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第四章 王立学院中等部三年生

283 訪れた期日⑤

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Side:アシェル14歳 秋



アベルが帰ってくるまでは紅茶と茶菓子を楽しんで。

アベルの帰宅と共に、アシェルにあのスクロールの影響がどれくらい残っているのかの確認が始まった。

といっても薫の記憶を思い出した時のように、全てを口にするわけではない。

ゆっくり頭の中で思い返しながら、気になったことを聞いていくだけだ。

「スクロールは消えたから、効力そのものは消えているはずだけど……。物凄く記憶が曖昧な部分があるね。」

「魔法と錬金、それからアークエイド殿下のことも……。」

「みたい、です。見ればそれがどういうものかは分かるのに、記憶に残らないというか。あくまでもそれがどういうものかという知識だけで、その先に繋がらないんです。魔法が使えないのもなんですが……新しいお薬が、作れません。」

しょんぼりと肩を落とすアシェルの頭を、慰めるようにアレリオンが撫でてくれる。

「もしかしたら今までみたいに、何かをきっかけに思い出せるかもしれないだろう?明日にでも錬金小屋を見ることが出来るよう、危険なモノの撤去をしておくよ。勝手にアシェの錬金小屋の中を触るけれど、構わないかい?」

「はい、お父様の良いようにしてください。正直、見ても違いを思い出せるのかも分からないので。」

本来ならあまり錬金小屋の中をを触られたくはないが、今回ばかりは仕方がない。

素材を納めた棚の中には、危険物だって当たり前のように入っているはずである。

「主に手をつけるのは素材だけれど、預かるだけだからね。保管には気を遣うから安心しておいていいよ。それから殿下のことだけど……エピソードとしてはほとんど思い出せているのに、一部が思い出せていない感じなんだね?」

アシェルが頷けば、アベルは腕を抱えて悩みだす。

「……封印は弱そうなのに……楽しいことというキーワードに該当するからかな?いや、でも……。とりあえず。殿下とのことも、恋人として過ごせば少しは思い出せるかもしれないから。少し気長に様子を見てみようか。」

「分かりました。」

「魔法については、どうしてストレージは思い出せたんだろうね……。身体強化も使えるようだし、覚えたタイミングの問題……?だとすると、錬金関連の説明が付かないか。……あぁ、アシェが魔法のことを思い出せないからといって、生活で困ることは無いからね。ストレージが使えるのなら大体の物はそこに入っているだろうし、魔道具が使えれば身の回りのことで困ることは無いよ。それから……術式が分かるからと言って、それに魔力を流してはいけないよ。何でか分かるね?」

「その内容を理解できていないのに、魔法が発動してしまうからです。それは術者にとっても、周囲の人間にも危険な事だから。」

「正解だよ。やっぱり知識としては残っているようだね。使う感覚なんかはきちんと訓練して覚え直すか、思い出すかするまでは、身体強化とストレージ以外の魔法を意識的に使おうとしては駄目だよ。」

「はい、約束します。」

「思い出せないことがあるのは不安かもしれないけれど、今日はゆっくりお休み。夕食は部屋に運ばせるようにするから。……食欲はあるかい?」

アベルに聞かれて悩む。

確かに思い出せないことがあるのは悲しいと思うが、自覚として不安とは違う気がする。

でも、食欲があるのかどうかと聞かれたら。
あまり何かを食べたいとは思えなかった。

食欲に影響が出るという事は、少なからず不安だと感じているのかもしれない。

「絶対に食べたくないとは言いませんけど、あまり。一気に色々と思い出したのと、他の思惑もあったなんて話を聞いたせいかもしれません。」

「体力は使ってなくても、精神的に疲れているだろうからね。胃薬なんかは必要かな?」

「いえ、それは大丈夫です。」

「アシェ、今日はゆっくりおやすみ。殿下も。」

アベルとアレリオンが、未だにアークエイドの腕の中にいるアシェルにおやすみのキスをくれる。
アシェルもそれにお返しして、アークエイドと共に自室に引き上げた。

戻った足でそのまま、靴だけが寝台に乗らないように布団に倒れ込む。
こんな時、日本ならそのまま布団にダイブできるのだが、玄関もないしこればかりは仕方がない。

何もしていないのに、なんだか疲れてしまった。
自室に戻ってくると、そう強く感じる。

アベルが気を使ってくれたのは、もしかしたら疲れが顔に出てしまっていたのかもしれない。

「アシェル様……記憶が戻ったのは分かりますが。戻ってすぐにこれですか。せめて靴はお脱ぎになってください。」

イザベルはそう小言を言いながらも、アシェルの靴を脱がしてくれる。

「良いじゃない、僕の部屋なんだし。やっと違和感が無くなったんだから、ゆっくりしたい。」

「そう言って、お食事も摂らずに寝てしまうんじゃないですか?お風呂は明日でも構いませんが、せめて夕食を摂ってから転んでください。お昼も読書に夢中で食べていないんですから。」

「夕飯の後なら、ベルが添い寝してくれる?」

「しませんし、それだとお眠りにならないでしょう?それに、アークエイド様がいらっしゃるのに、どうするつもりなんですか。」

「三人で——。」

「寝ませんからね!」

「寝ないぞ。」

アシェルの言葉を遮るように、二人の言葉が飛んでくる。

駄目元で言ったのだが、ここまで素早く拒否されるとは思っていなかった。

「まったく……。思ったよりもお元気そうなのでこれ以上言いませんが。私はアル様以外の殿方と床を共にしたくありませんし、アシェル様も他の殿方とは駄目です。分かりましたね?」

「アークが嫌がるからしないよ。でも……お兄様達なら良いよね?」

「駄目です。」

「えっ、家族だよ??学院に入る前に一度お兄様達が添い寝してくれてたし、家族なら別にいいんじゃないの?」

チラッとイザベルの顔を見上げると、盛大な溜め息を吐かれる。

「いいですか、アシェル様。日本がどうだったか知りませんが、親が子供と添い寝をするのは、どれだけ大きくても5、6歳までです。この頃には一人寝でも夜泣きしなくなり、ある程度周囲のことを理解して、夜に一人で過ごすことが出来るようになると言われています。そもそも寂しいと夜泣きしない子であれば、乳離れが済んだらお一人で夜を過ごすものですから。それ以上は例え親兄弟であっても、異性の寝所に入らないように言われます。あの日はアシェル様がパニックを起こして、アル様から離れなかったからです。旦那様もその日だけであればと許可を出されたのですから。」

「そうなんだ……。普通の家は知らないけど、施設では咲や健斗の布団に入ったり、入って来られたりしても、何も言われたことないんだよね。おっきくなっても、家族なら一緒に寝て良いんだと思ってた。」

「この前、俺と健斗を間違えたよな?同じ男と言えど体格で判断したってことは、それなりの年齢でも一緒に寝てたのか?」

「夜ずっと一緒とかじゃないよ?男と女で寝室は分かれてたから。寒い日とか、私の寝起きが悪い日に、咲や健斗が布団に入ってくることがあったの。私から入りに行くこともあるし、咲となら夜中から朝まで一緒に寝たりもしてた。それなりっていうか、施設でるまでは普通に時々してたことだよ?それに私達だけじゃなくて、仲の良い子同士では割と見かける感じだったし。特に寒い日は。」

それが薫たちにとっては小さい頃から当たり前で、何も疑問に思ったことは無かった。

特に雪の降る日は、休日は何人か固まって布団の中で過ごしてたほどだ。
温かいのは食堂だけで、その他の部屋は暖房やストーブなどは無かった。人肌が一番温かいのだ。

対してアークエイドは、最初からアークエイドと一緒の寝台で寝ることに抵抗が無さそうだったのは、アシェルにとってアークエイドが仲の良い子と認定されていたからだったのかと思い至る。
異性でも何でもなく、なんなら家族扱いだったのだろうと。

どうりで全く好きだという言葉が伝わらなかったわけである。
男装だったせいもあるだろうが、そもそも恋愛対象としてみる以前の問題だったようだ。

「施設でるまでって……18だったか?」

「うん。私達は高校を卒業してから施設を出たから。」

「アシェル様……成人済みの男女が、同じ寝台で寝るなんてあり得ません。家族であってもです。良いですか、こちらではそうだと覚えておいてください。そういうのはパニックの日のように特殊なケースのみです。」

これには素直に頷かないと怒られそうなのだが、少しばかり気になることもある。

「前にアン兄様に夜一緒に過ごしたいって言われたけど……。あ、でも寝台は用意するって言ってたから、添い寝じゃなくて一緒の部屋でって意味だったのかな?」

ごろんと仰向けになり、うーんと記憶を探るアシェルの言葉に、イザベルの額に青筋が浮かんだ。

「アレリオンお義兄様……!ただでさえアシェル様の常識が怪しいのにっ。アシェル様はもちろん、お断りになりましたよね?」

「え、うん。王宮だったし、アークとの約束があったから。」

「それは良かったです。今後も誘われても、ちゃんとお断りください。王宮ということは……旦那様達が泊りの時ですね。少しお傍を離れますので、ご用があればお呼びください。支度が出来次第、お夕飯をお持ちしますので。」

ぺこりと頭を下げたイザベルは、さっと踵を返して部屋を出て行く。

「ベル、怒ってた。」

「まぁ……普段から記憶持ちだからこそ伝わらないマナーを、必死に教え込んでる身からしてみたら……。怒りたくなるのも無理はないと思うぞ?メイディーだからと言ってしまえばそれまでだが。普通は兄妹で、あんな誘い方しないからな。」

言葉の選び方もそうだが、アシェルが医務局の仮眠室に誘われていた時。
アレリオンは膝の上のアシェルの頬に手を添え、まるでキスをするかのように顔を近付け瞳を覗き込んでいた。実際どちらかが少し首を伸ばせば、唇を重ねることが出来たと思う。

あれが兄妹で、しかもメイディーだと知らない人間が見たら、甘ったるいラブシーンだっただろう。

アシェルの場合、前世の記憶ももちろんあるだろうが、どうにも言動はアレリオンの影響を多大に受けているように感じる。
アルフォードももちろん、メイディーの一員である以上甘ったるい言動をするのだが、ちょっとした言葉や仕草は、どちらかというと控えめだろう。
あくまでも三人を比べたらではあるが。

「あんな誘い方って……別に何もおかしいところは無かったよ?ちょっとご機嫌斜めだったけど、いつものアン兄様だったし。充電したから、お別れする時には機嫌も直ってたし。」

「充電と言えば……。」

何が気になったのだろうか。
視界の端に黒髪が映りこんだと思ったら、ギシリと寝台が音を立てた。

「今みたいな状態でも、俺では充電してくれないのか?乗せれば膝に乗ってくれるようになったが、充電してくれたことは無いだろ。それに、ここに兄達が居たら膝に乗りに行ってただろ。」

隣に座ってアシェルの銀髪を梳くアークエイドの瞳は、心配と僅かな嫉妬の色だ。

確かに今アシェルをアレリオンかアルフォードが受け入れてくれそうなら、迷わずその膝に座って気が済むまで充電してもらっただろう。

アークエイドが自分で充電して欲しいというのも、何度か聞いたことがあるので分かってはいる。

けれど。

「今は、アークで充電する気分じゃない。」

そうとしか返せなかった。

確かに記憶のほとんどは思い出せたし、欠片は繋がった。

でもアークエイドとのことは。

プロポーズもだが、二人っきりで過ごした時間の一部かほとんどが。
あの頑丈な扉の先にあるのだ。
先程アベルたちの前では、告白に関することとデートが思い出せないと言ったが、そうじゃない。

長い時間を二人で過ごしたこと。
アシェルが本を読んで、アークエイドが当たり前のように背もたれになって過ごしていたこと。

アシェルが実験室に籠っていたら、いつの間にかに来て食事を用意してくれて。
そのまま泊っていくこと。
付き合う以前から唇や身体を重ねていたこと。

それは覚えている。

場合によっては会話を覚えていることもある。

でもそれだけだ。

アークエイドと初めて唇を重ねた日が分からない。
今世のファーストキスは、リリアーデの治療だということは覚えているのに。

度重なるお泊まりで、二人の情事がどのように行われていたのか分からない。
二人とも裸で朝を迎えた事は覚えているのに。

気づけばアークエイドが泊まりに来るようになっていたが、いつ初めてお泊まりしたのかも分からない。
寝起きの記憶が全て思い出せているのなら、この日だと思う日はあるが、全て覚えているのか自信が無い。

ざっくりとこんなことがあったと思うのに、その詳細に辿り着けないのだ。

そのことが悲しくて。
アークエイドを悲しませたくなくて。
——大切なことを忘れてしまって嫌われたくなくて。

アベルたちには、咄嗟に告白やデートが思い出せないと言ってしまった。

他は覚えていると思うと濁したが、嘘をついてしまったことに変わりはない。

アークエイドを好きだという気持ちも、一緒に居て安心できるという気持ちもあるのに、そこに至る過程が抜け落ちてしまっているのだ。

こんな状態で、アークエイドに甘えることは出来ない。

アシェルの言葉を聞いたアークエイドの表情が、僅かにだが傷ついたように歪む。
理由を伝えたらもっと傷つけてしまうので、それに気付かないフリをした。

「今は、か。そんな辛そうな表情をしてるのに……。どうしたら俺でも充電してくれるようになる?兄達と同じという訳にはいかないんだろうなとは思うが。辛そうなアシェを見てるだけは嫌だ。」

無言で押し通そうかと思ったのだが、アークエイドがじっと見つめて返事を催促してくる。

「……記憶が。アークとの記憶が、ちゃんと思い出せたらかな。……だって今の僕。人生最大の山場であるはずの、アークからのプロポーズを忘れちゃってるんだよ?恋人になったことは分かるし、アークのこと。その……好きだって気持ちもちゃんとあるけど。うーん……実感が薄いっていうのかな?前の感覚の方が強いから。今は無理。ちゃんと区切りのことを思いだしたら、アークで充電させてもらうから。前みたいに、絶対僕からアークに乗りたくないってわけでも無いし。」

しんみりさせないように、少し冗談めかして充電相手にするつもりはあるのだと伝えておく。

これは本心だし、アークエイドの求める答えはそれであっているはずだ。

「そうか……。俺としては少し寂しいが、覚えていないからと言って気にしなくても良いんだがな。今もこれからも、アシェと一緒に居られることの方が大事だ。まぁ、記憶の封印自体は弱いものだと言っていたし、アシェが思い出して俺で充電しても良いと思えるまで。気長に待つことにする。今までの片思いに比べたら、それくらい些細な事だ。」

アシェルの答えを聞いたアークエイドは、その答えにすんなりと納得した。

アシェルは普段から、この姿はこの人になら見せても良い。でもここでは駄目という線引きのような物がある。

付き合う前は隣にピッタリ寄り添って座るのは、誰の前でも大丈夫だった。
でも腰に手を回そうとしたり、挨拶以外のキスを人前でするのは嫌がった。特に家族の前では。

付き合いだしてからは教室で抱きしめても大丈夫になった。
挨拶以外のキスも受け入れてくれるようになったが、恐らく唇にするのは拒絶されるだろうと思っている。実際ゆっくり唇を重ねようとして、顔を逸らされたのだ。
それからは人前で唇を重ねようとはしていない。

アシェルにとって充電とは、兄妹のように身近な存在とするものなのだろう。
今のアシェルにとってアークエイドは友人だが他人なので、恐らく恋人になったという認識があるかどうかが、充電相手に選ばれるかどうかの線引きなのだと判断したのだ。

「ごめんね。すんなり思い出せたら良かったんだけど。」

「言っても仕方ないことだろ。気にするな。……眠たいのか?」

「うん、少し。夕飯まで、少し寝ても良いかな?」

「イザベルが夕飯を持ってきたら起こしてやる。疲れてるんだろ。少し寝たら良い。」

「ありがと。」

喋りながらも瞼が落ちそうになっていたことを見抜かれてしまった。

イザベルに怒られそうなので本当は起きていたほうが良いのだが、お言葉に甘えて重たい瞼を閉じる。

やはり思っていたよりも疲れていたようで、すぐにアシェルの規則的な寝息が聞こえだした。

イザベルが気を利かせて夕飯を遅めに持ってきてくれ、起こされたアシェルは眠たい眼を擦りながら食事を摂り。
半分寝たままイザベルにお風呂に突っ込まれた。

そんな寝ぼけてぼんやりしたアシェルを、アークエイドは嬉しそうに抱きしめて寝床に入った。
この寝ぼけたままの姿も、気を許した人間にだけ見せてくれる姿だからだ。





部屋の足元灯だけがぼんやりと光る中。

不意にアシェルは目覚めた。

(変な時間に寝たからかな……。)

視線を上げれば、すぅすぅと寝息をたてるアークエイドの顔がある。

(前より、大人っぽくなった。……気がする。)

なんとなく。
寝ていると年相応の子供っぽさも垣間見えると思った記憶はあるのだが、やっぱりそれがいつのことなのかよく分からない。

そういえばと、枕の下に手を突っ込み。
硬いものが触れることを確認する。

(護身用の懐剣を枕の下にって言うのも。アーク自身から聞いたはずなのに。)

全く思い出せないわけではないが、でもやっぱりそれがいつのことなのか分からなかった。

普通の思い出とはこういうものなのだろうか。
そうは思うが、今まで思い出そうと思えば思い出せたアシェルにとって、これは覚えている、思い出せたとは言い難い状況だ。

(錬金も、魔法も。アークのことも。どうしたら、思い出せるんだろう。)

身体強化とストレージはどうして思い出せたのか。
今もこうして使うことが出来るのかと思い悩む。

本当は寝直さなくてはいけないのだが、気になってしまうと眠気は吹き飛んでしまった。

慎重に、アークエイドを起こさないように腕の中を抜け出す。

口を濯ぎ、起きたついでにトイレも済ませ。
寝台を覗いてアークエイドが寝ていることを確認して、書き物机の椅子を『ストレージ』に仕舞ってバルコニーに出る。

ストレージは本当に便利な魔法だなと、しみじみと思う。

秋の夜風でほんの少し肌寒いバルコニーで椅子を取り出して座り、綺麗な夜空を眺める。

特に星空が好きなわけではないし、日本にいた時も星座なんて授業で習っただけだった。
見たところで違いなんて分からない。

それでも星空を見上げ、ぼうっと眺めた。

「……何が違うんだろ……。」

星空ではなく、ストレージが使えて他の魔法が使えないと感じる理由だ。

勿論記憶をたどれば、術式は思い浮かぶ。
あくまでも図形として。

じゃあ実際にその魔法を使っている時はというと。

「……イメージが……。」

思い出せない。

どんなイメージや術式を思い浮かべて、そこに魔力を流していたのかが思い出せない。

ではなぜストレージが使えたのか。

必要に迫られたからか。
ストレージが特殊な部類の魔法だからか。
それともファンタジーあるあるの魔法で、薫でもイメージしやすかったからか。

身体強化はイメージというよりも、体内の魔力操作が肝になるので、少し勝手が違うだろう。

『ストレージ』を漁り、消毒液とヒールポーション。それからダガーと薬瓶スタンドを取り出す。
——ラベルは付いていないが、記憶に間違いが無ければ消毒液とヒールポーションのはずだ。

それらを今座っていた椅子の上に置き、二つの薬瓶の蓋を開けておく。

(人体の構造は家庭教師からも授業でも習った。必要に迫られてなら、条件を満たせるはず。)

しゃがみ込んだアシェルはネグリジェの両袖をたくし上げ、排水溝の上まで精一杯左腕を伸ばす。

(寝間着に血が付きませんように。クリーンが使えたら、こんな心配しなくて良いのになぁ。)

流石に使えるかどうかわからないクリーンに希望を託すわけにはいかず、精一杯右腕も伸ばして手首にダガーを滑らせた。

「なにしてるんだっ!」

「ひゃっ!?」

外用薬を味見する時程度傷が付けばいいかと思っていたのに、急にかけられた声に驚き、思っていたよりも深く切り傷が刻まれる。
驚いた拍子に手の中を逃れたダガーが、バルコニーの上でカランッと高い音を響かせた。

振り返れば怒っているアークエイドが立っていて、何を使うのか分からないが魔力が動き出したと感じる。

「待って、魔法はだめっ。」

すんと魔力の感覚は無くなるが、アークエイドの声はとげとげしく、かなりお怒りであることが伝わってくる。

「何をしたいのか知らないが、アシェは創傷治癒ヒールを使えないだろ。錬金が出来ないからといって、味見だけでも楽しもうとしてたわけじゃないだろうな?」

「違うから。約束もしたし、魔法を使うつもりはなかった。これも消毒とヒールポーションだから。ちょっと待ってて。」

こんなちょっとしたやり取りの間にも、前腕に付けられた切り傷からはぽたぽたと鮮血が流れ続けている。
痛みもあるが、我慢できないほど痛いということは無い。

その傷をじっと見て。
生物の授業の知識を引っぱり出して、術式を思い描いて、今まで創傷治癒ヒールを使った時のことまで思いをはせる。

(やっぱり、だめだ。約束があるから使うつもりが無いとはいえ、全く使える気がしない。)

思っていた成果が得られなかったことに溜息を吐き。
傷口に消毒液とヒールポーションを振りかけた。

体内の魔力が反応を始めるが、その魔力の形に意識を割こうとすると。
もやっとした霧の中を覗いているような気分になる。魔力量の調整は出来るのに、魔力の形が分からない。

もう一度溜息を吐き、落としてしまったダガーを拾い上げようとして、白く塗られたバルコニーが血まみれになってしまったことに気付く。
ちょっとした事件現場だ。

残念ながら今のアシェルにはクリーンもウォーターも使えない。
そう、生活魔法レベルのウォーターですら使い方が分からない。そういう魔法があるという知識はあるのに。

水差しを用意しておけばよかったと反省し、血が乾く前に片付けようと立ち上がった。

想定外に大きく深い傷をつけてしまったので、少しだけふらっとしたが、倒れる程の出血量ではない。

「待てと言ったから待ってるんだが?何処に行くつもりだ。」

「片付けに、水が要るから水差し持ってこようかなって。今の僕じゃ綺麗に出来ないし。」

「それが分かってて、何してたんだ。手洗いに起きただけかと思ったら戻ってこないし。少し夜風にあたりに出たのかと思ったら、ダガーを手に取るし。どういうつもりで、何をしていたのか、説明しろ。」

バルコニーの出入り口を塞いで立つアークエイドから、説明するまで動く気が無いことが伝わってくる。

これだけ怒っているのに、血まみれの現場は『清浄化クリーン』で綺麗にしてくれた。

「その……目が覚めて。身体強化とストレージだけが使える理由を考えてて。必要に迫られる環境がきっかけだったのかなって。だったらその魔法が必要になる状態を作れば良いと……思ったので、ヒールなら。周りに迷惑かけないし、手持ちの薬でって……。その、ごめんなさい。」

アシェルとしては、思い至った事への検証をしていただけだった。
でも説明の言葉を重ねるにつれ、アークエイドの不機嫌さが増していくので、言葉はどんどん尻すぼみになってしまう。

「謝るってことは。何が悪いか分かったんだな?」

「魔法を使うつもりはなかったけど、検証するのを相談しなかったし。夜中だし。バルコニーも汚しちゃったから。」

「違う。俺が怒ってるのは、わざわざ自分の身体を傷つけたことだ。相談すればやって良い訳じゃない。アシェの持ってるポーションなら効果が高いことも分かってる。分かってるが、ヒールが使えない状態で、もしヒールポーションだけで傷が塞がらなかったらどうするつもりだったんだ?あんなに深い傷をつけて、傷が残ったらどうする。もっと自分の身体のことを、大事にしてくれ。」

「ごめんなさい。……でも、僕のヒールポーションで、あれくらいの傷が治らないわけないでしょ?確かにヒールほど即効性はないし、表面が閉じても綺麗に組織がくっつくまでに少し時間がかかるけど。傷だって、本当は味見の時くらいにしようと思ったけど、驚いて手が滑っただけだもん。傷が深くなったのだけはアークのせいだからね。」

「はぁ……そういえば、味見と称して当たり前のように傷をつける一族だったな。とりあえず。魔法や錬金のことをちゃんと思い出すまで、勝手なことをするな。これでも心配してるんだ。」

アークエイドは学院祭の論文展示で、アルフォードの作った毒を味見するために躊躇いなく腕を切りつけた姿を思い出す。
過保護なアルフォードが当たり前のように受け入れていたあたり、メイディーの味見の手段として、自傷行為は当たり前だという事だ。

「勝手なことしてごめんなさい。気を付けます。」

「分かったなら良い。とりあえず、片付けて寝るぞ。」

「うん。アークも身体冷えちゃったよね。ごめんね。」

出したものを『ストレージ』に放り込んで、書き物机の椅子も元の位置に戻した。

アークエイドが怒ったままだったらどうしようかと思ったが、寝台に入るころにはいつものアークエイドで。当たり前のようにその腕の中に抱いてくれた。

そのことに安堵して、お互いの体温がじんわりと上がってくることを感じながら、アシェルはまた眠りについたのだった。

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