その令嬢、危険にて

ペン銀太郎

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第一部:10-3章:祭と友と恋と戦と(後編)

110話:善意で塗りつぶされた悪行

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カンザキ ミサキ――その名に反応したのはマリアンネだけだった。
別に面識があるわけではないが、人名でこの字並びといえば、彼女は前世で生きていた地域以外は知らない。もしかすると彼女は転生者だったのかもしれない。

しかし、他の者だって動揺はしている。千年以上も昔、一度文明がリセットされたなんて、あまりにもスケールが大きすぎる話だ。よくできた創作話だと思いたい気持ちがあるものの、ハスディの誠実そうな雰囲気が無理矢理に信じさせてくる。

そんな彼女たちの傍で、ネルカだけは別の思考だった。

「あなた…そのことを知ったうえで『多くの人々に幸福を与えようとしている』だなんてよく言えたわね。明らかに…あなたがやろうとしていること…カンザキさんとやらが望んだこと…正反対じゃないの。」

「おやおや、ネルカさんはそう思いますか? 確かに私たち幹部はこの過去を知らされてなお、それでもゼノン教に所属しているような者ばかりです。信仰心など存在しない利害の一致がほとんどですよ。それでも、断言しましょう! 私はカンザキさんを尊敬していますし、幸福のために行動しているのだと!」

「そんなこと信じろって言うのッ!?」

「聖職者として様々な人と過ごし、得た幸せ…見た幸せに偽りはないのです。ただ、それらを捨てたとしても、優先すべき幸せがあった…それだけに過ぎないのですよ。」

「優先すべき…幸せ? あなたの今の行いが、幸せだと、あなたはそう言うの! 王都に魔物を持ち込み、破壊の限りを尽くす、この行為を幸せだと言うの!」

ネルカは善行の為の悪意は仕方ないことと思っている。

しかし、ハスディがこれからやろうとしていると予想できることは、善行に向かうものであるとは微塵も思っていない。むしろ真反対と言えるようなもので、悪意がある者ですら悪行であると認めるような所業のはず。

例えば同じゼノン教の幹部だとしても、シュヒ―ヴルなら「だからどうした?」と宣い、金色の聖女ズァーレであれば「だとしても、しなくてはいけないこと」だと信念を貫くだろう。

だが――

「はい、そうです。」

だが、ハスディには善意しか存在しない。
善意に塗りつぶされた悪行。
そもそも悪いことだという認識が存在しない。


彼は自身の行動に迷いも疑問も持っていないのだ。


人間は歩く動作を、呼吸を、いちいち考えない。
筋肉をどう動かせばいいなど、考えたりしない。
何も考えなくても勝手に動いてしまうものだ。

それと同じように、彼は他人を幸福にする。
いちいちこれが善い悪いを考えたりしない。
何も考えなくても勝手に周囲は幸福になっているのだから。

今回の一件など、彼には疑問の欠片も抱くようなことではない。

「さて、そろそろ時間も良い感じになってきました。皆さんのご理解を頂けなかったのは残念でしたが、計画はこのまま押し進めていきましょう。」

「おい、アンタ…仮に幸せの為だとして…どこに行きつくつもりだ。」

「ナハスさん、そう険しい顔をしなくても大丈夫なのですよ? 私はただ、人類すべてを【楽園】へと送りたいと思っているだけですので。」

「あ? 楽園だぁ?」

「人は善行を積んで死ねば楽園に行きます。しかし、そうでなかった者でも行く方法があるのですよ。それが魔物に殺されること。だからこそ、ゼノン教の考え方は私にとってもちょうどよかったのです。偶然に…目指す先が一緒なのですから。」

「ケッ! だったらここでアンタを止めるだけだ!」

「ハァ…私を止めるだけでは…もう遅いのですが。」

ハスディは手を二度叩く。
すると、まるで地震でも発生したかのように王都全土が揺れた。しかしながら、それが天災ではなく人災によるものだと気付いたのは、四方八方から低くけたたましい獣の咆哮が聞こえたからだ。

ネルカとナハスはハッと互いに顔を見合わせる。そして、ネルカは両手を体の前に突き出すと、その上に足を掛けて跳躍するナハスに合わせて腕を振り上げた。その勢いのまま屋根へと着地したナハスは、王都に起きた異変を見て――


――数十ヶ所から漏れ出る黄色い粉。


――屋根を越す巨体の魔物五体。


――破壊音と土ぼこりが舞い上がる。


そして何より――人々の悲鳴。

「聞こえていますか皆さん…人々の歓喜を…嬉しそうでしょう? 素晴らしい…私はこんなに満たされている。…あぁ、神よ…私を祝福して下さるのですね。」

「……は?」

「ネルカさんは言いましたね? 他人に誇れる人間であれ…と。ならば私は断言しましょう…私は誇れます! 自分は正義だと、誇って言いましょうとも! これが善行であると!」

「黙れ黙れ黙れ…黙れ!」

ハスディは恍惚な表情で天を仰ぎ、両手を広げる。
彼は今、世界の幸せを感じ、そして神に感謝している。

怒り狂って黒魔法により茎根を刈り続けるネルカも、騎士に守られながら恐怖に怯えるエレナも、絶望のあまり地に膝を着け動かなくなってしまったマリアンネも―彼にとっては喜んでいるようにしか見えない。

みんな嬉しそう。ハスディに感謝している。
彼はいつだって善意の塊である。

「もっともっともっと! 幸せな世界を!」

再び魔王の茎根が騎士たちへと襲い掛かった。

対するネルカは剣に黒魔法を纏わせる。
魔王を斬れるほど多くの魔力を使っているのだ。
たった八振り分を消費したころには、魔力は量は底を尽く。

そう、底を尽いたのだ。
しかし、底は限界ではなかった。

今の彼女は黒血卿を殺した時と同じように、意識というものが完全に無くなり、ハスディを殺すという無意識のみで行動している。どんな傷を負おうとも、どれだけの魔力を消費しようとも、どれほどの茎根を斬る必要があろうとも――何も感じない。

あと数秒で、剣は辿り着く。
ゴリ押し勝負ならネルカに分がある。



「ッ!?」



だが唯一、ネルカの意識を戻す事態が存在していた。

彼女の背後で魔王が蕾を開花させたのだ。
黄色く染まった景色に騎士たちは動きを一瞬だけ止め、その隙を突くように全員の口元を根茎が掠め伸びる。魔王にとっては殺すことなど容易であったのだろうが、ハスディが出した命令はそうではない――魔物化だ。

マスクに込めた魔力など、たかが知れている。
魔王の蔦根の前では存在していないようなものなのだ。

見てしまった、見えてしまった、意識が戻ってしまった。

「ダメッ!」

粉のせいでシルエットしか見えないけれど、ただ一人だけ藻搔き苦しむ姿があった。その輪郭が、その位置が、誰なのかネルカは知っている。彼女に生まれた一瞬の隙を魔王は叩き、剣で防いだものの彼女は後方へと吹っ飛ばされた。

「おぉ! どうやら、一人だけ!」

粉が散り、視界が晴れる。
彼女はその人物へと駆け寄り、肩を抱いて揺らした。
周囲にいた者たちは何も変わらず、たった一人だけが変化する。
牙が、角が、爪が――生えようと変化している最中だった。


ネルカはその名を叫んだ。


「エレナッ!」


エレナ・ディードルラ――魔物化の適合者。




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