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6章 雨濡れの迷い子
4.
しおりを挟む藍玉がムッとしたのは、紅焔が自分を『妃よけのダシ』に使うつもりだと思ったからだろう。
藍玉の見立ては半分正解であり、半分不正解だ。
(この問題はいずれ起こるとわかっていたが、予想以上に煩わしい……)
こめかみを押さえたくなるのを我慢して、紅焔は玉座からズラリと並ぶ官吏たちを見下ろす。場所は瑞国の内省の中心たる正殿。まさにいま、官人らとの議事を執り行っている。
頻繁に開かれる百官との御前会議において、最近ほぼ毎回と言っていいほど話題に上がるのが、後宮についてだ。
「恐れながら、陛下。瑞国の恒久の繁栄を願い、重ねて申し上げます。――どうか後宮を開き、春陽妃様以外にも妃をお迎えください。そして一日でも早く、皇子をお作りください」
そう上申するのは、財政などを司る秦大臣だ。秦家は香家に次ぐ大貴族であり、官人にも秦家に連なる者が大勢いる。香家の娘だけが後宮入りしたことが気に入らないようで、後宮問題を最も多く話題に上げるのはこの男だ。
皇帝が肘掛けに身を預けたまま静観の姿勢をとっていること確認してから、藍玉の叔父で丞相――香俊然が口調こそ穏やかに切り返す。
「後宮については、先日も陛下より、向こう一年は新たな妃を迎える意思はないとお言葉を賜ったと記憶しているが?」
「もちろん忘れてなどいない。その上で、一日も早く陛下の御世を継がれる皇子を切望し、重ねて申し上げておる」
「陛下の春陽妃様へのご寵愛は宮中の皆が知るところだ。そう案じなくても、じきに元気な皇子がお生まれになるだろう」
「そのようなことを言って、春陽妃様が後宮に入られてから数ヶ月、懐妊の兆しが一向にないではないか!」
秦大臣に同調して、別の官人からも「何卒!」「一日でも早く、お世継ぎを!」と声が上がる。大勢が並ぶためいちいち確認はしないが、間違いなく秦家に連なる者たちだ。
煩わしい。もう一度そう胸の中でつぶやいて、紅焔は小さく嘆息した。
皇帝の世継ぎ問題を装った、官人らの勢力争い。これこそ、最近、紅焔を悩ませている問題だ。
現在、後宮にいる妃は春陽妃である藍玉ひとり。すぐに使える状態ではないとはいえ、上級妃の宮は、夏陽宮、秋陽宮、冬陽宮の三つが空いている。
これに対し、「香家の娘が後宮にいるなら、我が一族の女もぜひ皇帝のそばに」と上級官人らが色めきだっている。
(もとはといえば、いまのこの状況を防ぐという目的もあって、藍玉を形ばかりの妃として扱うつもりだったんだがな)
初めて春陽宮を訪れ、藍玉を突き放した夜。紅焔にはふたつの思惑があった。
ひとつは、純粋に香家への警戒だ。あの頃の紅焔は、追放した父が皇帝の座を奪い返そうと狙っていると疑っていた。香家は先代皇帝・流焔とも関わりが深く、香丞相ですら信じられなかった。だから疑いがはれるまでは、藍玉とも深く関係を結ぶつもりはなかった。
そしてもうひとつは、香家以外の名家への牽制だ。
紅焔は若く、しかも父から玉座を奪った簒奪の皇帝だ。かつて共に戦場を駆けた兵部からの支持は厚くとも、ほかの省庁においては盤石な基盤を築けているとはいえない。
そんな中で下手に後宮を開けば、新たな争いの火種になりかねない。だから紅焔は、自分自身が気乗りするとかしないとかを抜きにも、後宮に複数の妃を抱えるつもりはなかった。
とはいえ、瑞国随一の名家で多数の官人を輩出する香家の娘まで無碍にはできない。しかし、ひとりでも妃を許せば、他の家が黙ってはいないだろう。
そのジレンマを打破するための苦肉の策が、香藍玉をお飾りの妃に据えるという方法だった。
香藍玉を第一妃である春陽妃に迎え入れることで、香家の顔を立てる。一方、紅焔が春陽妃との関わりを最低限に抑えることで、「皇帝は後宮に関心がない」と態度で示す。そうして、第二、第三の妃を断る口実とする。
冷静になって改めて振り返れば、飼い殺される春陽妃の心を殺しかねない酷い手だ。けれども当時の自分は、大国を治めるという大義の前に本気で非情を貫こうとしていた。
だが、常識外の妃の出現により、紅焔の作戦は瓦解した。白く輝く円陣のもと、襲いくる怨霊に力強く拳を打ち込んだ時、藍玉は運命をも変えてしまった。
あとは振り返るまでもない。お飾りの妃として春陽宮に収められるはずだった香藍玉は、たったひとりの寵妃となった。真実がどうかは関係ない。皆がそう見るなら、そうなのだ。
こうして、事態は面倒くさくなった。様子見をしていた名家の官人たちも、香家に負けじと後宮に妃を送り込み、己の血筋を皇族に入れようと躍起になっている。
(……彼らの要求をのみ、妃を迎えるのは簡単だ。だがそうなれば、確実に藍玉の立場を悪くする)
後宮は毒壺だ。表面上は華やかでも、一皮めくれば女たちの憎悪と嘆きが蠢いている。
他に妃がいなければいい。紅焔がいくら藍玉を尋ねても嘆く者はなく、そのくせいつまで経っても子をなさずとも、では自分こそがと縋り付いてくる者もない。
しかし妃が増えれば、そうも行かなくなる。子を為しもせず皇帝の寵愛を独り占めする藍玉は、憎悪の対象となる。
簡単なのは藍玉を本当の意味で妃とすることだが、あくまで母を解放するという悲願のため後宮に残った藍玉はそんなことは望んでいない。だからといって他の妃が皇子を産めば、それこそ春陽妃としての立場が危うくなる。
(それに俺は、彼女のことが……)
一瞬よぎった甘い考えを、紅焔は軽く首を振って頭から追い出した。
今必要なのは、皇帝としての顔だ。官人たちを捩じ伏せるのに、個の自分は関係ない。
ゆえに紅焔は、巷で信じられる冷酷無慈悲な血染めの夜叉王の仮面を被り、あえて不快げに声を上げた。
「我が妃への侮辱は、私への侮辱と受け止める。それでも、まだこの件について発言する者はいるか」
紅焔が声を上げれば、皆が慌てて口をつぐんだ。大臣に同調して声を上げていた者たちに至っては、さっきまでの威勢が嘘のように縮こまっている。
秦大臣だけは、紅焔の刺すような視線から隠れるように両手を掲げつつも、ごにょごにょと答えた。
「へ、陛下。私は決してその、妃様を侮辱しようなどとは……」
「ならば、その口を閉ざすことだ。これ以上、我が宝を貶されれば、いつまでそなたに慈悲深くあれるか自信がない」
緋色の瞳で冷たく見据えたまま告げれば、秦大臣は「ひっ」と小さく悲鳴をあげる。
他の、必死に皇帝と目を合わせないように顔を伏せている者たちを見渡して、紅焔は声を張り上げた。
「皆も覚えておけ。次に妃について意見する者が現れた時、私はその者を、代償を払う覚悟のある者とみなす。命を散らしてでも別の妃をあてがいたいと望むのならば、私はその者に喜んで耳をかそう」
今度こそ、口を開く者は誰もいなかった。皆が皆、頭を垂れ、皇帝に服従の意を示している。
――これでいい。香藍玉への寵愛をとことん露わにし、ほかの娘の後宮入りをはねつける。藍玉が寵妃として認識されてしまった以上、これこそが藍玉を守る最善だ。
たとえ自己満足だとしても。いずれ己の元を去っていく妃だとしても。自分が、そうしたいと願うのならば。
(だから安心して、君は好きにすればいい。これが、君と契約を結んだ俺の覚悟だ)
誰に告げるでもなく、ひとり胸のうちにそう秘めてから、紅焔は次の議題へと耳を傾けたのだった。
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