26 / 208
歩くような早さで。
26話
しおりを挟む
役に立てなくてごめんね、と沈黙の後、ヴィズは付け足す。
「い、いえ、こちらこそ。そうですか……やっぱりそういませんよね……」
心のどこかでニコルと同じく、ひとりくらいは、音からなにかしらの……と考えていたため、ブランシュも少々落胆した。これで自分でやるしかなくなる。いや、最初からそのつもりではあったが。
「ちなみに『雨の歌』はどんな香りがすると思う?」
参考までに、ニコルはヴィズに聞いてみる。なにか得られるものがあるかもしれない。
さすがに今までにそんな質問をされたことがなかったのか、ヴィズも少々考え込む。一○秒ほど考えた後、顎に指を当てたまま、自信なく答えた。
「『雨の歌』……あたしはチョコレートみたいな、お菓子の甘い香り、かな」
お菓子……思っていた答えのカテゴリからは、遠く離れたチョイスだった。不意をつかれ、ブランシュもたじろぐ。
「え? 悲しいけれども希望のある曲、ですよね? お菓子……ですか?」
先ほどよりも自信を持ち、ヴィズは頷く。さらに熟考したが、お菓子の甘い香りで変わらなかった。
「元になった詩を知ってる? ブラームスの友人であるグロートが書いた。要約すると『雨が降って、裸足になって遊んだ、あの頃はなんて幸せだったのだろうか』っていうものなのよ」
「そういえば、詩があるって言ってたね」
ブランシュの部屋で聞いた内容をニコルも思い出した。詳しくは聞いていなかったので、そんな中身なんだ、と勉強になる。明日になったら忘れるだろうけど。
思い出すような遠い目でをしたヴィズが、エアでピアノを弾く。『雨の歌』なのだろう。体も揺らしてリズムを取っている。
「私にとってのあの頃ってなると、お菓子で焼いたチョコレートクッキーの香りなのよね。甘い、優しい香り」
そう言われてみると、なにか引っかかるものがありそうな予感がブランシュにもしてきた。愛の歌でもあり、懐かしむ曲でもあるのだ。私の子供の頃はどうだったろう、と思い出してみる。花に囲まれた、グラースの日々。今のこの状況と照らし合わせてみると、遠くまで来たな、と感慨に耽った。
「うーん……人それぞれになっちゃうか……ま、とりあえず弾いてみますか」
と、ニコルは、ヴィズとブランシュの肩を抱き寄せる。「こうなったらしょうがない」と、二人を舞台の上へ促す。
「あなたが弾くの?」
寄せられたヴィズがニコルを見る。
「いや、こっちが。私はなにも。弾けそうな楽器募集中」
強く、戸惑うブランシュの肩をバンバンと叩き、舞台の上へ。上げられた二人は目線を合わせて「どうする?」というようなアイコンタクトをする。
ブルブルと、かぶりを振ってブランシュは否定した。
「迷惑になってしまいますよ。すみません、ありがとうございました。リサイタル、頑張ってください。ほら、行きますよ」
仁王立ちするニコルの裾を引っ張り、ブランシュは舞台を降りようとする。さすがにいくらなんでも、そこまで迷惑はかけられない。練習の邪魔だけは避けようと、帰ろうとした時。
「『雨の歌』ね」
音もなく自然にイスに座り、ヴィズがピアノを弾き始める。『雨の歌』。優しく、重く、儚い音色がホールに響く。
「い、いえ、こちらこそ。そうですか……やっぱりそういませんよね……」
心のどこかでニコルと同じく、ひとりくらいは、音からなにかしらの……と考えていたため、ブランシュも少々落胆した。これで自分でやるしかなくなる。いや、最初からそのつもりではあったが。
「ちなみに『雨の歌』はどんな香りがすると思う?」
参考までに、ニコルはヴィズに聞いてみる。なにか得られるものがあるかもしれない。
さすがに今までにそんな質問をされたことがなかったのか、ヴィズも少々考え込む。一○秒ほど考えた後、顎に指を当てたまま、自信なく答えた。
「『雨の歌』……あたしはチョコレートみたいな、お菓子の甘い香り、かな」
お菓子……思っていた答えのカテゴリからは、遠く離れたチョイスだった。不意をつかれ、ブランシュもたじろぐ。
「え? 悲しいけれども希望のある曲、ですよね? お菓子……ですか?」
先ほどよりも自信を持ち、ヴィズは頷く。さらに熟考したが、お菓子の甘い香りで変わらなかった。
「元になった詩を知ってる? ブラームスの友人であるグロートが書いた。要約すると『雨が降って、裸足になって遊んだ、あの頃はなんて幸せだったのだろうか』っていうものなのよ」
「そういえば、詩があるって言ってたね」
ブランシュの部屋で聞いた内容をニコルも思い出した。詳しくは聞いていなかったので、そんな中身なんだ、と勉強になる。明日になったら忘れるだろうけど。
思い出すような遠い目でをしたヴィズが、エアでピアノを弾く。『雨の歌』なのだろう。体も揺らしてリズムを取っている。
「私にとってのあの頃ってなると、お菓子で焼いたチョコレートクッキーの香りなのよね。甘い、優しい香り」
そう言われてみると、なにか引っかかるものがありそうな予感がブランシュにもしてきた。愛の歌でもあり、懐かしむ曲でもあるのだ。私の子供の頃はどうだったろう、と思い出してみる。花に囲まれた、グラースの日々。今のこの状況と照らし合わせてみると、遠くまで来たな、と感慨に耽った。
「うーん……人それぞれになっちゃうか……ま、とりあえず弾いてみますか」
と、ニコルは、ヴィズとブランシュの肩を抱き寄せる。「こうなったらしょうがない」と、二人を舞台の上へ促す。
「あなたが弾くの?」
寄せられたヴィズがニコルを見る。
「いや、こっちが。私はなにも。弾けそうな楽器募集中」
強く、戸惑うブランシュの肩をバンバンと叩き、舞台の上へ。上げられた二人は目線を合わせて「どうする?」というようなアイコンタクトをする。
ブルブルと、かぶりを振ってブランシュは否定した。
「迷惑になってしまいますよ。すみません、ありがとうございました。リサイタル、頑張ってください。ほら、行きますよ」
仁王立ちするニコルの裾を引っ張り、ブランシュは舞台を降りようとする。さすがにいくらなんでも、そこまで迷惑はかけられない。練習の邪魔だけは避けようと、帰ろうとした時。
「『雨の歌』ね」
音もなく自然にイスに座り、ヴィズがピアノを弾き始める。『雨の歌』。優しく、重く、儚い音色がホールに響く。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
ハバナイスデイズ~きっと完璧には勝てない~
415
ファンタジー
「ゆりかごから墓場まで。この世にあるものなんでもござれの『岩戸屋』店主、平坂ナギヨシです。冷やかしですか?それとも……ご依頼でしょうか?」
普遍と異変が交差する混沌都市『露希』 。
何でも屋『岩戸屋』を構える三十路の男、平坂ナギヨシは、武市ケンスケ、ニィナと今日も奔走する。
死にたがりの男が織り成すドタバタバトルコメディ。素敵な日々が今始まる……かもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる