人でないヒト

カルトン

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限界と異形

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 何のためにわたしはここにいるんだろう。ここで生きているんだろう。
 ※
 

 
 暗い部屋でわたしはいつものように蹴られ叩かれている。誰にかと言えば父親にだ。母親はと言えば、ソファーに座りながら煙草を吸っている。
 身体中が痛い。何度も逃げたい、歯向かいたいと思っている。現に一度歯向かったことがある。大人相手に中学生のわたしが力で勝てるわけなく、その日の暴力はいつもより激しさが増すだけだった。
 いつからこんな日々が続いているんだろうか。毎日学校から帰ると、家から出ない父親に叩き殴られ蹴られる。食事は学校の給食だけでしかとれてない。
 そういえば、しばらくお風呂にも入れていない。学校で、臭いなとか言われるのはそのせいか。温かい全身でお湯に浸かりたいものだ。お風呂と言えば、昔お風呂に入りたいと父親に言って溺れさせられたっけ。あのときは死ぬかと思った。いっそ死ねたら良かったのに。
 と、わたしは痛みのことを忘れようと違うこと考える。なんでわたしがこんな暴力を受けるんだろうなんて無意味なことを考えるのは止めた。わたしがいけないんだ。わたしがいるのがいけないんだ。考えることを放棄していた。
 この父親も虐待を疑われないように目立つ箇所を攻撃しないところを見ると、ちゃんと考えて攻撃しているんだな、と思う。虐待なんかで捕まりたくはないか、自分が好きなんだろう。
 こんな男を父親と思えているのは、わたしを家から追い出さないことが理由だろう。衣食住の一つでもしっかりとあるのだ。それだけでも幸せと思うべきだろう。世界には家さえない子がいるのだ。やはり、わたしは幸福者だ。
 そんなことを考えていると父親の攻撃は止んだ。疲れたのか、鬱憤が消えたのだろう。父親は罵詈雑言をわたしに投げつけると、ソファーに勢いよく座り、母親の肩に手を回す。わたしを気味悪がるような目で二人してみる。
 まぁ、あれだけ攻撃して痛がる素振りをまったく見せないとさすがに気味悪いか。痛がる素振りの練習でもしようかな。その技術で女優になれるかもしれない。テレビデビューも夢ではないな。ポジティブな考えをしながら、わたしは冷たいフローリングの上で目を閉じた。
 もう目が開かなきゃいいのに。
 今日の痛み忘れるように眠りについた。
 
 ※
 
 
 
 今日も父親の蹴りで目を覚ます。ちゃんと学校に行かせてくれるあたりいい父親だと思う。わたしを蹴って起こすのはシャイなのだろう。
 制服に着替えてわたしは学校に向かう。
 大好きなポニーテールを揺らしながら、いつも通りの道を歩く。今日も快晴である。
 下駄箱に入れてある上靴は、これまたいつものようになくなっていた。平常運転だ。宝探しゲームみたいな感じだ。今日の隠し場所は学校裏のゴミ箱だった。手に取った上靴はハサミかなんかで切り刻まれていた。これでは履けたものじゃない。上靴を忘れた体にして先生にスリッパを借りて、自分の教室に向かう。
 階段を上がっていると、頭に何かがぶつかる感覚と、濡れる感覚がやって来た。後ろでこん、と音がして振り返ると、そこには桃ジュースの紙パックが落ちていた。それがわたしの頭にぶつかったのだろう。上の方を向くと、同じクラスの男子二人が笑みを浮かべていた。
 人をゴミ箱と間違えるとは、まだ寝ぼけているのだろう。
 教室に着くと、黒板にわたしに対する罵詈雑言が一面に書かれていた。さらに、わたしの机と椅子がなくなっていた。転校した記憶はないのだが。クラスにいる人たち全員が笑みを浮かべながら、わたしを見る。またまた宝探しのような感じか。やれやれ、と思いながらわたしは教室を出る。
 廊下を歩くと、伸びてきた足に躓き転んでしまう。そのわたしの姿を見て、足を伸ばしてきた男の子たちは笑み浮かべる。
 立ち上がってわたしは逃げるように走りだす。逃げ場所なんてどこにもないも知りながら。学校の裏にわたしの机はあった。机の中にわたしのノートや教科書があるので、間違いないだろう。
 机と椅子を持って教室に向かおうとして、わたしは石に躓き転んでしまった。同時にに机に入っていた教科書とノートが散らばった。
 散らかって開かれてしまったノートにはびっしりと教室の黒板と同じように、わたしに対する罵詈雑言が書かれていた。次のページもその次のページも。次のノートも次のノートも。さらにはすべての教科書にまで。これでは授業が受けれないではないか。字の練習熱心だこと。
 わたしはすべての教科書とノートを拾って机の中に押し込んで立ち上がる。
 目の前には担任の先生がいた。どうしたのだろう、とわたしは首を傾けた。
 担任の先生の口から吐かれた言葉は何度も聞いて、見た言葉だった。
 その言葉を認めたくないと必至に言い聞かせながら、その言葉から逃げるようにわたしは走っていた。
 無意識のうちにわたしは五階の女子トイレにいた。開いた窓から下を覗くとかなり高さだった。その時、わたしは思いついたのだ。いや、思わないようにしていたのだろう。最後の逃げ場所があることを。
 「わたしなんて死んでもいいよね……もう疲れたよ、限界だよ」
 そう呟くと、窓の外にわたしの身体を投げた。下には地面が見える。背にはとても青い空があるのだろう。前を向けば、行ったことのない楽しそうな生きている街が見える。三月の空気はまだ肌寒くて、冷たい風がわたしを襲う。
 一瞬の浮遊感のすぐ後、わたしの身体は落下を始めた。地面が近づいてくる。とても固くて冷たそうだ。
 ゆっくりと目を閉じた。
 
 ※
 
 
 
 温かい。温くしている。気持ちいい。ずっとここにいたい。初めての感覚にわたしは溺れる。
 ここは天国なのかな。
 ゆっくりと目を開くと、明るい光が目の中に入ってきて細める。数秒して完全に目を開く。天井には宮殿とかにありそうな照明器具が取り付けられていた。
 身体を起こして、
 「天国は宮殿かなんかなのかな、え!?」
 なんて呟きながら右を向くと、そこには何かが机に頬杖をつきながら椅子に座っていた。誰かと思えなかった理由はそれが骸骨だったからだ。
 頭は人間の頭蓋骨そのものだが、身体はスーツを着ていた。両手は人間の骨のようになっている。
 「やっと起きたか小娘」
 骸骨は口の部分を動かしてそう言った。一体どうやって発音しているのだろうか。
 「……天国にも死神みたいな人がいるのかな」
 少し考えて出た言葉はそんなよくわからない言葉だった。
 「天国などないし、わたしは死神などではない」
 頬杖を解いて、骸骨は背を曲げる。
 「小娘、お前は死んではいない」
 「いやいや、五階から落ちたらさすがに死ぬでしょ。天国ではないんだったら、ここは地獄?」
 骸骨の言葉をわたしは即否定した。
 「まぁ、今はいいか」
  骸骨はため息を吐いた。
 「名前は?」
 「……カナデ、池田奏、です」
 久しぶりに自分の名前を口にしたな、と思いながら口にした。
 「知ってるよ」
 骸骨はそう言うと、立ち上がり眼窩の奥の赤黒光でわたしをしっかりと見た。
 「わたしは、そうだな、リューグナーとでも呼んでくれ」
 リューグナーはわたしの頭に手を置いて撫でた。
 「君は毎日が楽しいか?」
 その問いは、学校で先生のよく言われた言葉に似ていた。その時、わたしは決まってこう答える。
 「毎日学校で授業受けれて楽しいですよ」
 わたしの答えにリューグナーは頷くと、またわたしの頭を撫でた。
 「そっか、で、本当は?」
 「え?」
 わたし驚いていた。そんな言葉が返ってくるなんて思っていなかったから。いつもなら、それで質問は終わっていたから。
 「それは君が作ってしまった嘘だろ。ここには、この部屋にはわたししかいない。君の身体の内に、心に秘めていたモノを吐いてみな」
 「嘘、そんなのないですよ。衣食住が一つでもあって、クラスの人たちがわたしを無視しないで、毎日学校に行けている。わたしは幸福者で、毎日がとても楽しいですよ」
 「嘘を真実だと君は思い込んでしまったんだね……君が幸福者か。君が本当にそう思っているなら、それでいいさ。ただね、君がそんなことができるほど器用な人間じゃないってことを知っているからね」
 この人はわたしの何を知っていると言うのだろう。
 「毎日父親からは暴力を受けて、まともな食事も与えられず、冬はとても寒い物置が自分の部屋で、学校では苛められ、担任の先生にさえ見捨てられ、何度も罵詈雑言を受ける。君は感情を失ってしまったのかい?」
 「苛められてなんていませんし、感情を失って、そんなこと」
 「じゃあ、笑ってみて」
 わたしがリューグナーが言ったことを否定していると、被せるように言ってきた。
 にぃぃ、と笑おうとする。
 「……あれ? なんでだろ、うまくできないや」
 「笑おうとしたのはいつぶり?」
 リューグナーのその質問にわたしは答えられなかった。記憶を探しても探しても、そんな記憶がないからだ。
 「なんでだろ、泣いてるとこしかでてこないや」
 「初対面のわたしにぶちまけるのは厳しくて辛いかもしれないが、言ってごらん。いや、言うんだ。君はそんな柵にいつまでも囚われていちゃダメなんだ」
 リューグナーはわたしに語りかける。わたしにそんなことをする人はいなかった。担任の先生だって、こんな風にわたしに接してくることはなかった。
 「君の今までの日々で辛かったことをすべてここで、わたしにぶちまけるんだ。君は、今までの人生楽しかったか? 満足できていたか? 幸せだったか?」
 頭の中に今までの記憶の映像がすごい勢いで再生されていく。
 父親に水が張った浴槽に顔を押し付けられ溺れかけたこと、殴られ蹴られて泣いていたこと、学校で上靴が隠されいつも必至で探していたこと、机と黒板に書かれた罵詈雑言の落書きを毎日涙を堪えながら消していたこと。クラスメイトからの陰湿な嫌がらせ。わたしをぞんざいに扱う担任の先生。昼休みトイレで泣いていたこと。
 記憶の中のわたしは、いつもとても苦しそうで辛そうで泣いていた。
 「無い……幸せだったことなんて一度も無い……!わたしが何をしたの! なんで父はわたしに暴力を振るうの! なんでみんなわたしを苛めるの! わたしが苛められていたクラスメイトを庇ったのが悪いの! なんで庇っちゃいけないの、寄り添っちゃいけないの! わたしがおかしかったの! わたしがいけないの! もう何がなんだかわからないよ!」
 わたしは叫んだ、目からは涙が溢れだしていた。叫んぶなんていつぶりだろう、こんな大きな声をだしたのはいつ以来だろう。こんな喚くなんていつぶりなんだろう。
 「君は正しいことをしていたよ」
 リューグナーがわたしの頭を撫でてくる。わたしはそのリューグナー手を叩き落とした。
 「違う、わたしがおかしいから! わたしが変な子だから、わたしがクズで生まれちゃいけない子で、いらない子だったから!」
 「違うよ」
 「わたしは悪い子なんだ、邪魔な子なんだ、死ぬために生まれてきていたんだ!」
 「違うよ」
 「わたしは!」
 そこまでわたしが叫ぶと、リューグナーはわたしの背中に手を回して抱き寄せた。
 「違う! 君は間違ってなんていない、君は正しいことをしていたよ。君は邪魔な子なんかじゃない。頼むから、わたしは死ぬために生まれてきたなんて言わないでくれ!」
 「わたしは……生きていてもいい、の?」
 わたしのの質問に、リューグナーは何を言っているんだ、というように、
 「当たり前だよ、君は生きていいんだよ。君は生きるために生まれてきたんだよ」
 「誰もわたしのことを好きになってくれない。一緒にいてくれない」
 「わたしが一緒にいてあげるよ」
 わたしはリューグナーの胸の中で涙を流し続けた。骨の手でわたしの頭を撫でられているのが、とても気持ち良かった。
 「わたしがいつか君が幸せと心から言えるように思えるようにしよう」
 
 「あの、そろそろ帰ってもいいですか?」
 泣き終えたわたしはリューグナーにそう言った。
 「ん、どこにだい?」
 リューグナーが首を傾ける。
 「わたしの家に、ですけど」
 「君はまた虐待されに帰るのかい?」
 うっ、とわたしは胸の前で手を握った。
 「それでも、わたしの家はあそこしかないので」
 「君はトイレから飛び降りて自殺したのは覚えてる?」
 「え、そうですね、なんでかわたしは死んでないんですけどね」
 「死んでない理由は君をわたしが助けたから。そして、もう一つ言わせてもらうと、君は自殺した。つまり、君は自分自身の命を捨てたっていうことだろう」
 「まぁ、そうですね」
 助けたってすごいなぁ、と思いながら頷く。
 「捨てたモノを拾っても誰も文句は言わんだろう」
 「え?」
 「だから、捨てられた君の命を拾ったんだ、君の命はわたしのモノだ。どうしようが自由だろう。まぁ、無理強いはしないが」
 リューグナーは椅子から立ち上がって、
 「ここはわたしの家で、そして今日から君が暮らす家でもある。選ぶは君の自由だ、君の今までの日常の本当の意味に気づいたろう。君がここを選べば、わたしが君を幸せにしよう」
 わたしに手を差し出した。
 差しのべられた選択肢にわたし動揺した。わたしを幸せするという骨の顔をしたリューグナーを選ぶか、わたしに暴力しか振るわない父親を選ぶか。
 「わたしを幸せにしてくれるんですか?」
 「そうだな、訂正しよう。君が幸せになる手伝いをわたしはするよ。幸せになるのは君自信だ」
 リューグナーの眼窩の奥の光をわたしは見つめる。赤黒い光の色は、父親のあの目の色とはまったく違う。とても優しくて暖かそうな色だ。
 「わたしは……ここにいたいです。あなたを選びます」
 決意の色を浮かべて、わたしはリューグナーの手を両手で握った。
 「よく選べたね……さて、何を置いてもひとまずは風呂かな」
 リューグナーは汚れた制服を着たわたしを見た。わたし自身も風呂に入っていないし、制服もずいぶん選択などなどしていないからかなり汚いし、やはり臭ってしまうのだろう。
 「動けるかい?」
 「はい」
 リューグナーはわたしの手を引いて、裸足のわたしを導いていく。
 「この家にはリューグナーさんしかいないんですか?」
 「リューグナーでいいよ。そうだね、わたし以外にも一人いるが、今はたしか屋根の修理をしている頃かな」
 「はぁ」
 廊下の端には植木が置かれていたり、白い壁に変な仮面がかけられたりしている。
 「さて、脱ごうか」
 脱衣所に着くと、リューグナーがわたしのセーラー服の端を掴んで上に上げてきた。
 「いやいやいやいやいやいやいやいや、一人でできます、お風呂ぐらい一人で入れます!」
 わたしは顔を真っ赤にして、セーラー服が捲られないように両手で押さえつける。
 「ん、使い勝手がわからないだろう。君が小汚ないからわたしが洗ってあげるよ」
 リューグナーが力を込める。
 「いや、ホント大丈夫です、わたし中学生ですし」
 わたしは叫びながら押さえつける力を強める。
 「こらこら、猫の子みたいに騒がないでくれよ」
 「子供じゃないんだから一人で……」
 「君はまだまだ子供だよ」
 リューグナーがわたしの脇を擽り、押さえつける力が弱まったところをばさっと脱がされていく。
 
 「うぅ、神はいないのか……全部見られてしまった……」
 わたしは浴槽に浸かりながら両手を顔に当てた。身体全身を見られただけでなく、洗われてしまった。
 「そうだね、神はいないかもね。ほら、肩までつかんないと温まらないぞ」
 リューグナーにそう言われ、うぅ、と唸りながらわたしは肩まで温かいお湯に浸かる。
 「しっかり温まったら出るんだよ」
 浴槽の扉を閉めてリューグナーが歩いていく音が聞こえる。
 ……どういう状況なのか出たらちゃんと訊かなきゃな。
 「またお風呂にしっかり入れるなんて思ってなかったな……」
 わたしは掌でお湯を掬ってみる。
 「……温かいな」
 浴槽には柚子のような果物や葉が入れられていた。身体にいいのかもしれない。
 お前は俺に蹴られ殴られ、鬱憤を晴らすためにいるんだよ!
 父親の声がして閉じていた目を開く。
 「リューグナーはなんでわたしなんてを助けたんだろう」
 考えても考えてもわたしにはその答えはでてこなかった。浴室の窓から外を眺める。
 窓の向こうには森が広がっていた。綿のようにもこもこしたネズミの群れが走っている。こんなネズミ見たことないな。
 「リューグナーは何者なんだろう」
 そうなことを呟きながら、わたしは頭の中では別のことを考えていた。
 わたしの家族はいなくなったわたしのことを心配していないのかな。
 「ここはどこなんだろう」
 「帰りたい?」
 「え?」
 何かの声にわたしは驚いてあたり見回す。
 「こっちこっち」
 同じ声は浴室の窓の向こうから来ていた。さっきの綿のようにもこもこしたネズミの一匹だ。骨頭の人が喋れてるんだ、ネズミも喋れてもおかしくないんじゃないか。とても小さい身体でどうやってここまであがってきたのだろう。
 「はじめましてだね。で、帰りたい?」
 「帰れる、の?」
 ネズミの質問に、わたしは質問で返していた。
 「帰れるよ。こっから西に少し行ったところに小さな池があるんだけど、そこから君のいた街に帰れるよ」
 「ホント?」
 「ぼくがここで嘘つく理由はないよ」
 「でも、リューグナーがいるし」
 「夜にこっそり抜け出せばいいんだよ。あいつも夜は寝るだろうしね。ぼくたちが迎えに行くよ」
 ネズミはそう言うと、窓から見えなったと思ったら、たくさんのネズミが森の中に走っていった。
 なるほど、ネズミが積み重なっていたわけなのか。
 わたしは小さなネズミが窓に顔をだせた理由に納得していた。
 「カナデ? 大丈夫かい? のぼせてはいないかい?」
 いきなりのリューグナーの声にわたしはビクッと身体を震わせた。
 「あっ、ハイ大丈夫です! だから入ってこなくて大丈夫です! 入ってこなくて大丈夫ですからね!」
 「ハハハ、二回言わなくても聞こえてるよ」
 ネズミたちが走っていった森の方をもう一度見てから、わたしは浴槽から出た。
 脱衣所には、わたし用の着替えが置かれていた。わたしはそれに着替えてリューグナーの、こっちだよ、という声がする部屋に向かう。
 その部屋はリビングのようだった。暖炉があり、本がぎっしりと詰まった本棚や机があり、部屋の中心には横に長いテーブルがあり、柔らかそうな椅子が4つあって、その一つにリューグナーは座っていた。わたしはリューグナーの右隣の方の椅子に座った。
 「はい、カナデ」
 飲み物が入ったコップが差し出されて、わたしはそれわ受け取って一口飲む。
 「温かい」
 「とりあえず、飲んだり食べたりして落ち着こうか。そしたら、話をしようか」
 「……!」
 テーブルの上にはズラリと美味しそうな食べ物たちが並べられている。こんなに美味しそうな食べ物を見るのはいつぶりだろう。
 美味しそうなごはんに温かいお茶……本当に歓迎されているみたいだな。
 「よその家でこんなに落ち着くの初めてだな……よその家に行くのも初めてだけど」
 「カナデは面白いことを言うね」
 リューグナーは骨の顔で笑顔を作る。その笑顔は優しそうな感じだった。
 「あの、さっきお風呂場になんかもこもこしたネズミが来たんですけど」
 「ん、たぶん彼らのことかな? 君に挨拶に行ったんじゃないかな。君のようなモノを見るのは初めてだろうしね」
 「そうですか……」
 わたしがリューグナーの顔をじっと見ていると、
 「色々と知りたいって顔をしているね。もうこんな時間だし、子守唄ってわけじゃないけど、答えられることなら答えてあげよう」
 リューグナーが頬杖をついて、わたしの目を見る。
 「……あなたは何者なんですか?」
 「まぁ、こんな骨頭の化物疑問に思って当然だよね……わたしはなんだろうな、今は魔法使いみたいな感じかな」
 手を広げると、リューグナー掌から植物が生えてきた。
 「魔法使いなんているんですか」
 「あぁ、魔力という概念だって現実に存在するし、魔獣や妖精とかそういったおとぎ話のような存在はだいたい存在している」
 「あのもこもこしたネズミもそうですか?」
 「そうだよ、魔獣の一種みたいなモノだよ」
 あれもそうなんだ、とわたしは頷く。
 「じゃあ、わたしを助けたのは何でですか?」
 「だから、それは捨ててあった命を拾ったんだよ」
 「わたしも魔法みたいなのが使えますか?」
 「君が望むなら教えてもいいとは思っているよ」
 「魔力がなくてもできるんですかね?」
 「いや、君には魔力があることはあるよ、だけどね」
 「だけどね?」
 リューグナーがそれ以上言わないので、訊いてみると、
 「失礼します」
 こんこん、と扉をノックして一人の少女が入ってきた。白色のボブの髪で宮殿にいそうなメイド服を身につけた美少女だった。長身でモデルのようだ。
 「カナデ様、わたしの服じゃやはりぶかぶかですよね」
 「あ、すいません、これあなたのだったんですか」
 美少女に声をかけられ、わたしは慌てながら答える。
 「その子の名前はセルヴァント。わたしはセルヴィーと呼んでいるよ。ここの食事や洗濯、掃除なんから彼女がやってくれているよ」
 「カナデ様の服を仕立てようと思うので、寸法を図らせてください」
 「そうするといい、セルヴィーの服じゃ胸とか色々とぶかぶかだろう」
 胸、というリューグナーの言葉にわたしは、うっ、と喉を詰まらせる。
 「マスター、直接貧乳と言ってはかわいそうですよ」
 「わたしは貧乳とは言ってないが」
 セルヴィーはわたしから目を逸らし、
 「すいません、失言でした」
 と顔を赤くしながら謝った。
 「いや、大丈夫です、わたしが小さいのがいけないんです」
 わたしは苦笑いを浮かべる。
 「こらこらそんな悲観的じゃダメだぞ。あと、わたしなんかなんて言うなよ。君は少しずつでいいから自分に自信を持つんだよ」
 立ち上がったリューグナーは、わたしの頭にぽんっと優しく手を置いた。
 「さて、セルヴィーに寸法を図ってもらったら寝なさい。今夜はもうおやすみ」
 リューグナーが部屋から出た後、セルヴィーに寸法を図ってもらって、自分の部屋まで案内された。
 「何かご用があったら、ベッドのに置いてある鈴を鳴らして下さい。すぐに参りますので。では、また明日。おやすみなさい」
 セルヴィーはそう言ってドアを閉める。わたしはもふっと柔らかなベッドに腰かけた。
 「ちゃんと寝床まで用意してくれてるんだ。温かなベッドで眠るなんて小学校の修学旅行ぶりかな」
 修学旅行の記憶を思い出そうとして、同時に修学旅行で置いてかれた記憶もよみがえり、悲しくなったわたしは横になることにした。
 ぽふっと、枕がわたしの頭を包んでくれる。枕かな気持ちいい香りがした。
 「なんだろう、ハーブかなにかなのかな。お茶もそうだったな……落ち着く」
 見たこともない爽やかで少し苦い野原の香りがする。
 「……あぁ、布団ってこんなに温かいんだ。気持ちいいな……今は何も考えないで寝ようかな……」
 「カナデ、カナデ、カナデ!」
 「え?」
 起き上がって窓を見ると、窓の向こうにお風呂場に現れたネズミがいた。
 「迎えに来たよ。一緒に帰ろうか」
 「でも、リューグナーとセルヴィーに見つかるよ」
 「大丈夫、今なら二人に気づかれないからさ。行くなら今だよ」
 「んー……」
 「ほらほらぁ」
 少しだけ、少しだけ家族の様子を見に行ってもいいよね。
 わたしは薄い上着を羽織って、ゆっくりと慎重に音を立てないように、リューグナーの家を出た。
 
 「……やれやれ、仕方のない子だな。夜の森は危険がいっぱいなのに。ネズミの姿かたちが可愛いからって信安心して簡単に信じているようじゃいけないな」
 窓の外でカナデが森へ歩いて行くのを、リューグナーは見ながら上着を羽織る。
 「言ってなかったわたしの責任でもあるしね。わたしも先生としては初心者だな」
 
 「夜でもなんだか明るいね」
 わたしはもこもこしたネズミに先導されながら森の中を歩いていた。
 「このたくさんの木が特別なんだよ。自ら発光しているんだよ」
 「へー」
 わたしが知らないことはたくさんあるんだな。
 目の前をぽてぽてと歩くネズミは可愛らしい。
 「ねぇ、ところでカナデはどこから来たの?」
 「東京って場所だよ」
 「東京?」
 「賑やかな場所らしいよ」
 「らしいってカナデは詳しく知らないの?」
 「あまり家から出られなかったから」
 「家族は?」
 「いるけど……わたしには暴力しかくれなかった」
 「家族はカナデのことが嫌いなのかな」
 ネズミにそう言われて改めて考えてみた。
 やっぱり父はわたしのことが嫌いだから暴力を振るっていたのかな。母はわたしのことが嫌いだからわたしになにもしてくれなかったのかな。
 「……どうだろう、今からそれを調べに行きたいな」
 「ふぅん、そっか」
 ネズミがにんまりと笑った気がした。
 十分ぐらい歩いただろうか、まわりには鹿や色々な種類の鳥たちが飛んでいる。後ろを振り向いても、リューグナーの家はもう見えなかった。
 「…………ねぇ、もう大分歩いたよ? まだ着かないの?」
 「もうすぐもうすぐ、ほら、あそこの光っている池だよ」
 光っている池のまわりには木が一本も生えてなくて、そのまわりだけ神聖さを感じた。
 「さぁ、この池に入れば、カナデはカナデのいるべき場所に帰れるよ」
 「わたしの行きたいところに帰れるんだよね?」
 「うん、君が本当に行きたいところにね」
 池に入ろうと一歩踏み込んで立ち止まった。
 「どうしたの?」
 「リューグナーのところには帰れるよね?」
 「なんで?」
 「わたしは家族の様子を見たら、リューグナーのところに帰りたい。リューグナーはわたしが幸せなることを手伝うっていってくれたから」
 「本当に君はそれを望んでいるの?」
 「え!?」
 「リューグナーに操られているのかもしれないよ」
 リューグナーがわたしを操る。そんなこと考えもしてなかった。
 「池に入れば、楽チンだよ、カナデが本当に望んでいたことが起こるんだからさ。リューグナーのところになんて、帰る必要はないよ。さ、行こうよ」
 「も、戻ります」
 わたしは背を向けてリューグナーの家に帰ろうとした。
 「違うでしょ、君が本当に心から望んでいることは。カナデの帰りを待っているヒトなんてどこにもいないよ……さぁ、池の中に入って楽になっちゃえ」
 わたしの帰りを待っているヒト……。
 暴力を振るう父親、イタズラをするクラスメイトたちが浮かび上がる。
 「でも、」
 手を差しのべてくれたリューグナーと、また明日と言ってくれたセルヴィーの顔が頭に浮かぶ。
 「今はわたしの帰りを待ってくれているヒトがいる」
 「カナデ?」
 「わたしはあの家に帰らなきゃ」
 ネズミがわたしの足を押してくる。
 「どうして、カナデにあの家に帰らなきゃ、いなきゃいけない理由なんてないでしょ。命を救われたから? そんなの気にしなくても……」
 「違うよ」
 わたしは晴れやかな顔でネズミを見た。
 「……今まで誰もわたしを見てくれなかった。ここにいていいよって、生きてもいおんだよ、って言ってくれなかった。でも……リューグナーはわたしに言ってくれたんだ。わたしは彼に拾われたの、捨てられたわたしを彼は拾ってくれたの。自分でゴミだと思って捨てたわたしの命を。捨てられたって構わない……それでも、わたしに温かさを彼はくれたから」
 だから、
 「わたしは戻りたい」
 「もう手遅れなんだよ!」
 光る池の中から、大きな魚が口を大きく開けて、わたしに向かって飛んできた。
 「君が望んでいた通り、君に死をあげるよ」
 大きな魚がわたしに迫ってくるなか、わたしは頭の中でリューグナーの姿を思い浮かべていた。
 「牢獄カルチェレ
 その声がするや否や、地面から根が伸びてきて迫ってきていた大きな魚が、根でできた牢に閉じ込められた。
 「わたしが拾った人間は、もうきちんと自分の帰るべき場所を覚えたらしいね。偉いよ、カナデ」
 「……リューグナー!」
 「植物の王プランツェなんでここがわかったんだ」
 ネズミが忌々しそうにリューグナーを睨む。
 「念のため浸けておいてよかったよ」
 リューグナーはわたしの頭を触ると、木の枝を取り出した。
 「気づかなかった」
 「これを発信器変わりにしたんだよ」
 「そうなんだ」
 すごいなぁ、とわたしはリューグナーの握る木の枝を見つめる。
 「今すぐに失せろ、今回は見逃してやる。次はこの化け魚のように朝食に加えるぞ」
 リューグナーのその声は普段より少しだけ怖かった。
 「ぼくだけじゃないんだぞ、その子を狙っているのは、ちゃんと守りきれるかな」
 「守ってみせるさ」
 とことことネズミが走っていくのをわたしは見送った。
 「……カナデ」
 リューグナーがわたしの頭に手を置く。
 「すいません、怒ります、よね」
 「いや、怒らないよ、先に教えておかなかったわたしも悪いんだしね。ネズミたちは初めて見た君を餌だと勘違いしたんだろうね、見た目が可愛いからって迂闊に信じちゃいけないからね、覚えといて」
 「ご、ごめんなさい……」
 わたしは俯きながら謝る。
 「いいんだよ、これから色々なことを覚えていけばいいんだ」
 リューグナーは優しく手をわたしを抱き締めた。
 あたたかい……けど、強ばってる感じがする。
 「緊張してるんですか?」
 「ん、もし間に合わなかったらと思ってね。怖い目に会わせたね、ごめんよ」
 「いえ、大丈夫です」
 「よいしょ」
 「ぎゃっ! な、何するんです!」
 わたしの背中と足にリューグナーが手をやって持ち上げたのだ。まるでお姫様抱っこみたいだ。
 「夜は迷いやすいし、君はまだまだ危ないからね、こうやって帰ろうと思って、わたしたちの家に」
 リューグナーのその言葉にわたしは明るい声で、
「……はい」
 と答えた。
 「ちゃんと明るく笑えるじゃないか、幸せへの第一歩だね」
 「わたし笑えてましたか?」
 「あぁ、とても可愛かったよ」
 「そうですか……嬉しいです」
 わたしは初めて笑顔を褒められたこと頬を赤くした。
 「さぁ、明日の朝食は魚料理がたくさんだよ」
 「あ、この大きな魚食べれるんですね」
 
 
 
 
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