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第三章 王立学院中等部二年生

202 話し合いと婚約式②

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Side:アシェル14歳 冬



「父上。メルの婚約の話は終わりましたが、もう少しだけ時間を良いですか?」

アシェルの代わりに、アレリオンが話しの場を整えてくれる。

「先程何か話していたみたいだね。それは構わないよ。私もメアも、今日の為に時間を空けてあるんだよ。折角だから、このまま皆でゆっくりしようかと思っていたからね。」

「そうですか。丁度良かったです。ウィル。」

アレリオンが呼べば、さっとウィリアムが移動してくる。

そしてアレリオンに指示された通り。

使用人達はサーニャ、イザベル、エリック、アイザック、マルローネ、そしてウィリアム自身を残して、その他は退室していく。
アシェルが邸の中で信用しても良いと思える、数少ない使用人達だ。

「顔ぶれ的に、話しがあるのはアンじゃなくてアシェのようだね。」

残された面々を見て、直ぐにアベルは見抜いてしまう。

メルティーとイザベルは、今からアシェルが何を話そうとしているのか察しがついたようで、心配そうな視線を感じる。

「そうです。話しがあるのは僕です。……今ここに居る人は半数が知っていて、全貌を知っているのはアン兄様だけなのですが……。」

何処に視線を向けて良いのか分からず、目の前に広がる真っ白なテーブルクロスに視線を落とす。

話すと決意したものの、やっぱり視線や感情の変化を見ていたくは無かった。

「アンだけが……それは、冬休みにアークエイド殿下の私室に籠っていたのと、何か関係があるのかな?」

アシェルが頷く前に、メアリーが反応する。

「アシェルが殿下の私室に籠っていたって……わたくしは初めて聞きましたわ。旦那様。どういうことかしら?」

「二人っきりじゃなくて、アンも一緒だからね。アークエイド殿下から、アンの業務をしばらく外して欲しいと言われたから。流石に業務に関することは、メアに教えられないからね。」

「二人っきりではないのね?お仕事でしたら仕方ないわ。でも……アシェルか殿下の身体が、どこか悪いのかしら。」

「いえ、違います。僕もアークも健康です。それに、アークのためじゃなくて、僕の為にアン兄様の時間を作ってもらったので……。」

「とはいえ、アークエイド殿下の命令ですけどね。流石に私事で仕事に穴を開けた訳ではありませんので。」

捕捉するように言ったアレリオンに、その書類に認可印を押したアベルは「分かっている。」と一言告げた。

「その……“授け子”ではなく、“記憶持ち”って知っているでしょうか?」

「私は知っているし、実際に診たこともあるよ。メアは?」

「わたくしは、話に聞いた程度ですわ。社交界で、時折そう言った噂が流れるのよ。程度の差はあれど“授け子”のように前世の記憶を持っている……のよね?」

確認するように問われたメアリーの言葉に、アシェルは頷いた。

書物には残っていなかったのに、社交界の噂にあがるくらいには記憶持ちが認知されていることにも驚く。
そういえばアレリオンとアルフォードは、アシェルが記憶持ちだろうと予測していたと言っていた。書物には残らないだけで、口伝として残っているのだろうか。

「僕は……その“記憶持ち”なんです。」

「アシェが……。そうか。言うのはとても勇気が要っただろう。いつからどの程度の記憶が残っているのかは分からないけれど、今と違う世界を知っていることで悩む者も少なくないんだ。“授け子”が認知されているのに、“記憶持ち”はあまり人の口からは出てこないからね。」

アベルが診たという記憶持ちは、前世の記憶に悩んで相談しに行ったのだろうか。
声は少し驚いているものの、アシェルを否定するようなものは混じっていないと思う。

メアリーは何も言わないので、うつむいているアシェルにはよく分からない。

「前世の記憶は、今は全部あります。小さな時からそれを知っていて、でも言えなくて。前はキーワードに引っ張られて、前世の記憶を思い出す感じでした。でも、学院に入った頃から前世の記憶に頭痛が伴う事があって……それが何回も起こるようになって、アークからお父様かお兄様達に相談するように言われたんですけど……。それを無視して自分だけで頭痛に対処しようとしたので、冬休みに王宮に呼ばれていました。」

「頭痛って、今は大丈夫なの?」

「えぇ。もう今は記憶に頭痛が伴うことは無いです。心配してくれてありがとうございます、メアリーお義母様。」

「そう、良かったわ。」

メアリーは純粋に頭痛について心配してくれたようで、記憶については何も言わなかった。

続きを話すために深呼吸して、また口を開く。

「アン兄様とアークに付き添ってもらって、何が頭痛の原因なのか、何を覚えていないのか調べました。その頭痛が僕の記憶にもあって……今の僕も、前世のも記憶力が良かったんです。だから、流石に乳児の記憶は靄がかかったようにおぼろげですが……今の邸に移動してきたくらいの頃からなら記憶にあります。といっても、アン兄様に話を聞いて思い出しました。それで、頭痛が嫌な記憶に紐づいていることが分かりました。」

緊張でカラカラに乾いた喉を癒すため、水を少し飲む。

そして、勇気を出してアベルとメアリーを見る。

二人ともアシェルを心配しているようだが、アシェルの嫌な色は混じっていない。
そのことに安堵して、続きを話す。

「アン兄様に診て貰うまでは、前世の私は孤児であることと、日本という国に住んでいたこと。そして大切な親友が二人いたことを覚えているくらいで、あとはキーワードで思い出す事柄がある程度でした。思い出した記憶は……孤児だというだけでも虐めや差別の対象になるのに、私は周囲とは馴染めない子だったので、余計に虐めなんかが酷かったんです。そのせいか、周囲を不安にさせてしまう眼になってしまうみたいなんです。……多分、もうなってるんじゃないですかね?意識しなくてもこんな眼になってしまうことがあるから……記憶持ちであることを話すことにしました。」

「あぁ。その眼は私も見た事があるよ。メアにも少し話したことはある。」

「本当に……そんな……どれだけ辛い事があれば……。」

今にも泣きだしてしまいそうなメアリーに、アシェルは首を振る。

「別に特別辛いことは無かったですよ。薫にとってそれが普通だったので。ただ、今の生活を知ってしまったら、もう戻りたいとは思えないですけどね。治療の加減で、アン兄様とアークには、薫の人生を全て話しました。施設……孤児院での生活から、生涯を終えるまで。既に記憶持ちであることを伝えている人には、ざっくりと孤児だったことや眼の雰囲気が変わることは伝えています。メアリーお義母様が閨教育について気にされていましたけど……前世で色々ありましたので、閨教育が無くても色々と知っていますし、感性は獣人寄りです。これで伝わるでしょうか?」

「それは……今回のことで調べたから、なんとなくは分かるわ。でも……アシェルの前世ではソレが普通のことなの?」

「一般的ではないかもしれません。ただ人族の貴族令嬢のような認識の人間は、かなり少なかったとだけ。男女の色恋に婚約と結婚はセットでは無いし、恋人がどんどん変わる人も珍しくありませんでした。結婚して離婚する人もいるし、母親が一人で子供を育てたりするような家もある世界です。そんなこちらとは違う常識の中でも、私は常識外れの部類でしたから。物凄く大雑把に話すと、こんな感じですかね。」

不愉快にならないレベルで話を終える。

メアリーはどうやら心配性なようだ。
アシェルの嫌な眼はされなかったが、薫の詳しい話をしてしまえば、アシェルが悲しいと思っていないことでも泣いてしまいそうだ。

「アシェには前世の記憶があって、人生のほとんどと言っていいほどを覚えている。そして、記憶を全て思い出したが故に、前世の時の雰囲気になることがある。という認識で良いかい?」

「はい。今まで黙っていてすみませんでした。」

「言いにくいことだっただろうから、それは構わないよ。でも、アンは知っているのに、私達にカオル嬢の人生は話してくれないのかい?その記憶は、今のアシェの土台になっている記憶だろう。NMの時の病院の件もあるし、出来れば私も知りたいのだけれどね。」

「……面白い話はありませんよ?」

「私は構わないし、その話を聞かせてもいい人間しか残していないだろう?」

それはそうなのだが、迷うアシェルにアベルはいつもの微笑みを向けてくる。
今話さなくても、いつか時間を作って洗いざらい吐かされそうだ。

「……分かりました。聞きたくないと思った人は、途中退室してください。後半の方がより酷いでしょうから。NMの時の件も考えるなら、幼馴染にしたよりも詳しい話をしなくてはいけませんので。」

もう一度水で喉を潤し、アシェルは話し始める。



「私は孤児でした。産まれて直ぐこちらで言うところの孤児院の前に捨てられていたので、両親というものを知りません。小さなころから感情表現が乏しく、周囲と馴染めなかった私は、周囲の同じ年ごろの子よりも早く文字を覚えました。年上の子に読み聞かせをする職員の膝の上で、話しを聞きながら絵本の文字を追いました。そうして覚えた文字で、今度は孤児院の絵本を読み漁りました。でも、それは私の知識欲を満たすものではなかったんです。職員の言葉や表情からも、色々なものを覚えました。周囲に馴染めず、ほとんど手のかからない子供でした。頭が良すぎるが故に、直ぐに私の世界には色が無くなりました。興味を惹くものが何もない、灰色の世界です。」



「三歳になった頃、施設に来たばかりの男の子と女の子が、一人で過ごす私を光の中に連れ出しました。二人はそれぞれ別の事情があったんですが……親に捨てられたばかりだというのに、私を気にかけてくれたんです。泣いて、笑って、怒って……ほんの些細な事にも興味を持って。そんな二人と一緒に居ると、私の世界には色が戻り、普通の子供らしく過ごすことができました。そんな時、才能に目を付けた施設長に、病院に連れていかれました。……真っ白な部屋で、色んな検査をして、数値的に天才だということが証明されたんです。そのあと何度か里親に引き取られ、その度に世界は色を無くしました。こんな子が欲しかったんじゃないと色んな虐待も受けましたし、最終的に孤児院に返されました。その度に二人が、時間をかけて私をまた色付く世界に戻してくれたんです。」



「前世には義務教育というのがありました。貴族が王立学院に行かなくてはいけないと決まっているように、6歳から15歳まで。六年間と三年間、学校に通いました。親が居ないこと、私が変わり者であることで虐めを受けました。その頃からパニックを起こすことが多くなりました。虐めと虐待、色々重なってパニックを起こしていたんです。それを咲と健斗が宥めてくれてました。カウンセリングに行っても、治療の段階まで行けずに打ち切りになりました。体調が悪いことを隠して悪化させて、熱を出して倒れたこともあります。何度か病院にも連れていかれました。施設長の奥さんは心配してくれたけど、余計な手間かけやがってって施設長は怒ってましたね。施設長はとても体格が良かったので、怒った時は凄く怖かったんです。」



「六年間の小学校が終わって、三年間通う中学校に行きました。孤児院の子供達は、色んな理由で入所します。中には性的虐待を受けた人や、親がどんどん入れ替わったような人もいます。思春期辺りになると物凄く恋愛に関して潔癖な人や、どんどんパートナーを変えて自分に与えてくれる温もりを求める人も居ました。どちらも極端な話ですが。私達も、施設や学校での性教育……閨教育とは別に、書物を通してそういった知識を得ました。簡単にそう言った知識が手に入る世界だったんです。だから咲と健斗と三人で、書物にかかれていることを色々と試しました。子供が出来る寸前までのことは一通り試しています。それが施設長にバレて、脅されて性的虐待を受けました。でも、それは私が受ければ咲と健斗は守れたので、それで良かったんです。私にとって大切なのは自分自身ではなくて、その二人だけだったので。更に進学して三年間の高校に行くためには、施設長の言うことを聞くしかありませんでしたしね。学歴社会だったので、義務教育を終えただけでは良い就職先がないんですよ。」



「施設長に言われて娼婦のようなこともしてお金を貰ったことも、一度や二度じゃありません。高校の時は、それが教師にバレて教師からも色々されました。その頃にはパニックも起こさなくなって、自分で対処できるようになっていました。それでも咲と健斗が居なければ相変わらず世界は灰色で、私はその世界の傍観者でした。この頃には閨に必要な技術を磨くことは、子供が出来る行為になってしまわないようにするために必要な技術だったんです。もちろん、咲と健斗との行為はお互いの人の温もりを求めるものでしたけど、それ以外はただ相手を満たすだけの作業です。——だからマリクの抑制剤を作る時も、特に抵抗感はありませんでした。」



「高校は頭が良いと学費免除のシステムがあったので、それを使って卒業まで通いました。でもそれ以上の学業ができる学校に行くには、膨大なお金がかかりました。そんなお金は無いので、私は18歳で就職しました。小さな会社のただの事務職員です。施設出身で、高校まで通えるのはとても待遇が良いんです。普通は15から働き始めますから。職場でセクハラやパワハラを受けたりしてましたが、それまでの生活と比べたら可愛いものでした。20歳が目前に迫った頃。大量の仕事を押し付けられて残業していました。それまでも残業させられたことがあったのですが、その日は日付が変わっても終わらなくて。どこからこれだけ出てきたんだってくらいの仕事がありました。そこへお酒を飲んだ社長がやってきて、襲われました。最初からレイプするつもりだったのだと。でも私にとってそんなものは今更でしたし、就職した時から近くに二人の居ない世界は灰色だったんです。ただ生きているだけの私の反応が無いことで、怒った社長に首を絞められました。それでも私が怖がりも何もしないので、どんどん首を絞める力が強くなって……そこで私の生涯が終わったんだと思います。最期に咲と健斗の結婚式に出れないなと思ったことは覚えていますが、私の記憶はここまでなので。————面白くもなんともない、そして虐待や虐めについては珍しくもなんともない、ただの孤児の一生です。」



事細かなエピソードを除いて、アレリオンが知っているものと大差ない内容を全て話した。

途中から話すことに集中してしまって周囲の様子は見れてなかったが、メアリーとサーニャ、イザベル、マルローネは泣いているし、メルティーは不安そうだ。他の使用人三人は涙ぐんではいるものの、ビシッと背筋を伸ばして立っている。

アベルは一人ブツブツと何かを考えていて、アルフォードはよっぽど話しの内容が衝撃的だったのか、口をパクパクさせている。

「すみません。泣かせるつもりは無かったんですが……。先に言った通り、私自身は特別辛いと思ったことはないんです。寝るところも食事もあって、大切な親友が居て、同じような境遇の家族が沢山居ました。色に溢れた世界で、楽しいことだっていっぱいあったんです。真冬の寒空の下、乳飲み子が施設に受け入れて貰えただけでも幸運でした。それに私の記憶があったから、物心ついた時に母親はいなかったけれど、それを寂しいと思ったこともないんです。むしろ父親と兄が居て、乳兄妹までいて、なんて恵まれているんだろうと思ったくらいなんですから。その頃は薫の名前も覚えていなくておぼろげな記憶だったので、母親がいないことを寂しく思わないように、神様が孤児だった時の記憶を残しておいてくれたんだとすら思ったくらいですから。だから、薫のことで泣かないでください。」

「……わかったわ……でもっ、ぐすっ……。少し、時間を頂戴……。」

メアリーは泣き止む努力をしてくれるらしい。

メルティーが婚約するという話の後で、母親であるメアリーには本来なら笑っていて欲しいのに。

「それと……アル兄様?大丈夫ですか?」

「クスクス、やっぱり純情なアルには衝撃が強すぎたみたいだね。メルの方が受け入れてくれてるよ。アシェ、お疲れ様。頭痛は出なかったかい?」

「はい、あれから頭痛は起きてませんから。」

「わたくしはアル義兄様ほど純情ではありませんもの。それに、先日獣人との閨事について、色々と聞いたばかりですわ。ただ……以前聞いていた話よりも内容が過激すぎて、少し驚いていますわ。」

アルフォードは話をちゃんと全部聞けていたのか分からないが、未だに再起不能なようだ。

その間にアベルは自分の中で話を纏め終わったのか、アシェルに向かって口を開いた。

「ねぇ、アシェ。頭痛が嫌な記憶に紐づいていることに気付いたのは、アシェがこの邸に移ってきてからのことをアンに教えて貰って思い出したから、と言ったね?」

「はい、そうです。」

「アシェはあの日を受けただろう?その時には何が見えたんだい?それに、アシェの記憶はカオル嬢とは関わりないはずだ。どうしてアシェの記憶がカオル嬢の記憶と同じ嫌な記憶だと判断したんだい?」

詳しくは濁されたが、アークエイドの私室に乱入してきた賊のことを言っているのだろう。

「薫に嬢を付けるのは止めてください。そういう習慣は無かったので、呼び捨てで良いです。記憶を全て思い出したきっかけは、で嫌な記憶を封じていた扉を根こそぎ開かれたからです。開かれてすぐは、私の意識の方が強かったです。最初にアン兄様と話し始めた時、僕の記憶に残っているよりも前のところに、その頭痛を起こす扉がありました。だから同じものだと気付きました。記憶が戻ってから分かった事ですが……当時の僕が魔法という存在を知って、体内魔力を感知できるようになった時に。アシェルに必要ない記憶を封じることを強く願ったんです……自分に出来るだけの魔力を乗せて。お陰で熱を出してしまいましたが、今思うと熱を出すだけで済んで良かったなと思ってます。」

アシェルが魔法を使ったことを話しだした瞬間。
アベルの瞳が好奇心でキラキラと輝きを増した。アベルにとって娘が記憶持ちであったことよりも、その知識などの方に意識を取られているようだ。

「あぁ、あんな時からもう、言葉も魔力の認知もしていたんだね。薄々何か魔法を使ったのかとは思っていたけれど、部屋の中に魔力の痕跡が無かったから。赤子に見られる無意識下の魔力放出の類かと思ったんだけど、それにしてはアシェの魔力の減りは尋常じゃなかったからね。あの日は私が邸に居る時だったから良かったようなものの、他の医師だとアシェの魔力枯渇には気付かなかった可能性が高いからね。それに加護持ちだったから命が無事だった可能性もあるんだから、あんな無茶な使い方はしちゃいけないよ。」

「ちゃんと魔法の勉強をした今、あんな無茶をしようとは思いません。もし仮に同じことをするのなら、きっちり術式を調べて、消費魔力量は抑えてからにしますから。」

「うんうん。それが良いと思うよ。と言っても、本来であればそういった魔法は禁術扱いだから、そんな術式に触れる機会は無いと思うけどね。アシェの面白い発想は、前世の知識によるものもあるのかい?」

「無いとは言いません。私が居た世界は、魔法が無くて、科学というものが発達した世界でしたので。魔法では簡単に出来るようなことが、ライフラインとしてお金が必要だったりしました。色々な技術を寄せ集めて、エネルギーで動く魔道具のようなものも沢山ありました。マリクの抑制剤を作った時には火を使わずに加熱する器具を作りましたが、それは前世の記憶ですね。魔道コンロについては、単に炭や薪を室内で使いたくなかったので、電気エネルギーで動く機械を参考にしました。火力なんかについては、普通の炭火焼を想定していますけどね。それくらいなものじゃないかと思います。こんなものが欲しいなと思っても、前世で普段使っていたとしても仕組みが分からないものもかなりあるので。もっと色々な仕組みを勉強しておけば良かったなと思うし、メイディーに産まれて良かったと思っています。」

「私も、アシェをメイディーに授けてくれた神様に感謝しなくてはいけないね。それにアシェは昔からアシェだったんだね。絵本を読んで貰って文字を覚えた話なんて、我が家でよく見た気がするよ。」

アベルは懐かしそうに言うが、アシェルはアベルがそれを知っていることに驚く。
休日は離れの執務室で、領地関連の仕事をしていたイメージだからだ。

「えぇ、よくアン兄様に絵本を読んで貰っていました。」

「そしてイザベルが居なければ、ずっと書庫に籠っていただろう?どんな難しい本もどんどん読んでいってしまうから、新しい書籍を取り寄せるのが大変だったんだよ。イザベルが活発な子で本当に良かった。」

壁際から「旦那様!」とイザベルの咎めるような声が聞こえるが、アベルはお構いなしに嬉しそうに笑っている。

「確かに少し難しい話しの本もありましたけど、文字に種類がありませんから。読むだけなら簡単です。文字の法則も、前世で馴染みのあるものでしたし。その難しい本の周辺には、参考文献になるものも一緒に置かれていましたから。一つ基礎を理解できれば、読み解くのは難しくないものも多かったです。」

「文字に種類があるのかい?」

こちらの文章はアルファベットに装飾がついたような文字と、ローマ字読みだけの世界だ。
魔術式になるとまた違ってくるのだが、一般市民に馴染みのある文字はローマ字だけだ、と言い切ってしまってもいいくらいだ。

「こちらの文字はこんな感じですが、前世には似た文字があって、英語で使われるアルファベットという文字です。それに並びと読み方は、日本人にはとても分かりやすいローマ字読みです。ローマ字読みが、こちらの文字の読み方と一緒だと思ってください。」

アシェルが宙に浮かぶ文字列を思い浮かべて魔力を流せば、光るアルファベットが浮かび上がる。

「確かにシンプルだけど似ているね。」

「私は花宮薫という名前でした。こちらの文字ではこう。花宮が家名です。あちらは全員家名がありますので。日本では、ひらがな、カタカナ、漢字の三種類が主に使われていました。ひらがなとカタカナは音に対して文字が対応しているので、形が違うだけですね。漢字は少し特殊で、カオルという三文字は、この一つの漢字で表現されていました。名前を全て漢字にすると、三文字になります。漢字には一つ一つの文字に意味があったり、読み方が複数あったりでややこしいんです。なのでこういう文字があったんだな、位の認識で良いんじゃないかと思います。それにこれは日本だけの話なので、海を渡って他の国に行けば文字の形も読み方も、もっと違うものがあります。実際にどれくらいの文字が存在したのかは分かりません。時代によって変わっていくものもありますし。ややこしいので、こちらのようにどの国でも同じ文字で言葉が共通語なのは、とても便利だと思いますよ。」

はなみや かおる と宙に浮かんだ文字は、こちらの文字とひらがな、カタカナ、漢字と四つ横並びになっている。

一つの塊に一つの読み方しか存在しないこちらでは、漢字について説明しても理解を得るのは難しいだろう。
アシェルだって、全ての漢字を覚えているわけではないのだから。

「へぇ、色々あるんだね。私は知らないものばかりだから、少し文献を見てみようかな。日本というと、シルコットのリリアーデ嬢と同じ国だね。今度ディーンとフィフィに、資料を送ってもらわないといけないね。」

ディーンとフィフィというのは、リリアーデ達の父親と、母親の愛称だ。
フィアフィーという名前なので、フィフィというようだ。

アベルの知識欲を満たしている間に、ようやくメアリーは泣き止んだようだ。

「アシェル……話しにくいことを話してくれてありがとう。でも、身体は大事にしなくてはダメよ。きっと同じような依頼が入れば、メイディーは二つ返事で頷くのだとは思うのだけれど……。それと、アークエイド殿下はこの話をご存じなのでしょう?抑制剤の時のこともなのかしら?わたくしが陛下の話を聞く限り、なんだけれど……大丈夫なの?」

メアリーは何に対して大丈夫なのか聞いているのだろうか。
グリモニア陛下の話に関連すると言えば、夜這いがどうとか、嫉妬深くて他の男と話すだけでも嫌がるとか、そういう話なのだが。

「えっと……前世で色々あったことも知ってますし、マリクとの件も知ってます。それに、僕が前世の記憶の加減で、感覚が獣人寄りなことも。」

「そうではなくて……その、殿方は生娘を好まれるでしょう?いくら仕事とはいえ、殿下は納得されたのかしらと思って。」

「何度も言ってるだろう。そんなことで王族が諦めてくれるなら、簡単な話だよって。」

「旦那様は黙っていてくださいませ。陛下の話は、我が家にいらした殿下の姿と噛み合いませんのよ。」

アベルは普段、一体どんな王族の話をしているのだろうか。
でも確かにグリモニアの話を聞くと、アークエイドの嫉妬は可愛いものに思えてくる。

「一番最初は欲しいと言われたのでアークにあげてますし、求められれば応えています。それと、マリクとどうこうしたからといって諦めもしないと。それに仮にアークと婚約していたとして、アークが納得しようとしまいと、僕はマリクの抑制剤を作ったでしょうし、アークもそれを止められないことは知っています。納得とは違うでしょうが、妥協している、というところでしょうか。」

「……そう。色々と思うところがあるけれど、アシェルにとっては些細なことだということが分かったわ。閨教育についてはアシェルが婚約してからと思っていたけれど、必要なさそうだし……。それより、旦那様。メイディーの女児は、あまりメイディーらしくないことが多いと、昔おっしゃっていませんでしたか?」

なんだかよく分からないが、メアリーはアシェルの話に納得したらしい。
そして、話の矛先がアベルへ向かったようだ。

「確かに言ったけれど、アシェが5歳の時には、誰よりもメイディーらしいと言っただろう?」

「それを聞いて、もっと一般常識を教えてあげてくださいませと申し上げましたよね。あまりにもメイディーらしすぎると、殿下が苦労してしまいますと。」

「うーん。好きなことをしているアシェは活き活きとしているからね。私としては、アシェの世界をもっと見てみたいんだ。殿下ならどんなアシェでも諦めずにしつこいだろうから、丁度いいんじゃないかな?」

「またそんなことを言って——。」

アベルとメアリーが子供達の前で言い合いをしているのは、初めてではないだろうか。

少なくともアシェルは今まで見たことが無いし、それが子供の教育方針だと言うところに、あぁ、家族なんだなと感じる自分がいる。

ただ子供の教育方針は、親が揉めるきっかけになりやすいと聞いたことがある。

少しなら問題ないらしいのだが、アシェルのせいで大事になってしまったらどうしようかと、そわそわしてしまう。

そんなアシェルにはどう転ぶのか分からない展開を見守っていると、ちょんちょんと服のすそを引かれた。

「お義兄様方、お母様たちがこうなると長いですわ。巻き添えを食らう前に、部屋に帰るべきですわ。」

どうやらメルティーにとっては、珍しくない光景らしい。

メルティーの助言に従って、こっそりアシェル達と使用人達は退室したのだった。
——使用人達も、夫婦喧嘩の最中は避難するらしい。
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