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第一章

皇帝の孫の昔の恋人

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 暖炉の前で炎を見つめていると、ラファエルがそっと部屋に入って来て、私を抱きしめてくれた。

「ジェラールはもう大丈夫だ。奴は今度こそ二度と君の前に姿を現せないよ」

 ラファエルはそっと私にささやいた。

「ええ。わかっているわ」

 私はうなずいた。口付けをして「今日の予定はまず、古代の言葉の学習のあとは……」と言いかけると、唇に人差し指を押されて「しーっ」とされた。

「騎士団のみんなも朝は早いから、朝一で武術の訓練をしよう。夜は言葉の学習と私と君の夫婦の時間にしよう」

 ラファエルはイタズラっぽい瞳で私を見つめて甘く囁いた。最後の言葉を言いながら、ラファエルの指が私の背中をそっとさすり、私は飛び上がりそうになった。

「ええ」

 恥ずかしさで真っ赤になりながら、私は同意した。

 そのままベッドに二人で腰掛けて言葉の勉強をした。私の発音をいくつか訂正されながら、私が知っている隣国の言葉をベースに古代語を学ぶ。私はペンを持って書き留めていく。

 言葉の発音を直されて、顎に手をかけられたと思ったら、ラファエルの唇が近づいてきて、私の唇をそっと温かく包んだ。ペンをそっと取りあげられた。

「そろそろ休もう。明日もたくさん移動するのだ」

 ラファエルは低く落ち着いた声で私にささやき、私も眠りにつく前に幸せな思いでうなずき、宿屋のベッドで二人で眠りについた。



 朝になって目が覚めると、窓辺に私はシーツを括りつけた。寝る前に本当は準備をしておきたかったのだけれども、昨晩はできなかったので、朝起きてから準備をしたのだ。

 宿屋を抜け出して、馬で移動する時に乗る予定の馬を窓辺の下に連れてきた。白馬でとてもおとなしい馬で、エリーという名前だ。私は窓を伝って降りてきて、下で待っている馬に飛び乗る訓練をするつもりだった。

 部屋に戻るとラファエルも目を覚まして身支度を整えていた。

「やるのか?」
「ええ。私は本気よ」

 ラファエルは苦笑いをして階下に降りて行き、窓の外に繋がれたエリーの元に行った。ラファエルは馬の横に立ってこちらを見上げて、窓辺にいる私を見つめている。

 この宿屋には花びらが丸く集まったボンザマーガレットがあちこちに咲いている。ラファエルの立つ足元のすぐ横にもストロベリーピンクと淡い黄色いマーガレットが咲いていた。上手く飛び降りて、それらを傷つけないようにしようと私は思った。


「行くわ」

 私はシーツを使ってなんとか壁伝いに降りて、エリーに飛び乗った。エリーは驚いた様子だったけれども、私が背中に飛び乗るのを甘んじて受け入れてくれた。うまく行った。

 ラファエルは私が落ちないように見守っていて、万が一に備えてそばに控えていてくれている。3回目の時は、思いっきりラファエルに抱き止められてしまった。エリーに飛び乗り損ねたのだ。私は恥ずかしさのあまりにラファエルの顔も見れないほどだった。

 私はその動きを12回繰り返した。要は慣れだ。8回目でコツをつかみ、スピードがだいぶ上がった。私は一度死にかけているのだ。何が起きたのか知っているのは私だけだ。私は死を悟ってから戻って来ているので、自分の死を避けるためならなんでもするつもりだった。

「なんとかなりそうだわ」
「そうだな。見事だ。明日はもっと上達していそうだ」

 ラファエルも認めてくれた。没落令嬢だった私は、食料を得るためにしょっちゅう森に入らなければならなかった。おかげで普通の令嬢よりはお転婆なことも得意だった。

 やがて騎士たちも起き出してきて、私は騎士団と共に朝の鍛錬に励んだ。剣は上から叩き落とすように落とされる。それをいかに払うかを中心に私は練習を繰り返した。額から汗が飛び散り、頬が真っ赤になり、宿屋の主人が朝食ができたと呼びにくる頃には汗だくになった。私は熱心にラファエルから学んだ。

「皆様、朝食の支度ができましたよ」
「よーし、さあ今日も元気に食べて出発だ」

「そうだな、一汗かいて腹も減ったしな」

 宿屋の主人の賑やかな掛け声で、騎士たちも朝食の席に向かうために鍛錬をやめた。

「奥様、どうぞ身支度をこちらで整えましょう」
「ありがとう」

 ベアトリスとジュリアが声をかけてくれて、私もうなずいた。顔の汗を拭き取ってもらって、私は微笑んだ。朝から体を動かすととても気持ちが良い。

 騎士団の人々の私に対する目線が微妙に変わって来たように思う。確実に変わったと思うのは、大国から志願してきた騎士たちからの目線だ。

「奥方は、ジークベインリードハルトの皇帝の孫の嫁として、俺たちと一緒に鍛錬をされるらしい」

「さすがだな」
「いやあ、昨晩いきなり古代語を話されたのには驚いた」
「まあ、まだ発音は変なところがあったけれども、それでも驚いたぜ」

 昨晩、ジェラールをひっとらえるように古代語を使ったことで、私のラファエルの花嫁であろうとする覚悟を感じ取ってくれた騎士が多かったようだ。

 ――ええ、夫に恋をするだけの妻では役目を果たせないと分かったのよ。

 私は心の中で独り言を言うと、身支度を整えるためにベアトリスとジュリアに付き添われて部屋に戻った。


 ――今日は強行軍になるはずだわ。森を抜けたところで追い剥ぎに会うはずだったわ。あの荒くれ集団を避けられれば良いのだけれども。 

 私はこれから何が起こるか知っている者として、思案していた。

 ――朝食の席で地図を見ながら、今日の進むべき進路についてさりげなく別の道を提案してみようかしら?

 私は心の中で考え込んでいた。ここで、私は自分の行動が変わったことで、周りの動きが変わることに気づいていなかった。最初の時は私は朝から鍛錬などせずにすぐに朝食の席に降りて行っていた。今は鍛錬をしたので、少し遅れて朝食の席に参加することになってしまった。

 私が部屋で身支度を整えて階下の食堂に降りていくと、先にラファエルが騎士たちと食べ始めていた。しかし、一人の女性がラファエルに近づいていくのが見えて、私は思わず食堂のドアの影で立ち止まった。

「ラファエル!?」

 女性が驚いた様子で声をかけているのが見える。

 とても美しい女性だ。私の髪はブロンドで瞳は青い。彼女の髪はプラチナブロンドで、色素が抜けるように肌が白く、頬は薔薇色だった。エメラルドのような瞳がきらきらと輝いている。

「レティシア?」

 ラファエルも驚いた様子だけれども、満面の笑みになって彼女に挨拶をした。

 ――誰かしら?

 私は周りの騎士たちの微妙な反応にすぐに気づいた。この反応はどこかの街でも見かけたわ。私が席を外していて戻ってきた時にちょうどラファエルの周りの騎士たちがやっぱりこんな反応をしていた記憶がある。もしかすると最初の時にもラファエルと彼女はこうしてどこかで出会っていたのかもしれない。

 ――ラファエルと彼女の間には何かあるのね。昔の恋人かしら?

 私は二度目の死を回避するために朝から鍛錬をして気分が高揚していたにも関わらず、心の中に嫉妬と戸惑いが混ざったグレーな気持ちが差込むのを感じた。

 ――ラファエルは、私の前に明らかに女性経験があるようだったわ。私は初めてなのに、ラファエルはそんな感じがしなかった……

 最初の時は感じなかったつまらない事をふと考えてしまい、自分で自分にがっかりした。

 ――没落令嬢の私が陛下のとりはからいでラファエルのような素敵な人と結婚できたのよ。今更何よ、ロザーラ。しっかりしなさい。私の目的は生き残ってリシェール伯爵の領地に辿り着くことでしょう。つまらない嫉妬など今すぐ捨てなさい。

 私はドアの影で自分に言い聞かせて、深く息を吐いた。

「おはよう、みなさん」


 私は明るい声で騎士団の皆に声をかけて食堂の中に入って行った。レティシアと呼ばれた美しい女性が鼻で笑うような表情をして一瞬私の方を見たのを私は見逃さなかった。

 ラファエルの肩に手をかけた女性に私は表情も変えずにそのまま微笑んだ。

「初めまして。ラファエルの妻でございますわ」
「あら奥様。これは失礼しましたわ。私、ラファエルとは幼馴染のレティシアと申します。ジークベインリードハルトで幼い頃ずっと一緒に育ちましたの」

 ラファエルが紹介する前に、レティシアというその美しい女性は私に自ら名乗った。

 そのとき私の心の中では、死ぬ前に敵に言われた言葉がよぎっていた。

『皇帝の孫の花嫁』

 その言葉を使う敵は、我が陛下の国の者ではない。
 
 古代語を操ってラファエルの事を『皇帝の孫』と呼ぶのは大国ジークベインリードハルト出身の者だ。

 私はにっこりと微笑んだ。

「まあ!こんな美しい幼馴染がいたなんて、あなた」

 私はそう無邪気に驚いた表情でラファエルとレティシアに可愛らしく微笑んで見せた。しかし、私の心の中は荒れ狂っていた。


 ――私を殺したのは、もしかするとあなたのお仲間かしら?

 私は自分の中の暗い疑心暗鬼の気持ちに翻弄されそうになり、思わず後ずさった。

 ――彼女の挑発に乗ってたまるものですか。十分に朝食を取って、今日も第二の死を回避するために備えることにしましょう。

 私は心の中でそう思いながら、にこやかに朝食の席についた。レティシアは何故かラファエルの隣の席に陣取っていた。ラファエルに密着しすぎている。私はイライラとしたけれども、表向きは気にしないふりをした。

 ――敵情視察にはもってこいの距離だわね。美しい幼馴染さん。

 私はレティシアをじっくりと観察することに決めたのだ。

 食卓の上には私が結婚式当日に宮殿でラファエルにもらったマーガレットの花を思い出すような、赤いパンジービオラが飾ってあった。

 花言葉は「物思い」だ。私はイライラとする気持ちをおさめようとした。


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