会いたいが情、見たいが病

雪華

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プロローグ

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 九月も今日で終わると言うのに、夜になってもまだ空気は生ぬるかった。混み合う電車から吐き出され、青白い顔の青年が地下鉄のホームに降り立つ。新品という訳でもないのにスーツを着こなしきれていないのは、彼がまだ社会人二年目だからかもしれない。

 重い足取りで改札を抜け、出口に続くエスカレーターに乗った。足元から顔を上げると、前に立つ人の大きなリュックサックで視界が埋まる。どうやら海外からの観光客らしく、聞こえてくる会話は日本語ではなかった。理解出来ない言語が、ただの音として耳を通過していく。
 そうこうしているうちにエスカレーターの終わりが見えてきて、このまま家まで運んでくれたら楽でいいのにと溜め息を吐いた。

 地上に出て少し歩くと見えてくるのは、黒、柿色、萌葱もえぎの三色を繰り返した演芸ホールの看板と、派手派手しいネオンの激安量販店。その先には大きな鳥居もあった。閑静とは程遠い猥雑さだが、青年はそれが心地良いと感じる。

 浅草寺を中心に栄えた新旧入り乱れる町、浅草。
 言わずと知れた観光地が、青年の降り立った駅であり、生まれ育った町だった。 
 疲れた体は惰性で動き、何も考えずとも勝手に足が交互に出る。

「お兄さん、だいぶお疲れだねぇ。今日はもう終わっちゃったけど、芝居なんてどう? 気分転換になるよ」

 余程心許ない歩き方をしていたのか、交番の横を通り過ぎた時、凛とした声に呼び止められた。喧騒の中でも良く通る声は、さすが役者と思わせる。差し出されたチラシは近くの大衆劇場のもので、華々しい役者の写真が並んでいた。

「ごめんなさい、気分じゃないので」

 目を伏せたままそう答えると、チラシも受け取らず逃げるようにその場から離れた。
 どこからか金木犀の香りがする。
 この匂いは苦手だ。
 むせ返るような甘くて強い香りは、遠い日の出来事を呼び起こしてしまう。

 振り切るように歩く速度を上げ、昼間とは打って変わって人影の少なくなった通りを進む。
 青年は一軒の居酒屋の前で足を止め、古めかしい引き戸を勢いよく開けた。焼き鳥の香ばしい匂いと炭火の煙は、金木犀の香りを一瞬で追い払ってくれる。
 自分の安全地帯を守るように、青年はすぐに引き戸をぴしゃりと閉めた。荒々しい物音に、カウンターの中に立つ若い店主がまな板から視線を上げ、青年の顔を見て片眉を上げる。

「陸、おかえり。お前、いつにも増して顔色が悪いなぁ。具合でも悪いのか?」

 名前を呼ばれた青年は、首を横に振りながらふらふらと進み、カウンター席に腰を下ろす。

「何でもないよ。ただ……」
「ただ?」
「金木犀の匂いが嫌で」

 その言葉に店主の表情が一瞬だけ曇ったが、それ以上は何も聞かずに瀬戸焼の小鉢を陸の目の前に置いた。

「今日のお通しは、お前の好きな白子のねぎポン酢。飲物はビールで良い?」
「うん。……ありがと、哲治てつじ

 この季節になると、十五の頃を思い出す。
 乾いた空気と高い空。一ヵ月間だけ転入してきた、旅役者の男の子。
 
 二度と書き換えられない残酷な記憶。
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