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第二章

それはまるで夢のような時間だった③

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(ルークベルト視点)



 彼女の記憶がなくなって、彼女と会うことはめっきりなくなってしまった。それでも婚約の解消はされなかった。おそらくは残った傷跡と俺への同情からだろう。もともと体が強くなかった彼女は傷を負ってから体調を崩すことが増えた。それから外に出ることも減り、それがより悪化へと導いた。俺はどうすればいいのか分からなかった。記憶のない彼女への見舞いや手紙は返って彼女を不安にさせるだろう。何の行動もできないまま時間だけが過ぎていった。

 あの日から三年が経った頃、父上に呼び出された。あれから彼女が俺を思い出すことはやはりなく、だからこそもう一度新しく婚約者として対面する時間を設けようという話だった。それは間違っていないと思う。婚約破棄ができない限り俺と彼女はまだ婚約者なのだ。それならばいつまでも互いを知らないままではいられない。ただ俺は、彼女と過ごしたあの穏やかな時間が全て無かったことになるような気がして少し胸の奥が軋んだ。


。ラグナス・ラインホルトが娘、フィリア・ラインホルトと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 久しぶりに会った彼女は前よりも少し痩せていた。それでもやはりその美しさも陽だまりのような雰囲気も何一つ変わらなかった。俺の感情はもう微々たる動きしかしない。そんな感情が彼女に会えたことに喜んでいるのかそれとも合わせる顔がないと苦しんでいるのか、その狭間で揺れるように動いて、それから先も彼女と会う時はまるで何の感情もないように無表情だった。

 婚約者として正式に認知されるようになっても、俺はやはり何もできなかった。外に出られなくした張本人が今更何をしたってそれは皮肉にしかならないのではないかという考えがぐるぐると回って、結局書こうとした手紙もただの紙屑になってしまう。ふと考えた。彼女は俺が婚約者のままで良いのだろうか、と。もちろん良いわけがない。彼女の背中には傷が残っている。でもそれは小さく、そしてたいして目立たないものだ。それを気にする必要もないほど大きな価値が彼女にはある。家の身分は国内の貴族の中でも屈指のものだ。そして美しい容貌に磨き上げられた礼儀と教養もある。外に出られる体にさえなれば俺でなくてもきっと彼女を欲する人間は多いだろう。この婚約を破棄してもそれに未練を残すのは俺だけだ。

 行き先の分からない自分の気持ちに区切りをつけるために俺は自分の中で勝手に期限を決めた。俺たちはそうではなかったがこの国での一般的な婚約は早い場合はだいたい10歳から結ばれる。だから彼女が10歳になっても外に出ようと思うことがないのなら俺は婚約破棄を申し出ようと考えた。もし彼女が新しく婚約を結べたならばその相手が彼女を外に連れ出してくれるかもしれない。それはもう俺にはできないことだから、その時は身を引こうと思った。

 もちろんそれを決めてすぐに彼女が外に出ることなんてあるはずがなかった。当たり前だ。この期限は俺が彼女への気持ちを諦めるために設けたものでもあるのだから。気付けば彼女の10歳の誕生日も過ぎて、俺も心を固めはじめていた。

 なのに彼女は散歩を始めた。少しずつ体調が回復し始めて、友人も増えていった。俺と会う時はいつも固まったような表情をしていたが会うことが増えると次第に色んな表情を見せてくれるようになった。彼女が明るく笑うたびに俺もそれにつられて少しだけ微笑むようになった。彼女は相変わらず優しくて、そしてどこか掴めない。あの時だってそうだ。誘拐されて殺されかけても彼女は無理やり笑おうとする。

「これだから、俺は君を手放せないんだ」



 頭の片隅では気付いていた。これは全て自己満足と逃げでしかないのだと。本当のことを思い出せばきっと彼女は俺から離れていくだろう。決して俺が許されることはないのだから。それを戒めるように何度も目の前で矢にうたれて倒れる彼女の夢を見る。昔のあの穏やかな日々のように彼女の話に耳を傾けて一緒に花を見て笑うそんな時間はもう来ないのだろう。あの日々はまるで一瞬の夢のような時間だったのだから。
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