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ブリュートナー 『クイーン・ヴィクトリア』
94話
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だが、そんな遠慮とは無縁な場所にいるサロメ。純粋に生で聴きたい、いや、聴いてみたい曲をセレクトする。
「マジ? いいの? なら、アルカンの『鉄道』。弾ける人あんまいなくて、久々に聴きたいのよね」
「……」
引き攣るヴェロニカの顔からもわかる、難しい曲の中でも、相当な上位。むしろ、難しいどころか『人間には不可能』とまで言われる曲。アルカン『鉄道』。パリ生まれパリ育ちの彼が作曲したこの曲は、ひと言で言えば『超高速』。
タイトル通り、機関車をモチーフにしており、その蒸気機関の運動を意図した旋律が、鍵盤上で飛び跳ねる。運指も相当に不自然なものであることからも、かなり省略された譜面を用いられることが大半であり、指定のテンポ通りに弾ける者は、未来永劫いないとすらされている。
「……失音楽症って言ったわよね? また面倒な曲を。ま、いいわ」
思いつきでリクエストを受けるものではない、とヴェロニカは反省する。ブランクもある。調律もできていない。曲もうろ覚え。リハビリにはちょっとハード過ぎる。それでも、今の気持ちを大事にしたい。
数年ぶりにピアニストのスイッチ、入れてみようか。
そして始まる高速のパッセージ。開幕から本気でいかなければ、この鉄道に乗ることすらできない。ヴェロニカは指の赴くままに、自由に乗車する。
そしてそれでいて、さらに速さは加速する。次から次へと雪崩れ込む譜面に、休む暇などない。だが。
「少しずつ、馴染んできた」
ボソッと呟いたヴェロニカの言葉に呼応するように、彼女の全身の血が、ピアニストのそれへと入れ替わる。跳ねるように荒々しく、流麗で淑やかに。丸くもあり尖りつつ、膨らみつつ収束もしながら。音の様々な顔が、五分の曲の中に詰め込まれている。
それを間近で聴きながら、常に余裕を保ち続けるサロメは冷や汗を流した。
(——おいおいおいおい。これが引退した人のピアノなの? まだ全然お金取れるって)
しっかりと聴き応えもありながら、ちゃんと魅せられている。美しい音は美しい姿とセットだ。
だが、それでも本人は、その演奏を終えるとため息をついた。
「ダメね。やはり引退して正解だったわ」
自身の理想とする、そしてそれに最も近づいたピークの時の音。それがもう、遥か彼方にいってしまった。それを感じた時、もうここにいるべきではない、と決意した。今日もまた、続けることはできないと知ってしまう。
だが、それはサロメにもなんとなくわかる感覚。たとえ第三者がいくら賞賛しようと、引き際を決めるのは本人。
「そう言うと思った。だけどまず、ユニゾンが悪い。あたしに任せれば五割増しでよくできる」
ここからさらに上へ。サロメならその肩を持つことができる。もしその気があるのなら。もし、もう一度目指せるのならその手を。
「マジ? いいの? なら、アルカンの『鉄道』。弾ける人あんまいなくて、久々に聴きたいのよね」
「……」
引き攣るヴェロニカの顔からもわかる、難しい曲の中でも、相当な上位。むしろ、難しいどころか『人間には不可能』とまで言われる曲。アルカン『鉄道』。パリ生まれパリ育ちの彼が作曲したこの曲は、ひと言で言えば『超高速』。
タイトル通り、機関車をモチーフにしており、その蒸気機関の運動を意図した旋律が、鍵盤上で飛び跳ねる。運指も相当に不自然なものであることからも、かなり省略された譜面を用いられることが大半であり、指定のテンポ通りに弾ける者は、未来永劫いないとすらされている。
「……失音楽症って言ったわよね? また面倒な曲を。ま、いいわ」
思いつきでリクエストを受けるものではない、とヴェロニカは反省する。ブランクもある。調律もできていない。曲もうろ覚え。リハビリにはちょっとハード過ぎる。それでも、今の気持ちを大事にしたい。
数年ぶりにピアニストのスイッチ、入れてみようか。
そして始まる高速のパッセージ。開幕から本気でいかなければ、この鉄道に乗ることすらできない。ヴェロニカは指の赴くままに、自由に乗車する。
そしてそれでいて、さらに速さは加速する。次から次へと雪崩れ込む譜面に、休む暇などない。だが。
「少しずつ、馴染んできた」
ボソッと呟いたヴェロニカの言葉に呼応するように、彼女の全身の血が、ピアニストのそれへと入れ替わる。跳ねるように荒々しく、流麗で淑やかに。丸くもあり尖りつつ、膨らみつつ収束もしながら。音の様々な顔が、五分の曲の中に詰め込まれている。
それを間近で聴きながら、常に余裕を保ち続けるサロメは冷や汗を流した。
(——おいおいおいおい。これが引退した人のピアノなの? まだ全然お金取れるって)
しっかりと聴き応えもありながら、ちゃんと魅せられている。美しい音は美しい姿とセットだ。
だが、それでも本人は、その演奏を終えるとため息をついた。
「ダメね。やはり引退して正解だったわ」
自身の理想とする、そしてそれに最も近づいたピークの時の音。それがもう、遥か彼方にいってしまった。それを感じた時、もうここにいるべきではない、と決意した。今日もまた、続けることはできないと知ってしまう。
だが、それはサロメにもなんとなくわかる感覚。たとえ第三者がいくら賞賛しようと、引き際を決めるのは本人。
「そう言うと思った。だけどまず、ユニゾンが悪い。あたしに任せれば五割増しでよくできる」
ここからさらに上へ。サロメならその肩を持つことができる。もしその気があるのなら。もし、もう一度目指せるのならその手を。
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