5 / 11
暗転
しおりを挟む
大相撲が年四場所制になった翌年の昭和二十九年。真澄は次女嘉子を出産した。由紀子に続いて女の子だったことに、幸太郎は舌打ちしたが、由紀夫は満足だった。相変わらず子煩悩で、二人の娘を分け隔てなく愛しんだ。
このころ、真澄は夫が不意に口走る言葉を不吉に思うことがあった。最初は近所の芸者置屋の女将への、日常挨拶の中だった。
「親戚でも無いのにお世話になります。娘たちをよろしくお願いします」
なにを出征する兵隊さんみたいなこと言ってるの! 笑顔で女将に返されて頭を掻いていた由紀夫であったが、冗談を言った顔では無いことに真澄は違和感を覚えた。
気の荒い火消したちの中では温厚で、また体格も兵隊上がりの先輩ほど逞しくなかった由紀夫は、日常の訓練は消防士としてのそれを受けているが、出場の際には後方支援が主務であり、命がけで火事場に飛び込む役回りではなかった。
だが、折に触れ
「俺に万一のことがあったら、子供達を頼む」
と真澄に言い含めていた。言われるたびに、真澄は冗談と思い込むようにしたが、他方でなにか重苦しい不安が心の奥底に湧くのを感じていた。
九月十三日夜。超大型台風十二号来襲を緊迫した声でラジオが告げていた。翌日は非番だが、台風に備え自宅待機を命じられていた。由紀夫はまた真澄に不吉な頼みごとをしてから床に就いた。
十四日早朝。雨戸を揺する強風に紛れ、夢うつつで聞いていた土間の戸を叩く音。母屋から呼びに来たセンの呼び声にようやく目を覚ました。消防署から電話があり、緊急招集で六時半に自動車が迎えに来ると言う。
真澄は米を侵(つ)け置きした釜をガス台にかけて炊き上げると、手早く朝食を整えた。長女の由紀子はまだ布団の中だったが、生後二ヶ月の嘉子は、ちゃぶ台の由紀夫の対面で母親に抱かれて母乳を吸っている。
柱時計がボーンと半時を打った。呼応するように、カーン、と玄関先で消防自動車の警鐘が鳴る。事業服に着替えて家を出る夫は、見送る真澄の腕の中の嘉子を三度優しく撫でると、車の後席に上っていった。動き出した窓を開けて由紀夫は手を振る。生暖かい南風が踊る街路に消防車は消えていった。
このころ、真澄は夫が不意に口走る言葉を不吉に思うことがあった。最初は近所の芸者置屋の女将への、日常挨拶の中だった。
「親戚でも無いのにお世話になります。娘たちをよろしくお願いします」
なにを出征する兵隊さんみたいなこと言ってるの! 笑顔で女将に返されて頭を掻いていた由紀夫であったが、冗談を言った顔では無いことに真澄は違和感を覚えた。
気の荒い火消したちの中では温厚で、また体格も兵隊上がりの先輩ほど逞しくなかった由紀夫は、日常の訓練は消防士としてのそれを受けているが、出場の際には後方支援が主務であり、命がけで火事場に飛び込む役回りではなかった。
だが、折に触れ
「俺に万一のことがあったら、子供達を頼む」
と真澄に言い含めていた。言われるたびに、真澄は冗談と思い込むようにしたが、他方でなにか重苦しい不安が心の奥底に湧くのを感じていた。
九月十三日夜。超大型台風十二号来襲を緊迫した声でラジオが告げていた。翌日は非番だが、台風に備え自宅待機を命じられていた。由紀夫はまた真澄に不吉な頼みごとをしてから床に就いた。
十四日早朝。雨戸を揺する強風に紛れ、夢うつつで聞いていた土間の戸を叩く音。母屋から呼びに来たセンの呼び声にようやく目を覚ました。消防署から電話があり、緊急招集で六時半に自動車が迎えに来ると言う。
真澄は米を侵(つ)け置きした釜をガス台にかけて炊き上げると、手早く朝食を整えた。長女の由紀子はまだ布団の中だったが、生後二ヶ月の嘉子は、ちゃぶ台の由紀夫の対面で母親に抱かれて母乳を吸っている。
柱時計がボーンと半時を打った。呼応するように、カーン、と玄関先で消防自動車の警鐘が鳴る。事業服に着替えて家を出る夫は、見送る真澄の腕の中の嘉子を三度優しく撫でると、車の後席に上っていった。動き出した窓を開けて由紀夫は手を振る。生暖かい南風が踊る街路に消防車は消えていった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
膀胱を虐められる男の子の話
煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ
男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話
膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる