は、あいかわらずそこにいた。
翔一郎の駆る「レガシィB4」
その姿を確認するたび、芹沢は血走った目で自問自答する。
クルマの性能では何ひとつ劣っていないはずだ。
パワー。
ウェイト。
サスペンション。
どれをとっても金と時間を湯水のように注ぎ込んで作り上げたこのFD-3Sが、奴のクルマに遅れをとっているとは思えない。
ならばどうして、どうして俺は奴を振り切れないんだ!?
クルマにこれだけの性能差があってもまだ及ばないほどに、俺の技量があのオッサンに劣っているとでもいうのか!?
そんなことのあるはずが、あっていいはずがないんだッ!
バトルの中盤から終盤に至る行程において、芹沢は序盤に稼いだ優勢を一気に吐き出してしまっていた。
それは、いままでの芹沢が一度も経験したことのない出来事だった。
ヒトは未経験の現実に直面した時、その精神に混乱をきたす。
精神面での混乱は冷静な判断力を奪い去り、一度喪失した冷静さはそうやすやすとは回復しない。
そして、そのことによって生じた失点は、限界域での運転という緻密な作業の繰り返しにおいて、誰の目にも明らかな失策となって姿を現すのである。
それは、場数を踏んだプロドライバーであっても例外ではなかった。
ましてや、それを生業としていないただの走り屋風情であるならば、なおさらのことだと断言できた。
腕はいいんだが、走り込みの量が足りないな。
立ち上がりでアクセルを踏み過ぎ、一瞬その姿勢を崩しかけた「RX-7」を後ろから眺めつつ、翔一郎は相手の状況を冷静に分析するだけの余裕を保っていた。
彼は、芹沢聡という走り屋が人並み外れたドラテクの持ち主であることを、十分以上に認識していた。
そうでなければ、卓越した運動性能と引き替えに乗用車としての安定を犠牲にしたFD-3S型を、あそこまで自在に振り回すことなどできはしまい。
少なくとも自分には、まったく無理な芸当だ、と。
だが同時に、その高い技量を十分に発揮できるだけの下地をいまの芹沢が保有していないということも、翔一郎はここまでの彼の走りを見て確信していた。
おそらく芹沢は、ろくすっぽ八神街道を走り込むことなくしてこのバトルに臨んだのだろう。
コーナーとコーナーとを繋ぐ処理の連携があまりにも教科書どおりで、とても現状に沿っているようには見えないのだ。
もちろん、それはそれで素晴らしい走行技術の片鱗ではある。
ただし、比較的平坦で路面もきれいなサーキットとは異なり、公道は時としてさまざまな顔色に変化する。
それは路面のアスファルトの新旧からくるグリップの違いかもしれないし、突如として現れる対向車の存在かもしれない。
そして、それらに対応するにはモータースポーツの参考書を鵜呑みにするだけではなく、場合によって応用を利かせる必要が生じてくる。
すべてのコーナーの処理が常にベストである必要はないのだ。
結果的に全体を短いタイムで走れるのならば、次のため、次の次のために「捨てる」コーナーだってあっていい。
だがいまの芹沢からは、そういった余裕がまったくと言っていいほど失われていた。
八神における走り込みが不足していることで具体的なコース図が描けていない彼は、直面した状況に対して場当たり的な対応しかできず、細々とした走行時間のロスを次々と生み出していたのである。
しかも、背後に迫る翔一郎の存在に気を取られるためなのか、「RX-7」の挙動に微妙な荒れが現れてきていた。
おそらくは、勝ちを焦っているのだろう。
だったら、開き直ってそれに徹すればいい。
ともかく先行しているのは自分なのだから、抜かれないことだけを考えて翔一郎の進路を妨害しながら走り抜けば、どうあがいても先にゴールするのは「RX-7」のほうだ。
自分ならそうするな――しかし、と翔一郎は続ける。
バトルの開始時、あそこまで見下し、莫迦にしていた対戦相手にそういった姑息な手段を講じることは、走り屋としての自殺に等しい。
テクニックで勝てなかったことを公言しているようなものだからだ。
これだけのギャラリーが見守るなか、仮にそんな方法で勝利を掴んだとしても、それは「勝ち」とはみなされないだろう。
積み重ねてきた実績も名声も地に堕ちる。
どんな言い訳も、たちまち圧殺されるに違いなかった。
だからこそ、普通に勝利を狙える限り、彼は真っ正直にこちらと競ってくれるはずだ。
そうなるようにあえて仕向けたのだから、素直に乗ってきてもらわないとこちらが困る。
そんな風に翔一郎は計算していた。
とはいえ、このまま後ろに付いていただけでは自分の勝利もありえない。
いかに芹沢がおのれのプライドを優越させていたとしても、それが最後まで続く保証はどこにもないからだ。
追い詰められた彼が最終手段を講じる前に、勝負を賭ける必要があった。
終盤戦。
なだらかな勾配が続く直線が目の前に現れる。
海外のサーキットコースにある有名なシケインにちなんで、地元の走り屋たちから「コークスクリュー」と呼ばれている区間だ。
下り坂のストレートは、やがて緩やかな左カーブを描きつつ、S字コーナー手前にあるスプーン状の変則百八十度右ヘアピンへと続く。
このヘアピンの終わりで局所的にきつくなる勾配が、その最大の特徴であった。
八神街道屈指の難所と評し得る。
無論、芹沢もその存在は認知していたことだろう。
だが、いまの彼はそれをどうこうするだけの心理的余裕を持ち合わせていなかった。
下り坂の直線で、馬力にモノを言わせて差を広げようとアクセルを踏む芹沢。
翔一郎の「レガシィB4」は四百馬力に抗し得ず、一気に後方へと引き離されていく。
バックミラーに映るヘッドライトが見る見る間に小さくなった。
それを現認した芹沢が、大きく胸をなで下ろす。
やはりパワーはこちらが上だ。
この直線で稼げるだけのマージンを稼いでやる。
逸る意識が、知らず知らずのうちにアクセルの踏み代を深くしていく。
13Bロータリーエンジンの奏でる勇ましい行進曲に乗せられるがごとく、銀色の「RX-7」は疾走した。
少しでも前に、少しでも前に。
その鼻先が、「コークスクリュー」の入り口へと差しかかる。
異変が生じたのは、まさにその瞬間の出来事だった。
後続するB4のヘッドライトが、バックミラーの中で、あっという間にその面積を広げてきたのである。
芹沢は驚愕した。
反射的に視線がそこへと引き寄せられる。
車間距離が縮まってるだと?
莫迦なッ!
そんなはずはないッ!
そのとおりだった。
ヘッドライトが大きく映ったのは、翔一郎がハイビームを使用した結果によるものだ。
それがある種の意趣返しであることに、芹沢が気付くことはなかった。
だが、その意図しない確認動作は、ドライバーたる彼の意識を、一時的にしろ進行方向から強引に引きはがした。
その瞬間こそが明暗を分けた。
視界を戻した芹沢の目の前に、顎を開けた「コークスクリュー」が迫る。
その刹那、芹沢の心臓は思わず口から飛び出しそうになった。
注意力散漫のまま急傾斜のヘアピンカーブへと突入した彼は、愛車がこのままコーナーをクリアするには速度が付き過ぎているという事実をはっきりと認識したのである。
アンダーステアの発生。
コーナリングのラインが大きく膨らみ、「RX-7」の車体がコンクリートウォールへ向けてぐんぐんと接近していく。
ひッ、と悲鳴にもならない声を漏らす間もあろうか、芹沢はステアリングを切りながら渾身の力でブレーキペダルを踏み締めた。
それは運転技術がどうとかいうレベルの話ではなかった。
本能的に危険を察知した肉体が、ドライバーの意識を飛び越えて行った回避動作であると言っていい。
サーキット向けに構築された「RX-7」の制動システムと競技用セミスリックタイヤとのコンビネーションは、見事なまでにそれに応えた。
けたたましい悲鳴をあげながら慣性の法則に抵抗したブレーキとタイヤは立派にその役割を達成し、「RX-7」は理想の走行ラインとはほど遠い行程を描きながらも、ギリギリのところでコース内に踏みとどまった。
スピンモードに入らなかったのは、まさに奇跡的状況だったと断言できた。
安堵の息を放ちつつ次に芹沢が視界の中に求めたものは、後方に引き離した「レガシィB4」の姿だった。
ほとんど反射的に顔を向ける。
その目が恐怖に見開かれた。
追突。
彼と付近のギャラリーとが意見を共有したのも無理はない。
翔一郎の「レガシィB4」もまた、「RX-7」のあとを追うように明らかなオーバースピードでコーナーへ進入しようとしていたからだ。
回避不能と思われた惨劇に、ギャラリーたちの間から悲鳴があがった。
「コークスクリュー」手前の緩い左コーナーで、遠心力に振られた「レガシィ」の後輪が外側に流れた。
もうブレーキングは間に合わない。
万事休す、か。
だが、現実は彼らの予想を完全に裏切った。
「レガシィ」の車体は一端右側にブレークしようとした後輪をまるで魔法のように逆側に振り戻し、その横腹を進行方向に向けながら、窮屈なヘアピン内へと流れるように突入してきたのだ。
慣性ドリフト。
ブレーキングのみならず、ステアリング操作によるきっかけとアクセル操作による荷重移動をも用いて後輪をブレークさせる高等テクニック。
翔一郎は、そうやって横に向けた車体そのものを抵抗に使って車速を調整。
一気に車間距離を詰め、アクセル全開のまま「RX-7」の右脇へと張り付くように占位した。
一瞬だけ先に回復したタイヤのグリップを利して、鼻面を相手の前へと捻り込む。
ヘアピン進入時に姿勢を崩したことが芹沢の「RX-7」に災いした。
慌ててアクセルペダルを踏み直そうにも、最大出力を重視して換装された大型タービンは一度落ち込んだブースト圧をリカバリーさせるのに標準よりも時間がかかる。
そしてブースト圧が上がらないということは、ターボエンジンにとって出力が上がらないことと同じ意味を持っていた。
その立ち上がりにおけるわずかな隙が、この時、翔一郎の「レガシィ」に決定的な優勢を与えてしまったのだった。
被せるように幅寄せしてきた「レガシィB4」の黒い車体が「RX-7」の進路を塞いだ。
ドライバーの側にいかなる意思があろうとも、進行方向に空間がなければクルマは前に進めない。
この瞬間、四百馬力を叩き出す13Bロータリーエンジンは、その持てる実力を発揮することを許されず目の前の現実に屈服した。
そして、続く直角に近い左コーナーのクリッピングポイントで対戦相手をそぎ落とすように前へ出た翔一郎の眼前、S字から脱出するゆるやかな右コーナーで双方のインとアウトとが劇的なまでに入れ替わる!
まさに教科書どおりのオーバーテイクだった。
歯噛みする芹沢の視界に、フル加速していく「レガシィB4」、そのテールランプが映り込む。
ここに至り、もはやいかなる手段も手遅れとなった。
「畜生ッ!」
芹沢は叫んだ。
すべてを悟った彼にはそうすることしかできなかったからだ。
彼は知っていた。
ここからゴールまでの区間、もうお互いの順序を入れ替えるだけの距離が存在しないのだということを。
勝敗は決した。
もう何度目になるだろう。
芹沢は、うろたえたようにその言葉を口にした。
緩い下り坂のヘアピンを抜けた直後、本来なら垣間見る必要すらなかったバックミラーへと視線を移す。
それは、とうのむかしに振り切っているはずの存在だった。
いや、振り切るとか振り切らないとか、そういったステージにさえ立っていない相手のはずだった。
だが、後続するヘッドライトの光源は、あいかわらずそこにいた。
翔一郎の駆る「レガシィB4」
その姿を確認するたび、芹沢は血走った目で自問自答する。
クルマの性能では何ひとつ劣っていないはずだ。
パワー。
ウェイト。
サスペンション。
どれをとっても金と時間を湯水のように注ぎ込んで作り上げたこのFD-3Sが、奴のクルマに遅れをとっているとは思えない。
ならばどうして、どうして俺は奴を振り切れないんだ!?
クルマにこれだけの性能差があってもまだ及ばないほどに、俺の技量があのオッサンに劣っているとでもいうのか!?
そんなことのあるはずが、あっていいはずがないんだッ!
バトルの中盤から終盤に至る行程において、芹沢は序盤に稼いだ優勢を一気に吐き出してしまっていた。
それは、いままでの芹沢が一度も経験したことのない出来事だった。
ヒトは未経験の現実に直面した時、その精神に混乱をきたす。
精神面での混乱は冷静な判断力を奪い去り、一度喪失した冷静さはそうやすやすとは回復しない。
そして、そのことによって生じた失点は、限界域での運転という緻密な作業の繰り返しにおいて、誰の目にも明らかな失策となって姿を現すのである。
それは、場数を踏んだプロドライバーであっても例外ではなかった。
ましてや、それを生業としていないただの走り屋風情であるならば、なおさらのことだと断言できた。
腕はいいんだが、走り込みの量が足りないな。
立ち上がりでアクセルを踏み過ぎ、一瞬その姿勢を崩しかけた「RX-7」を後ろから眺めつつ、翔一郎は相手の状況を冷静に分析するだけの余裕を保っていた。
彼は、芹沢聡という走り屋が人並み外れたドラテクの持ち主であることを、十分以上に認識していた。
そうでなければ、卓越した運動性能と引き替えに乗用車としての安定を犠牲にしたFD-3S型を、あそこまで自在に振り回すことなどできはしまい。
少なくとも自分には、まったく無理な芸当だ、と。
だが同時に、その高い技量を十分に発揮できるだけの下地をいまの芹沢が保有していないということも、翔一郎はここまでの彼の走りを見て確信していた。
おそらく芹沢は、ろくすっぽ八神街道を走り込むことなくしてこのバトルに臨んだのだろう。
コーナーとコーナーとを繋ぐ処理の連携があまりにも教科書どおりで、とても現状に沿っているようには見えないのだ。
もちろん、それはそれで素晴らしい走行技術の片鱗ではある。
ただし、比較的平坦で路面もきれいなサーキットとは異なり、公道は時としてさまざまな顔色に変化する。
それは路面のアスファルトの新旧からくるグリップの違いかもしれないし、突如として現れる対向車の存在かもしれない。
そして、それらに対応するにはモータースポーツの参考書を鵜呑みにするだけではなく、場合によって応用を利かせる必要が生じてくる。
すべてのコーナーの処理が常にベストである必要はないのだ。
結果的に全体を短いタイムで走れるのならば、次のため、次の次のために「捨てる」コーナーだってあっていい。
だがいまの芹沢からは、そういった余裕がまったくと言っていいほど失われていた。
八神における走り込みが不足していることで具体的なコース図が描けていない彼は、直面した状況に対して場当たり的な対応しかできず、細々とした走行時間のロスを次々と生み出していたのである。
しかも、背後に迫る翔一郎の存在に気を取られるためなのか、「RX-7」の挙動に微妙な荒れが現れてきていた。
おそらくは、勝ちを焦っているのだろう。
だったら、開き直ってそれに徹すればいい。
ともかく先行しているのは自分なのだから、抜かれないことだけを考えて翔一郎の進路を妨害しながら走り抜けば、どうあがいても先にゴールするのは「RX-7」のほうだ。
自分ならそうするな――しかし、と翔一郎は続ける。
バトルの開始時、あそこまで見下し、莫迦にしていた対戦相手にそういった姑息な手段を講じることは、走り屋としての自殺に等しい。
テクニックで勝てなかったことを公言しているようなものだからだ。
これだけのギャラリーが見守るなか、仮にそんな方法で勝利を掴んだとしても、それは「勝ち」とはみなされないだろう。
積み重ねてきた実績も名声も地に堕ちる。
どんな言い訳も、たちまち圧殺されるに違いなかった。
だからこそ、普通に勝利を狙える限り、彼は真っ正直にこちらと競ってくれるはずだ。
そうなるようにあえて仕向けたのだから、素直に乗ってきてもらわないとこちらが困る。
そんな風に翔一郎は計算していた。
とはいえ、このまま後ろに付いていただけでは自分の勝利もありえない。
いかに芹沢がおのれのプライドを優越させていたとしても、それが最後まで続く保証はどこにもないからだ。
追い詰められた彼が最終手段を講じる前に、勝負を賭ける必要があった。
終盤戦。
なだらかな勾配が続く直線が目の前に現れる。
海外のサーキットコースにある有名なシケインにちなんで、地元の走り屋たちから「コークスクリュー」と呼ばれている区間だ。
下り坂のストレートは、やがて緩やかな左カーブを描きつつ、S字コーナー手前にあるスプーン状の変則百八十度右ヘアピンへと続く。
このヘアピンの終わりで局所的にきつくなる勾配が、その最大の特徴であった。
八神街道屈指の難所と評し得る。
無論、芹沢もその存在は認知していたことだろう。
だが、いまの彼はそれをどうこうするだけの心理的余裕を持ち合わせていなかった。
下り坂の直線で、馬力にモノを言わせて差を広げようとアクセルを踏む芹沢。
翔一郎の「レガシィB4」は四百馬力に抗し得ず、一気に後方へと引き離されていく。
バックミラーに映るヘッドライトが見る見る間に小さくなった。
それを現認した芹沢が、大きく胸をなで下ろす。
やはりパワーはこちらが上だ。
この直線で稼げるだけのマージンを稼いでやる。
逸る意識が、知らず知らずのうちにアクセルの踏み代を深くしていく。
13Bロータリーエンジンの奏でる勇ましい行進曲に乗せられるがごとく、銀色の「RX-7」は疾走した。
少しでも前に、少しでも前に。
その鼻先が、「コークスクリュー」の入り口へと差しかかる。
異変が生じたのは、まさにその瞬間の出来事だった。
後続するB4のヘッドライトが、バックミラーの中で、あっという間にその面積を広げてきたのである。
芹沢は驚愕した。
反射的に視線がそこへと引き寄せられる。
車間距離が縮まってるだと?
莫迦なッ!
そんなはずはないッ!
そのとおりだった。
ヘッドライトが大きく映ったのは、翔一郎がハイビームを使用した結果によるものだ。
それがある種の意趣返しであることに、芹沢が気付くことはなかった。
だが、その意図しない確認動作は、ドライバーたる彼の意識を、一時的にしろ進行方向から強引に引きはがした。
その瞬間こそが明暗を分けた。
視界を戻した芹沢の目の前に、顎を開けた「コークスクリュー」が迫る。
その刹那、芹沢の心臓は思わず口から飛び出しそうになった。
注意力散漫のまま急傾斜のヘアピンカーブへと突入した彼は、愛車がこのままコーナーをクリアするには速度が付き過ぎているという事実をはっきりと認識したのである。
アンダーステアの発生。
コーナリングのラインが大きく膨らみ、「RX-7」の車体がコンクリートウォールへ向けてぐんぐんと接近していく。
ひッ、と悲鳴にもならない声を漏らす間もあろうか、芹沢はステアリングを切りながら渾身の力でブレーキペダルを踏み締めた。
それは運転技術がどうとかいうレベルの話ではなかった。
本能的に危険を察知した肉体が、ドライバーの意識を飛び越えて行った回避動作であると言っていい。
サーキット向けに構築された「RX-7」の制動システムと競技用セミスリックタイヤとのコンビネーションは、見事なまでにそれに応えた。
けたたましい悲鳴をあげながら慣性の法則に抵抗したブレーキとタイヤは立派にその役割を達成し、「RX-7」は理想の走行ラインとはほど遠い行程を描きながらも、ギリギリのところでコース内に踏みとどまった。
スピンモードに入らなかったのは、まさに奇跡的状況だったと断言できた。
安堵の息を放ちつつ次に芹沢が視界の中に求めたものは、後方に引き離した「レガシィB4」の姿だった。
ほとんど反射的に顔を向ける。
その目が恐怖に見開かれた。
追突。
彼と付近のギャラリーとが意見を共有したのも無理はない。
翔一郎の「レガシィB4」もまた、「RX-7」のあとを追うように明らかなオーバースピードでコーナーへ進入しようとしていたからだ。
回避不能と思われた惨劇に、ギャラリーたちの間から悲鳴があがった。
「コークスクリュー」手前の緩い左コーナーで、遠心力に振られた「レガシィ」の後輪が外側に流れた。
もうブレーキングは間に合わない。
万事休す、か。
だが、現実は彼らの予想を完全に裏切った。
「レガシィ」の車体は一端右側にブレークしようとした後輪をまるで魔法のように逆側に振り戻し、その横腹を進行方向に向けながら、窮屈なヘアピン内へと流れるように突入してきたのだ。
慣性ドリフト。
ブレーキングのみならず、ステアリング操作によるきっかけとアクセル操作による荷重移動をも用いて後輪をブレークさせる高等テクニック。
翔一郎は、そうやって横に向けた車体そのものを抵抗に使って車速を調整。
一気に車間距離を詰め、アクセル全開のまま「RX-7」の右脇へと張り付くように占位した。
一瞬だけ先に回復したタイヤのグリップを利して、鼻面を相手の前へと捻り込む。
ヘアピン進入時に姿勢を崩したことが芹沢の「RX-7」に災いした。
慌ててアクセルペダルを踏み直そうにも、最大出力を重視して換装された大型タービンは一度落ち込んだブースト圧をリカバリーさせるのに標準よりも時間がかかる。
そしてブースト圧が上がらないということは、ターボエンジンにとって出力が上がらないことと同じ意味を持っていた。
その立ち上がりにおけるわずかな隙が、この時、翔一郎の「レガシィ」に決定的な優勢を与えてしまったのだった。
被せるように幅寄せしてきた「レガシィB4」の黒い車体が「RX-7」の進路を塞いだ。
ドライバーの側にいかなる意思があろうとも、進行方向に空間がなければクルマは前に進めない。
この瞬間、四百馬力を叩き出す13Bロータリーエンジンは、その持てる実力を発揮することを許されず目の前の現実に屈服した。
そして、続く直角に近い左コーナーのクリッピングポイントで対戦相手をそぎ落とすように前へ出た翔一郎の眼前、S字から脱出するゆるやかな右コーナーで双方のインとアウトとが劇的なまでに入れ替わる!
まさに教科書どおりのオーバーテイクだった。
歯噛みする芹沢の視界に、フル加速していく「レガシィB4」、そのテールランプが映り込む。
ここに至り、もはやいかなる手段も手遅れとなった。
「畜生ッ!」
芹沢は叫んだ。
すべてを悟った彼にはそうすることしかできなかったからだ。
彼は知っていた。
ここからゴールまでの区間、もうお互いの順序を入れ替えるだけの距離が存在しないのだということを。
勝敗は決した。
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