106 / 165
ブリュートナー 『クイーン・ヴィクトリア』
106話
しおりを挟む
「? なに? 早く、次」
なにやらひとりでブツブツ呟いているランベールを無視し、サロメは迷いもなくチューニングハンマーを決める。大きさが違かろうが、メーカーが違かろうが、ピアノはピアノ。全部調和させてみせる。
隅っこへと追いやられた親子だが、背筋を伸ばし、調律を見据えるヴェロニカとは対照的に、ユーリは気まずそうに言葉を探す。
「……あの」
「ちゃんと見ていなさい。あれが本物の調律師です。私が教えたものは、全て忘れてください」
技術よりも、ピアノにかける情熱。それをサロメとランベールから学んでほしい。ピアニストと調律師は、どちらが上、という関係ではないこと。ピアノを愛してもらうために。
「……忘れません」
力無く抵抗するユーリ。最後のレッスン。ということは、これが終われば、なにかを失ってしまう気がして、受けたくはない。間違った調律でもいいから、もっと教えてほしい。
「コンクールの優勝など、二の次です。もっとピアノを知ることから始めてください。私にできることは……ブリュートナーを輝かせることだけです。それを覚えていてください」
今日が最後の演奏になる。本当はもっと弾きたかった。だが、だからこそ、その一曲に全てを乗せることができる。曲は決まっている。気持ちとしては、息子を解放する嬉しさと、本当に引退する悲しさと。やっぱり悲しさが勝つ。
言いたいことはユーリにはまだまだある。最後の演奏。最後。
「……だとしても、彼らの調律でいいんですか!? 最後だなんて、それならいっそ、僕が調律を——」
「あの方々の調律は、私の知っている調律です。ユニゾンもタッチも。私が最も弾きやすいと感じていた調律を、そっくりそのまま再現していただいています」
曇りのない眼差しで、ヴェロニカは調律を見つめる。
その言葉の意味をユーリは上手く飲み込めず、問い返す。再現? 再現とは?
「……どういうことですか?」
深い説明を求めるユーリに、ヴェロニカは順を追って解説する。
「私が一番弾きやすいと感じたのは、チャイコフスキーコンクール後の、最初の録音を行った時のピアノです。その音源を彼女に渡してあります」
昨日、カリムにサロメがお願いしたこと。ピアノの移動、そして音源の確保。
「渡してあります、って……それじゃ、いや、まさか……そんなことが……?」
音源を渡して、それを再現する。当然ながら、人間の手作業で調律は行われる。機械のようにコピーができるわけではない。だが、それを再現する、ということは。ユーリはひとつの可能性に行き着いた。
それをヴェロニカも理解し、同意する。
「はい。サロメさんは、『録音の音源から八八鍵盤、全てを再現することができる』と断言してくれました」
なにやらひとりでブツブツ呟いているランベールを無視し、サロメは迷いもなくチューニングハンマーを決める。大きさが違かろうが、メーカーが違かろうが、ピアノはピアノ。全部調和させてみせる。
隅っこへと追いやられた親子だが、背筋を伸ばし、調律を見据えるヴェロニカとは対照的に、ユーリは気まずそうに言葉を探す。
「……あの」
「ちゃんと見ていなさい。あれが本物の調律師です。私が教えたものは、全て忘れてください」
技術よりも、ピアノにかける情熱。それをサロメとランベールから学んでほしい。ピアニストと調律師は、どちらが上、という関係ではないこと。ピアノを愛してもらうために。
「……忘れません」
力無く抵抗するユーリ。最後のレッスン。ということは、これが終われば、なにかを失ってしまう気がして、受けたくはない。間違った調律でもいいから、もっと教えてほしい。
「コンクールの優勝など、二の次です。もっとピアノを知ることから始めてください。私にできることは……ブリュートナーを輝かせることだけです。それを覚えていてください」
今日が最後の演奏になる。本当はもっと弾きたかった。だが、だからこそ、その一曲に全てを乗せることができる。曲は決まっている。気持ちとしては、息子を解放する嬉しさと、本当に引退する悲しさと。やっぱり悲しさが勝つ。
言いたいことはユーリにはまだまだある。最後の演奏。最後。
「……だとしても、彼らの調律でいいんですか!? 最後だなんて、それならいっそ、僕が調律を——」
「あの方々の調律は、私の知っている調律です。ユニゾンもタッチも。私が最も弾きやすいと感じていた調律を、そっくりそのまま再現していただいています」
曇りのない眼差しで、ヴェロニカは調律を見つめる。
その言葉の意味をユーリは上手く飲み込めず、問い返す。再現? 再現とは?
「……どういうことですか?」
深い説明を求めるユーリに、ヴェロニカは順を追って解説する。
「私が一番弾きやすいと感じたのは、チャイコフスキーコンクール後の、最初の録音を行った時のピアノです。その音源を彼女に渡してあります」
昨日、カリムにサロメがお願いしたこと。ピアノの移動、そして音源の確保。
「渡してあります、って……それじゃ、いや、まさか……そんなことが……?」
音源を渡して、それを再現する。当然ながら、人間の手作業で調律は行われる。機械のようにコピーができるわけではない。だが、それを再現する、ということは。ユーリはひとつの可能性に行き着いた。
それをヴェロニカも理解し、同意する。
「はい。サロメさんは、『録音の音源から八八鍵盤、全てを再現することができる』と断言してくれました」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
新訳 軽装歩兵アランR(Re:boot)
たくp
キャラ文芸
1918年、第一次世界大戦終戦前のフランス・ソンム地方の駐屯地で最新兵器『機械人形(マシンドール)』がUE(アンノウンエネミー)によって強奪されてしまう。
それから1年後の1919年、第一次大戦終結後のヴェルサイユ条約締結とは程遠い荒野を、軽装歩兵アラン・バイエルは駆け抜ける。
アラン・バイエル
元ジャン・クロード軽装歩兵小隊の一等兵、右肩の軽傷により戦後に除隊、表向きはマモー商会の商人を務めつつ、裏では軽装歩兵としてUEを追う。
武装は対戦車ライフル、手りゅう弾、ガトリングガン『ジョワユーズ』
デスカ
貴族院出身の情報将校で大佐、アランを雇い、対UE同盟を締結する。
貴族にしては軽いノリの人物で、誰にでも分け隔てなく接する珍しい人物。
エンフィールドリボルバーを携帯している。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ハバナイスデイズ~きっと完璧には勝てない~
415
ファンタジー
「ゆりかごから墓場まで。この世にあるものなんでもござれの『岩戸屋』店主、平坂ナギヨシです。冷やかしですか?それとも……ご依頼でしょうか?」
普遍と異変が交差する混沌都市『露希』 。
何でも屋『岩戸屋』を構える三十路の男、平坂ナギヨシは、武市ケンスケ、ニィナと今日も奔走する。
死にたがりの男が織り成すドタバタバトルコメディ。素敵な日々が今始まる……かもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる