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6章 雨濡れの迷い子
14.
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小柄で華奢な体に、どれほどの決意をひとりで背負ってきたのだろう。彼女のこれまでに思いを馳せるほど、そのいじらしさにギュッと胸が苦しくなる。
藍玉の細い体を抱きしめたくなって、紅焔は一瞬の間のうちに散々葛藤してから、彼女の肩に手を添えるに留めた。
(こいつは、俺がどれほど我慢をしているか気づいていないだろうな)
胸の奥にくすぶる熱を溜息でそっと逃しつつ、無防備に寄りかかる藍玉の頭を紅焔はうらめしく睨む。
彼女が麓姫の生まれ変わりだと知る前は、自分の気持ちを正直に伝えるつもりだった。けれども真実を知ったいま、そんなことをしたら藍玉が自分の前から再び姿を消そうとするのではないかと、迷いが生じている。
なにより――藍玉から「阿美妃の魂を慰め、解放する」という目標を打ち明けられたことで、紅焔の中にも新たな道標が生まれた。
楽江に真の平和をもたらすことは李家の悲願であり、呪いを解くことはその大きな前進となる。父と兄の代わりに瑞国に恒久の平和をもたらすことを矜持とする紅焔としても、楽江の呪いを解くまでは藍玉との契約を続ける必要ができてしまった。
(だから、万に一つも藍玉が逃げ出さないように、こっちは必死に彼女への気持ちを隠そうとしてるというのに……。まさか、俺の決意を試して遊んでるんじゃないだろうな?)
さすがに荒唐無稽だとは思うが、そんな恨みごとまで頭に浮かんでしまう。
なんにせよ、いつまでも無防備に密着されるのは生殺しだ。己の胸にもたれたまま動かない藍玉を、紅焔はいい加減引き離そうとした。
けれども紅焔が彼女の肩に置いた手に力を入れるより先に、藍玉が水晶のような瞳でついと紅焔を見上げた。
「甘えるといえば。旦那さまこそ、フェアではないのではないですか?」
「っ! なんのことだ?」
目が合ったことに動揺しつつ紅焔が答えると、藍玉は拗ねたように眉根を寄せる。
「さっきの、梁大将への言葉です。旦那さまが素直に甘えられる相手は梁大将だけと、そう言ったでしょう」
「そんなこと言ったか?」
「言いました。あれ、少しだけ腹が立ちました」
――その時、一陣の風が二人の間を駆け抜けた。彼女の艶やかな黒髪が舞い、月明かりを受けた薄水色の瞳がきらりと輝く。
薄闇の中に際立つ少女の美しさに目を奪われる紅焔に、藍玉は白い肌をわずかに染めて、微かに緊張の滲む声でこう答えた。
「私と旦那さまは…………紅焔様は、これでも夫婦なのです。夫なら、少しは妻に弱みを見せてくださってもよろしいのではないですか?」
一瞬、世界から音が消えたような心地がした。
藍玉の潤んだ瞳に魅入られたように、身動きをすることすらできない。胸の痛みが鼓動の高鳴りによるものだと気づいた途端、ぶわりと顔が熱くなった。
まずい。そう思った時にはすでに遅く、藍玉のもともと大きな目がますます開かれた。
「あ、あの、旦那さま……?」
吸い寄せられるように彼女の頬に手を添えると、藍玉の肩がぴくりと揺れた。だが、そこまでしても彼女の瞳には警戒のかけらもない。
それが無償に腹立たしくて、もどかしい。紅焔は月の光から藍玉を隠そうとするように、覆い被さるようにして彼女を見下ろした。
「君は、俺を試しているのか?」
「え?」
「……本当の夫婦がどういうものか、まさか知らないわけじゃないだろう?」
最後の警告のつもりで、紅焔がぐいと顔を近づける。その時になって、初めて藍玉は狼狽した。
視線を彷徨わせる藍玉に、少しだけ溜飲が下がる心地がする。けれど、それも一瞬のこと。手を振り払って怒り出すと思われた藍玉が、こちらに顔を向けたままキュッと目を閉じたので、今度は紅焔が動揺する番だった。
(なぜ……)
逃げ出すでもなく、振り払うでもなく。ただ緊張を滲ませてじっと待つ藍玉の姿に、まるで己の熱を受け入れてもらえたと錯覚しそうになる。
なにより、好いた女のこんなにも無防備な姿を目の前にして、これ以上我慢ができるわけもない。
ごくりと息を呑んで、紅焔は意を決した。
(――もう、どうなっても知らないからな)
慎重に、丁寧に。彼女を傷つけてしまわないよう、紅焔はゆっくりと身を屈める。
世界から切り離されたような月明かりの下、二人のシルエットが控えめに重なろうとする――
けれども唇が触れあう刹那、場違いに明るい声が二人の間に飛び込んできた。
「姫さまぁー! 旦那さまぁー!」
「うわぁぁぁぁあ!?」
「はわわわわわぁ!?」
悲鳴をあげると同時に、二人は目にも止まらぬ速さで後ろに飛び退った。おかげで声の主――暗闇の奥からぴょこぴょこと跳ねながら現れた宗は、ドギマギと顔を背けあう紅焔たちを見上げて首を傾げた。
「お迎えに来ましたよー! ……って、あれ? 姫さまも旦那さまも、よく見たら顔赤くない?」
「っ、ばっか、そんなわけあるか!」
「そ、そうです! お前の見間違えです!」
紅炎だけではなく、藍玉までもが食い気味に否定する。明らかに様子のおかしい二人だが、宗は素直に瞬きした。
「そーお? なら、いいんだけど……。二人ともちっとも戻ってこないから、玉が落ち着かなくて尻尾の毛をむしり始めちゃって。それで僕が来たんだけど、うまく会えてよかったー。ささ! 春陽宮に帰りましょ」
屈託なく笑う宗の言葉に、紅焔は青ざめた。
さっきは危なかった。危なかったというか、ダメだった。なんかもう、色々と線引きを飛び越えていた。
(こんな状態で、何事もなかったように藍玉と一夜を過ごせというのか……?)
侍従たちには、今夜は春陽宮に泊まると告げてきた。普段ならこのまま、文字通りの意味で、藍玉と「共寝」をして夫婦演技をするつもりだった。
だが、今夜は色々とよろしくない。こんなにも境界線が危うくなった状態で。気を抜けば藍玉の頬の熱を思い出してしまいそうなコンディションで。彼女と共寝などすれば、それこそ何をしでかすかわかったもんじゃない。
(共寝どころか、彼女と二人きりになっただけで、また暴走する自信しかない……!)
胸の内で頭を抱えつつ、宗の純粋な眼差しから逃げるように紅焔は目を逸らした。
「…………そのことだが。今夜は紫霄宮に帰ることにした」
「えー! 急になんで? どうして? 旦那さまのごはん、一応下げないでおいたんだよ?」
「ありがたいが、今夜中に片付けなければならない読み物を思い出したんだ」
「ダメですよ、宗。旦那さまはお忙しいのです」
不満そうな宗が食い下がろうとするが、藍玉がさかさず諌める。やはり彼女も、このまま夜を共に過ごすのは気まずかったようだ。その事実にチクリと胸が痛んだが、藍玉の顔をまともに見ることさえできなかった。
「というわけだ。藍玉、周光門の霊のことは、また雨が降った夜に」
「そ、そうですね。旦那さまが戻られることは、春陽宮から侍従長に報せを送っておきましょう」
「手間をかけるが、ありがたい。……ではな。良い夜を」
「旦那さまも……おやすみなさいませ」
ろくに視線も合わせないまま、紅焔は逃げるようにその場を立ち去る。足早に砂利道を急ぎながら、紅焔はまだ熱の残る頬を手の甲で拭った。
(なぜ、藍玉はあんな……っ)
緊張に身を固くしながらも、すべてを預けるように瞼を閉じた藍玉の愛らしい顔が、頭に焼きついて離れない。
少しでも藍玉に拒む様子があれば、紅焔は己を律することができた。けれども、藍玉はそうしなかった。
いや、もしかしたら心の中では紅焔を罵倒していたのかもしれないが、少なくとも紅焔には、藍玉が口付けを許したかのようにしか見えなかった。
よくない。本当に、よろしくない。
思い返せば、思い返すほど。自分に都合の良い夢想を、描いてしまいそうになる。
「君が止めてくれないと、俺は……」
今更のように胸が苦しくなり、紅焔はズルズルとその場にしゃがみ込む。
この胸のざわめきは、しばらく収まってくれなそうだ。
藍玉の細い体を抱きしめたくなって、紅焔は一瞬の間のうちに散々葛藤してから、彼女の肩に手を添えるに留めた。
(こいつは、俺がどれほど我慢をしているか気づいていないだろうな)
胸の奥にくすぶる熱を溜息でそっと逃しつつ、無防備に寄りかかる藍玉の頭を紅焔はうらめしく睨む。
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なにより――藍玉から「阿美妃の魂を慰め、解放する」という目標を打ち明けられたことで、紅焔の中にも新たな道標が生まれた。
楽江に真の平和をもたらすことは李家の悲願であり、呪いを解くことはその大きな前進となる。父と兄の代わりに瑞国に恒久の平和をもたらすことを矜持とする紅焔としても、楽江の呪いを解くまでは藍玉との契約を続ける必要ができてしまった。
(だから、万に一つも藍玉が逃げ出さないように、こっちは必死に彼女への気持ちを隠そうとしてるというのに……。まさか、俺の決意を試して遊んでるんじゃないだろうな?)
さすがに荒唐無稽だとは思うが、そんな恨みごとまで頭に浮かんでしまう。
なんにせよ、いつまでも無防備に密着されるのは生殺しだ。己の胸にもたれたまま動かない藍玉を、紅焔はいい加減引き離そうとした。
けれども紅焔が彼女の肩に置いた手に力を入れるより先に、藍玉が水晶のような瞳でついと紅焔を見上げた。
「甘えるといえば。旦那さまこそ、フェアではないのではないですか?」
「っ! なんのことだ?」
目が合ったことに動揺しつつ紅焔が答えると、藍玉は拗ねたように眉根を寄せる。
「さっきの、梁大将への言葉です。旦那さまが素直に甘えられる相手は梁大将だけと、そう言ったでしょう」
「そんなこと言ったか?」
「言いました。あれ、少しだけ腹が立ちました」
――その時、一陣の風が二人の間を駆け抜けた。彼女の艶やかな黒髪が舞い、月明かりを受けた薄水色の瞳がきらりと輝く。
薄闇の中に際立つ少女の美しさに目を奪われる紅焔に、藍玉は白い肌をわずかに染めて、微かに緊張の滲む声でこう答えた。
「私と旦那さまは…………紅焔様は、これでも夫婦なのです。夫なら、少しは妻に弱みを見せてくださってもよろしいのではないですか?」
一瞬、世界から音が消えたような心地がした。
藍玉の潤んだ瞳に魅入られたように、身動きをすることすらできない。胸の痛みが鼓動の高鳴りによるものだと気づいた途端、ぶわりと顔が熱くなった。
まずい。そう思った時にはすでに遅く、藍玉のもともと大きな目がますます開かれた。
「あ、あの、旦那さま……?」
吸い寄せられるように彼女の頬に手を添えると、藍玉の肩がぴくりと揺れた。だが、そこまでしても彼女の瞳には警戒のかけらもない。
それが無償に腹立たしくて、もどかしい。紅焔は月の光から藍玉を隠そうとするように、覆い被さるようにして彼女を見下ろした。
「君は、俺を試しているのか?」
「え?」
「……本当の夫婦がどういうものか、まさか知らないわけじゃないだろう?」
最後の警告のつもりで、紅焔がぐいと顔を近づける。その時になって、初めて藍玉は狼狽した。
視線を彷徨わせる藍玉に、少しだけ溜飲が下がる心地がする。けれど、それも一瞬のこと。手を振り払って怒り出すと思われた藍玉が、こちらに顔を向けたままキュッと目を閉じたので、今度は紅焔が動揺する番だった。
(なぜ……)
逃げ出すでもなく、振り払うでもなく。ただ緊張を滲ませてじっと待つ藍玉の姿に、まるで己の熱を受け入れてもらえたと錯覚しそうになる。
なにより、好いた女のこんなにも無防備な姿を目の前にして、これ以上我慢ができるわけもない。
ごくりと息を呑んで、紅焔は意を決した。
(――もう、どうなっても知らないからな)
慎重に、丁寧に。彼女を傷つけてしまわないよう、紅焔はゆっくりと身を屈める。
世界から切り離されたような月明かりの下、二人のシルエットが控えめに重なろうとする――
けれども唇が触れあう刹那、場違いに明るい声が二人の間に飛び込んできた。
「姫さまぁー! 旦那さまぁー!」
「うわぁぁぁぁあ!?」
「はわわわわわぁ!?」
悲鳴をあげると同時に、二人は目にも止まらぬ速さで後ろに飛び退った。おかげで声の主――暗闇の奥からぴょこぴょこと跳ねながら現れた宗は、ドギマギと顔を背けあう紅焔たちを見上げて首を傾げた。
「お迎えに来ましたよー! ……って、あれ? 姫さまも旦那さまも、よく見たら顔赤くない?」
「っ、ばっか、そんなわけあるか!」
「そ、そうです! お前の見間違えです!」
紅炎だけではなく、藍玉までもが食い気味に否定する。明らかに様子のおかしい二人だが、宗は素直に瞬きした。
「そーお? なら、いいんだけど……。二人ともちっとも戻ってこないから、玉が落ち着かなくて尻尾の毛をむしり始めちゃって。それで僕が来たんだけど、うまく会えてよかったー。ささ! 春陽宮に帰りましょ」
屈託なく笑う宗の言葉に、紅焔は青ざめた。
さっきは危なかった。危なかったというか、ダメだった。なんかもう、色々と線引きを飛び越えていた。
(こんな状態で、何事もなかったように藍玉と一夜を過ごせというのか……?)
侍従たちには、今夜は春陽宮に泊まると告げてきた。普段ならこのまま、文字通りの意味で、藍玉と「共寝」をして夫婦演技をするつもりだった。
だが、今夜は色々とよろしくない。こんなにも境界線が危うくなった状態で。気を抜けば藍玉の頬の熱を思い出してしまいそうなコンディションで。彼女と共寝などすれば、それこそ何をしでかすかわかったもんじゃない。
(共寝どころか、彼女と二人きりになっただけで、また暴走する自信しかない……!)
胸の内で頭を抱えつつ、宗の純粋な眼差しから逃げるように紅焔は目を逸らした。
「…………そのことだが。今夜は紫霄宮に帰ることにした」
「えー! 急になんで? どうして? 旦那さまのごはん、一応下げないでおいたんだよ?」
「ありがたいが、今夜中に片付けなければならない読み物を思い出したんだ」
「ダメですよ、宗。旦那さまはお忙しいのです」
不満そうな宗が食い下がろうとするが、藍玉がさかさず諌める。やはり彼女も、このまま夜を共に過ごすのは気まずかったようだ。その事実にチクリと胸が痛んだが、藍玉の顔をまともに見ることさえできなかった。
「というわけだ。藍玉、周光門の霊のことは、また雨が降った夜に」
「そ、そうですね。旦那さまが戻られることは、春陽宮から侍従長に報せを送っておきましょう」
「手間をかけるが、ありがたい。……ではな。良い夜を」
「旦那さまも……おやすみなさいませ」
ろくに視線も合わせないまま、紅焔は逃げるようにその場を立ち去る。足早に砂利道を急ぎながら、紅焔はまだ熱の残る頬を手の甲で拭った。
(なぜ、藍玉はあんな……っ)
緊張に身を固くしながらも、すべてを預けるように瞼を閉じた藍玉の愛らしい顔が、頭に焼きついて離れない。
少しでも藍玉に拒む様子があれば、紅焔は己を律することができた。けれども、藍玉はそうしなかった。
いや、もしかしたら心の中では紅焔を罵倒していたのかもしれないが、少なくとも紅焔には、藍玉が口付けを許したかのようにしか見えなかった。
よくない。本当に、よろしくない。
思い返せば、思い返すほど。自分に都合の良い夢想を、描いてしまいそうになる。
「君が止めてくれないと、俺は……」
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