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第五章 【アンブロシア】

292 魂を癒すということ①

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Side:“アンブロシア”アシェル



すやすやと眠っていた身体が誰かに抱き上げられたのを感じ、アシェルは瞳を開いた。

生命の神がアシェルの魂を癒すと言っていたので神様だろうかと思っていたのだが、開いた視界に飛び込んできたのは女性の乳房だった。

生命の神は男性だった気がするのだが、女神が居るのだろうか。
それとも性別は自由に入れ替えられるのだろうかと疑問が湧いてくる。

そもそも神様に性別はあるのだろうか。

その持ち主の顔を確認しようと視線を動かせば、前世ではよく見慣れた綺麗な女性の顔。
――六道咲ろくどう さきのものだった。

(咲……だよね?夢でも見てるのかな。)

まるで咲の子供になってしまったような光景に、アシェルは早々に夢だと判断する。

夢だとしても、せめてその姿を覚えていようと。優しい笑みを浮かべた咲の顔をじっと見つめた。

その姿は就職を機に、児童養護施設を出て離れ離れになった時のままだ。
あの時のままなんてはずはないので、やはりこれは薫の記憶から作られた夢なのだろう。

「おっぱいの時間ですよー。……あれ?飲ま……。っ!健斗!!アシェルが目ぇ開いたばいっ。」

唐突に出された大声で耳が痛い。
遠くからはバタバタと駆け足の音が聞こえてくる。

「まじかっ!?おっ、ほんとや。アシェル、分かるか?俺たちのこと。」

新しく視界に飛び込んできた顔は、こちらも見知った山下健斗やました けんとの顔だった。

どちらもアシェルが前世の花宮薫はなみや かおるだったときの親友で、同じ児童養護施設で育った大切な家族だ。

なぜ薫じゃなくアシェルと呼ばれているのかも、何が起きているのかも状況が飲み込めないままこくんと頷くと、二人の表情が安堵に変わる。

「良かった……。ややこしいき薫やなくてアシェルっち呼ぶけど。アシェルの魂を癒すために、しばらくこっちで赤ちゃんからやり直しなんやって。頃合いをみて神様が迎えに来るき、それまではうちらの子供としてこっちの世界を楽しんでねっち言っとったよ。」

「しっかし俺達の子供の眼が紫って、違和感あるな?しかも銀髪やし。これがアシェルの姿やっち言われたけ納得したけど。」

「まぁ元々死産やったし、あの神様がやることやき姿が変わったくらいは驚かんけどね。……アシェルには分からんよね。今おる世界は“アンブロシア”っちいう、神様が新しく作った世界におるばい。うちらがお手伝いして作った世界なんよ。神様曰く、まだ出来たての赤ちゃんみたいな世界らしいんやけどね。うちらからしたらかなーり昔に、薫の魂が傷ついていて死ぬかもっち言われとったんやけど、時間をいじったんやろうね。うちの出産間際に信託が降りてね?儀式の間に、産んだ赤ん坊の亡骸を連れてこいっち言うんよ。で、そこにアシェルの魂を突っ込んで、今ここにおるっちわけ。……分かった?」

分かったかと言われても、神様の所業なんてアシェルには理解できない。

とりあえず、今ある魂を押しのけてアシェルが憑依したわけではないということは理解できた。

どうやら肉体的には二人の子供ということらしい。
厳密には違うのかもしれないが。

とりあえず頷く。

「良かった。とりあえず、色々喋りたいこともあるけど。まずはご飯ばい。はい、飲んで?」

ぐいっと乳房を押し付けられ、意識がはっきりしているのに母乳を。
それも親友のものを飲むのは恥ずかしいなと思いながら口に含む。

きっと意識が無ければ本能に従って無心に飲めるのだが、最初に吸い付くのに勇気が要るのだ。

しかし飲まなければこの空腹感も癒やされないことは既に分かっているし、赤ちゃんの身体に母乳はご馳走だ。
記憶を持った状態での赤ん坊スタートは二度目なので、ここで躊躇っても無駄なことは十分理解している。

恥ずかしさを我慢して吸い付けば、あっという間に身体年齢の本能に引っ張られて恥ずかしさなんて吹き飛んでしまう。

ありがたく満足いくまで飲むと、背中をポンポンと叩かれゲップを促された。

その仕草は手慣れていて、乳母のサーニャを彷彿とさせる。
こんなことを懐かしいと思う日がくるとは思わなかった。

すでに孫がいると言っていたし、二人の姿は恐らく若返っているのだろう。
薫たちが就職して別れたときの姿のままなのに、咲はしっかり母親になっていた。

満腹になった身体を抱き上げたまま、二人はソファに腰掛ける。

「えーっと、こっちはアシェルがおったとこをベースに構築しとるけ、魔法があって、モンスター……魔物やな。それがおるっちいう。まぁ簡単に言うとファンタジー世界なんよ。他にも色々追加要素があるんやけど、今のとこアシェルは関係ないき省くな。んで、アシェルは今、生後半年。なんやけど、アシェルは未熟児やったんやな?成長具合はアシェルやったときのまんまっちきいとるけ、まだ平均より小さいくらいやな。こっちでゆっくり成長しとるうちに、魔法の使い方も思い出して使えるようになるらしいばい。」

「今っちアシェルやった時の記憶がちょっとあやふやなんやろ?それも魔法が使えるようになると自然に思い出すらしいき。心配せんでもいいばい。あ、しばらくは寝て、おっぱい飲んで、また寝てっち生活やと思うけ。のんびりしちょって。基本はアシェルがおったとこと同じ魔法やけど、こっちにしかない術式もあるきね。……うん。見たいんやね。術式図鑑みたいなんは魔力が安定する1歳からしか見せたらいかんき、その頃に持ってきてあげる。魔法はそれまで勝手に使わんこと。とりあえず。今は夜中だろうが昼間だろうが、おっぱいの時間には起こすけね。」

アシェルが瞳を輝かせたのが伝わったのか、咲は苦笑しながら喋る。
赤ん坊な上に姿形も変わってしまったのに、アシェルの表情を読み取ってくれたようだ。

「アシェルが魔法を使えるようになったら聞きたいこともあるんやけど、今はとりあえずゆっくり眠りぃ。時間はいっぱいあるけね。この部屋にはうちと健斗しか入らんき。安心していいばい。」

とんとんと優しいリズムで叩かれていると、それまでは感じていなかった眠気が襲ってくる。

その眠気に身を委ねて、アシェルはまた眠りについた。



魂を癒すという名目のもと。

咲と健斗の子供として意識が浮上したアシェルは、文字通り、食っちゃ寝の生活をした。

アシェルもまだ喋れないし、起きている間にちょっとずつ咲と健斗の神様関係のエピソードを聞くだけだ。
大抵はこの世界の構築にあたって起きた神様との齟齬に対する愚痴だった。

というよりも、久しぶりすぎて慣れるのに時間がかかったが、赤ちゃんとはそういう生き物だ。
食べて寝るのがお仕事である。

アシェルが泣き声をあげなくても、咲は時間を決めてアシェルのお世話に来てくれていて、寝不足なのか日に日にやつれていくのが分かる。

それでも咲は、アシェルは寝付きもいいし夜泣きもしないので、子育てとしてはかなり楽だという。

ある時、咲と健斗はアシェルに伝言を残してくれた時のことを教えてくれた。

どうやら今の咲と健斗は若返っていて、“アンブロシア”の世界システムに適応した身体になっているらしい。

しかし咲に限って言えば、“アンブロシア”に最適な身体ではない。

何がどう違うのかというと、咲の体内で魔力を持った子供が育つのが難しいのだという。

本来であれば、この世界に最適な形で転移してくる予定だった。
しかし伝言の対価として、前世の寿命よりほんの少し死期を早めたらしい。

それ自体は死期が分かっているので準備も出来たし、家族も心構えが出来ていて良かったとか。

ただ寿命よりも早く世界を渡ったが故に、“地球”に適応する因子が消え切れなかったと説明されたと。

そのあたりは咲に自覚はないし、この世界で生きていくためのステータスは持っているらしい。
でも、生命の神がそう言っていたのだという。

胎児が宿ったとしても、魔力のない世界の因子が魔力を持った胎児の魂に悪影響を与える。

そのため無事に育つことができないかもしれないと危機感を感じた魂が、肉体の死より早く抜け出てしまう。
そのため死産になってしまう、らしい。

咲と健斗のふんわりした説明をまとめると、恐らくこういうことだった。

アシェルはそうやって体内で死んでしまっていて、でもこの世界のシステムとして外科的手術ではなく、出産という形で出てきた肉体に魂を宿したものなんだとか。

死んだ胎児は体内で異物扱いになるので、手術をした方が良いのでは?と思ったのだが、そういうシステムだから問題ないらしい。

この世界では一度妊娠したら半年間、母体で胎児が育つ。
流産という形でも体内に留まるらしい。診察で胎児の生死が分かるとか。

きっかり半年で出産に至り、逆子も無ければ難産もないらしい。
胎児が生きていようが死んでいようが、母体への危険もなくするっと産まれるそうだ。

咲は日本での妊娠中に流産しかけたことがあり、さらには妊婦に纏わる色々な事が不安だったからその不安を無くしたかったので、このシステムを導入したらしい。

のだが、陣痛だけ昔と同じように来て、出産自体はあっさり終わったものの。
陣痛の痛みについても手を加えておくべきだったと、うな垂れていた。
そこまでは気が回らなかったらしい。

ついでというか、生理はあるが生理痛などの生理に伴う不調も無くしてもらったと言っていた。
あくまでも生理は、妊娠しなかった場合に古いベッドを捨てるための生理現象ということになるようだ。

咲自身がこの世界の女性と同じような妊娠出産に至る為には、魔力のステータス値をかなり上げるか。
生命の神が提示したとある術式を、実用段階まで仕上げて咲に使うしかないらしい。

どうせなら完成品をくれたら良いのにと思うが、そこまですると対価がうんたらで、最大限の援助だったとか。

今は魔導士の塔と呼ばれている場所で、術式に詳しい人たちが試行錯誤しているところらしい。

健斗が魔導士が集う場所は塔だろ!と力説していたが、アシェルは別に塔である必要性を感じなかった。
むしろ昇降が面倒くさそうだなぁと思ったくらいだ。

1歳の誕生日に術式図鑑と、いずれその試行錯誤中の術式を写した紙も持ってきてくれるので、もし何か気付いたことがあれば教えて欲しいと言われた。
どうやらアシェルが普段から自分で術式を描いていることを聞いていたようだ。

アシェルのプライバシーは、生命の神によって無視されていたと思っていたほうが良いだろう。
生命の神の辞書にプライバシーという単語は存在しないに違いない。

どんなメイン術式か気になるので、もちろん頷いて了承した。

そんなこんなでちょっとずつ情報収集しつつ。

この世界の文明水準は分からないが、寝室にしてはかなり広い部屋で、咲と健斗と三人で暮らした。
アシェルのいた“古都”がベースだと言っていたし、恐らく似たような感じだろうと予想している。

といっても、夜は咲と健斗は扉を一枚隔てた向こうで寝ているようなので、ここは子供部屋になるそうだ。
時折二人の寝台に連れていかれ、三人で眠ることもある。
三人で寝た日の朝は、一人で寝るよりもスッキリしている気がした。

それがなんだか懐かしくて、でも二人の子供という立ち位置が不思議で。
やっぱり夢の中にいるようだと思ってしまう。

薫の意識が強かった間、とにかく二人に会いたくて仕方が無かった。
だからこそ余計に、夢の中にいるようだと思ってしまうのだろうか。

子供部屋に小さなダイニングテーブルを置いて、離乳食も始まった。
二人の食事や離乳食のメニュー的に、日本のように和洋折衷なんでもありみたいだ。

毎日咲と健斗が交代でアシェルに食べさせてくれる。

元々家族で同じ歳だった二人の子供として、事細かにお世話をされるのはなんだか不思議な気分で。
それでいて安心できた。

二人が育児経験者なこともあるが、施設でも小さい子の面倒は大きい子が見ていたのだ。
その手技には抜群の信頼と安心感がある。

子供部屋の今の風景は、きっと一般家庭はこんな感じなんだろうなと感じる温かさがあった。

だからだろうか。

メイディー邸ではベビーベッドに誰かが近づいてきた気配で、必ずと言っていいほど目が覚めていた。
なのに今は咲に揺り動かされるまで全く気付かない。
元々咲と健斗とは一緒の布団でもよく眠れていた影響もあるのかもしれない。

この世界の治安が分からないのに無防備すぎるかと少し思ってしまうが、育児経験がある二人に不安を感じることもなく快適だし、二人以外が子供部屋に入ってくることが無い。

よく見ると子供部屋の扉が開くときにキラキラと光っている。
錬金小屋のように認証された人間だけが通れるようになっているのではないかと思う。

ほとんどアシェルの部屋か隣の部屋に二人はいるので、誰かがご飯を作ったりしているはずなのに、アシェルたち三人以外の人の気配がないのだ。

それゆえか二人の愛情を感じながら、ミルクとオムツ交換以外は朝までぐっすり眠ることが出来たのだった。



実は最初のうちだけは、無防備に眠ってしまっていたのは魂についた傷の影響だったのだが、アシェルはそれを知る由もない。



========



Side:“古都”映像を見守るアークエイド(15歳)達 秋



明るく光るモニターには、まるで日常を切り取って繋ぎ合わせたホームビデオが流れているような状態でアシェルが映し出されていた。

アシェルを心配して王立学院の学生寮に泊まり込んでいるメイディー一家の五人に、使用人で乳母であるサーニャ、その娘で乳兄弟のイザベル。

それから恋人で来春には婚約発表予定のアークエイド。
転生者で生命の神からアシェルの世話をするようにと言われた、リリアーデとパトリシア。
リリアーデの双子の弟で婚約者のデュークは、リリアーデにくっついて来ている形だ。

残る数名の使用人は、仕事をこなしたり部屋を出たり入ったりしている。

「もうお食事を食べられるのですね。歯が生え揃ったのかしら?」

サーニャがぽつりとこぼした言葉に、親であるアベルとメアリーだけが同意をみせる。

子育て経験のない子供たちは疑問符を浮かべるが、“授け子”という前世の記憶を持った転生者であるリリアーデとパトリシアだけは苦笑を浮かべた。

「こちらはある程度歯が生え揃ってから、柔らかく炊いた麦粥からですものね。母乳が減り始めたのになかなか離乳食が始まらなくて、思わず記憶の中の教科書引っ張り出しちゃったくらいよ。お腹も空きやすくなってるから、離乳食への移行はスムーズなんだろうなって思ったけどね。」

「そうですねぇ。いつまで経っても離乳食が始まらなくてぇ、始まったと思ったら既に形があるものでしたからぁ。それも我が家は、大人の食事並み……いえ、それ以上にしっかり濃いめの味付けでしたぁ。さすがにしませんでしたけどぉ。もし料理人が食べさせてくれていたなら、迷わず器を投げつけてやったと思いますよぉ。」

パトリシアは余程離乳食が不味かったのか、顔を顰めてしまっている。

「うわぁ。さすがに我が家はちゃんと薄味だったわ。物凄ーく味気なかったもの。一応、炊いたお野菜はみじん切りにしてくれてたけど、液状もペースト状もすっ飛ばしたのよねぇ。とりあえず、日本ではこれくらいで離乳食を始めるのは正常なので、心配なさらなくても大丈夫ですわ。まだ歯が生えていない状態ですし、今は歯がなくても食べれるものから。アレルギーが出ないかの確認もしつつ、今後少しずつ成長に合わせた形態になっていくので。」

「そう……なのね?やっぱり、アシェルの住んでいた世界とこちらとでは常識の違う部分があるのね。こうやって見ていると、凄く実感するわ。」

メアリーが納得したところで、また部屋には沈黙が訪れる。

全員の双眸が、異世界を写すモニターに注がれていた。

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