ミッドナイトウルブス

石田 昌行

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一章:ロードレーサー

第二話:秘められた真実

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「いや~、実は朝起きたらバイクの後輪がパンクしちゃっててさ。いまからじゃ、電車に乗っても間に合わないし。あはは」
「おい」
 利き手でこめかみを押さえつつ、翔一郎は眞琴に言った。
「休日に叩き起こしにくるから何かと思えば、さては最初からそれが目的だったな」
「そだよ。悪い?」
「ロードバイクの面倒は、まめに見ておけとあれほど──」
「毎朝、ご飯作ってあげてるんだからさ、たまには助けてくれてもいいじゃない。どうせ助手席に若い女の子乗せる機会なんて、翔兄ぃにはないんだし」
「ほっといてくれ!」
 実のところ、ふたりの間のこうしたやりとりは過去に一度や二度の出来事ではない。
 そして最終的に意見を通すのは、いつでもどこでも眞琴の側がほとんどだった。
 本質的に根がお人好しの翔一郎は、口は悪いが押しが弱い。
 そのため、ナチュラルに強引極まりないこの歳の離れた妹分を、最後の最後で突き放すことができないでいたのであった。
 数分後、翔一郎と眞琴は、壬生家から数建隔てた月極駐車場を訪れていた。
 住宅と住宅の間に挟まれたその空間からは、すでにほとんどの車が出払っており、いまは翔一郎の愛車だけがぽつんと残されているような状況だ。
 スバルBE-5「レガシィB4ビー・フォー
 日本を代表するスポーツセダンのひとつである。
 カタログ値で二百六十馬力を発揮するEJ-20水平対向エンジンと熟成されたフルタイム4WD、そしてよく煮詰められたサスペンションという三つの要素が確立せしめた走りの筋は、業界人からも評価が高い。
 車体色はブラックパール。
 昨晩のうちに降った雨が、ボンネット上部に開けられたエアインテーク付近にいくばくかの水玉をこしらえていた。
 大学卒業まで乗っていた冴えないクーペを手放して以来、翔一郎がこのクルマをずっと大事に扱ってきた事実を、眞琴はちゃんと知っていた。
 昨年の年暮れに、左側のフロントフェンダーを大型車からの飛び石で傷付けられたこと。
 そして、ときおりみぞれの降るさなか、ぽつねんと修復作業に勤しんでいたことも、しっかりその目で現認している。
 もっとも、素人業の悲しさか作業は見事に失敗し、いまでは補修跡を隠すため、その部分には市販の白いステッカーが貼られていた。
 くるりと丸で囲った「Boxer Inside」というアルファベット。
 そこにある「Boxerボクサー」という綴りは、水平対向エンジン全般に付けられたニックネームである。
 それは、同種エンジンのピストン部分がボクシング選手の攻防に似た動きをすることをもって由来としていた。
 水平対向エンジンを生産し自社の四輪車に搭載している企業は、今現在、ポルシェとスバルの二社しかない。
 数寄者の自己満足とはいえ、その希少性に誇りを持ってこの種のステッカーを貼っているオーナードライバーは、それなりの数に及んでいた。
 そうこうしている間に、「レガシィ」のハザードランプが二回点灯した。
 翔一郎がエンジンキーに付いたリモコンで、ドアの施錠を解除したのだ。
「シートベルト、忘れるなよ」
「イエッサー」
 翔一郎の言葉にさっと敬礼してみせた眞琴が、素早く助手席に乗り込んだ。
 前後して、ボンネット下の内燃機関が弾かれたように目を覚ます。
 車体が軽く身震いし、ぼぼぼ、という独特の排気音があたりに響いた。
 パッと見、翔一郎の「レガシィ」はまったくの無改造車に見えた。
 エアロパーツこそ純正品をひととおり奢ってあるが、どれもこれもがクルマに尖った印象を与える代物ではない。
 せっかくハイパワー車買ったんだから、チューニングくらいしたらいいのに。
 この「レガシィ」を見るたび、眞琴は思う。
 大体、運転席左右のダッシュボード上に都合四つもの追加メーターを取り付けておきながら、クルマを長持ちさせるための状態管理に使うんだ、とは、一体全体どういう了見をしているのだろう。
 費用対効果が悪いこと、おびただしい限りではないか。
 市役所の住民課で日々煩雑な事務仕事をこなしている翔一郎は、いわゆる地方公務員である。
 彼は──あくまでも眞琴が知る限りであるが──酒も煙草もやらないし、パチンコなどのギャンブルもしない。
 もちろん、夜の街に繰り出して遊んでいる気配など微塵もない。
 趣味といえば、パソコンでインターネットを検索サーフィンしたり週に何度かスポーツジムで汗を流したりするぐらいで、お金はそれなりに持っていると見ていいだろう。
「ねえ、翔兄ぃ」
 助手席側のドアをばたんと閉じるなり、唐突に眞琴は話を切り出した。
 どうせ駄目もとなんだし、言ってみて損はナイじゃん、とばかりに。
「このクルマ、いじる気ないの? いろいろパワーアップして夜の八神街道走ると、きっと気持ちいいよ。やろうよ、ねぇ」
「おいおい、三十過ぎてまで峠デビューするつもりは、俺にはないぜ」
 何言ってやがる、とでも言い出しそうな表情で、翔一郎は答えた。
「大体な、そんな気があったらオートマなんて乗ってないっての」
「ちぇっ、駄目か」
 さすがに玉砕を覚悟していただけあって、眞琴はあっさり引き下がった。
 ドライバーが手動でシフト位置を選択できるSSスポーツシフト-ATを搭載しているとはいえ、翔一郎の「レガシィ」は間違いなくオートマ、つまりAT車だ。
 クラッチ操作がない分だけ便利と言えば便利だが、一般的には「峠を攻める」といった激しいドライビングに向いていると思われていないし、実際のところもそのとおりだろう。
「いい考えだと思ったんだけどな」
 自分の思い付きにまだ未練があるのか、少しだけ口先を尖らせ靴紐を結びなおす眞琴。
 中学以来陸上部ひと筋の彼女は、履くもののフィット感について割と神経質なほうだ。
 愛車に対するそれとは異なり、自分の「足回り」には気をつかうのだな、などと翔一郎は思ってしまう。
 ただし、近隣からの視線について彼女はどうも無関心なようで、普段はスカートの奧に潜んでいる絶対領域の付け根から、白い何かがちらりと見えた。
 無防備に過ぎるその存在に一瞬ドキリとした翔一郎は、心中を悟られないようルームミラーに手を伸ばす。
 少しは恥じらえよな。
 ひと回り以上も年が離れているのだから、備えている価値観が違うことぐらい翔一郎も理解はする。
 理解はするが、それに慣れるかどうかは全然別の問題だった。
 暖気の間の手持ち無沙汰を利用して、翔一郎は眞琴に告げた。
 できるだけさりげなく、されどこれ以上もなくストレートに。
「パンツ見えてるぞ」
「スケベ」
 いたずらっぽく、にっと笑って眞琴が言った。
 抱えた左膝の上に頬を載せつつ、下方から相手の顔を覗き込む。
 時を置かず、からかいの言葉がその唇から紡ぎ出された。
「もっと見たかったら、条件次第で見せてあげてもいいよ」
「勘弁してくれ」
 そう言いつつも翔一郎は、さまよう視線を止められなかった。
 さもあろう。
 健康的な少女のナマ脚を前にして、正常なオトコならそれに目を向けずにはいられないものだ。
 一方、彼がそんな自分にかすかな嫌悪感を覚えたということも、また否定できない事実だった。
 平たく言えば、「こんな娘みたいな歳の女に俺はいったい何を興奮してるんだ?」とでもいったところであろうか。
 翔一郎が唐突に話題を切り替えたのは、それから数秒も経たぬうちの出来事だった。
「そういや眞琴。おまえ、昨日随分遅くまで起きてたな。あんな時間までいったい何やってたんだ?」
 ぶっきらぼうに彼は言った。
 話を振られた少女のほうは、なんともわざとらしい態度でもってそれに応える。
「えっえっ、なんでそのこと知ってるの? もしかして、ノゾキ?」
「するか莫迦」
 翔一郎は軽く一喝。
「たまたま午前さまにウチから出た時、おまえの部屋の電気がまだ点いてたのを見たってだけのことだ。ひとをどこかの変質者みたいに言うんじゃない」
「なぁんだ。自分こそ、そんな時間に外うろついてたんじゃない。ほ~んと、夜の夜中に一体全体何やってたんだか」
「おまえら未成年の学生と違って俺はオトナの納税者だからな。合法的に夜更かしする権利を社会一般からちゃんと与えられている。一緒にするな」
「ものは言い様だね。この不良オヤジ」
「オヤジで結構。だが、おまえみたいな小娘にだけは言われたくないな」
 そんな憎まれ口の応酬がひととおり互いを行き交ったのち、なんとも楽しげな素振りを見せていた眞琴が、声を弾ませ彼に答えた。
「DVD観てたんだよ」
「DVD?」
「そ。この間借りてきた世界ラリー選手権WRCの奴」
「WRCねぇ」
 翔一郎の口振りは、半ば呆れたそれだった。
「モータースポーツ好きが悪いとは言わんが、俺としちゃあ、もっと女の子らしい趣味を持ったほうがいいんじゃないかと思うんだがなァ」
「性差別はんたーい」
 芝居がかって眞琴が返す。
「いいじゃん、別に。ボクが男の子みたいな趣味持ったところでさ、翔兄ぃにはなんの関係もない話なわけだし」
「ふむ。言われてみりゃあ、確かにそうだな」
 翔一郎は大きく頷き、眞琴の反論に完全同意の姿勢を示した。
「毎朝メシ作ってもらってる以上、俺の立場的には文句を言えた義理じゃあないか」
「そうだぞ。翔兄ぃはボクに対する感謝が足りない。もっと大事にしてくれないと、そのうち本気で拗ねるんだからね。わかった?」
「へいへい」
 やがて駐車場をあとにした翔一郎の「レガシィ」は、交通量の多い市街地を効率よく抜け出し、やや閑静な住宅街ニュータウンへと到達した。
 渋滞気味の対向車線に比べると、彼らふたりの行く道は、クルマの流れがかなり少ない。
 まばらである、と言い切ることさえ可能だろう。
 もっとも、中心部への通勤ルートとは真逆の向きであるのだから、それは至極あたりまえの話でもあった。
 片側二車線の広い道路は、制限速度が五十キロ。
 だが慣れたドライバーなら、七、八十キロは余裕で出せよう。
 事実、翔一郎の「レガシィ」をパスしていくほかのクルマは、それぐらいの速度を平気の平左で発揮している。
 にもかかわらず翔一郎は、そうした他人に追従しようとしなかった。
 性格的なものが理由なのだろうか。
 彼の愛車の車速計スピードメーターは、時速六十キロ付近を指したまま、ほとんど身動ぎしていない。
 もちろんながら、ステアリングも両手で固定だ。
 眞琴の目には、翔一郎のそうした姿勢が彼の持つ人生観の表れのように映っていた。
 そんな滞りないドライブが続くことしばし。
 助手席に座る少女に向かって、三十路男が不意に尋ねた。
「なあ、眞琴。おまえ、ひょっとして走り屋志望だったりするのか?」
「ん? どうしたの、急に?」
「いやなに。さっきの発言がどうしても気になってな」
「発言?」
「ああ。おまえさっき、俺を八神街道に誘ったろ? あれのことさ」
 眞琴の素直な疑問に対し、翔一郎は真っ直ぐ答えた。
「WRCとかスーパーGTとか見てるようなのは、えてしてそっち方面に走りがちだからな。うちの地元は走り屋が好きそうなやまも多いし、おまえもそういった連中のひとりなのかなって、なんとなくだが思ったのさ」
「まあね」
 胸を反らせて眞琴が応じた。
 こころなしか、声のトーンが高まって聞こえる。
「だって、走り屋ってカッコいいじゃん。世間ではいろいろ言われてたりするけどさ、ボクはああいった硬派な世界が大好きだな。この夏に免許取って自分のクルマを手に入れたら、ボクもあのステージに行く予定。もう具体的なプロジェクトもスタートしてるし」
「やめとけ」
 そんな彼女の高揚を、翔一郎がひと言のもとに斬り捨てた。
「大方、漫画かアニメにでも影響されたんだろうが、このご時世、暴走族の真似事したっていいことなんざひとつもないぞ。具体的プロジェクトだかなんだか知らないが、せっかくの人生に黒歴史刻んじまうのがオチだ。悪いこと言わないから考え直せ」
「走り屋と暴走族は違うよ」
 口先を尖らせ眞琴は言った。
「どこがだ?」
 三十路男がそれに応える。
「ルールを無視して公道を走る。そのこと自体はどっちも同じだ。騒音やらなんやらで近隣住民に迷惑かけといて、『走り屋と暴走族は違います』なんて言い分が通用するもんか。子供じゃあるまいし、少しは頭を働かせろ」
「そりゃまあ、そうかもしれないけどさァ……あッ!」
 それは、眞琴が何かを言い返そうとした、ちょうどそのタイミングでの出来事だった。
 あろうことか一台のクルマが、左の路地から「レガシィ」の前に飛び出してきたのである。
 車種は大型のミニバンで色は黒。
 場所は信号機のある交差点で、翔一郎の側が完全無欠の青信号だった。
 すなわちそのミニバンは、自分の側の赤信号をまるきり無視したというわけなのだ。
 ミニバンの運転手としては、たまたま開いていた車列の隙をちょっと利用しただけのつもりだったのかもしれない。
 先を急ぐ歩行者が、クルマの空いたタイミングで車道を横切ろうとする行為と同じつもりだったのかもしれない。
 だがそれは、疑いようのない危険運転であった。
 ドライバーの遵法姿勢はおろか、精神状況すら疑われても仕方がない、それほどの無謀行為であった。
 前触れなく目の前に出現した黒いクルマの横っ腹に、眞琴は言葉を失った。
 驚愕と恐怖とが濃厚にミックスされ、彼女の両目を無理矢理に見開かせる。
 両者の間合いは、あって自動車数台分。
 普通に考えてブレーキの間に合う距離ではない。
 駄目だ、ぶつかる。
 少女の中で、時間の流れが滞った。
 悲鳴を上げることさえできなかった。
 目をつぶることも無理だ。
 スローモーションのように流れる光景。
 念仏を唱える暇すらない。
 ただひたすらに身を固め、衝撃に備えることしかできずにいた。
 まったくもって、そうすることしかできずにいた。
 だが次の瞬間、彼女の視界が勢いよく水平に流れた。
 いかなる理由からか、翔一郎の「レガシィ」が突如スピンに突入したのである。
 フルブレーキの直後、その場でグルリと一回転する黒いセダン。
 鳴り響くスキール音と経験したことのない横Gとが、間髪入れずに少女を襲う。
 スピンによるベクトルの変化は「レガシィ」の進路を強く捻じ曲げ、文字どおり、車体を定点に釘付けとした。
 そのミキサーに放り込まれたような数瞬の間、眞琴は思考を巡らせる。
 たぶん、ヘボドライバー翔兄ぃのヤケクソなブレーキングがクルマの挙動を乱したんだ。
 だとしたらこれは、存外な幸運グッドラックに違いない。
 もし翔兄ぃがそれなりのテクを持ってたら、きっとだけど暴れるクルマを立て直そうとしただろう。
 でもそうしたら、おそらく事故は避けられなかった。
 そうならなかったのは、翔兄ぃがまったくの素人だったからだ。
 マシンコントロールなんて考えもつかない、典型的な一般ドライバーだったからだ。
 ハンドルを切りながらブレーキを踏むなんていう絵に描いたような素人技が、結果として最悪の事態を収拾したんだ。
 これを幸運と言わないでどうする──と。
「た……助かったぁ」
 胸をなでおろした眞琴が、そのままずるりと滑り落ちた。
 極度の緊張から解放されて、身体全体が弛緩してしまっている。
「ついてたな。間一髪とは、このことだ」
 サイドブレーキを下ろしつつ、翔一郎が同意した。
 意外なことに、こちらのほうは極め付けの平常心だ。
「本当だよ。翔兄ぃのボケっぷりも、たまには役に立つんだね」
 脈打つ心臓を落ち着かせるため、眞琴は咄嗟に嫌味を放った。
 言葉の隅に毒があるのは、落ち着き払った兄貴分の様子に、少々の腹立たしさを感じたからにほかならない。
 だがこの時の彼女にとって、その発言は紛れもない本音でもあった。
 この幸運スピンは、翔一郎ドライバーの操作ミスがもたらした怪我の功名。
 眞琴の中では、それこそが唯一無二の真実だった。
 平然と構える翔一郎に内心腹を立てたのも、その幸運を理解してない彼の態度を不快に思ったことが一因だった。
 それゆえ眞琴は、これが極めて高度なスピンターンによる運転技術危険回避であったという事実に、あとあとまで気付くことがなかった。
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