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第二章 牙を研ぐ夜
第六節 祝勝会
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治郎は名前を呼ばれて、あの昏い眼で長田を見ると、軽く礼をした。
形ばかりの礼で、自分のウォーミングアップを手伝ってくれた事への感謝など、欠片もない。
ミットを叩いている時、治郎は素手であった。
試合の合間合間にそうやっていたので、空手胼胝の出来た拳の表面が捲れている。
玲子が彼に素早く駆け寄り、拳にテーピングをしてやった。
その上から、オープンフィンガーグローブを装着させてやる。
治郎は何も言わずに、試合場へ向かった。
彼の背中に向かって、部員たちが陰口を叩く。
「何よ、あの態度――」
「折角、長田先輩や玲ちゃんが手伝ってくれたのに!」
「気持ち悪いよな、あいつ」
「試合前にあんなに無茶苦茶やって、莫迦なんだよな」
「あいつがいるから、俺たちまで変な眼で見られるんだぜ」
例えどんなに人格的に劣っている人間でも、優勝を目前とした部員が掛けられる言葉ではない。
治郎がそれだけ嫌われ、侮られ、莫迦にされているという証拠であった。
玲子は部員たちを睨み付けたい衝動を抑え、治郎の後を追って試合場へ向かった。
所属と名前が呼ばれ、治郎が試合場に上がってゆく。
身に着けているのは、道衣とグローブだけだ。
足には、テーピングや、爪先と踵が出たサポーターを付ける事が許されている。
治郎の、とてもそうとは思えない白帯の後ろ側に、赤いタスキが括り付けられていた。
試合が始まって一分後、治郎の上段突きが相手の戦意を喪失させた。
これは、技ありであった。三秒未満のダウンなら、技ありになる。
続行を受けて、治郎は下段蹴りからのハイキックを炸裂させ、相手をノックアウトする。膝から崩れ落ちた相手に対し、治郎が下段突きのモーションを取る。だが相手は、三秒経っても起き上がれなかった。
一本を取って、勝った。
観客たちは湧いたが、水門学院の空手部員たちは渋々といった様子で拍手を送った。
治郎は優勝カップを受け取る時も、試合が始まった時からずっとしていたあの昏くて陰湿な眼付きで、会場にいた全ての人間を睨み付けていた。
バスで水門市内に戻り、その帰りに、部活の顧問と学生で、市内の繁華街にある居酒屋に行った。
高等部の生徒たちは返されたが、祝勝会の名目で行なわれた飲み会である為、治郎は残る事になった。その治郎の付き添いで、玲子も同席した。
学部の人間たちは、それにかこつけて顧問の金で飲み食いしようという腹であったから、それぞれ勝手に注文して、酒と食事を楽しんだ。
玲子は先輩たちが羽目を外して店や他の客に迷惑を掛けないように見張りつつ、治郎を気にしていた。今回の主役である筈の治郎は、店の真ん中のテーブルに一人で座って、コーラを飲んでいる。
水門学院の空手部で、店の半分を占領していた。会が始まった時は、その中央のテーブルに主要メンバーが座り、他の者たちが壁際の席に寄っていたのだが、酒が進む内に店内をふらふらと出歩くようになった。
同じように酔っ払って顔を赤くしているサラリーマンや学生らには受けが良かったが、身内だけでぽつぽつと飲んでいる人間には、些か迷惑がられていただろう。玲子は他の客に頭を下げて回ったりしていた。
その隙に、長田が治郎の横に、ビールジョッキを持ってやって来た。
他のメンバーは治郎の事が、余り好きではない。しかし長田は、他の人間と比べると少しばかり大雑把で無神経な所があり、治郎が嫌われる理由に気付かずに、逆に気に入ってさえいた。
「お前は強いなぁ、篠崎、お前は本当に強いなぁ」
長田にとって、気に喰う喰わないは強さで決まる。治郎は空手が強い。だから好きだった。
治郎は長田を含めた全ての部員が嫌いだし、肩を組まれると苛立ちが募るが、かと言って殴り付ける程の怒りを覚える訳ではない。
「お前の空手なら、何だって怖くねぇよな。矢でも鉄砲でも持って来いってモンだ。牛だろうが熊だろうが、チンピラだろうがヤクザだろうが、お前の敵じゃねぇよな」
そう言いながら長田は、テーブルに置かれていたビール瓶を掴むと、治郎が飲んでいる途中だったぶどうジュースのグラスに注いだ。
治郎は特に何も考えずに、そのグラスを口に運んだ。
「もうっ、長田先輩! 治郎くんに絡むのはやめて下さい!」
それを視界の隅に捉えた玲子が、長田の身体を押し飛ばした。
「何だよぅ、花巻……」
「治郎くんは未成年なんですからね、お酒なんか飲ませたら、駄目に決まってるでしょ!」
頬を膨らませる玲子に、凄い剣幕で迫られて、長田はたじたじになってしまった。酒が入ると怒り易くなる性質の人間は少なくないが、長田の場合は元来のバカが付くくらいにおおらかな性格もあって、怒りの感情を前面に押し出す事は滅多になかった。
長田が年下の玲子に言いくるめられているのを見て、他のメンバーが豪快に笑った。
笑っていないのは、反省した様子のない長田を見て眉を寄せていた玲子と、酒の混ざったジュースを呑み込んだ治郎と、事情を良く分かっていない他の客たちであった。
その客の中に、妙にこわい雰囲気の三人組がいた。
グレーのジャケットを羽織った口髭の男と、パンチパーマのアロハシャツの男、そして角刈りのTシャツの男だった。
その男たちの名前が、小川、井波、そして木原であった。
形ばかりの礼で、自分のウォーミングアップを手伝ってくれた事への感謝など、欠片もない。
ミットを叩いている時、治郎は素手であった。
試合の合間合間にそうやっていたので、空手胼胝の出来た拳の表面が捲れている。
玲子が彼に素早く駆け寄り、拳にテーピングをしてやった。
その上から、オープンフィンガーグローブを装着させてやる。
治郎は何も言わずに、試合場へ向かった。
彼の背中に向かって、部員たちが陰口を叩く。
「何よ、あの態度――」
「折角、長田先輩や玲ちゃんが手伝ってくれたのに!」
「気持ち悪いよな、あいつ」
「試合前にあんなに無茶苦茶やって、莫迦なんだよな」
「あいつがいるから、俺たちまで変な眼で見られるんだぜ」
例えどんなに人格的に劣っている人間でも、優勝を目前とした部員が掛けられる言葉ではない。
治郎がそれだけ嫌われ、侮られ、莫迦にされているという証拠であった。
玲子は部員たちを睨み付けたい衝動を抑え、治郎の後を追って試合場へ向かった。
所属と名前が呼ばれ、治郎が試合場に上がってゆく。
身に着けているのは、道衣とグローブだけだ。
足には、テーピングや、爪先と踵が出たサポーターを付ける事が許されている。
治郎の、とてもそうとは思えない白帯の後ろ側に、赤いタスキが括り付けられていた。
試合が始まって一分後、治郎の上段突きが相手の戦意を喪失させた。
これは、技ありであった。三秒未満のダウンなら、技ありになる。
続行を受けて、治郎は下段蹴りからのハイキックを炸裂させ、相手をノックアウトする。膝から崩れ落ちた相手に対し、治郎が下段突きのモーションを取る。だが相手は、三秒経っても起き上がれなかった。
一本を取って、勝った。
観客たちは湧いたが、水門学院の空手部員たちは渋々といった様子で拍手を送った。
治郎は優勝カップを受け取る時も、試合が始まった時からずっとしていたあの昏くて陰湿な眼付きで、会場にいた全ての人間を睨み付けていた。
バスで水門市内に戻り、その帰りに、部活の顧問と学生で、市内の繁華街にある居酒屋に行った。
高等部の生徒たちは返されたが、祝勝会の名目で行なわれた飲み会である為、治郎は残る事になった。その治郎の付き添いで、玲子も同席した。
学部の人間たちは、それにかこつけて顧問の金で飲み食いしようという腹であったから、それぞれ勝手に注文して、酒と食事を楽しんだ。
玲子は先輩たちが羽目を外して店や他の客に迷惑を掛けないように見張りつつ、治郎を気にしていた。今回の主役である筈の治郎は、店の真ん中のテーブルに一人で座って、コーラを飲んでいる。
水門学院の空手部で、店の半分を占領していた。会が始まった時は、その中央のテーブルに主要メンバーが座り、他の者たちが壁際の席に寄っていたのだが、酒が進む内に店内をふらふらと出歩くようになった。
同じように酔っ払って顔を赤くしているサラリーマンや学生らには受けが良かったが、身内だけでぽつぽつと飲んでいる人間には、些か迷惑がられていただろう。玲子は他の客に頭を下げて回ったりしていた。
その隙に、長田が治郎の横に、ビールジョッキを持ってやって来た。
他のメンバーは治郎の事が、余り好きではない。しかし長田は、他の人間と比べると少しばかり大雑把で無神経な所があり、治郎が嫌われる理由に気付かずに、逆に気に入ってさえいた。
「お前は強いなぁ、篠崎、お前は本当に強いなぁ」
長田にとって、気に喰う喰わないは強さで決まる。治郎は空手が強い。だから好きだった。
治郎は長田を含めた全ての部員が嫌いだし、肩を組まれると苛立ちが募るが、かと言って殴り付ける程の怒りを覚える訳ではない。
「お前の空手なら、何だって怖くねぇよな。矢でも鉄砲でも持って来いってモンだ。牛だろうが熊だろうが、チンピラだろうがヤクザだろうが、お前の敵じゃねぇよな」
そう言いながら長田は、テーブルに置かれていたビール瓶を掴むと、治郎が飲んでいる途中だったぶどうジュースのグラスに注いだ。
治郎は特に何も考えずに、そのグラスを口に運んだ。
「もうっ、長田先輩! 治郎くんに絡むのはやめて下さい!」
それを視界の隅に捉えた玲子が、長田の身体を押し飛ばした。
「何だよぅ、花巻……」
「治郎くんは未成年なんですからね、お酒なんか飲ませたら、駄目に決まってるでしょ!」
頬を膨らませる玲子に、凄い剣幕で迫られて、長田はたじたじになってしまった。酒が入ると怒り易くなる性質の人間は少なくないが、長田の場合は元来のバカが付くくらいにおおらかな性格もあって、怒りの感情を前面に押し出す事は滅多になかった。
長田が年下の玲子に言いくるめられているのを見て、他のメンバーが豪快に笑った。
笑っていないのは、反省した様子のない長田を見て眉を寄せていた玲子と、酒の混ざったジュースを呑み込んだ治郎と、事情を良く分かっていない他の客たちであった。
その客の中に、妙にこわい雰囲気の三人組がいた。
グレーのジャケットを羽織った口髭の男と、パンチパーマのアロハシャツの男、そして角刈りのTシャツの男だった。
その男たちの名前が、小川、井波、そして木原であった。
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