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7章 誰か為の涙
5.
しおりを挟む演舞に、太鼓に、詩歌の披露。華やかな初夏の宴は、誰一人飽きさせることなく次々に進行していく。それらがひと息ついたところで、今度は宮廷料理人が腕によりをかけた品々が、女官らの手によって次々と運ばれる。
見た目も華やかな豪勢な会食に舌鼓を打ち、皆が満足した頃。箸を置いた紅焔に、永倫が近づき耳打ちした。
「陛下。香丞相より、ご報告があると」
見れば、垂れ幕に隠れるように丞相が立ち、紅焔の視線に気づくと両手を掲げて拝礼した。
嫌な予感がしつつ紅焔がそちらに向かうと、丞相は驚くべきことを口にした。
「何? 笛の奏者が、負傷した?」
「左様にございます。閉幕の演奏は難しいかと……」
昼餐会のあと、笛と琴の演奏が予定されている。ところが丞相によれば、笛の奏者が演舞を披露した演者と運悪く衝突し、転んで手首を痛めたという。打ちどころが悪かったらしく、本日の演奏は難しい状態だ。
紅焔は驚いたが、事故であるならやむを得ないことだ。それに、演目次第はあらかじめ綿密に練られているとはいえ、ひとつなくなったぐらいでどうということはない。
「仕方ない。次の演目を早めるなり、対処しろ」
「いえ。笛と琴の演奏は、予定通り行います」
「代理を立てるということか?」
園遊会に集う人々は、目も耳も口も肥えた者たちだ。そうほいほいと代理を務められるものがいるとも思えない。そもそも、代理がほどよく見つかったなら、わざわざ丞相が皇帝に伝えにきたのはなぜだろう。
そう疑問に思って問い掛ければ、丞相は何やら言葉を濁したがっているように眉根を寄せた。
「幸いに、代わりの奏者は見つかりました。ただ……、その者は陛下もよく知る人物ゆえ、先にご報告せねばならぬと思い、こうしてお呼びたてした次第にございます」
――そうして奏者として出てきたのは、たしかに紅焔がよく知る顔であり、同時に思いもよらぬ人物だった。
(まさか、ここで胡伯が出てくるとはな……)
緊急の代理であるのに、それをまったくお首にも出さず澄ました顔で壇上に登った美しい男を、紅焔は感心半分、呆れ半分に見守る。
大商人の息子として幼い頃から鍛えられ、金と権力を備えた豪族と渡り合う術を徹底的に叩き込まれてきた彼は、笛の演奏も一定覚えがある。騒ぎを知った胡伯から、丞相にそう売り込みがあったそうだ。
その前情報通り、これだけ大勢の要人の前に出ても、琥珀は堂々としている。おまけに式典用の華やかな装束――元の奏者から借りたらしい――のおかげで、彼はいつにも増して麗しい。流し目をくらった女官が、「きゃあ」と小さく悲鳴をあげて赤面した。
これは確実に、宮廷に恩を売ることで、次の商談に繋げる腹づもりなのだろう。そのように紅焔が苦笑していると、気づいた藍玉が、そっと囁いた。
「もしかして、知っている方ですか?」
「城に出入りを許している交易商人だ。君の着物を用立てたのも、あの男だよ」
「ああ、あの方が」
一瞬女かと見紛うような中世的な顔立ちではあるが、胡伯は立派な男だ。重用する商人とはいえ、後宮に入ることまでは許していない。だから、藍玉が直接胡伯を見るのは初めてだ。
「なるほど。春陽宮の女官たちが熱を上げるのもわかります」
「いつのまにそんなことになったんだ?」
「旦那さまの指示で、なんどか春陽宮にきたでしょう。取り次いだ侍女が騒ぐものだからあっという間に噂になって、着物を納めに来た時にはちょっとした騒ぎですよ」
「ああ……。後宮は基本、男子禁制だしな」
「そのうえ、あんなにも見目麗しい殿方なのです。騒ぎにならないわけがありませんね」
おかしそうな口ぶりの藍玉に反して、紅焔はむっと唇を尖らせた。
「随分褒めるじゃないか。ああいう顔が好みなのか?」
「世間一般的な褒め言葉です。何かまずかったですか?」
「別に。なんでもない」
首を傾げる藍玉から、紅焔はむすりと視線を逸らす。藍玉は不思議そうにしていたが、やがて面白いものを見つけたようににまりと笑って、紅焔に身を寄せた。
「見目の良さは、旦那さまも負けていませんよ。むしろ、私の中では旦那さまに軍配があがっています」
「は?」
「ほら、旦那さま。演奏が始まりますよ」
思わず振り返った紅焔を華麗に流して、藍玉が前を指差す。どうやら、からかわれたらしい。楽しそうでなによりだが、こちらとしては弄ばれた気分だ。
(こいつめ……、いつか見ていろよ)
藍玉を恨めしく睨んだ紅焔が、仕方なく正面に視線を戻すのと、胡伯が笛に薄い唇をつけるのが一緒だった。
――伸びやかに、細い旋律が遠い青空へと響き渡る。その笛の音と絡まり合うように、琴の奏者も弦を弾く。
宴にふさわしく艶やかで、それでいてどこか物悲しい音色は、悔しいが文句のつけようがない。耳の肥えた高官らも、純粋に聞き入っているように見える。
その時、ポツリと鼻の頭に水があたった。
「雨……?」
隣の藍玉が、空を仰ぐ。つられて紅焔も空を見上げた。
頭上に広がる空は、変わらず晴れている。珍しくはあるが、晴天で雨だけが降ることはままある。これなら、式典を中断する必要はないだろう。
安堵して正面に顔を戻したら、ソレは、いた。
「誰、だ?」
誰かが漏らした間の抜けた声が、笛の音が止んだ空間に響く。胡伯も、琴の音の奏者も、ほかの参列者も。誰もが突如現れた人物に視線を注いでいた。
――皆が見つめる先、笛と琴の奏者がいる演台と皇帝の席の間のちょうど真ん中くらいの場所に、ひとりの背高の武人が立っている。
武人とわかるのは、細身だが鍛え上げられた体格と、その身を覆う鎧のせいだ。だが奇妙なことに、男が纏う鎧は、瑞国に属するどの軍のものとも一致しない。顔も、腰まで届く長髪に隠れて、異様な雰囲気を放っている。
「陛下をお守りしろ!」
最初に我に返ったのは、永倫たち護衛武官だった。武具を手に飛び出してきた彼らは、紅焔と藍玉を背中に庇い、長身の男に相対する。
紅焔は、長身の男が矛を持っていることに遅れて気づいた。殺気を纏わず、鋭い切先を地面に向けているせいですぐには気づけなかった。
何者だ。いつのまに、皆の前に姿を見せた。焦る紅焔だったが、隣の藍玉の様子がおかしいことに気づいた。
「うそ。なんで。そんな、だって……」
「藍玉、どうした!」
「ありえません。だって、あのひとは……!」
「答えてくれ。あれが何者か、君は知っているのか?」
紅焔が肩を揺さぶると、藍玉はもともと大きな目をますます見開き、震える声でその名を告げた。
「劉生兄さま……!」
(蘇芳帝の異母弟、華劉生だと!?)
カラクリ人形がゆっくり動くような不自然さで、男の首から上だけが奇妙に持ち上がる。
艶のない黒髪が割れて、眉目秀麗な細面が現れた。そうやって顔を上げた途端、男は――華劉生は、この世の憎悪をすべて煮詰めたようなおぞましい笑みを浮かべた。
「っ、ひぃ!」
男の顔をうっかり目にしてしまった大臣が、怯えて席を転げ落ちる。
それが奇妙な均衡を破った。武具を手に、華劉生に斬りかかったのは、護衛武官の長である永倫だった。
「曲者め。目的は知らないが、園遊会を荒らした罪、その命で償ってもらうぞ!」
「待て、永倫!」
本当に、男は華劉生なのか。華劉生だとしたら、彼は幽霊なのか。なぜ急に、紅焔らの前に姿を見せたのか。
聞きたいこと、知りたいことが山ほどある。そもそも、男が華劉生の霊だとしたら、斬りかかっても意味などない。却って事態を悪くする危険すらある。
そう思って紅焔は永倫を止めたのだが、幼馴染の耳に制止の声は届かなかった。
「やあああああ!」
気合いと共に、永倫が武具を振り下ろす。その勢いたるや、鋼が肉を打つ鈍い音が響くかと思われた。
しかし武具があたった途端、男の身体に煙が割れるようにして切れ目が入った。
「手応えが、ない……?」
戸惑う永倫が、勢いそのまま武具を振り抜いた。軌道そのままに、男の身体が二つに割れる。
男は歪んだ笑みを保ったまま、風にかき消えるようにふわりと見えなくなった。
「消えた!?」
「気を抜くな! 妖術の類かもしれん!」
「どこに行ったんだ!? ――まさか、いまのは幽鬼……?」
「きゃああああああ!!!!!!」
ざわめく人々の声を、絹を裂くような悲鳴が遮った。
(今度はなんだ!)
思わず立ち上がった紅焔は、悲鳴をした左手側の席列を見た。そのあたりには、前列に大臣クラスの要職を司る高官と、その家族が連なっている。
悲鳴を上げたのは、蘇大臣の後ろに控えていた女房のようだ。見れば、女房はその腕に気を失った娘を抱えている。
「姫さま! 姫さま!」
(たしかあれは、蘇大臣の一の娘、凛風姫だったか)
半狂乱になる女房の腕の中でぐったりと倒れる娘を見て、紅焔は眉根を寄せた。大臣が連れてくるだけあって目鼻立ちのはっきりした美しい娘で、薄紅色の衣が彼女の愛らしい雰囲気によく似合っていた。
幽鬼騒動に恐怖した年若い姫が気を失い、その女房が狼狽したというところだろうか。紅焔が興味を失いかけた時、振り返って娘の様子を確かめた蘇大臣が気味が悪そうに声を顰めた。
「なんだ、この人形は……?」
「ひっ!」
蘇大臣の声で何かに気づいた女房が、短い悲鳴をあげる。皆の注目が集まる中、蘇大臣が恐々と何かに手を伸ばす。
だが。
「触れてはなりません!」
鋭い制止が、ピリリと響き渡る。蘇大臣がギョッとしたように肩を揺らして止まり、誰もが声の主――藍玉へと視線を向けた。
驚いた紅焔も、藍玉を振り返る。先ほど見せていた深い動揺の色は、今の彼女からはすっかり消えている。
大勢の視線を向けられた藍玉が、懐紙を取り出す。何かを呟いてから――おそらく術を結んだのだろう――藍玉はぱさりと懐紙を落とし、何かを包んで拾い上げた。
「蘇大臣が見つけたのは、こちらの人形です。同じものが、私と――旦那さまの前にも落ちていました」
藍玉に差し出されたそれを見て、紅焔は息を呑んだ。
それは狐の面をした、木彫りの人形だった。
狐の面の人形に、姿を消した男の霊と同じ、長く湿った黒髪が幾重にも絡み付いていた――。
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