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第二章
「澱み」
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(第三者視点)
元を辿ればそれは一人の青年の物語へと還る。それはいくつかの王朝を遡らなければならないほど古い話だ。そしてそれは、名前すらもう知ることができない、しかしそれだけで終わることができなかった青年の、哀れな話だ。
その青年は孤児院で生まれ育った。彼は感情が豊かで人当たりが良く明るい青年であった。そして彼のそばにはいつも美しく優しい一人の少女がいた。彼は少女のためならばどんなことでもできる、そう思えるほどに彼女を愛していた。しかし、彼女に心酔する人間は彼に留まりはしなかった。
それは年に一度、街で大きな祭りが開かれる日のことであった。彼は少女を連れて祭りに赴き、少女を楽しませようと様々なものを見せてまわった。少女は心から楽しみ可憐な笑い声を響かせながら花が咲くように笑った。その愛らしい姿がある貴族の若い男の目にとまったのだ。
それから数日して、彼と彼女を取り巻く環境が一変した。男が手を回して彼女を自分の妻にしてしまったのだ。彼は絶望した。彼女は永遠に自分のそばにいると思っていたのだから。彼の脳裏には焼きついて離れない光景があった。それは彼女が彼の前からいなくなるその瞬間に見せた涙だ。それにどんな意味があったのかは今となってはわからないが、彼はそれを絶望だと捉えた。彼はその涙を思い返し、怒りに震えた。自分から彼女を奪ったこと、そして何よりも彼女の意思に関係なく結婚が進められたことに対する怒りが彼の中で大きく育ち、それはいつしか憎しみへと姿を変えた。
それから彼は温厚だった人柄が別人のように変わり、心配する周囲に構うことなく孤児院を出て一人暮らしを始めた。彼の頭にあるのはどうこの憎しみを晴らすか、その一点のみであった。理性をも失いただ復讐のために動いた。そしてその結果、彼は彼女を自分から奪ったその男を殺そうとした。男が仕事で遠方へと赴くときを狙い、男が乗る馬車に襲いかかったのだ。幾人かの破落戸を金で雇い、彼自身も一緒に御者や護衛を薙ぎ倒して男の命を奪いにかかった。しかし、彼の計画は失敗に終わった。理性のない計画には穴が多く、あっという間に彼は拘束され、投獄された。
牢屋の隅に座る彼の瞳にはもう、光などなかった。あの男の命を奪えるなら彼はそれで良かったのだ。それだけのために彼女を失ってからの数年間を生きてきたのだから。それさえできれば自分の命も惜しくはなかった。その先の未来のことなど頭にはなかった。だから、それを達成することが叶わなかった彼はもはや処刑されても構わないとさえ思っていた。
その牢屋に唯一焦がれた少女が現れなければ。
少女は孤児院にいた頃よりもさらに美しくなり、そして貴族らしく上質な衣服を着て、お付きの者を連れて彼の目の前に現れた。彼は思わず彼女の方へと近づき手を伸ばした。しかし彼女がそれに返してくれることはない。彼女はただ涙を流していた。
「……どうして、こんなことを」
「あいつのせいで、君は無理矢理結婚させられた。好きでもない男と、陰からこそこそと手を回されて……」
彼の吐き捨てるような言葉に彼女はまるで傷ついたかのような表情を見せた。
「……手紙は……?届いていないの?」
彼は知らなかった。彼が去った後の孤児院に、彼女からの手紙が何枚も来ていたことを。誰にも居場所を告げずに消えた彼にはその手紙が届くことなどなかった。だから彼は知らなかった。その何枚もの手紙の中に、彼女は最初こそ無理矢理の結婚に苦痛を感じていたものの、想像していなかったほどに男に大切にされて今では幸せに暮らしているのだと、だから彼にも自分のことは気にせずに幸せになってほしいのだと綴っていたことなど、知る由もなかった。
彼女は凛とした瞳で彼をまっすぐ見つめ、そして諭すように彼に告げた。
「あなたがこんなことになってしまったのも全て私のせいだわ、ごめんなさい。でもどうか、あなたにはもう一度やり直してほしいの。時間はかかるかもしれないけれど絶対にあなたをここを出られるようにするから、処刑なんてことにはならないようにするから、だからどうか、……諦めないでね」
最後には震えるような声でそれだけ言うと彼女はすぐに視線を逸らし、立ち去ってしまった。自分がどんなに引き止めようと声を上げても振り返りもせずにいってしまった。そのとき彼が明確に感じ取ったのは彼女からの拒絶だった。彼女の言葉にはもう二度と自分には会わないという意味も含まれていた。きっとやり直す先は彼女の知ったことではないのだろう。自分は彼女の人生から追い出されてしまったのだ。彼はそう感じた。立場の変わってしまった彼女は自分の手をいとも簡単に振り払って、線を引いてしまったのだと。それならば最初からここに来ないでいてくれたら良かったのに。わざわざ最後に希望を見せて、それをあっけなく摘み取ってしまったのだ。彼はその時それまでに抱えていた憎しみよりもさらに大きな、絶望にも近い黒い感情に包まれた。最後に見た彼女の表情がどんなに誤魔化そうとしてもくっきりと浮かんで離れないのだ。それはまるで終わりのない拷問のようだった。
それから彼は牢屋の中で与えられる粗末な食事にも手をつけずどんどんと痩せ細りそして死んでしまった。これでやっと解放される、彼はそう信じていた。しかし、あまりにも強い彼の感情は肉体のように朽ちて消えてはくれなかった。それはやがて黒い靄のような姿となって残ってしまった。そして人の暗い感情に寄生し、憂さ晴らしのようにそれを弄ぶようになると、彼は「澱み」と呼ばれるようになった。
これは終わり方を見失ってしまった青年の、救いようのない哀れな物語だ。
元を辿ればそれは一人の青年の物語へと還る。それはいくつかの王朝を遡らなければならないほど古い話だ。そしてそれは、名前すらもう知ることができない、しかしそれだけで終わることができなかった青年の、哀れな話だ。
その青年は孤児院で生まれ育った。彼は感情が豊かで人当たりが良く明るい青年であった。そして彼のそばにはいつも美しく優しい一人の少女がいた。彼は少女のためならばどんなことでもできる、そう思えるほどに彼女を愛していた。しかし、彼女に心酔する人間は彼に留まりはしなかった。
それは年に一度、街で大きな祭りが開かれる日のことであった。彼は少女を連れて祭りに赴き、少女を楽しませようと様々なものを見せてまわった。少女は心から楽しみ可憐な笑い声を響かせながら花が咲くように笑った。その愛らしい姿がある貴族の若い男の目にとまったのだ。
それから数日して、彼と彼女を取り巻く環境が一変した。男が手を回して彼女を自分の妻にしてしまったのだ。彼は絶望した。彼女は永遠に自分のそばにいると思っていたのだから。彼の脳裏には焼きついて離れない光景があった。それは彼女が彼の前からいなくなるその瞬間に見せた涙だ。それにどんな意味があったのかは今となってはわからないが、彼はそれを絶望だと捉えた。彼はその涙を思い返し、怒りに震えた。自分から彼女を奪ったこと、そして何よりも彼女の意思に関係なく結婚が進められたことに対する怒りが彼の中で大きく育ち、それはいつしか憎しみへと姿を変えた。
それから彼は温厚だった人柄が別人のように変わり、心配する周囲に構うことなく孤児院を出て一人暮らしを始めた。彼の頭にあるのはどうこの憎しみを晴らすか、その一点のみであった。理性をも失いただ復讐のために動いた。そしてその結果、彼は彼女を自分から奪ったその男を殺そうとした。男が仕事で遠方へと赴くときを狙い、男が乗る馬車に襲いかかったのだ。幾人かの破落戸を金で雇い、彼自身も一緒に御者や護衛を薙ぎ倒して男の命を奪いにかかった。しかし、彼の計画は失敗に終わった。理性のない計画には穴が多く、あっという間に彼は拘束され、投獄された。
牢屋の隅に座る彼の瞳にはもう、光などなかった。あの男の命を奪えるなら彼はそれで良かったのだ。それだけのために彼女を失ってからの数年間を生きてきたのだから。それさえできれば自分の命も惜しくはなかった。その先の未来のことなど頭にはなかった。だから、それを達成することが叶わなかった彼はもはや処刑されても構わないとさえ思っていた。
その牢屋に唯一焦がれた少女が現れなければ。
少女は孤児院にいた頃よりもさらに美しくなり、そして貴族らしく上質な衣服を着て、お付きの者を連れて彼の目の前に現れた。彼は思わず彼女の方へと近づき手を伸ばした。しかし彼女がそれに返してくれることはない。彼女はただ涙を流していた。
「……どうして、こんなことを」
「あいつのせいで、君は無理矢理結婚させられた。好きでもない男と、陰からこそこそと手を回されて……」
彼の吐き捨てるような言葉に彼女はまるで傷ついたかのような表情を見せた。
「……手紙は……?届いていないの?」
彼は知らなかった。彼が去った後の孤児院に、彼女からの手紙が何枚も来ていたことを。誰にも居場所を告げずに消えた彼にはその手紙が届くことなどなかった。だから彼は知らなかった。その何枚もの手紙の中に、彼女は最初こそ無理矢理の結婚に苦痛を感じていたものの、想像していなかったほどに男に大切にされて今では幸せに暮らしているのだと、だから彼にも自分のことは気にせずに幸せになってほしいのだと綴っていたことなど、知る由もなかった。
彼女は凛とした瞳で彼をまっすぐ見つめ、そして諭すように彼に告げた。
「あなたがこんなことになってしまったのも全て私のせいだわ、ごめんなさい。でもどうか、あなたにはもう一度やり直してほしいの。時間はかかるかもしれないけれど絶対にあなたをここを出られるようにするから、処刑なんてことにはならないようにするから、だからどうか、……諦めないでね」
最後には震えるような声でそれだけ言うと彼女はすぐに視線を逸らし、立ち去ってしまった。自分がどんなに引き止めようと声を上げても振り返りもせずにいってしまった。そのとき彼が明確に感じ取ったのは彼女からの拒絶だった。彼女の言葉にはもう二度と自分には会わないという意味も含まれていた。きっとやり直す先は彼女の知ったことではないのだろう。自分は彼女の人生から追い出されてしまったのだ。彼はそう感じた。立場の変わってしまった彼女は自分の手をいとも簡単に振り払って、線を引いてしまったのだと。それならば最初からここに来ないでいてくれたら良かったのに。わざわざ最後に希望を見せて、それをあっけなく摘み取ってしまったのだ。彼はその時それまでに抱えていた憎しみよりもさらに大きな、絶望にも近い黒い感情に包まれた。最後に見た彼女の表情がどんなに誤魔化そうとしてもくっきりと浮かんで離れないのだ。それはまるで終わりのない拷問のようだった。
それから彼は牢屋の中で与えられる粗末な食事にも手をつけずどんどんと痩せ細りそして死んでしまった。これでやっと解放される、彼はそう信じていた。しかし、あまりにも強い彼の感情は肉体のように朽ちて消えてはくれなかった。それはやがて黒い靄のような姿となって残ってしまった。そして人の暗い感情に寄生し、憂さ晴らしのようにそれを弄ぶようになると、彼は「澱み」と呼ばれるようになった。
これは終わり方を見失ってしまった青年の、救いようのない哀れな物語だ。
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