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第一章 非公式お茶会
7 笑顔を取り戻したい(回想)①
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Side:アレリオン7歳 春
アレリオンは先月誕生日を迎え7歳になり、アシェルが産まれてから丁度6ヶ月が経った頃。
ようやくアシェルが隔離解除された——もう普通の赤ん坊と同じように生活して問題ないということだった。
今まで離れの別邸に住んでいたアシェルは、本邸の二階にある部屋への引っ越しが行われた。
これからはこの部屋がアシェルの部屋だ。
基本的にはアレリオンとアルフォードと同じように寝台やチェストが置かれている。
それとは別に部屋の中央には、赤ちゃんを一人で寝かせるには大きすぎるであろう天蓋付きのベビーベッドが置かれていた。そして壁際には一般的なサイズのベビーベッド。
乳母のサーニャがアシェルに付きっきりになるので、サーニャの子——イザベルもしばらくはアシェルと一緒の部屋だ。
アシェルが環境に慣れて落ち着いたら。サーニャとイザベルは日中だけ邸にいて、夜は邸に住み込みの侍女がお世話をすることになっているらしい。
時々サーニャの旦那がイザベルに会いに来ていたが、家族で過ごす時間をアシェルのために割いてくれたサーニャ達には感謝しかない。
一週間差で産まれたイザベルと比べると少し発育が遅い気もするが、予定より早く産まれてしまったアシェルはそもそもスタート地点が違うのだ。
子育ては個性と他の子との違いを認めて受け入れる事だ、と家庭教師の先生も言っていたし、較べても詮のないことだろう。
アルフォードと一緒にせっせと通ったからか、なんとなくだがアシェルは僕たちを認識してくれている気がした。
初めの頃は目が合っても無表情で、ほとんど反応が返ってくることもなかったのだが、今では目があったり頭を撫でてあげると、にこっと笑ってくれるのだ。それがたまらなく嬉しい。
最近では僕達の声を聴き分けできているようで、呼びかける声に反応してこちらを見て笑ってくれる。
イザベルのように声をあげてキャッキャと笑うことはないが、サーニャは個性だといっていた。
アシェルの目元は母上似の吊り目だ。ということは目元は僕とも似ているということだ。そんな些細なことも嬉しいし愛おしいと思う。
アシェルは瞳の色を変えて、母上をうんとうんとちっちゃくしたらこうなるんだろうなぁ。ってくらい見た目がそっくりだ。
僕達が寂しくないように、神様がアシェルの姿を母上そっくりにしてくれたのかもしれないと思った。
それに可愛いのはアシェルだけじゃない。一緒にイザベルの面倒も見ているので、一気に二人も妹ができたみたいで嬉しかった。
アシェルよりイザベルのほうがやんちゃだし、喜怒哀楽がはっきりしている。
将来お転婆娘にならないか、今から心配だ。
もちろん弟のアルフォードだって可愛い。
でも最近は頭を撫でさせてくれなくなって少し寂しかった。
前は甘えん坊だったのに、弟なりに頑張ってお兄ちゃんになろうとしているのだと思う。
可愛くて愛おしい、お世話して守ってあげたい存在が沢山で、毎日がとても楽しい。
こういうのは母性というそうだ。
母上にはなれないけれど、弟や妹達のために母親のような存在になれたらと思っている。
引っ越しを終えた部屋で、アルフォードと一緒に妹達をあやしていると、3人のメイドが入ってきた。
本邸に移ってきたらお世話係がつくと聞いているので、この3人はアシェルの侍女になるのだろう。
今までアシェル達の世話はサーニャと、しばらく常駐してもらうために雇った医師二人とで頑張っていたし、少しでもサーニャの負担が減ってくれると良いなと思った。
勿論他人任せではなく、アレリオンもアルフォードもできるだけお手伝いしていたが、子供の手では大した役には立っていなかっただろうと思う。
それにしても、と入ってきて自己紹介を始める侍女達をみやる。
(全体的に少々若すぎやしないだろうか?)
イザベルはサーニャの四番目の子供だ。だからサーニャ自身は母上よりも少しお年を召していて、安心感がある。
でも新しい部屋付きの侍女達は、母上よりもうんと若く見えた。
王立学院を卒業したばかりなんじゃないかと思うくらい若く、手先も綺麗だ。
ということは、労働階級の者ではなく。爵位は分からないが貴族階級の者なのだと思う。
公爵家ともなると貴族子女が奉公先として選んでくれることもあり、王立学院で侍女・執事養成学科を受講した者が就職してくることも珍しくない。
特に下位貴族の家督を継ぐ嫡子以外の子供達は——その中でもご令嬢は。高位貴族の侍女として働いていたという実績はステータスにもなるし、そこから良縁につながることも多い。
そのため彼女達が邸で働くこと自体は特に問題ないのだが、まだ経験も少なそうな彼女達にアシェルの面倒を見ることができるのだろうか。
子育ての全てを知っている訳ではないが、それでも今までサーニャを手伝いながら子育てをみてきて、昼夜を問わず大変な仕事だと分かっている。子育て経験がなさそうな侍女たちにアシェルを預けるのが不安になってしまった。
知らず知らずのうちに眉根を寄せてしまっていたようだ。
アレリオンの様子に気づいたサーニャが、背中をぽんぽんと叩いて笑顔を向けてくれた。
それだけでほっとする。
(そうだよね、侍女達だって皆お仕事だもの。ちゃんとアシェのこと大事にお世話してもらえるなら、それでいいんだ。)
卒業してすぐなのか、既に侍女としての経験があるのかはわからないが、公爵家で働くくらいだ。部屋付きの侍女として選ばれるほど、成績優秀者なのだろう。
————この時の違和感を父上に伝えなかったことは、後から死ぬほど後悔した。きっとここで気が付いていれば何かが変わったのではないかと。
本邸の部屋に移ってから、アシェルが段々と笑わなくなってきた。
イザベルは相変わらず喜怒哀楽がはっきりしていて、よく笑っている。
段々笑わなくなってきたと言っても、サーニャとイザベルと僕とアルフォード。
僕らには少しは笑ってくれたり反応を見せてくれていたのだ。
だがその反応は段々弱くなっていった。
声をかけても顔を向けてくれることはなくなり。笑顔がなくなり。瞳の中に生気がみられなくなってきた。
せっかく笑ってくれるようになっていたのに、時間を巻き戻しされている気分だ。
サーニャに聞いてみても、今の邸に来てから増えた侍女達は、アシェルとイザベルとで差別するようなこともないという。
逆にアシェルは公爵家のお嬢様だから、イザベル相手よりももっと丁寧に対応してもらっているらしい。
昼間はサーニャがメインでアシェルについていてくれるとはいえ、確かに彼女たちの言動は侍女として何も問題がないように思う。
頻繁に部屋を訪れる僕達兄弟にも話しかけてくれ、過ごしやすいように配慮してくれているのだと思う。
本邸では沢山の使用人の出入りがあるのが悪いのだろうか。本邸の空気がアシェルには合わないのだろうか。それとも病気なのだろうか。
思えばあまり——いや、最初の産声以来、アシェルが泣く姿を見たことがない気がした。
イザベルがよく泣くので、イザベルに合わせて一緒にお世話されるアシェルは、泣いて訴えなくてもお世話が行き届くのだ。
休みの日に執務室に籠ろうとする父上を捕まえて診てもらったが、原因は判らなかった。
アシェルが1歳になった頃。
サーニャは用事ができてしまい、イザベルを連れて領地に一か月ほど帰るのだという。
離れから本邸に来て半年。
アシェルはにこりともしてくれなくなって、ぼーっと虚空を眺め過ごしていた。
声をかけその瞳を覗き込んでも、僕の姿もアルフォードの姿も映していなかった。
そんな中で、最後まで微かな反応を見せていたサーニャまでいなくなったらどうなってしまうんだろうか。
父上にサーニャがいない間だけでもアシェルの部屋で寝泊まりしたいと訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。
平民はどうか知らないが、確かに貴族であればあり得ないことだ。
許可が欲しくても、それ以上何も言えなかった。
いつもはアルフォードと時間を合わせて通っていたが、日中は時間を見つけてアシェルの元に訪れた。アルフォードもできるだけ、アシェルの部屋に通ってくれていた。
こんな時ばかりは、勉強をしなくてはいけないこの身が恨めしい。
サーニャがいなくなって一週間。部屋の中の違和感に気が付いた。
(確かにイザベルはいなくなったけど。おむつってこんなに減らないものだったっけ?)
おむつは洗濯を主にやっているメイドたちがやってくれていて、アシェルの部屋には毎朝綺麗なものを届けてくれているはずだ。
だから朝一番から夜寝る前までに減った数が使った数——なのだけど。
(2枚……いや3枚かな?サーニャはもっとこまめに替えてくれていたはずなのに。)
一つ気が付いてしまうと、他のことも気になってしまう。
アシェルはちゃんと離乳食を食べさせてもらえているのだろうか?ちゃんと水分は与えられているのだろうか?お風呂にはいれてもらっているのだろうか?
心なしか肌艶が悪く、髪もしっとりしている気がする。
(侍女達がちゃんとお世話をしてくれていない……?)
サーニャと一緒にいる時の言動で、おかしいことはなかっただろうか?
考えてもアシェルに対しておかしな素振りを見せたことはなかったように思う。
三人は昼間は一人ずつ交代で勤めていて、サーニャからお世話を教わりながらやってくれていたはずだ。
だが、よく考えてみるとアレリオンとアルフォード相手の時はどうだっただろうか?
直接的ではないが母親がいなくて可哀想と言われた。新しい母親が欲しくないかと。
アレリオンにとって母は産みの親一人なので欲しくないと答えた。
父親と普段会えているのか、アシェルの様子をもっと見に来てほしいと言われた。
父上は王宮での仕事以外にも領主としての仕事もある。時折夜中にアシェルの元に行っているようだが、アレリオン達ですらゆっくりと会えることはあまりない。
父上は忙しく、ゆっくり時間をとれないのだと答えた。
サーニャがイザベルに愛情を注ぐように、乳母としてアシェルを、そして僕達兄弟に愛情を分けてくれているのを見て。侍女達も同じように僕達に親しくしてくれているのだと思っていたが。
でもよくよく考えてみると、やたらと父上や母上のことを。いや、父上のことを聞いてきていた気がする。
サーニャがいなくなってからは、僕やアルフォードにお茶を出そうとしたり、今まで以上に話しかけようとしてきていなかっただろうか。
そういえば今の侍女長と侍女の一人は親族で、残り二人はその親族の友人なのだそうだ。
ぽろっとこぼしただけだったので深く聞いてはいないが、女主人がいない我が家では、侍女長は人事の采配も握っている。
実力で配置されたのだと思っていたが、ただの縁故採用だとしたら?
もしアシェルのお世話には興味がなくて、今も空席の“公爵夫人”も席が欲しいだけだとしたら?
あくまでも想像で結果論に過ぎないが、若くて綺麗な侍女を子育てが必要な赤ん坊の部屋に配置する理由として、一番しっくりきた。
仕事熱心だったら。父上のことをやたら聴いてこなければ。縁故採用かもしれないと知らなかったら。辿り着いた答えは変わったかもしれないが、確信に近いものを感じる。
そしてアシェルが今の状態になってしまった理由を考える。
そもそもアシェルはこんなに小さいのに、僕達が話しかけた内容によって、時々頭を振って返事するような素振りがあった。
泣くこともないし大人しいので、アシェルからの意思表示らしい意思表示はそれくらいだ。
イザベルは泣いて意思表示するし、泣き出すとなかなか泣き止まない。かと思ったら笑っていたり。
感情の起伏が激しいのか、そういうものなのか。
嫌な時は暴れるような素振りは見せるが、そういえば僕達の会話に合わせた返事の内容として意思表示はあっただろうか?
(泣く代わりに頷いたりして返事をしてくれてると思ったけど、もし言葉や状況が理解できているのだとしたら?)
“授け子”について勉強した時のことだ。
記憶を持った子供は同年代の中でも知性が高く、年相応の行動とは別に理性的な反応を示すそうだ。
特に幼ければ幼いほどその差が顕著であり、手のかかりにくい子供であることが多いのだという。
アシェルと同じ年の“授け子”がいるからと、家庭教師が教えてくれたのだ。
そして雑学として、時たま“授け子”じゃないのに、違う人生の記憶が残ったまま生を受ける子供もいるのだと。
どれくらいの頻度で“記憶持ち”がいるのかは解らないが、手のかかりにくい子供が言葉を喋りだした時に、知らないはずの単語を言い出して発覚するらしい。
ただ、大きくなるにつれて記憶は薄れるようで、文献などにもほとんど残されていないらしい。
“授け子”の感情の起伏が乏しいという話は聞いたことは無いが、性格的なものを抜きにして考えたら、家庭教師の言っていた“記憶持ち”がアシェルの状況に当てはまるのではないだろうか。
もしアシェルが言葉や状況を理解できているとしたら?
夜は侍女達しかいないのだ。
今の状態を見ているとどこまでお世話をしてくれているのかも怪しい。
何か余計なことを言っている可能性もあるかもしれないが、お世話をきちんとしてもらえないだけでも、嫌がらせをされていると感じてしまうのではないだろうか。
(確かめなくちゃ……!)
父上の許可はとってないが、勘と予想だけで証拠もないまま何かを訴えても、信じてもらえないだろう。
なんとしても現状を把握しなければならない。
そして嫌な予感が当たっているのだとしたら、アシェルを守らねばならない。
今夜アシェルの部屋に忍び込む。
そう決めた僕はまずは庭にある薬草園へと足を向けた。
早々にお風呂と寝支度を済ませ、あとは自室で本を読んだ後寝るからと侍従を下がらせた。
寝台の中に丸めたシーツを入れて、僕が寝ているように見えるように偽装する。
頭元にあるランプには1時間ほどで消える程度の魔力を注ぎ、ぼんやりと灯をつけておく。
肌触りのいい寝間着の上から、ベルト型のホルスターを装着する。
自分で作った魔力回復薬を一気にあおり、『気配遮断』と『認識阻害』の魔法を自分にかけて部屋を抜けだした。
——昔アルフォードと遊んでいた時に沢山練習したので、この2つの魔法に関してはお手の物だ。
魔力を沢山使うとわかっているときにマナポーションを服用するのは、メイディー家では最初に教えられることだ。
メイディー公爵家第一子である僕は加護持ちである可能性が高いため、なるべく魔力枯渇を起こさないように立ち回らなければならない。
加護とは王家と4つの公爵家、4つの辺境伯爵家の直系にだけ出現する可能性があるものだ。
本来魔力を使いすぎて”魔力枯渇”すると、倦怠感が強く動けなくなったり失神する。
しかし加護持ちであれば魔力枯渇だけでは動けなくなることは無く、その先の潜在魔力まで使うことができる。
それが”潜在消費”。
単純に魔力の予備タンクを持っている状態なので、加護があるだけで魔力を潤沢に使えるようになる——ように見えるかもしれない。
が、実際には潜在消費をするとリスクが付きまとう。
それが”衝動”だ。
この衝動を和らげ潜在消費した魔力を回復するには、各家に合わせた”回復行動”が必要になる。
加護持ちのメリットは“魔力枯渇”状態でも倒れないことと、緊急時に使える魔力量が多いことだろうか。
魔物の溢れる魔素溜まりの対処をしている辺境伯爵家にとっては、必須とも言える加護だろう。
王家と8家の加護はそれぞれ与えたとされる神が違っており、当然”衝動”も”回復行動”も違うが、教育として”魔力枯渇を起こさない”ように生活するように教えられるのではないかと思う。
そんな加護だが、メイディー家の加護は他家の加護と比べると、衝動の内容も潜在消費の回復行動も大したことはない。
喉が渇いて、自身か加護持ちの作成したマナポーションを飲まないと回復できない、それだけだ。
魔力枯渇の経験はないので、潜在消費の衝動がどの程度のものか分からないが。マナポーションを大量消費しなくてはいけないのだとすれば、喉が渇いてくれる衝動は大歓迎なだけだ。
自身の加護について考えていると、すぐにアシェルの部屋の前に辿り着いた。
まだアシェルの部屋からは明かりが漏れ、音も漏れている。
——もう赤ん坊は灯を控えた部屋で寝ていていい時間なのに。
そういえばアシェルが本邸に移ってから2週間後から、サーニャは自宅から通勤していたはずだ。イザベルを連れて。
もしかしなくても、今まで知らなかっただけでいつも夜はこんな状態だったのかもしれないと思うと、何も気付かなかった自分が情けなくなった。
気を取り直してそっと扉を開くが、中でピーチクパーチクお喋りしていて、全くこちらに気づく気配はない。
室内に入りそっと扉を閉めるが、それでも何も変わらなかった。
(いくら来客予定がないとはいえ、侍女が扉の開閉に気づかないってどうなんだ?)
3人の侍女達は、壁際に寄せられた応接セットで楽しそうにお茶を楽しんでいる。
——あれは来客用のティーセットだ。
まずは、恐らく誰も寄り付かないであろうイザベルのベビーベッドの上に陣取ることにする。
アシェルのベビーベッドは部屋の真ん中に置いてあり、イザベルのベッドは壁とアシェルのベッドの間くらいにある。
サーニャはイザベルのベッドは壁際にひっそり置いておきたかったみたいだが、イザベルが活発すぎて少しだけアシェルに近い配置に変えたのだ。
アシェルのベビーベッドは赤ん坊向けにしてはちょっと。——いや、かなり大きくて、あまり動かないアシェルには勿体ないからイザベルと交換したら?と言ったときにはサーニャはとっても恐縮していたっけ。そんなことできませんってちょっと怒られたけれど。
思い出してふふっと笑った。
そして視線を下げた先に——マルベリー色のやわらかい髪の毛が数本落ちていることに気が付いた。
この部屋に出入りする者でマルベリー色の髪の毛を持つ者は、サーニャとイザベルだけだ。
急な連絡で領地に帰ったので、イザベルを寝かせていたシーツを交換する間もなかったのだろう。
だが、使っていたことを知っている侍女が、一週間もシーツを替えないままなんてことがあるのだろうか。
(もしかして使う人がいないからってシーツを変えてないのか!?アシェのは!??)
侍女達がお茶とお喋りに耽っているのを確認してから、『気配遮断』と『認識阻害』の魔法をかけ直した。持続時間を把握しているわけではないので、念には念を入れてだ。
万が一魔法の効果が切れて見つかってしまったら、もう2度と真相には辿り着けない気がする。
しっかり侍女たちの様子を確認しながら、アシェルのベビーベッドに乗り込んだ。
——足音を立てないために靴を脱いできていて良かった。
レディの寝台に潜り込んでごめんね、と心の中で謝りながら、シーツや掛布団の状態、寝間着などを確認していく。大きなベビーベッドなので、アシェルに触れずに周りをぐるっと一周、四つん這いで歩けるほど余裕があった。
——やっぱりさぼっている。毎日交換していればつかないであろう汚れが、あちこちに少しずつ見受けられる。
臭いがするのでオムツも交換してもらえていないみたいだ。侍女達が引き揚げたら全部綺麗に交換してあげよう。
唇がかさついている。水分を貰えていないのだろうか。保湿剤はどこにあったっけ。
そうやって確認している間も、アシェルの瞳は虚空を眺めたまま。
アシェルの眼にはいったい何が見えているのだろうか。
それが悲しくてつい——自分が気配遮断と認識阻害の魔法をかけているのも忘れて、アシェルの頭を撫でた。
途端、アシェルの身体が大きく跳ね、頭に触れた手がパシンと叩き落された。
身体は硬く縮こまり、眼はこれでもかというくらい大きく見開かれ、潤み——泣き出してしまった。
イザベルのように大泣きするのではなく、アルフォードが泣くのを我慢している時のように、ぐずぐずと静かに泣いている。
(アシェを怖がらせてしまった。)
誰もいないのにいきなり触られたら、それは誰だって怖いだろう。
配慮が足りなかった自分の行動に舌打ちしてしまう。
侍女達が動く気配がしたので、慌ててベビーベッドの足元で身を小さくして息を潜めた。
アレリオンは先月誕生日を迎え7歳になり、アシェルが産まれてから丁度6ヶ月が経った頃。
ようやくアシェルが隔離解除された——もう普通の赤ん坊と同じように生活して問題ないということだった。
今まで離れの別邸に住んでいたアシェルは、本邸の二階にある部屋への引っ越しが行われた。
これからはこの部屋がアシェルの部屋だ。
基本的にはアレリオンとアルフォードと同じように寝台やチェストが置かれている。
それとは別に部屋の中央には、赤ちゃんを一人で寝かせるには大きすぎるであろう天蓋付きのベビーベッドが置かれていた。そして壁際には一般的なサイズのベビーベッド。
乳母のサーニャがアシェルに付きっきりになるので、サーニャの子——イザベルもしばらくはアシェルと一緒の部屋だ。
アシェルが環境に慣れて落ち着いたら。サーニャとイザベルは日中だけ邸にいて、夜は邸に住み込みの侍女がお世話をすることになっているらしい。
時々サーニャの旦那がイザベルに会いに来ていたが、家族で過ごす時間をアシェルのために割いてくれたサーニャ達には感謝しかない。
一週間差で産まれたイザベルと比べると少し発育が遅い気もするが、予定より早く産まれてしまったアシェルはそもそもスタート地点が違うのだ。
子育ては個性と他の子との違いを認めて受け入れる事だ、と家庭教師の先生も言っていたし、較べても詮のないことだろう。
アルフォードと一緒にせっせと通ったからか、なんとなくだがアシェルは僕たちを認識してくれている気がした。
初めの頃は目が合っても無表情で、ほとんど反応が返ってくることもなかったのだが、今では目があったり頭を撫でてあげると、にこっと笑ってくれるのだ。それがたまらなく嬉しい。
最近では僕達の声を聴き分けできているようで、呼びかける声に反応してこちらを見て笑ってくれる。
イザベルのように声をあげてキャッキャと笑うことはないが、サーニャは個性だといっていた。
アシェルの目元は母上似の吊り目だ。ということは目元は僕とも似ているということだ。そんな些細なことも嬉しいし愛おしいと思う。
アシェルは瞳の色を変えて、母上をうんとうんとちっちゃくしたらこうなるんだろうなぁ。ってくらい見た目がそっくりだ。
僕達が寂しくないように、神様がアシェルの姿を母上そっくりにしてくれたのかもしれないと思った。
それに可愛いのはアシェルだけじゃない。一緒にイザベルの面倒も見ているので、一気に二人も妹ができたみたいで嬉しかった。
アシェルよりイザベルのほうがやんちゃだし、喜怒哀楽がはっきりしている。
将来お転婆娘にならないか、今から心配だ。
もちろん弟のアルフォードだって可愛い。
でも最近は頭を撫でさせてくれなくなって少し寂しかった。
前は甘えん坊だったのに、弟なりに頑張ってお兄ちゃんになろうとしているのだと思う。
可愛くて愛おしい、お世話して守ってあげたい存在が沢山で、毎日がとても楽しい。
こういうのは母性というそうだ。
母上にはなれないけれど、弟や妹達のために母親のような存在になれたらと思っている。
引っ越しを終えた部屋で、アルフォードと一緒に妹達をあやしていると、3人のメイドが入ってきた。
本邸に移ってきたらお世話係がつくと聞いているので、この3人はアシェルの侍女になるのだろう。
今までアシェル達の世話はサーニャと、しばらく常駐してもらうために雇った医師二人とで頑張っていたし、少しでもサーニャの負担が減ってくれると良いなと思った。
勿論他人任せではなく、アレリオンもアルフォードもできるだけお手伝いしていたが、子供の手では大した役には立っていなかっただろうと思う。
それにしても、と入ってきて自己紹介を始める侍女達をみやる。
(全体的に少々若すぎやしないだろうか?)
イザベルはサーニャの四番目の子供だ。だからサーニャ自身は母上よりも少しお年を召していて、安心感がある。
でも新しい部屋付きの侍女達は、母上よりもうんと若く見えた。
王立学院を卒業したばかりなんじゃないかと思うくらい若く、手先も綺麗だ。
ということは、労働階級の者ではなく。爵位は分からないが貴族階級の者なのだと思う。
公爵家ともなると貴族子女が奉公先として選んでくれることもあり、王立学院で侍女・執事養成学科を受講した者が就職してくることも珍しくない。
特に下位貴族の家督を継ぐ嫡子以外の子供達は——その中でもご令嬢は。高位貴族の侍女として働いていたという実績はステータスにもなるし、そこから良縁につながることも多い。
そのため彼女達が邸で働くこと自体は特に問題ないのだが、まだ経験も少なそうな彼女達にアシェルの面倒を見ることができるのだろうか。
子育ての全てを知っている訳ではないが、それでも今までサーニャを手伝いながら子育てをみてきて、昼夜を問わず大変な仕事だと分かっている。子育て経験がなさそうな侍女たちにアシェルを預けるのが不安になってしまった。
知らず知らずのうちに眉根を寄せてしまっていたようだ。
アレリオンの様子に気づいたサーニャが、背中をぽんぽんと叩いて笑顔を向けてくれた。
それだけでほっとする。
(そうだよね、侍女達だって皆お仕事だもの。ちゃんとアシェのこと大事にお世話してもらえるなら、それでいいんだ。)
卒業してすぐなのか、既に侍女としての経験があるのかはわからないが、公爵家で働くくらいだ。部屋付きの侍女として選ばれるほど、成績優秀者なのだろう。
————この時の違和感を父上に伝えなかったことは、後から死ぬほど後悔した。きっとここで気が付いていれば何かが変わったのではないかと。
本邸の部屋に移ってから、アシェルが段々と笑わなくなってきた。
イザベルは相変わらず喜怒哀楽がはっきりしていて、よく笑っている。
段々笑わなくなってきたと言っても、サーニャとイザベルと僕とアルフォード。
僕らには少しは笑ってくれたり反応を見せてくれていたのだ。
だがその反応は段々弱くなっていった。
声をかけても顔を向けてくれることはなくなり。笑顔がなくなり。瞳の中に生気がみられなくなってきた。
せっかく笑ってくれるようになっていたのに、時間を巻き戻しされている気分だ。
サーニャに聞いてみても、今の邸に来てから増えた侍女達は、アシェルとイザベルとで差別するようなこともないという。
逆にアシェルは公爵家のお嬢様だから、イザベル相手よりももっと丁寧に対応してもらっているらしい。
昼間はサーニャがメインでアシェルについていてくれるとはいえ、確かに彼女たちの言動は侍女として何も問題がないように思う。
頻繁に部屋を訪れる僕達兄弟にも話しかけてくれ、過ごしやすいように配慮してくれているのだと思う。
本邸では沢山の使用人の出入りがあるのが悪いのだろうか。本邸の空気がアシェルには合わないのだろうか。それとも病気なのだろうか。
思えばあまり——いや、最初の産声以来、アシェルが泣く姿を見たことがない気がした。
イザベルがよく泣くので、イザベルに合わせて一緒にお世話されるアシェルは、泣いて訴えなくてもお世話が行き届くのだ。
休みの日に執務室に籠ろうとする父上を捕まえて診てもらったが、原因は判らなかった。
アシェルが1歳になった頃。
サーニャは用事ができてしまい、イザベルを連れて領地に一か月ほど帰るのだという。
離れから本邸に来て半年。
アシェルはにこりともしてくれなくなって、ぼーっと虚空を眺め過ごしていた。
声をかけその瞳を覗き込んでも、僕の姿もアルフォードの姿も映していなかった。
そんな中で、最後まで微かな反応を見せていたサーニャまでいなくなったらどうなってしまうんだろうか。
父上にサーニャがいない間だけでもアシェルの部屋で寝泊まりしたいと訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。
平民はどうか知らないが、確かに貴族であればあり得ないことだ。
許可が欲しくても、それ以上何も言えなかった。
いつもはアルフォードと時間を合わせて通っていたが、日中は時間を見つけてアシェルの元に訪れた。アルフォードもできるだけ、アシェルの部屋に通ってくれていた。
こんな時ばかりは、勉強をしなくてはいけないこの身が恨めしい。
サーニャがいなくなって一週間。部屋の中の違和感に気が付いた。
(確かにイザベルはいなくなったけど。おむつってこんなに減らないものだったっけ?)
おむつは洗濯を主にやっているメイドたちがやってくれていて、アシェルの部屋には毎朝綺麗なものを届けてくれているはずだ。
だから朝一番から夜寝る前までに減った数が使った数——なのだけど。
(2枚……いや3枚かな?サーニャはもっとこまめに替えてくれていたはずなのに。)
一つ気が付いてしまうと、他のことも気になってしまう。
アシェルはちゃんと離乳食を食べさせてもらえているのだろうか?ちゃんと水分は与えられているのだろうか?お風呂にはいれてもらっているのだろうか?
心なしか肌艶が悪く、髪もしっとりしている気がする。
(侍女達がちゃんとお世話をしてくれていない……?)
サーニャと一緒にいる時の言動で、おかしいことはなかっただろうか?
考えてもアシェルに対しておかしな素振りを見せたことはなかったように思う。
三人は昼間は一人ずつ交代で勤めていて、サーニャからお世話を教わりながらやってくれていたはずだ。
だが、よく考えてみるとアレリオンとアルフォード相手の時はどうだっただろうか?
直接的ではないが母親がいなくて可哀想と言われた。新しい母親が欲しくないかと。
アレリオンにとって母は産みの親一人なので欲しくないと答えた。
父親と普段会えているのか、アシェルの様子をもっと見に来てほしいと言われた。
父上は王宮での仕事以外にも領主としての仕事もある。時折夜中にアシェルの元に行っているようだが、アレリオン達ですらゆっくりと会えることはあまりない。
父上は忙しく、ゆっくり時間をとれないのだと答えた。
サーニャがイザベルに愛情を注ぐように、乳母としてアシェルを、そして僕達兄弟に愛情を分けてくれているのを見て。侍女達も同じように僕達に親しくしてくれているのだと思っていたが。
でもよくよく考えてみると、やたらと父上や母上のことを。いや、父上のことを聞いてきていた気がする。
サーニャがいなくなってからは、僕やアルフォードにお茶を出そうとしたり、今まで以上に話しかけようとしてきていなかっただろうか。
そういえば今の侍女長と侍女の一人は親族で、残り二人はその親族の友人なのだそうだ。
ぽろっとこぼしただけだったので深く聞いてはいないが、女主人がいない我が家では、侍女長は人事の采配も握っている。
実力で配置されたのだと思っていたが、ただの縁故採用だとしたら?
もしアシェルのお世話には興味がなくて、今も空席の“公爵夫人”も席が欲しいだけだとしたら?
あくまでも想像で結果論に過ぎないが、若くて綺麗な侍女を子育てが必要な赤ん坊の部屋に配置する理由として、一番しっくりきた。
仕事熱心だったら。父上のことをやたら聴いてこなければ。縁故採用かもしれないと知らなかったら。辿り着いた答えは変わったかもしれないが、確信に近いものを感じる。
そしてアシェルが今の状態になってしまった理由を考える。
そもそもアシェルはこんなに小さいのに、僕達が話しかけた内容によって、時々頭を振って返事するような素振りがあった。
泣くこともないし大人しいので、アシェルからの意思表示らしい意思表示はそれくらいだ。
イザベルは泣いて意思表示するし、泣き出すとなかなか泣き止まない。かと思ったら笑っていたり。
感情の起伏が激しいのか、そういうものなのか。
嫌な時は暴れるような素振りは見せるが、そういえば僕達の会話に合わせた返事の内容として意思表示はあっただろうか?
(泣く代わりに頷いたりして返事をしてくれてると思ったけど、もし言葉や状況が理解できているのだとしたら?)
“授け子”について勉強した時のことだ。
記憶を持った子供は同年代の中でも知性が高く、年相応の行動とは別に理性的な反応を示すそうだ。
特に幼ければ幼いほどその差が顕著であり、手のかかりにくい子供であることが多いのだという。
アシェルと同じ年の“授け子”がいるからと、家庭教師が教えてくれたのだ。
そして雑学として、時たま“授け子”じゃないのに、違う人生の記憶が残ったまま生を受ける子供もいるのだと。
どれくらいの頻度で“記憶持ち”がいるのかは解らないが、手のかかりにくい子供が言葉を喋りだした時に、知らないはずの単語を言い出して発覚するらしい。
ただ、大きくなるにつれて記憶は薄れるようで、文献などにもほとんど残されていないらしい。
“授け子”の感情の起伏が乏しいという話は聞いたことは無いが、性格的なものを抜きにして考えたら、家庭教師の言っていた“記憶持ち”がアシェルの状況に当てはまるのではないだろうか。
もしアシェルが言葉や状況を理解できているとしたら?
夜は侍女達しかいないのだ。
今の状態を見ているとどこまでお世話をしてくれているのかも怪しい。
何か余計なことを言っている可能性もあるかもしれないが、お世話をきちんとしてもらえないだけでも、嫌がらせをされていると感じてしまうのではないだろうか。
(確かめなくちゃ……!)
父上の許可はとってないが、勘と予想だけで証拠もないまま何かを訴えても、信じてもらえないだろう。
なんとしても現状を把握しなければならない。
そして嫌な予感が当たっているのだとしたら、アシェルを守らねばならない。
今夜アシェルの部屋に忍び込む。
そう決めた僕はまずは庭にある薬草園へと足を向けた。
早々にお風呂と寝支度を済ませ、あとは自室で本を読んだ後寝るからと侍従を下がらせた。
寝台の中に丸めたシーツを入れて、僕が寝ているように見えるように偽装する。
頭元にあるランプには1時間ほどで消える程度の魔力を注ぎ、ぼんやりと灯をつけておく。
肌触りのいい寝間着の上から、ベルト型のホルスターを装着する。
自分で作った魔力回復薬を一気にあおり、『気配遮断』と『認識阻害』の魔法を自分にかけて部屋を抜けだした。
——昔アルフォードと遊んでいた時に沢山練習したので、この2つの魔法に関してはお手の物だ。
魔力を沢山使うとわかっているときにマナポーションを服用するのは、メイディー家では最初に教えられることだ。
メイディー公爵家第一子である僕は加護持ちである可能性が高いため、なるべく魔力枯渇を起こさないように立ち回らなければならない。
加護とは王家と4つの公爵家、4つの辺境伯爵家の直系にだけ出現する可能性があるものだ。
本来魔力を使いすぎて”魔力枯渇”すると、倦怠感が強く動けなくなったり失神する。
しかし加護持ちであれば魔力枯渇だけでは動けなくなることは無く、その先の潜在魔力まで使うことができる。
それが”潜在消費”。
単純に魔力の予備タンクを持っている状態なので、加護があるだけで魔力を潤沢に使えるようになる——ように見えるかもしれない。
が、実際には潜在消費をするとリスクが付きまとう。
それが”衝動”だ。
この衝動を和らげ潜在消費した魔力を回復するには、各家に合わせた”回復行動”が必要になる。
加護持ちのメリットは“魔力枯渇”状態でも倒れないことと、緊急時に使える魔力量が多いことだろうか。
魔物の溢れる魔素溜まりの対処をしている辺境伯爵家にとっては、必須とも言える加護だろう。
王家と8家の加護はそれぞれ与えたとされる神が違っており、当然”衝動”も”回復行動”も違うが、教育として”魔力枯渇を起こさない”ように生活するように教えられるのではないかと思う。
そんな加護だが、メイディー家の加護は他家の加護と比べると、衝動の内容も潜在消費の回復行動も大したことはない。
喉が渇いて、自身か加護持ちの作成したマナポーションを飲まないと回復できない、それだけだ。
魔力枯渇の経験はないので、潜在消費の衝動がどの程度のものか分からないが。マナポーションを大量消費しなくてはいけないのだとすれば、喉が渇いてくれる衝動は大歓迎なだけだ。
自身の加護について考えていると、すぐにアシェルの部屋の前に辿り着いた。
まだアシェルの部屋からは明かりが漏れ、音も漏れている。
——もう赤ん坊は灯を控えた部屋で寝ていていい時間なのに。
そういえばアシェルが本邸に移ってから2週間後から、サーニャは自宅から通勤していたはずだ。イザベルを連れて。
もしかしなくても、今まで知らなかっただけでいつも夜はこんな状態だったのかもしれないと思うと、何も気付かなかった自分が情けなくなった。
気を取り直してそっと扉を開くが、中でピーチクパーチクお喋りしていて、全くこちらに気づく気配はない。
室内に入りそっと扉を閉めるが、それでも何も変わらなかった。
(いくら来客予定がないとはいえ、侍女が扉の開閉に気づかないってどうなんだ?)
3人の侍女達は、壁際に寄せられた応接セットで楽しそうにお茶を楽しんでいる。
——あれは来客用のティーセットだ。
まずは、恐らく誰も寄り付かないであろうイザベルのベビーベッドの上に陣取ることにする。
アシェルのベビーベッドは部屋の真ん中に置いてあり、イザベルのベッドは壁とアシェルのベッドの間くらいにある。
サーニャはイザベルのベッドは壁際にひっそり置いておきたかったみたいだが、イザベルが活発すぎて少しだけアシェルに近い配置に変えたのだ。
アシェルのベビーベッドは赤ん坊向けにしてはちょっと。——いや、かなり大きくて、あまり動かないアシェルには勿体ないからイザベルと交換したら?と言ったときにはサーニャはとっても恐縮していたっけ。そんなことできませんってちょっと怒られたけれど。
思い出してふふっと笑った。
そして視線を下げた先に——マルベリー色のやわらかい髪の毛が数本落ちていることに気が付いた。
この部屋に出入りする者でマルベリー色の髪の毛を持つ者は、サーニャとイザベルだけだ。
急な連絡で領地に帰ったので、イザベルを寝かせていたシーツを交換する間もなかったのだろう。
だが、使っていたことを知っている侍女が、一週間もシーツを替えないままなんてことがあるのだろうか。
(もしかして使う人がいないからってシーツを変えてないのか!?アシェのは!??)
侍女達がお茶とお喋りに耽っているのを確認してから、『気配遮断』と『認識阻害』の魔法をかけ直した。持続時間を把握しているわけではないので、念には念を入れてだ。
万が一魔法の効果が切れて見つかってしまったら、もう2度と真相には辿り着けない気がする。
しっかり侍女たちの様子を確認しながら、アシェルのベビーベッドに乗り込んだ。
——足音を立てないために靴を脱いできていて良かった。
レディの寝台に潜り込んでごめんね、と心の中で謝りながら、シーツや掛布団の状態、寝間着などを確認していく。大きなベビーベッドなので、アシェルに触れずに周りをぐるっと一周、四つん這いで歩けるほど余裕があった。
——やっぱりさぼっている。毎日交換していればつかないであろう汚れが、あちこちに少しずつ見受けられる。
臭いがするのでオムツも交換してもらえていないみたいだ。侍女達が引き揚げたら全部綺麗に交換してあげよう。
唇がかさついている。水分を貰えていないのだろうか。保湿剤はどこにあったっけ。
そうやって確認している間も、アシェルの瞳は虚空を眺めたまま。
アシェルの眼にはいったい何が見えているのだろうか。
それが悲しくてつい——自分が気配遮断と認識阻害の魔法をかけているのも忘れて、アシェルの頭を撫でた。
途端、アシェルの身体が大きく跳ね、頭に触れた手がパシンと叩き落された。
身体は硬く縮こまり、眼はこれでもかというくらい大きく見開かれ、潤み——泣き出してしまった。
イザベルのように大泣きするのではなく、アルフォードが泣くのを我慢している時のように、ぐずぐずと静かに泣いている。
(アシェを怖がらせてしまった。)
誰もいないのにいきなり触られたら、それは誰だって怖いだろう。
配慮が足りなかった自分の行動に舌打ちしてしまう。
侍女達が動く気配がしたので、慌ててベビーベッドの足元で身を小さくして息を潜めた。
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