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◆最終幕 依依恋恋◆
野暮なことせんといて③
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「じゃあ、そろそろ行くね。稽古、頑張って」
「うん。気ぃ付けて帰ってや。俺も早よ着替えんとな」
着物の帯を解きながら、清虎が歯を見せて笑う。名残惜しいが、陸は「またね」と手を振った。
満たされた気持ちでドアを閉め、階段の下に目を向ける。その瞬間、穏やかな気持ちが一気に吹き飛んだ。既に帰ったはずの深澤と女の子の姿が見えて、どういうことだと戦慄する。声を荒げているわけではないが、何やら揉めているような気配がした。
「あ、零のマネージャーさんだ!」
女の子が陸に向かって指をさす。陸はゾッとしながらスマートフォンを取り出した。「こんばんは」と笑顔を作りながら、清虎に『この前コンビニにいた子が外に来てる』と用件だけ送る。
「深澤さん、何があったんですか」
「いや、俺がここから降りて来たのを見たらしくてさ。自分も中に入りたいって。さすがに勝手に通すわけにいかないから、ここで押し問答してたワケ。ところで佐伯くん、マネージャーって?」
「後で話しますね」
困ったように眉を寄せると、深澤は何となく察してくれたようだった。
「ねえ、キミ。夜遅くまで零が出てくるのを待ってたら駄目だよ。危ないし」
「何で? リナは零の彼女なんだよ。待つのが駄目なら、今すぐ会わせてよ」
「彼女……キミが?」
全く予想外の返答に、陸はポカンとしてしまう。リナは当たり前のことを聞くなと言わんばかりに口を尖らせた。
「だって、零はリナだけに優しいもん。この前マネージャーさんも見てたでしょ? 零はリナの好きなものちゃんと知ってて、ミルクティーくれたんだよ。零だって、リナに会いたいに決まってる。だから邪魔しないで」
話の通じなさに頭を抱えたくなる。ミルクティーを渡したのは、単なる偶然に過ぎないのに。
しかし無下にも出来ず、どうしたものかと陸は考え込んだ。
「もう遅いし、俺で良ければ駅まで送るよ? 夜道は危ないからさ」
「えー。お兄さんカッコいいから嬉しいけど、やっぱりダメだよ。零がヤキモチ妬いちゃうもん」
深澤が助け船を出してくれたが、リナは上目遣いで首を傾げるだけでここから動こうとしない。途方に暮れそうになった時、陸のスマートフォンに返信が来た。
『今、じぃちゃんがそっち行ったから、あとは任せて。ホンマごめんな』
メールを読み終わるとほぼ同時に、年配の男性の「お嬢ちゃん」と言う声が聞こえた。
「零は今日、よそで稽古があってね。もうここにいないんだよ。だから、また明日ね」
優しく諭すような声だったが、リナは露骨に顔をしかめた。清虎が「じぃちゃん」と呼ぶ年配の男性は、リナをなだめながら陸に「もう行きなさい」と目配せする。陸は立ち去るのを躊躇ったが、深澤が陸の腕を引いた。
「きっとこういう対応にも慣れているよ。俺たちが残った方がややこしくなるかもしれない。行こう」
そう言われて納得し、陸は会釈して深澤と共にその場を離れた。心配そうに振り返る陸に向かって、老人は笑顔で頷く。
劇場から遠ざかる程に、陸の歩く速度が落ちていった。何とも言えない歯痒さが募り、足取りは重くなる。そんな様子に気付いた深澤は、陸の歩幅に合わせて隣に並んだ。
「人気商売は大変だよね。あ、別に『だから俺にしときなよ』とか言うつもりは無いからね。単純に、苦労が多そうだから心配で」
「大丈夫です、慰めてくれてるのは解りますから。……こんな時、清虎のために何もできない自分がもどかしくて。でも、今まで俺が知らなかっただけで、似たようなことは何度もあったんでしょうね」
今更ながら、清虎について知らないことばかりなのだと実感する。
そもそもあの老人は、清虎の祖父なのだろうか。それともただの劇団員で、あだ名のように「じぃちゃん」と呼んでいるだけだろうか。
清虎に兄弟はいるのだろうか。どんな音楽が好きで、映画は何を観るんだろう。
一番得意な演目は何だろう。清虎が演じる役を、物語を、もっと理解していたい。
「俺、零に再会するまで、演劇関係の情報、全部シャットアウトしていたんです。思い出すのが辛くて。こんなことなら、もっと大衆演劇について勉強しておけばよかった」
「零はきっと、キミが側にいるだけで充分だと思うよ。まぁ、何かしてあげたいって気持ちは解るけどね。それに、今からでも遅くないんじゃないかな。大衆演劇についての勉強」
今からでも遅くないと言われ、陸の中で見えないダイヤルがカチャリと音を立てて回ったような気がした。
陸は立ち止まり、深澤を見上げる。
「深澤さんの助言は、いつも刺さります。それなのに俺……生意気なことばかり言ってごめんなさい。それに、気持ちに応えられなくて」
「いいよもう。これからもさ、俺に出来ることがあったら何でも言ってね」
「それなら、聞いてもらってもいいですか。実は、俺……」
戸惑いながら発した陸の言葉に、深澤は目を見開いた後、静かにうなずいた。
「うん。気ぃ付けて帰ってや。俺も早よ着替えんとな」
着物の帯を解きながら、清虎が歯を見せて笑う。名残惜しいが、陸は「またね」と手を振った。
満たされた気持ちでドアを閉め、階段の下に目を向ける。その瞬間、穏やかな気持ちが一気に吹き飛んだ。既に帰ったはずの深澤と女の子の姿が見えて、どういうことだと戦慄する。声を荒げているわけではないが、何やら揉めているような気配がした。
「あ、零のマネージャーさんだ!」
女の子が陸に向かって指をさす。陸はゾッとしながらスマートフォンを取り出した。「こんばんは」と笑顔を作りながら、清虎に『この前コンビニにいた子が外に来てる』と用件だけ送る。
「深澤さん、何があったんですか」
「いや、俺がここから降りて来たのを見たらしくてさ。自分も中に入りたいって。さすがに勝手に通すわけにいかないから、ここで押し問答してたワケ。ところで佐伯くん、マネージャーって?」
「後で話しますね」
困ったように眉を寄せると、深澤は何となく察してくれたようだった。
「ねえ、キミ。夜遅くまで零が出てくるのを待ってたら駄目だよ。危ないし」
「何で? リナは零の彼女なんだよ。待つのが駄目なら、今すぐ会わせてよ」
「彼女……キミが?」
全く予想外の返答に、陸はポカンとしてしまう。リナは当たり前のことを聞くなと言わんばかりに口を尖らせた。
「だって、零はリナだけに優しいもん。この前マネージャーさんも見てたでしょ? 零はリナの好きなものちゃんと知ってて、ミルクティーくれたんだよ。零だって、リナに会いたいに決まってる。だから邪魔しないで」
話の通じなさに頭を抱えたくなる。ミルクティーを渡したのは、単なる偶然に過ぎないのに。
しかし無下にも出来ず、どうしたものかと陸は考え込んだ。
「もう遅いし、俺で良ければ駅まで送るよ? 夜道は危ないからさ」
「えー。お兄さんカッコいいから嬉しいけど、やっぱりダメだよ。零がヤキモチ妬いちゃうもん」
深澤が助け船を出してくれたが、リナは上目遣いで首を傾げるだけでここから動こうとしない。途方に暮れそうになった時、陸のスマートフォンに返信が来た。
『今、じぃちゃんがそっち行ったから、あとは任せて。ホンマごめんな』
メールを読み終わるとほぼ同時に、年配の男性の「お嬢ちゃん」と言う声が聞こえた。
「零は今日、よそで稽古があってね。もうここにいないんだよ。だから、また明日ね」
優しく諭すような声だったが、リナは露骨に顔をしかめた。清虎が「じぃちゃん」と呼ぶ年配の男性は、リナをなだめながら陸に「もう行きなさい」と目配せする。陸は立ち去るのを躊躇ったが、深澤が陸の腕を引いた。
「きっとこういう対応にも慣れているよ。俺たちが残った方がややこしくなるかもしれない。行こう」
そう言われて納得し、陸は会釈して深澤と共にその場を離れた。心配そうに振り返る陸に向かって、老人は笑顔で頷く。
劇場から遠ざかる程に、陸の歩く速度が落ちていった。何とも言えない歯痒さが募り、足取りは重くなる。そんな様子に気付いた深澤は、陸の歩幅に合わせて隣に並んだ。
「人気商売は大変だよね。あ、別に『だから俺にしときなよ』とか言うつもりは無いからね。単純に、苦労が多そうだから心配で」
「大丈夫です、慰めてくれてるのは解りますから。……こんな時、清虎のために何もできない自分がもどかしくて。でも、今まで俺が知らなかっただけで、似たようなことは何度もあったんでしょうね」
今更ながら、清虎について知らないことばかりなのだと実感する。
そもそもあの老人は、清虎の祖父なのだろうか。それともただの劇団員で、あだ名のように「じぃちゃん」と呼んでいるだけだろうか。
清虎に兄弟はいるのだろうか。どんな音楽が好きで、映画は何を観るんだろう。
一番得意な演目は何だろう。清虎が演じる役を、物語を、もっと理解していたい。
「俺、零に再会するまで、演劇関係の情報、全部シャットアウトしていたんです。思い出すのが辛くて。こんなことなら、もっと大衆演劇について勉強しておけばよかった」
「零はきっと、キミが側にいるだけで充分だと思うよ。まぁ、何かしてあげたいって気持ちは解るけどね。それに、今からでも遅くないんじゃないかな。大衆演劇についての勉強」
今からでも遅くないと言われ、陸の中で見えないダイヤルがカチャリと音を立てて回ったような気がした。
陸は立ち止まり、深澤を見上げる。
「深澤さんの助言は、いつも刺さります。それなのに俺……生意気なことばかり言ってごめんなさい。それに、気持ちに応えられなくて」
「いいよもう。これからもさ、俺に出来ることがあったら何でも言ってね」
「それなら、聞いてもらってもいいですか。実は、俺……」
戸惑いながら発した陸の言葉に、深澤は目を見開いた後、静かにうなずいた。
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