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幕間Ⅱ~鋼の騎士~
栄光への序曲
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ペーレウスの周りで小さな変化が起こり始めたのは、グルガーン討伐の帰還後からだった。
「おはよう」
朝、挨拶をされる。
ごく当たり前のことなのだが、ペーレウスは戸惑いを覚えずにはいられなかった。
騎士団入団以来、これまでは自分から挨拶をしない限り、誰からも挨拶をされることがなかったのだ。それどころか挨拶をしても無視されてしまうことがしばしばだった。それが、誰彼なく挨拶をされるようになったのだ。
それだけでも彼にとっては驚くべきことだったのだが、一緒に討伐任務に赴いた面々は気さくに話しかけてきてくれるまでになった。
ブリリアンの取り巻きのニコラとポールはさすがに話しかけてくるようなことはなかったが、これまでのような嫌味を言ってくることはなくなった。
ブリリアンはといえば、任務を放棄し仲間を見捨てて逃走するという騎士としてあるまじき行為を弾劾され、査問会にかけられたのだが、彼はその査問会で「仲間の危機を救うべく応援を呼ぶ為に戦闘から抜け出したのであり、断じて自分は逃走などしていない」と、一貫してそれを否認した。
しかしスワレの住民に気付かれないように自身の馬をこっそりと持ち出していることや、ひと足先に王都に戻っているにも関わらず、応援の要請を一切していないことなどから、ブリリアンの罪過は明白であり、誰もがそれを認定していたのだが、父親のロイド公爵がロイド家の威信と名誉を懸け、総力を挙げてあらゆる根回しをし、その結果、どう考えても有り得ないことなのだが、ブリリアンはお咎めなしとなった。
だが、騎士団内に流れる冷ややかで生ぬるい空気までは、ロイド家の威光をもってしてもどうすることも出来ない。
当然ながら騎士団内におけるブリリアンの立場は悪くなり、見捨てて逃げたことになるニコラやポールとも以前のようには接することがなくなった。横暴で尊大だった態度も自然と控え目にならざるを得なくなり、ブリリアンは針のむしろのような日々を送ることとなった。
一気に団内での評価を高めたペーレウスとは実に対照的だった。
そんなある日、仕事上がりにシェイドとテティスと三人で初めて待ち合わせることが決まったペーレウスは、今日は何が何でも業務時間内に仕事を終えようと、朝から精力的に業務をこなしていた。
そんな折、事件は起こった。
待ち合わせ場所とした中庭の噴水前に一番最初にやって来たのはシェイドだった。
まだ誰も来ていない噴水の縁に腰を下ろし魔道書を眺めて待っていると、ほどなくしてテティスが現われた。
ペーレウスを通じて互いの話を聞いてはいるものの、二人が面と向かって話をするのは今回が初めてである。
シェイドは立ち上がり、テティスに向かって軽く会釈をした。
「……初めまして。シェイド・ランカートです」
「存じています。テティス・シェルバージュです。宜しく」
ふわりと微笑んだ月光花と称される女性は、茜色の太陽の下でも美しく輝いていた。
その微笑みの柔らかさにどことなく懐かしさを感じ、シェイドはわずかに瞳を細めた。外見はまるで異なるが、彼女のそれはそこはかとなく彼の亡き母を思い起こさせたのだ。
「敬語はナシでいきましょう? 同い年ですし」
テティスは気さくに提案してきた。こんなふうに気兼ねない調子でシェイドに話しかけてきた人物はペーレウス以来だ。
類は友を呼ぶ、という奴なのだろうか? 親友の友人はやはり彼をただのシェイドとして扱ってくれる。その事実に、自然とシェイドの表情は和らいだ。
「そうしよう。ペーレウスを挟んで二人だけ敬語、というのもおかしなものだしな」
噴水の縁に腰を下ろしながら、二人はしばしとりとめのない会話を交わした。
「……そうだ。貴女に返さなければと思っていたものがあるんだ」
ややしてから、思い出したようにそう言うと、シェイドはおもむろに懐から月長石の欠片を取り出した。
「これは貴女が持っているべきものだろう? ……だが、おかげで無事に任務から帰ってくることが出来た。礼を言う」
思いも寄らなかったシェイドからの申し出に驚いた様子を見せていたテティスは、やがて小さく笑うと、静かに首を振った。
「いいのよ、貴方にあげたものなんだから。貴方が持っていて」
「しかし……」
「これは、わたしが貴方達にお守りとしてあげたものなの。……お守りとしてあげる前は確かに、貴方の想像通り別の意味を持つものとして持っていたわ。でもこれを渡す時、わたしは純粋に貴方達の無事を願って、神官としての祈りを込めてこれを渡したの。迷惑でなければこのまま持っていて」
やんわりと、しかしシェイドの言葉を否定せず真っ直ぐな瞳を向けてくるテティスを見て、シェイドはひとつ溜め息をついた。
「……分かった。もらっておこう……貴女も意外とストレートなんだな。驚いたよ」
苦笑混じりのその言葉を聞いて、テティスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、貴方の前では隠しても意味がないと思ったの。だって、絶対に見破られそうなんだもの」
ペーレウスから話には聞いていたが、儚げな外観とは裏腹に、テティスはなかなかにたくましい性格をしているらしい。だが聡い女性だと思った。
「しかし、あいつはこの意味にまるで気付いていないぞ。出立前にそれとなく匂わせてやったんだが、帰ってきてからの環境の変化に煩わされて、絶対に忘れている」
「それならそれでいいわ。彼に惹かれているのは確かだけど、この気持ちをもう少しだけ見極めたい自分もいるの。それに、彼の邪魔にはなりたくないしね」
テティスはさして気にするふうもなくそう言った。
「では私は友人として、奴が千載一遇のこのチャンスを逃さないように祈ることとしよう」
シェイドはそう言い結びながら、その友人の到着がずいぶんと遅れていることに軽い懸念を覚え始めていた。それはテティスも同様だったらしい。
「……ペーレウス、遅いわね」
そう呟いて、テティスは騎士団の方角を見やった。
ブリリアンは苛立っていた。
自分に対する周りのこの扱いは、いったい何なのだ。誰も彼もが白い眼を向けて、この自分を蔑んでいる―――。
有力貴族の家柄に生まれ、何不自由なく我が儘放題に育ったブリリアンは、人を蔑んだことはあっても蔑まれたことなどなかった。このような状況に置かれることは、彼にとって屈辱の極みと言えた。
自分を蔑む者達を今すぐこの剣で斬り殺して、騎士団など辞めてやりたい。
そんな凶暴な衝動が、ふつふつと込み上げてくる。
それを堪え、彼が未だに騎士団に身を置いているのは、父であるロイド公爵からの絶対命令ゆえだった。
今騎士団を辞めることは、一連の件を認めることに等しい。誰もがブリリアンの行為を敵前逃亡と見なし騎士の名折れと思っていることは明白だったが、建前上はそうでないと査問会で認定され、処分なしとなっているのだ。
ロイド家の面目を保つ為にも、手柄を立てて汚名を雪ぐまでは、辞めることは許されない。
ブリリアンは分厚い唇をぎりっとかみしめた。
自分の命を守る為に逃げて、何が悪い。この自分と、ニコラや討伐部隊の面々の命とでは、まるで重みが違うのだ。自分は神に愛され選ばれた『選民』なのだ、生き残る為にその他大勢を犠牲にして何が悪い!
あの時点では、討伐部隊が勝利する可能性など無いに等しかった。あそこから戦局をひっくり返すことなど、到底不可能だったはずなのだ。
それを―――。
ブリリアンは暗くたぎる苦い感情を飲み下した。
ペーレウスとシェイド、あの二人が勝利へと導いた。
その結果はブリリアンにとって到底認めがたいものだった。
さんざん嫌がらせをし、蔑んできた『愚民』ペーレウスが討伐部隊の危機を救ったのだ―――『選民』たる自分が戦場から逃げ出した、その後で。
―――ペーレウスは今、この自分をどう思っているのか。
それを考えると、ブリリアンは冷静ではいられなくなる。
あの男は面と向かっては何も言ってこないが、腹の中ではこの自分を臆病者と罵り、今の惨めな体たらくを盛大に嘲笑っているのに違いない。そして優越感に浸りながら、侮蔑に満ちた眼差しで憐れな自分を見下ろしているのだ。
そう思うと身体中の血液が沸騰し、逆流するかのような錯覚に囚われる。
これまで自分に媚びへつらっていたニコラとポールもあれから何かと距離を置いて接するようになっており、こちらに向けられるその視線が冷ややかに感じられてならない。
ついこの間まで当たり前のように身に纏っていた威厳も誇りも、今はペーレウスという名の風に吹き飛ばされ、ブリリアンは裸の王様と化してしまっていた。
挫折を知らない有力貴族の三男坊の気高いプライドはズタズタにされ、これ以上ないほどの屈辱にまみれていた。
騎士団内の居心地の悪さは不快指数を極め、空気が淀んでいるように感じられる。ブリリアンは外の空気を吸いに行こうと席を立った。その時だった。
勢いよくドアが開き、外で武具の手入れ作業をしていたペーレウスが中に入ってきた。作業が終わったらしく、手入れに使った道具を奥の部屋に戻し、磨き上げた武具を別棟の保管庫にしまう為、再び外に出て行こうとする。
思わず立ち止まってしまったブリリアンの脇を往復していながら、忙しそうなペーレウスは彼のことなどまるで気に留めていない様子で、チラとも目をくれなかった。
それがブリリアンの怒りに火をつけた。
鬱屈し、凝縮され堆積していた負の感情はそれを導火線にあっという間に燃え広がり、ブリリアンの口から怨嗟の煙となって吐き出された。
「おい、愚民」
すこぶる機嫌の悪そうな声に呼び止められてしまったペーレウスは、げんなりしながら声の主を振り返った。
最近は絡まれることもなくなり快適に過ごしていたのだが、よりによって今日このタイミングでそれが復活するとは。
ペーレウスは舌打ちをしたい気分だった。
今日はシェイドとテティスと、仕事上がりに三人で初めて待ち合わせているのだ。業務の終了時刻まであまり時間がない。まだ作業が残っており、ブリリアンに構っている暇はなかった。
「その呼び名、やめてもらうように何度言ったら分かるんです? 私にはちゃんとした名前があるんですよ」
そう言い置いて再び背を向けたペーレウスにブリリアンが躍りかかった。無礼な愚民の襟首を掴み、思い切り床に引き倒す!
「―――っ!」
まさかそう来るとは思っていなかったペーレウスは、不意を突かれて背中から床に叩きつけられた。
派手な物音が立ち、室内にいた騎士達が驚いた様子で二人を振り返る。
「何、をっ……!」
ペーレウスが身体を起こしながらブリリアンをにらみ上げると、目を血走らせたブリリアンは鼻息も荒くペーレウスの胸倉を掴み上げた。
「貴様ぁっ……何だその態度は!? この私の呼びかけなど、歯牙にもかけんと言うことか!」
「はぁ!? 何言って……!」
完全なる難癖である。
ペーレウスの黒茶色の瞳が怒りに染まり、獣のような鋭さを帯びた。入城当初に比べて辛抱強くなったとはいえ、理不尽な暴力を甘んじて受けるような性格ではない。
鋭いその眼差しを受けたブリリアンのこめかみに青筋が浮き上がる。
「何だその目は! 貴っ様ぁ……やはり、この私を! この私を蔑んで……! 馬鹿にしているのか、愚民風情がぁぁッ!!」
「―――やめて下さい、ブリリアン様ッ!」
一触即発のその間に割って入ったのは、意外な声だった。
「―――ニコ、ラ……」
声の主を見たブリリアンはその名を呟いたきり、絶句した。彼に胸倉を掴み上げられた状態のペーレウスも、驚いた様子でニコラを見つめる。
ニコラは青ざめた表情で、しかし意を決した様子で、ブリリアンに歩み寄ると口を開いた。
「ペーレウスは……愚民ではありません。我々と同じ、騎士です。それに、貴方を馬鹿になどしていないと思います。彼は……そんなに器量の狭い男では、ないと思う。どうか、その手を離して下さい」
ついこの間まで自分の取り巻きだったニコラの発言は、ブリリアンに衝撃を与えた。
腰巾着で、これまで自分に意見など一度もしたことがなかったニコラ。
―――何故だ?
ブリリアンの中にどす黒い感情が生まれる。
地位もなく、名誉もなく、ただ剣の腕だけを国王に認められ、奇跡的な確率で騎士団に転がり込んできただけのこの男が、何故こんなにも自分を追い詰め、媚びへつらうだけの能しかなかったニコラの心を掌握している?
何故こんな男に自分は誇りも名誉も傷付けられ、あまつさえニコラ如きにまで見限られて、こんな辱めを受けなければならない!?
ブリリアンの心に走った衝撃はそのまま彼の理性を崩壊させ、逆上へと転じさせた。
「ニコラ、貴っ様ぁぁぁぁッ!」
ブリリアンは身体を震わせて絶叫すると、ペーレウスを床に叩きつけるようにして放り出し、憤怒の形相で怯えるニコラに襲いかかった。とっさに反応出来ないニコラの身体を掴み上げて力任せに投げ飛ばし、ドアにぶち当てる。ドアは衝撃で破壊され、ニコラもろとも大きな音を立てて屋外へ投げ出された。
「ニコラぁ貴様っ、この私を裏切るのか! 裏切って、この愚民に寝返るのか! これまでさんざん見返りをくれてやった恩を忘れやがって……!」
「ひっ、うっ……うあぁぁぁぁーっ!」
大地に倒れたニコラを追って出たブリリアンが彼の上に馬乗りになり、容赦のない拳を浴びせかける。ニコラの顔はたちまち血で赤く染まり、それを見たブリリアンは更に興奮した。
「ブリリアン様、もうやめて下さい! ニコラがッ……!」
見かねたポールが背後からブリリアンを止めにかかるが、恐ろしい力で振り払われてしまう。
―――殺される、とニコラは思った。
ブリリアンの異様に見開かれ血走った瞳には、怒りと憎しみが渦巻いていた。口元にうっすらと笑みをたたえたその表情は常軌を逸し、まるで悪魔のように見える。
「やめろッ!」
ペーレウスが横合いから体当たりをするようにしてブリリアンを弾き飛ばした。ニコラから引き離されたブリリアンをポールや他の騎士達が数人がかりで押さえ込み、どうにかその身体を拘束する。
「誰か、白魔法を使えるヤツ! 早く来てくれッ!」
ニコラを抱き起こしながらペーレウスが叫ぶ。ニコラの顔はひどく腫れ上がり、鼻は潰れ、唇は大きく裂けて、歯が何本もへし折られていた。
「はっはぁっ……! 取り巻きが出来て嬉しいか、愚民? そんなのでよければくれてやる……だがな、こんなことでこの私に勝ったと思うなよ! 私と貴様では器が違う……元々持っている土壌が違うんだッ!」
目を剥いて哄笑するブリリアンの拳はニコラの血と、彼を殴打した際に皮膚がずる剥けた彼自身の血とで赤く染まっている。
「何言ってんだ、てめぇ……」
ペーレウスの口から怒気がもれた。ニコラを白魔法の心得のある騎士に託しながら、ゆらりと立ち上がり、語気鋭く言い放つ。
「愚民だとか選民だとか、勝ったとか負けたとか! くっだらねぇことばかり言ってんじゃねぇ!!」
本気の怒声にビリッ、と大気が揺れた。その迫力に、居合わせた者達が思わず居すくみ、ペーレウスを見やる。
「仲間をこんな目に合わせて、何偉そうにふんぞり返ってやがる! あんた、それでもこの国の騎士なのか!!」
激しい怒りに瞳を揺らすペーレウスをブリリアンは口元を歪めて見やり、荒い息を吐きながら、当然とばかりに返した。
「あぁ、騎士だよ。貴様の先輩のな!」
それを聞いた瞬間、ペーレウスは頭の芯がすうっと冷め、怒りにたぎっていた全身から急速に熱が失われていくのを感じた。あまりにも深い怒り、そして失望から、逆に冷静になったのだ。
ペーレウスがブリリアンを見限った瞬間だった。
「……あんたは騎士なんかじゃない」
ペーレウスは両眼を細め、冷ややかにそう告げた。
「罷免されるべきだ。人の痛みが分からないヤツには、剣を持つ資格がない!」
「魔力も持たない愚民風情が、偉そうに何を! 貴様如きにそんなことを言われる筋合いはない!!」
ペーレウスは息巻くブリリアンを真っ直ぐに見据え、問いかけた。
「あんたはことあるごとに『愚民』という言葉を口にするが、魔力を持たない人間がこの場にいることがそんなに不満なのか? 誰も好きで魔力を持たずに生まれてくるわけじゃないし、好きで魔力を持って生まれてくるわけでもない。そこは神の采配さ。誰のせいというわけでもない。……それにオレに魔力があったところで、あんたはオレを認めるのか? そうじゃないだろう? いったい何が気に入らないのか知らないが、オレに言いたいことがあるなら正面からハッキリと言えばいい!」
真っ直ぐで曇りのない、深く照射し全てを見透かすかのような黒茶色の瞳―――諭すようなペーレウスの口調にブリリアンは侮辱されたと感じ、顔色を赤黒く染めた。
威圧しても効果のない、どこまでも真っ直ぐなこの瞳が彼は嫌いだった。
信念を曲げずに自分の意志を主張してくる芯の強さが、へし折ろうとしてもへし折れないその精神力が、ひどく気に入らなかった。
自分という存在を恐れず、思い通りにならないこの男の何もかもがブリリアンを苛立たせた。
魔力も持たない矮小な、取るに足りない存在であるはずなのに、ペーレウスはまるで得体の知れない未知の生物のように、ブリリアンに正体不明の脅威を感じさせ続けていた。
目に見えないその脅威に飲み込まれかけ、あがく己を自覚する。圧倒的な存在感、その輝きを前に、かき消されかける儚い己の影の幻を見る。
―――恐ろしい。
それは、弱者が強者に対して抱く、極めて原始的で本能的な感情。
垣間見えたその答えをブリリアンは即座に打ち消し、振り切るようにして叫んだ。
「貴様こそ、腹に一物持っているものを吐き出してみせたらどうだ!」
唾を撒き散らしながらブリリアンはペーレウスにかみついた。
「何故、討伐任務の件を何も言ってこない! それに触れないのはこの私に情けをかけているつもりか! それともなぶって楽しんでいるのか!? 分かっているぞ……涼しい顔をして、貴様が腹の中でこの私を嘲笑っていることはな! 臆病風に吹かれた卑怯者となじり、蔑んでいるのだろう!?」
溜めていた感情を爆発させ、叩きつけるブリリアンとは対照的に、ペーレウスの反応はどこまでも冷静だった。
「死地に面した時、恐怖を抱くのは人として当たり前の感情だ。それを嘲笑ったり蔑んだりする趣味はない。だが、恐怖をコントロール出来ない者は騎士でいる資格がない」
淡々と告げられた内容は、既に致命傷を負っているブリリアンの自尊心に更なる追い討ちをかけた。
「か、勘違いするな。あの時の私の行動は、査問会でも認められた通り―――」
「それが真実かどうかは、あんたが一番良く分かっているはずだ」
言い繕い終える前に被せられたペーレウスの言葉は、ブリリアンの自尊心に引導を引き渡した。
ブリリアンの世界は凍りついた。
佇む空間は音もなく静かで、周囲から向けられる冷え切った視線はまるで氷の矢のようだった。この場に自分の言葉を信じる者など誰もいない、頭では分かっていたことを、ブリリアンは唐突に思い知らされた。
ぷつん、と意識が裏返る。
闇のように染まった視界の中で、ブリリアンの目には自分の前に立つペーレウスの姿だけが赤く色づいて見えた。
―――この男さえ。
この男さえ、いなければ。
自分がこんなふうにおとしめられることは、なかったはずだ。
ブリリアンの全身に渦巻いていた負の感情が唸りを上げて一点に収束し、噴火寸前の火山のようにみるみる膨張していく。
全ての元凶は、目の前にいるこの男。
この男さえいなければ……!
憎い―――憎い、憎い、憎い!
「う、があぁぁぁーッ!」
突如狂ったような咆哮を上げ、ブリリアンが激しく暴れだした。常軌を逸する力で自らを押さえ込む騎士達を払い飛ばし、腰の剣へと手をかける。
「なっ……!?」
尋常ではない力に騎士達が驚愕の声を上げる。拘束から解き放たれたブリリアンは勢いよく自らの剣を抜き放つと、鋭く光るそれをペーレウスへと突きつけた。
「あぁ、そうさ……! 逃げたさ……! だが、それがどうした!? 私は貴様らとは違う―――あんな場所で死ぬべき人間ではないのだ! ―――殺してやる……愚民めッ、殺してやるぞ! この私をさんざ愚弄しやがって……!」
一転して居直り、鼻息荒く叫ぶブリリアンの目は完全に据わっている。
「や……やめて下さい、ブリリアン様ッ!」
「やめるんだ、ブリリアンッ!」
ポールや周囲の騎士達が色を失くす中、剣を向けられたペーレウスだけはひどく落ち着いた表情でそんなブリリアンを見据えていた。
「何だ、その態度は……!? 殺してやる、って言ってんだよ! 貴様……それで余裕を見せているつもりか!?」
いきり立ったブリリアンが挑発する。ペーレウスは無言のまま静かに右手を上げると、それを自らの胸元に当てがい、腰を折って一礼した。
「その勝負―――お受け致します」
騎士の正規の礼―――思いも寄らぬその光景に、ざわり、と周囲がさざめいた。
「なッ……!?」
予想外の事態に目を見開いたブリリアンは、直後、自らが致命的なミスを犯したことを悟った。
ペーレウスは騎士として、ブリリアンの決闘の申し込みを受ける形を取ったのだ。
剣を先に抜いたのはブリリアンで、作業中の為、帯剣すらしていなかったペーレウスは決闘を申し込まれた格好だ。
正式な決闘による騎士の死傷は、罪には問われないことになっている。しかも仕掛けたのがブリリアンとあっては、その結果がどうなろうともロイド家は自慢の威光を振りかざすことが出来ない。
ブリリアンはあせった。だが内心の動揺を押し隠し、無理に唇の端を上げてみせた。
「ふん……決闘に持ち込むつもりか? 残念だったな……正式な決闘には規定で定められた見届人が立ち会う必要がある。その資格を持つのは百騎隊長以上か高位神官職にある者だけだ。観衆がいくらいようが、そいつらがどう証言しようが、これは非公式な決闘……どちらに転んでもただではすまないぞ!」
ブリリアンが声高に叫んだ時だった。
「その決闘―――わたしが見届人となりましょう」
この場にはいたく不似合いな、清涼な声が響き渡った。
全員の注目が一斉にそちらへと集まる。
差し出者に鋭い視線をやったブリリアンは、目を疑った。そこに立っていたのは、こんなところにいるはずのない人物―――テティスとシェイドだったのだ。
ペーレウスがあまりにも遅いことを心配した二人は直接騎士団まで出向いて来たのだ。
「テティス……シェイド……」
瞳を和らげるペーレウスとは対照的に、ブリリアンは茫然とその光景を見つめている。他の騎士達も突然のテティスとシェイドの登場にひどく驚いた様子だった。
シェイドがペーレウスと親しいことは周知の事実だったが、テティスとペーレウスとの関係を知る者は騎士団にはいない。城内で『月光花』と称される彼女の名は無論騎士団内でも有名であり、その存在を知らない者はいなかった。
一拍置いて、周囲は大きなどよめきに包まれた。
「わたしは特務神官を務めるテティス・シェルバージュです。見届人の資格を有します。決闘を志願する者、わたしの前へ名乗り出なさい」
凛とした表情でテティスがペーレウスとブリリアンに告げる。
まさかの展開にブリリアンは追い詰められた。額に脂汗を浮かべ、剣の柄をきつく握りしめる。
ペーレウスはブリリアンの動向を見守っている様子だった。
これだけの人間の前で高言した手前、もはや引くに引けない。ここで逃げれば、ブリリアンは男として、騎士として、永久に消えることのない不名誉な烙印を押されることになる。ロイド家の威光は失墜し、激怒した父から勘当されることになるだろう。
―――何故、テティスがっ……!
歯がみしたい思いだったが、今は詮索している余裕はなかった。行くしかない。ブリリアンに選択肢はなかった。
「ブリリアン・ロイドだ」
出来る限りの平静を装い、ブリリアンは美しい見届人の前に立った。
「ペーレウスです」
ブリリアンに続いてペーレウスがテティスの前に進み出る。
テティスは鷹揚に頷いて、二人の騎士に約定の制約を述べた。
「騎士道精神に則り、正々堂々と戦いなさい。魔法の使用は認められますが、アイテム類の使用は一切認められません。不正行為が確認された場合は直ちに決闘を中断し、違反者には重い処罰が下されることとなります。相手が降参、もしくは戦闘不能となった時点で決闘は終了です。よろしいですね?」
「心得ている……」
「分かりました」
苦々しく唸るブリリアンの隣で、ペーレウスがかしこまって頷く。それを横目でにらみながら、ブリリアンは目まぐるしく頭を働かせていた。
この時点で、彼はまだ絶望しているわけではなかった。
グルガーン討伐の際、ブリリアンは初めてペーレウスが剣を振るう様を見た。認めたくはなかったが、この男の剣技には確かに目を瞠るものがあった。だが、自分の剣の腕が絶望的なまでにペーレウスに劣っているとは、ブリリアンは思っていなかった。
認めるのは癪だが、確かに剣の腕に関してはペーレウスの方が上をいくだろう。だが、愚民であるペーレウスは魔法を使えないのだ。
対してブリリアンは初歩的な黒魔法を操ることが出来る。この差は大きいと、彼は考えた。
―――眠らせて、動けなくしてから斬り刻んでやる! いや、それとも顔面に炎でも叩きつけて目を眩ませてからやってやるか?
思いがけない展開に一度は青ざめていたブリリアンだったが、考えを巡らせるうちに次第にいきり立ってきた。激しく波打つ自身の鼓動の音を聞きながら、ブリリアンは胸の内に湧き起こる残虐な衝動が抑え切れなくなってきた。
この展開はむしろ好都合だったのかもしれない。何しろ何の咎もなく、憎い愚民をなぶり殺すことが出来るのだ。
―――降参など、させてやるものか……!
ブリリアンは舌なめずりしながら、自らの妄想に酔いしれた。
「誰か、ペーレウスに剣を」
丸腰の彼の為に、テティスが周囲の騎士へ呼びかける。そこにすかさずブリリアンが口を挟んだ。
「分かっているだろうが、これは正規の決闘だ。使用出来るのは長剣のみだぞ」
騎士達がざわめいた。
確かに騎士の正規の武器は長剣とされ、決闘時にもその使用が望ましいとはされていたが、厳密にそれを規制する決まりはない。それだと実際には公正さに欠けてしまうからだ。だが、大剣を得意とするペーレウスにハンデを負わせる為、ブリリアンはあたかもそれが当然であるような言い方をした。
「構いませんよ」
ペーレウスは事もなげに頷いた。
「すみませんが、誰かオレの長剣を持ってきてもらえませんか」
涼しげなその対応に、ブリリアンは再びはらわたが煮えくり返るのを覚えた。
愚民め、この程度のハンデなどハンデにもならないと言いたいわけか。まぁ、今のうちにせいぜいいきがっているがいい。
―――容赦なく叩き潰して、二度と日の目を拝めなくしてやる!
「ではこれより、ブリリアン・ロイドとペーレウスとの決闘を行います。見届人はわたしテティス・シェルバージュ―――神の名に於いて、公正な判断を示すことをここに誓約します。両人は剣を抜き、向き合って互いに一礼をして下さい」
大勢の騎士達が見守る中、ペーレウスとブリリアンは距離を取って向かい合い、互いに一礼をした。
「―――始め!」
決闘の開始を告げるテティスの声が響き渡る。その刹那、ブリリアンはペーレウスの鼻面に炎の洗礼を浴びせんと、息巻いて口を開いた。眠らせて意識がない状態で斬り刻むより、意識がある状態で斬り刻んでやろうという結論に至ったのだ。だが、思いがけない事態によりその行為は中断してしまう。
決闘開始の合図の直後、それまで剣を構えていただけに見えたペーレウスから、凄まじいまでのプレッシャーがブリリアンに襲いかかったのだ。
ブリリアンは目を剥いて硬直した。唇が、動かない。
ペーレウスの黒茶色の瞳は爛々とした光を湛えてブリリアンを見据えていた。その眼光の鋭さに、ブリリアンは氷塊を飲み込んだかのような錯覚に囚われた。あろうことか、全身が小刻みに震えだす。
―――バカな。
ブリリアンは意識の中で喘いだ。じっとりとした嫌な汗が全身から噴き出してくるのを感じる。
―――バカな……!
ペーレウスはまだ一歩も動いていない。対するブリリアンは、動けない。
愚民と蔑む男のプレッシャーに、気圧されて。
まるで蛇ににらまれた蛙だ。ここに至って、ブリリアンはようやく悟った。悟らざるを得なかった。
目の前の『愚民』は、始めから、自分が敵うような相手ではなかったのだ。決して手を出してはいけない存在だった。愚かな自分はその事実にまるで気が付かず、禁忌に触れてしまったのだ。
権力という武器を剥ぎ取られてしまった今のブリリアンには、ペーレウスに勝てるものなど何ひとつとして残ってはいなかった。
真っ直ぐな黒茶色の眼差しが、射抜くように愚かな獲物を見据えている。
ブリリアンはただ惨めにガタガタと震えるしかなかった。口が動かないのでは、降参することも出来ない。死刑執行のその瞬間を、怯えながらただひたすら待つことしか出来なかった。
ブリリアンには永劫にも感じられた長い間を置いて、ペーレウスが動いた。一瞬にして詰め寄る死神の鎌を感じた瞬間、ブリリアンの精神は音を立てて崩壊していた。
「ひッ……ひいぃぃぃぃぃぃ―――ッ!!!」
精神が崩壊したことにより、ようやくブリリアンの口から迸った盛大な悲鳴は、決闘を見守る者達に二人の力量の差を歴然と知らしめた。
ブリリアンの頬をかすめ、ペーレウスの剣が地面に突き刺さる。腰を抜かしひっくり返ったブリリアンは泡を吹き、白目を剥いて気絶していた。その股の部分は布地の色が変わり、異臭を放ちながら地面を濡らしてしまっている。
「―――そこまで。勝者、ペーレウス!」
テティスが勝者の名を宣言した瞬間、静まり返っていた周囲からドッと歓声が巻き起こった。
「うぉーっ、やりやがったあぁぁぁーっ!」
「ペーレウス! スゲェよ、お前!」
「ブリリアンの奴、動くことも出来なかったぞ!」
「鳥肌たったぁ~……スゴすぎるって……!」
駆け寄った騎士達に口々に祝福され、もみくちゃにされる友人の姿を離れたところから見守りながら、シェイドは切れ長の瞳を優しく細めた。
あの日―――異例の入城を果たしたペーレウスと出会い、魔力を持たないこの青年が、魑魅魍魎の跋扈するこの王城でどこまでやれるものか見てみたい、と思った自分。
まさかその後一年足らずでこのような光景にお目にかかれるとは、正直思っていなかった。
―――規格外の男だな……本当に。
シェイドは素直に感嘆した。
剣技の実力もさることながら、ペーレウスには何か不思議な引力のようなものを感じる。カリスマ性……とでもいうのだろうか。人を惹きつけてやまないオーラのようなものが、彼にはある。
例えるなら、そう―――まるで太陽のような存在だ。それは、天賦の才能なのかもしれない。
―――私も『彼女』も、その輝きに魅せられて集まった一人と言えるのかもしれんな……。
そんなことを思いながら、シェイドは眩しい眼差しでペーレウスを見つめるテティスを見やった。
太陽の光なくしては、月は輝くことが出来ない。
人は知らず、自らの『太陽』たる存在を求めているものなのかもしれない―――。
そしてここから、ペーレウスを取り巻く環境は大きく変わっていくことになる。
鋼の騎士の英雄譚の始まりである―――。
「おはよう」
朝、挨拶をされる。
ごく当たり前のことなのだが、ペーレウスは戸惑いを覚えずにはいられなかった。
騎士団入団以来、これまでは自分から挨拶をしない限り、誰からも挨拶をされることがなかったのだ。それどころか挨拶をしても無視されてしまうことがしばしばだった。それが、誰彼なく挨拶をされるようになったのだ。
それだけでも彼にとっては驚くべきことだったのだが、一緒に討伐任務に赴いた面々は気さくに話しかけてきてくれるまでになった。
ブリリアンの取り巻きのニコラとポールはさすがに話しかけてくるようなことはなかったが、これまでのような嫌味を言ってくることはなくなった。
ブリリアンはといえば、任務を放棄し仲間を見捨てて逃走するという騎士としてあるまじき行為を弾劾され、査問会にかけられたのだが、彼はその査問会で「仲間の危機を救うべく応援を呼ぶ為に戦闘から抜け出したのであり、断じて自分は逃走などしていない」と、一貫してそれを否認した。
しかしスワレの住民に気付かれないように自身の馬をこっそりと持ち出していることや、ひと足先に王都に戻っているにも関わらず、応援の要請を一切していないことなどから、ブリリアンの罪過は明白であり、誰もがそれを認定していたのだが、父親のロイド公爵がロイド家の威信と名誉を懸け、総力を挙げてあらゆる根回しをし、その結果、どう考えても有り得ないことなのだが、ブリリアンはお咎めなしとなった。
だが、騎士団内に流れる冷ややかで生ぬるい空気までは、ロイド家の威光をもってしてもどうすることも出来ない。
当然ながら騎士団内におけるブリリアンの立場は悪くなり、見捨てて逃げたことになるニコラやポールとも以前のようには接することがなくなった。横暴で尊大だった態度も自然と控え目にならざるを得なくなり、ブリリアンは針のむしろのような日々を送ることとなった。
一気に団内での評価を高めたペーレウスとは実に対照的だった。
そんなある日、仕事上がりにシェイドとテティスと三人で初めて待ち合わせることが決まったペーレウスは、今日は何が何でも業務時間内に仕事を終えようと、朝から精力的に業務をこなしていた。
そんな折、事件は起こった。
待ち合わせ場所とした中庭の噴水前に一番最初にやって来たのはシェイドだった。
まだ誰も来ていない噴水の縁に腰を下ろし魔道書を眺めて待っていると、ほどなくしてテティスが現われた。
ペーレウスを通じて互いの話を聞いてはいるものの、二人が面と向かって話をするのは今回が初めてである。
シェイドは立ち上がり、テティスに向かって軽く会釈をした。
「……初めまして。シェイド・ランカートです」
「存じています。テティス・シェルバージュです。宜しく」
ふわりと微笑んだ月光花と称される女性は、茜色の太陽の下でも美しく輝いていた。
その微笑みの柔らかさにどことなく懐かしさを感じ、シェイドはわずかに瞳を細めた。外見はまるで異なるが、彼女のそれはそこはかとなく彼の亡き母を思い起こさせたのだ。
「敬語はナシでいきましょう? 同い年ですし」
テティスは気さくに提案してきた。こんなふうに気兼ねない調子でシェイドに話しかけてきた人物はペーレウス以来だ。
類は友を呼ぶ、という奴なのだろうか? 親友の友人はやはり彼をただのシェイドとして扱ってくれる。その事実に、自然とシェイドの表情は和らいだ。
「そうしよう。ペーレウスを挟んで二人だけ敬語、というのもおかしなものだしな」
噴水の縁に腰を下ろしながら、二人はしばしとりとめのない会話を交わした。
「……そうだ。貴女に返さなければと思っていたものがあるんだ」
ややしてから、思い出したようにそう言うと、シェイドはおもむろに懐から月長石の欠片を取り出した。
「これは貴女が持っているべきものだろう? ……だが、おかげで無事に任務から帰ってくることが出来た。礼を言う」
思いも寄らなかったシェイドからの申し出に驚いた様子を見せていたテティスは、やがて小さく笑うと、静かに首を振った。
「いいのよ、貴方にあげたものなんだから。貴方が持っていて」
「しかし……」
「これは、わたしが貴方達にお守りとしてあげたものなの。……お守りとしてあげる前は確かに、貴方の想像通り別の意味を持つものとして持っていたわ。でもこれを渡す時、わたしは純粋に貴方達の無事を願って、神官としての祈りを込めてこれを渡したの。迷惑でなければこのまま持っていて」
やんわりと、しかしシェイドの言葉を否定せず真っ直ぐな瞳を向けてくるテティスを見て、シェイドはひとつ溜め息をついた。
「……分かった。もらっておこう……貴女も意外とストレートなんだな。驚いたよ」
苦笑混じりのその言葉を聞いて、テティスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、貴方の前では隠しても意味がないと思ったの。だって、絶対に見破られそうなんだもの」
ペーレウスから話には聞いていたが、儚げな外観とは裏腹に、テティスはなかなかにたくましい性格をしているらしい。だが聡い女性だと思った。
「しかし、あいつはこの意味にまるで気付いていないぞ。出立前にそれとなく匂わせてやったんだが、帰ってきてからの環境の変化に煩わされて、絶対に忘れている」
「それならそれでいいわ。彼に惹かれているのは確かだけど、この気持ちをもう少しだけ見極めたい自分もいるの。それに、彼の邪魔にはなりたくないしね」
テティスはさして気にするふうもなくそう言った。
「では私は友人として、奴が千載一遇のこのチャンスを逃さないように祈ることとしよう」
シェイドはそう言い結びながら、その友人の到着がずいぶんと遅れていることに軽い懸念を覚え始めていた。それはテティスも同様だったらしい。
「……ペーレウス、遅いわね」
そう呟いて、テティスは騎士団の方角を見やった。
ブリリアンは苛立っていた。
自分に対する周りのこの扱いは、いったい何なのだ。誰も彼もが白い眼を向けて、この自分を蔑んでいる―――。
有力貴族の家柄に生まれ、何不自由なく我が儘放題に育ったブリリアンは、人を蔑んだことはあっても蔑まれたことなどなかった。このような状況に置かれることは、彼にとって屈辱の極みと言えた。
自分を蔑む者達を今すぐこの剣で斬り殺して、騎士団など辞めてやりたい。
そんな凶暴な衝動が、ふつふつと込み上げてくる。
それを堪え、彼が未だに騎士団に身を置いているのは、父であるロイド公爵からの絶対命令ゆえだった。
今騎士団を辞めることは、一連の件を認めることに等しい。誰もがブリリアンの行為を敵前逃亡と見なし騎士の名折れと思っていることは明白だったが、建前上はそうでないと査問会で認定され、処分なしとなっているのだ。
ロイド家の面目を保つ為にも、手柄を立てて汚名を雪ぐまでは、辞めることは許されない。
ブリリアンは分厚い唇をぎりっとかみしめた。
自分の命を守る為に逃げて、何が悪い。この自分と、ニコラや討伐部隊の面々の命とでは、まるで重みが違うのだ。自分は神に愛され選ばれた『選民』なのだ、生き残る為にその他大勢を犠牲にして何が悪い!
あの時点では、討伐部隊が勝利する可能性など無いに等しかった。あそこから戦局をひっくり返すことなど、到底不可能だったはずなのだ。
それを―――。
ブリリアンは暗くたぎる苦い感情を飲み下した。
ペーレウスとシェイド、あの二人が勝利へと導いた。
その結果はブリリアンにとって到底認めがたいものだった。
さんざん嫌がらせをし、蔑んできた『愚民』ペーレウスが討伐部隊の危機を救ったのだ―――『選民』たる自分が戦場から逃げ出した、その後で。
―――ペーレウスは今、この自分をどう思っているのか。
それを考えると、ブリリアンは冷静ではいられなくなる。
あの男は面と向かっては何も言ってこないが、腹の中ではこの自分を臆病者と罵り、今の惨めな体たらくを盛大に嘲笑っているのに違いない。そして優越感に浸りながら、侮蔑に満ちた眼差しで憐れな自分を見下ろしているのだ。
そう思うと身体中の血液が沸騰し、逆流するかのような錯覚に囚われる。
これまで自分に媚びへつらっていたニコラとポールもあれから何かと距離を置いて接するようになっており、こちらに向けられるその視線が冷ややかに感じられてならない。
ついこの間まで当たり前のように身に纏っていた威厳も誇りも、今はペーレウスという名の風に吹き飛ばされ、ブリリアンは裸の王様と化してしまっていた。
挫折を知らない有力貴族の三男坊の気高いプライドはズタズタにされ、これ以上ないほどの屈辱にまみれていた。
騎士団内の居心地の悪さは不快指数を極め、空気が淀んでいるように感じられる。ブリリアンは外の空気を吸いに行こうと席を立った。その時だった。
勢いよくドアが開き、外で武具の手入れ作業をしていたペーレウスが中に入ってきた。作業が終わったらしく、手入れに使った道具を奥の部屋に戻し、磨き上げた武具を別棟の保管庫にしまう為、再び外に出て行こうとする。
思わず立ち止まってしまったブリリアンの脇を往復していながら、忙しそうなペーレウスは彼のことなどまるで気に留めていない様子で、チラとも目をくれなかった。
それがブリリアンの怒りに火をつけた。
鬱屈し、凝縮され堆積していた負の感情はそれを導火線にあっという間に燃え広がり、ブリリアンの口から怨嗟の煙となって吐き出された。
「おい、愚民」
すこぶる機嫌の悪そうな声に呼び止められてしまったペーレウスは、げんなりしながら声の主を振り返った。
最近は絡まれることもなくなり快適に過ごしていたのだが、よりによって今日このタイミングでそれが復活するとは。
ペーレウスは舌打ちをしたい気分だった。
今日はシェイドとテティスと、仕事上がりに三人で初めて待ち合わせているのだ。業務の終了時刻まであまり時間がない。まだ作業が残っており、ブリリアンに構っている暇はなかった。
「その呼び名、やめてもらうように何度言ったら分かるんです? 私にはちゃんとした名前があるんですよ」
そう言い置いて再び背を向けたペーレウスにブリリアンが躍りかかった。無礼な愚民の襟首を掴み、思い切り床に引き倒す!
「―――っ!」
まさかそう来るとは思っていなかったペーレウスは、不意を突かれて背中から床に叩きつけられた。
派手な物音が立ち、室内にいた騎士達が驚いた様子で二人を振り返る。
「何、をっ……!」
ペーレウスが身体を起こしながらブリリアンをにらみ上げると、目を血走らせたブリリアンは鼻息も荒くペーレウスの胸倉を掴み上げた。
「貴様ぁっ……何だその態度は!? この私の呼びかけなど、歯牙にもかけんと言うことか!」
「はぁ!? 何言って……!」
完全なる難癖である。
ペーレウスの黒茶色の瞳が怒りに染まり、獣のような鋭さを帯びた。入城当初に比べて辛抱強くなったとはいえ、理不尽な暴力を甘んじて受けるような性格ではない。
鋭いその眼差しを受けたブリリアンのこめかみに青筋が浮き上がる。
「何だその目は! 貴っ様ぁ……やはり、この私を! この私を蔑んで……! 馬鹿にしているのか、愚民風情がぁぁッ!!」
「―――やめて下さい、ブリリアン様ッ!」
一触即発のその間に割って入ったのは、意外な声だった。
「―――ニコ、ラ……」
声の主を見たブリリアンはその名を呟いたきり、絶句した。彼に胸倉を掴み上げられた状態のペーレウスも、驚いた様子でニコラを見つめる。
ニコラは青ざめた表情で、しかし意を決した様子で、ブリリアンに歩み寄ると口を開いた。
「ペーレウスは……愚民ではありません。我々と同じ、騎士です。それに、貴方を馬鹿になどしていないと思います。彼は……そんなに器量の狭い男では、ないと思う。どうか、その手を離して下さい」
ついこの間まで自分の取り巻きだったニコラの発言は、ブリリアンに衝撃を与えた。
腰巾着で、これまで自分に意見など一度もしたことがなかったニコラ。
―――何故だ?
ブリリアンの中にどす黒い感情が生まれる。
地位もなく、名誉もなく、ただ剣の腕だけを国王に認められ、奇跡的な確率で騎士団に転がり込んできただけのこの男が、何故こんなにも自分を追い詰め、媚びへつらうだけの能しかなかったニコラの心を掌握している?
何故こんな男に自分は誇りも名誉も傷付けられ、あまつさえニコラ如きにまで見限られて、こんな辱めを受けなければならない!?
ブリリアンの心に走った衝撃はそのまま彼の理性を崩壊させ、逆上へと転じさせた。
「ニコラ、貴っ様ぁぁぁぁッ!」
ブリリアンは身体を震わせて絶叫すると、ペーレウスを床に叩きつけるようにして放り出し、憤怒の形相で怯えるニコラに襲いかかった。とっさに反応出来ないニコラの身体を掴み上げて力任せに投げ飛ばし、ドアにぶち当てる。ドアは衝撃で破壊され、ニコラもろとも大きな音を立てて屋外へ投げ出された。
「ニコラぁ貴様っ、この私を裏切るのか! 裏切って、この愚民に寝返るのか! これまでさんざん見返りをくれてやった恩を忘れやがって……!」
「ひっ、うっ……うあぁぁぁぁーっ!」
大地に倒れたニコラを追って出たブリリアンが彼の上に馬乗りになり、容赦のない拳を浴びせかける。ニコラの顔はたちまち血で赤く染まり、それを見たブリリアンは更に興奮した。
「ブリリアン様、もうやめて下さい! ニコラがッ……!」
見かねたポールが背後からブリリアンを止めにかかるが、恐ろしい力で振り払われてしまう。
―――殺される、とニコラは思った。
ブリリアンの異様に見開かれ血走った瞳には、怒りと憎しみが渦巻いていた。口元にうっすらと笑みをたたえたその表情は常軌を逸し、まるで悪魔のように見える。
「やめろッ!」
ペーレウスが横合いから体当たりをするようにしてブリリアンを弾き飛ばした。ニコラから引き離されたブリリアンをポールや他の騎士達が数人がかりで押さえ込み、どうにかその身体を拘束する。
「誰か、白魔法を使えるヤツ! 早く来てくれッ!」
ニコラを抱き起こしながらペーレウスが叫ぶ。ニコラの顔はひどく腫れ上がり、鼻は潰れ、唇は大きく裂けて、歯が何本もへし折られていた。
「はっはぁっ……! 取り巻きが出来て嬉しいか、愚民? そんなのでよければくれてやる……だがな、こんなことでこの私に勝ったと思うなよ! 私と貴様では器が違う……元々持っている土壌が違うんだッ!」
目を剥いて哄笑するブリリアンの拳はニコラの血と、彼を殴打した際に皮膚がずる剥けた彼自身の血とで赤く染まっている。
「何言ってんだ、てめぇ……」
ペーレウスの口から怒気がもれた。ニコラを白魔法の心得のある騎士に託しながら、ゆらりと立ち上がり、語気鋭く言い放つ。
「愚民だとか選民だとか、勝ったとか負けたとか! くっだらねぇことばかり言ってんじゃねぇ!!」
本気の怒声にビリッ、と大気が揺れた。その迫力に、居合わせた者達が思わず居すくみ、ペーレウスを見やる。
「仲間をこんな目に合わせて、何偉そうにふんぞり返ってやがる! あんた、それでもこの国の騎士なのか!!」
激しい怒りに瞳を揺らすペーレウスをブリリアンは口元を歪めて見やり、荒い息を吐きながら、当然とばかりに返した。
「あぁ、騎士だよ。貴様の先輩のな!」
それを聞いた瞬間、ペーレウスは頭の芯がすうっと冷め、怒りにたぎっていた全身から急速に熱が失われていくのを感じた。あまりにも深い怒り、そして失望から、逆に冷静になったのだ。
ペーレウスがブリリアンを見限った瞬間だった。
「……あんたは騎士なんかじゃない」
ペーレウスは両眼を細め、冷ややかにそう告げた。
「罷免されるべきだ。人の痛みが分からないヤツには、剣を持つ資格がない!」
「魔力も持たない愚民風情が、偉そうに何を! 貴様如きにそんなことを言われる筋合いはない!!」
ペーレウスは息巻くブリリアンを真っ直ぐに見据え、問いかけた。
「あんたはことあるごとに『愚民』という言葉を口にするが、魔力を持たない人間がこの場にいることがそんなに不満なのか? 誰も好きで魔力を持たずに生まれてくるわけじゃないし、好きで魔力を持って生まれてくるわけでもない。そこは神の采配さ。誰のせいというわけでもない。……それにオレに魔力があったところで、あんたはオレを認めるのか? そうじゃないだろう? いったい何が気に入らないのか知らないが、オレに言いたいことがあるなら正面からハッキリと言えばいい!」
真っ直ぐで曇りのない、深く照射し全てを見透かすかのような黒茶色の瞳―――諭すようなペーレウスの口調にブリリアンは侮辱されたと感じ、顔色を赤黒く染めた。
威圧しても効果のない、どこまでも真っ直ぐなこの瞳が彼は嫌いだった。
信念を曲げずに自分の意志を主張してくる芯の強さが、へし折ろうとしてもへし折れないその精神力が、ひどく気に入らなかった。
自分という存在を恐れず、思い通りにならないこの男の何もかもがブリリアンを苛立たせた。
魔力も持たない矮小な、取るに足りない存在であるはずなのに、ペーレウスはまるで得体の知れない未知の生物のように、ブリリアンに正体不明の脅威を感じさせ続けていた。
目に見えないその脅威に飲み込まれかけ、あがく己を自覚する。圧倒的な存在感、その輝きを前に、かき消されかける儚い己の影の幻を見る。
―――恐ろしい。
それは、弱者が強者に対して抱く、極めて原始的で本能的な感情。
垣間見えたその答えをブリリアンは即座に打ち消し、振り切るようにして叫んだ。
「貴様こそ、腹に一物持っているものを吐き出してみせたらどうだ!」
唾を撒き散らしながらブリリアンはペーレウスにかみついた。
「何故、討伐任務の件を何も言ってこない! それに触れないのはこの私に情けをかけているつもりか! それともなぶって楽しんでいるのか!? 分かっているぞ……涼しい顔をして、貴様が腹の中でこの私を嘲笑っていることはな! 臆病風に吹かれた卑怯者となじり、蔑んでいるのだろう!?」
溜めていた感情を爆発させ、叩きつけるブリリアンとは対照的に、ペーレウスの反応はどこまでも冷静だった。
「死地に面した時、恐怖を抱くのは人として当たり前の感情だ。それを嘲笑ったり蔑んだりする趣味はない。だが、恐怖をコントロール出来ない者は騎士でいる資格がない」
淡々と告げられた内容は、既に致命傷を負っているブリリアンの自尊心に更なる追い討ちをかけた。
「か、勘違いするな。あの時の私の行動は、査問会でも認められた通り―――」
「それが真実かどうかは、あんたが一番良く分かっているはずだ」
言い繕い終える前に被せられたペーレウスの言葉は、ブリリアンの自尊心に引導を引き渡した。
ブリリアンの世界は凍りついた。
佇む空間は音もなく静かで、周囲から向けられる冷え切った視線はまるで氷の矢のようだった。この場に自分の言葉を信じる者など誰もいない、頭では分かっていたことを、ブリリアンは唐突に思い知らされた。
ぷつん、と意識が裏返る。
闇のように染まった視界の中で、ブリリアンの目には自分の前に立つペーレウスの姿だけが赤く色づいて見えた。
―――この男さえ。
この男さえ、いなければ。
自分がこんなふうにおとしめられることは、なかったはずだ。
ブリリアンの全身に渦巻いていた負の感情が唸りを上げて一点に収束し、噴火寸前の火山のようにみるみる膨張していく。
全ての元凶は、目の前にいるこの男。
この男さえいなければ……!
憎い―――憎い、憎い、憎い!
「う、があぁぁぁーッ!」
突如狂ったような咆哮を上げ、ブリリアンが激しく暴れだした。常軌を逸する力で自らを押さえ込む騎士達を払い飛ばし、腰の剣へと手をかける。
「なっ……!?」
尋常ではない力に騎士達が驚愕の声を上げる。拘束から解き放たれたブリリアンは勢いよく自らの剣を抜き放つと、鋭く光るそれをペーレウスへと突きつけた。
「あぁ、そうさ……! 逃げたさ……! だが、それがどうした!? 私は貴様らとは違う―――あんな場所で死ぬべき人間ではないのだ! ―――殺してやる……愚民めッ、殺してやるぞ! この私をさんざ愚弄しやがって……!」
一転して居直り、鼻息荒く叫ぶブリリアンの目は完全に据わっている。
「や……やめて下さい、ブリリアン様ッ!」
「やめるんだ、ブリリアンッ!」
ポールや周囲の騎士達が色を失くす中、剣を向けられたペーレウスだけはひどく落ち着いた表情でそんなブリリアンを見据えていた。
「何だ、その態度は……!? 殺してやる、って言ってんだよ! 貴様……それで余裕を見せているつもりか!?」
いきり立ったブリリアンが挑発する。ペーレウスは無言のまま静かに右手を上げると、それを自らの胸元に当てがい、腰を折って一礼した。
「その勝負―――お受け致します」
騎士の正規の礼―――思いも寄らぬその光景に、ざわり、と周囲がさざめいた。
「なッ……!?」
予想外の事態に目を見開いたブリリアンは、直後、自らが致命的なミスを犯したことを悟った。
ペーレウスは騎士として、ブリリアンの決闘の申し込みを受ける形を取ったのだ。
剣を先に抜いたのはブリリアンで、作業中の為、帯剣すらしていなかったペーレウスは決闘を申し込まれた格好だ。
正式な決闘による騎士の死傷は、罪には問われないことになっている。しかも仕掛けたのがブリリアンとあっては、その結果がどうなろうともロイド家は自慢の威光を振りかざすことが出来ない。
ブリリアンはあせった。だが内心の動揺を押し隠し、無理に唇の端を上げてみせた。
「ふん……決闘に持ち込むつもりか? 残念だったな……正式な決闘には規定で定められた見届人が立ち会う必要がある。その資格を持つのは百騎隊長以上か高位神官職にある者だけだ。観衆がいくらいようが、そいつらがどう証言しようが、これは非公式な決闘……どちらに転んでもただではすまないぞ!」
ブリリアンが声高に叫んだ時だった。
「その決闘―――わたしが見届人となりましょう」
この場にはいたく不似合いな、清涼な声が響き渡った。
全員の注目が一斉にそちらへと集まる。
差し出者に鋭い視線をやったブリリアンは、目を疑った。そこに立っていたのは、こんなところにいるはずのない人物―――テティスとシェイドだったのだ。
ペーレウスがあまりにも遅いことを心配した二人は直接騎士団まで出向いて来たのだ。
「テティス……シェイド……」
瞳を和らげるペーレウスとは対照的に、ブリリアンは茫然とその光景を見つめている。他の騎士達も突然のテティスとシェイドの登場にひどく驚いた様子だった。
シェイドがペーレウスと親しいことは周知の事実だったが、テティスとペーレウスとの関係を知る者は騎士団にはいない。城内で『月光花』と称される彼女の名は無論騎士団内でも有名であり、その存在を知らない者はいなかった。
一拍置いて、周囲は大きなどよめきに包まれた。
「わたしは特務神官を務めるテティス・シェルバージュです。見届人の資格を有します。決闘を志願する者、わたしの前へ名乗り出なさい」
凛とした表情でテティスがペーレウスとブリリアンに告げる。
まさかの展開にブリリアンは追い詰められた。額に脂汗を浮かべ、剣の柄をきつく握りしめる。
ペーレウスはブリリアンの動向を見守っている様子だった。
これだけの人間の前で高言した手前、もはや引くに引けない。ここで逃げれば、ブリリアンは男として、騎士として、永久に消えることのない不名誉な烙印を押されることになる。ロイド家の威光は失墜し、激怒した父から勘当されることになるだろう。
―――何故、テティスがっ……!
歯がみしたい思いだったが、今は詮索している余裕はなかった。行くしかない。ブリリアンに選択肢はなかった。
「ブリリアン・ロイドだ」
出来る限りの平静を装い、ブリリアンは美しい見届人の前に立った。
「ペーレウスです」
ブリリアンに続いてペーレウスがテティスの前に進み出る。
テティスは鷹揚に頷いて、二人の騎士に約定の制約を述べた。
「騎士道精神に則り、正々堂々と戦いなさい。魔法の使用は認められますが、アイテム類の使用は一切認められません。不正行為が確認された場合は直ちに決闘を中断し、違反者には重い処罰が下されることとなります。相手が降参、もしくは戦闘不能となった時点で決闘は終了です。よろしいですね?」
「心得ている……」
「分かりました」
苦々しく唸るブリリアンの隣で、ペーレウスがかしこまって頷く。それを横目でにらみながら、ブリリアンは目まぐるしく頭を働かせていた。
この時点で、彼はまだ絶望しているわけではなかった。
グルガーン討伐の際、ブリリアンは初めてペーレウスが剣を振るう様を見た。認めたくはなかったが、この男の剣技には確かに目を瞠るものがあった。だが、自分の剣の腕が絶望的なまでにペーレウスに劣っているとは、ブリリアンは思っていなかった。
認めるのは癪だが、確かに剣の腕に関してはペーレウスの方が上をいくだろう。だが、愚民であるペーレウスは魔法を使えないのだ。
対してブリリアンは初歩的な黒魔法を操ることが出来る。この差は大きいと、彼は考えた。
―――眠らせて、動けなくしてから斬り刻んでやる! いや、それとも顔面に炎でも叩きつけて目を眩ませてからやってやるか?
思いがけない展開に一度は青ざめていたブリリアンだったが、考えを巡らせるうちに次第にいきり立ってきた。激しく波打つ自身の鼓動の音を聞きながら、ブリリアンは胸の内に湧き起こる残虐な衝動が抑え切れなくなってきた。
この展開はむしろ好都合だったのかもしれない。何しろ何の咎もなく、憎い愚民をなぶり殺すことが出来るのだ。
―――降参など、させてやるものか……!
ブリリアンは舌なめずりしながら、自らの妄想に酔いしれた。
「誰か、ペーレウスに剣を」
丸腰の彼の為に、テティスが周囲の騎士へ呼びかける。そこにすかさずブリリアンが口を挟んだ。
「分かっているだろうが、これは正規の決闘だ。使用出来るのは長剣のみだぞ」
騎士達がざわめいた。
確かに騎士の正規の武器は長剣とされ、決闘時にもその使用が望ましいとはされていたが、厳密にそれを規制する決まりはない。それだと実際には公正さに欠けてしまうからだ。だが、大剣を得意とするペーレウスにハンデを負わせる為、ブリリアンはあたかもそれが当然であるような言い方をした。
「構いませんよ」
ペーレウスは事もなげに頷いた。
「すみませんが、誰かオレの長剣を持ってきてもらえませんか」
涼しげなその対応に、ブリリアンは再びはらわたが煮えくり返るのを覚えた。
愚民め、この程度のハンデなどハンデにもならないと言いたいわけか。まぁ、今のうちにせいぜいいきがっているがいい。
―――容赦なく叩き潰して、二度と日の目を拝めなくしてやる!
「ではこれより、ブリリアン・ロイドとペーレウスとの決闘を行います。見届人はわたしテティス・シェルバージュ―――神の名に於いて、公正な判断を示すことをここに誓約します。両人は剣を抜き、向き合って互いに一礼をして下さい」
大勢の騎士達が見守る中、ペーレウスとブリリアンは距離を取って向かい合い、互いに一礼をした。
「―――始め!」
決闘の開始を告げるテティスの声が響き渡る。その刹那、ブリリアンはペーレウスの鼻面に炎の洗礼を浴びせんと、息巻いて口を開いた。眠らせて意識がない状態で斬り刻むより、意識がある状態で斬り刻んでやろうという結論に至ったのだ。だが、思いがけない事態によりその行為は中断してしまう。
決闘開始の合図の直後、それまで剣を構えていただけに見えたペーレウスから、凄まじいまでのプレッシャーがブリリアンに襲いかかったのだ。
ブリリアンは目を剥いて硬直した。唇が、動かない。
ペーレウスの黒茶色の瞳は爛々とした光を湛えてブリリアンを見据えていた。その眼光の鋭さに、ブリリアンは氷塊を飲み込んだかのような錯覚に囚われた。あろうことか、全身が小刻みに震えだす。
―――バカな。
ブリリアンは意識の中で喘いだ。じっとりとした嫌な汗が全身から噴き出してくるのを感じる。
―――バカな……!
ペーレウスはまだ一歩も動いていない。対するブリリアンは、動けない。
愚民と蔑む男のプレッシャーに、気圧されて。
まるで蛇ににらまれた蛙だ。ここに至って、ブリリアンはようやく悟った。悟らざるを得なかった。
目の前の『愚民』は、始めから、自分が敵うような相手ではなかったのだ。決して手を出してはいけない存在だった。愚かな自分はその事実にまるで気が付かず、禁忌に触れてしまったのだ。
権力という武器を剥ぎ取られてしまった今のブリリアンには、ペーレウスに勝てるものなど何ひとつとして残ってはいなかった。
真っ直ぐな黒茶色の眼差しが、射抜くように愚かな獲物を見据えている。
ブリリアンはただ惨めにガタガタと震えるしかなかった。口が動かないのでは、降参することも出来ない。死刑執行のその瞬間を、怯えながらただひたすら待つことしか出来なかった。
ブリリアンには永劫にも感じられた長い間を置いて、ペーレウスが動いた。一瞬にして詰め寄る死神の鎌を感じた瞬間、ブリリアンの精神は音を立てて崩壊していた。
「ひッ……ひいぃぃぃぃぃぃ―――ッ!!!」
精神が崩壊したことにより、ようやくブリリアンの口から迸った盛大な悲鳴は、決闘を見守る者達に二人の力量の差を歴然と知らしめた。
ブリリアンの頬をかすめ、ペーレウスの剣が地面に突き刺さる。腰を抜かしひっくり返ったブリリアンは泡を吹き、白目を剥いて気絶していた。その股の部分は布地の色が変わり、異臭を放ちながら地面を濡らしてしまっている。
「―――そこまで。勝者、ペーレウス!」
テティスが勝者の名を宣言した瞬間、静まり返っていた周囲からドッと歓声が巻き起こった。
「うぉーっ、やりやがったあぁぁぁーっ!」
「ペーレウス! スゲェよ、お前!」
「ブリリアンの奴、動くことも出来なかったぞ!」
「鳥肌たったぁ~……スゴすぎるって……!」
駆け寄った騎士達に口々に祝福され、もみくちゃにされる友人の姿を離れたところから見守りながら、シェイドは切れ長の瞳を優しく細めた。
あの日―――異例の入城を果たしたペーレウスと出会い、魔力を持たないこの青年が、魑魅魍魎の跋扈するこの王城でどこまでやれるものか見てみたい、と思った自分。
まさかその後一年足らずでこのような光景にお目にかかれるとは、正直思っていなかった。
―――規格外の男だな……本当に。
シェイドは素直に感嘆した。
剣技の実力もさることながら、ペーレウスには何か不思議な引力のようなものを感じる。カリスマ性……とでもいうのだろうか。人を惹きつけてやまないオーラのようなものが、彼にはある。
例えるなら、そう―――まるで太陽のような存在だ。それは、天賦の才能なのかもしれない。
―――私も『彼女』も、その輝きに魅せられて集まった一人と言えるのかもしれんな……。
そんなことを思いながら、シェイドは眩しい眼差しでペーレウスを見つめるテティスを見やった。
太陽の光なくしては、月は輝くことが出来ない。
人は知らず、自らの『太陽』たる存在を求めているものなのかもしれない―――。
そしてここから、ペーレウスを取り巻く環境は大きく変わっていくことになる。
鋼の騎士の英雄譚の始まりである―――。
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