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第一章 私を陥れたのは誰?

絶対絶命(1)

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 夏のアパートの前には、大家さんが育てているブルーリバーとピンクリバーのスーパートレニア カタリーナの涼やかで爽やかな花が咲いている。昼間はうだるほど暑かった今日も、今は夕涼みをしたくなるような風が吹いていた。私はヒューの長いまつげを見つめながら、なんて長いまつ毛をしているのだろうと思ったりしていた。

 この人は31歳でタキシードを普段着として着たり、バイトする大学生の私の時間に合わせることができたり、いろいろ社会人としておかしいかもしれない。31歳というのも嘘かもしれない。31歳より若く見える。

「君は底なし沼のように貧しい人に分け与える人でね……」

 ヒューはヴァイオレットの説明をしている。

 ――つまりヴァイオレットは計算ができないってことだ。お人よしで計算ができない。

 私はヴァイオレットに関する設定を記憶した。

「こちらが普段君がシャーロットおばさまと呼んでいたゼルニエ侯爵夫人だ。そしてその夫のゼルニエ侯爵、レロックス男爵、その子息のスチュアート、レロックス男爵夫人、モートン伯爵、モートン伯爵夫人、モートン伯爵令嬢のキャサリン、アリス姉妹。そして君の家の執事のハリー、君の家庭教師のパンティエーヴルさん、君と一番親しかった侍女のアデル、そしてこちらが君の親友と言われていたルネ伯爵令嬢のマルグリット……」

 それにしても中世ヨーロッパの貴族は大変だ。社交界のつきあいは盛んでバリドン公爵令嬢はやたらと顔が広い。私は大学の講義で一緒のクラスメイトですら名前はおぼつかない。

 ヒューがiPadを私に向けてプレゼンをするように持ち、次から次にスワイプして登場人物の説明をしていた。私たちはアパートの目の前の駐車場にいた。ヒューが停めた車の助従席に私は座っていて、ヒューの説明は時々私と彼らの関係を補足してくれながら、続いていた。今日、ヒューが運転してきた車はポルシェだ。

 運転席に座るヒューはタキシードではなく、ラフなポロシャツに白のスラックスという、爽やかなのにどこか色気が漂う格好だ。彼は長い指で器用にiPadに表示されている人物の画像を操り、私に説明を続けている。

 私はヒューの様子をチラッと見ながら、考え込んだ。

 この中の誰かがヴァイオレット公爵令嬢である私を殺したらしい。誰がヴァイオレットを無惨な死に追いやったのか、ヴァイオレットになりきって考察しなければならない。

 ――それにしても、サブスクの動画配信サービスのドラマからでも切り取ってきたような人物解説だわ。本当によくできている……。豪華なドレスや宝石を身に纏っていて、彼らはまるで実在の人物みたいに見える。この人たち、このバイトのために本気なのね。

 私は心の中で感嘆していた。ここまで本格的だとこちらも大変だ。

 まもなく夜だった。アパートの隣の部屋に住む小学2年の悠斗とその妹で保育園の年長の結菜が、お母さんに連れられて帰ってきた。3人はチラチラと私の方を皆で見ながらアパートの外階段を上がって部屋に入っていく。学童と保育園から帰ってきて、これから家で夕飯を食べてお風呂に入るのだろう。

 私はぼんやりと3人を目で見送り、ヒューが私にスワイプして見せるiPadの画像に視線を戻した。

「急ぎ足で42人をざっと説明したが、最後はジーニンと僕とサミュエルだ」

 私は時代ものの貴族のような衣装を着たジーニンとヒューを見つめた。二人とも心がときめくほど格好良い。サミュエルは馬車の御者をしていた。

 私はヒューに内心ドキッとしたことを誤魔化そうとした。こういうありがちなバイト先での恋というのは要らない。

「どちらの衣装の方が着ていて楽なの?」
「君がそばにいてくれるなら、僕はどちらでもいいんだ」

 ヒューは真っ赤に頬を染めて突然そんなことを小さな声で呟いた。ちょっと意表をつかれた。そんなくさいセリフをいきなり言う人がいるんだと思った。

「え?」

 私は思わず聞き返した。

 ――これは設定に従ったセリフということよね?ヒューは私の元婚約者という設定だから、こういうことを言うのは当たり前なのかもしれない。でも、ドキドキした。

「今説明した人物のうちの誰かが君を裏切って、処刑させるように仕向けた。結果的に君は殺された」

 ヒューは私の顔を見つめながら言った。さっきと打って変わって怖いセリフだ。私の心臓がちくっとした。本当のことではないのに、胸がザワザワする。この異世界転生バイトには、こういう妙な胸のざわめきが起こることがある。当たり前かもしれない。毎日毎日ヴァイオレット公爵令嬢として振る舞うことを求められて、ヒューと魔導師ジーニンと御者のサミュエルの言動に合わせていると、時々私の感情が不意に動く。

「私を殺した犯人はヒューも分からないということね?」
「そうだ。僕も分からない」

 私は考え込んだ。

「待って。ヴァイオレット公爵令嬢の私は婚約破棄されたんでしょう?ヒューは私の元婚約者だったのでしょう?ならば、あなたがヴァイオレット公爵令嬢である私に婚約破棄を言い渡したということですよ」

 しばし、不自然な沈黙があった。

「そうだ。僕は騙された。誰かが振り撒いた嘘を見事に信じてしまった。そして君に冷たく婚約破棄を言い渡した。そのことをとても後悔しているんだ。君はそんな人じゃないのに、僕はひどい嘘の方を信じた。僕が君に婚約破棄を言い渡して、挙句のはてに君は処刑された。そんなことがあって言い訳がない。本当に後悔しているんだ。本当にすまない、ヴァイオレット。君のことを今でも愛している。愛していながらどうして君のことを信じてあげられなかったのか……」

 ヒューは苦しそうな表情になり、胸を押さえて声を震わせた。彼の美しい横顔が苦痛に歪み、目から涙が溢れてきて、彼の喉の奥から嗚咽が漏れた。

 ――なんて演技が上手いのかしら。彼は役者になった方がいいかもしれないわ。

 私は思わずヒューの演技に引き込まれて、彼を抱きしめそうになり、運転席で前屈みになって泣く彼の背に手を回し、優しく撫でた。

「ヒュー、許すわ」

 私は思わずささやいた。

「ヴァイオレット」

 私は彼がこちらを見つめる涙の浮かんだ瞳の煌めきに我を忘れた。時が止まったかのように感じた。彼の瞳から落ちた涙をそっと優しく指で拭ってあげた。彼の頬を私の手のひらはそのまま包んだ。またレキュール辺境伯領が頭に浮かんだ。灰色の空と灰色の大地だ。

 20歳で男性経験がまるでない私にはその後どうしたら良いのか分からない。

 ――でも、ヴァイオレット公爵令嬢ならばどうするのだろう?

 私は心臓がドキドキしてきて心拍数が跳ね上がったのを感じた。そのままヒューの唇が近づいてきて――

 ドンドン!

 その時だ。突然、ヒューの車の扉がノックされた。薄暗闇の中で浮かび上がった顔はアパートの大家さんだった。私は思わずポルシェの扉を開けて外に飛び出した。

「すみません、大家さん!」
「家賃は振り込んだのかね?」
「はい、今日大学の講義の終わりに振り込みましたから、明日には確認できると思います。遅れて申し訳ございませんでした!」

 私は頭を下げた。大家さんは高齢の女性だ。人は良いが、決まりごとには厳格だ。今月は1日だけ家賃の支払いが遅れてしまった。反省している。

「そうかね。ありがとう。それにしてもこんな時間にこんな所で若い女性が、男性と車の中で何をしているんだね?」

 大家さんは時々私の親代わりの気分になるらしく、おせっかいな発言をしてくる。

「申し遅れました。彼女の婚約者です。真面目にお付き合いさせていただくつもりです」

 ヒューはポルシェの扉から出てきて、大家さんと私の間に割って入ってきた。

 私は焦ってしまってヒューのポロシャツの裾を思わず引っ張った。ヒューは私を振り向いて、私の手をぎゅっと握って笑顔を向けた。任せてくれという表情だ。任せられないんですが。

「こ……こ……婚約者?いつもの間に?」

 大家さんが驚いた様子で聞き返してくると、ヒューは助手席のドアを開けて私に助手席に座るように促すと、大家さんに頭をサッと下げて運転席に乗り込んできた。

 ポカンと佇む大家さんを駐車場に残したまま、ヒューの車はゆっくりとアパートの駐車場を出て、走り始めた。

「僕らは婚約者だった過去を持つ。あんなこともこんなこともした」

 ヒューは爽やかにハンドルを切りながら私の方をチラッと見て言った。

「あんなこともこんなことも……?」

 私は動揺した。心拍数が気持ち悪いほど跳ね上がる。やっぱりこの人は恋愛詐欺師かもしれない。ヴァイオレット侯爵令嬢が誰に嵌められたか一番よく知っているのは、お人好しのヴァイオレットに婚約破棄を言い渡したヒュー張本人だ。

 このバイト、やっぱり胡散臭いかもしれないと私は思い始めた。目の前の視界が文字通り疑いで暗くなる。ヴァイオレットもヴァイオレットなら、ヒューもヒューだ。ちなみにヒューは王子らしい。転生設定のありがち設定で、ヒューが王子なのには私はちっとも驚かなかったけれど。

 犯人が誰かは知りたいかもしれない。お人よしのスキルだけ高い聖女を嵌めた犯人は誰か。レキュール伯爵領とは何か。ラスボスとは何か。今の疑問点はそれだった。




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