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11章 タイアップ

188 ハグ

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 姉との関係が良化することは、悪いことのはずがない。
 だが日本の芸能界の中でも、音楽業界に権力を持つ人間を、特に敵とすること。
 それは俊とノイズはもちろん、阿部やその親レーベルからしても、現実的な話ではない。
「貴方のボーカル、顔を隠しているのは悪い判断じゃないわ」
 彩はそんなことも言ったのだ。
「あいつはスタイルがよくて、才能を持った人間を、そんな才能とは全く関係なく辱めることが好きな人間だから」
 そんな男に姉が支配されていることに、俊は腸が煮えくり返る。

 愛と憎しみは表裏一体。
 彩を超えることは望んでいたが、彼女が不幸に落ちることを望んでいたわけではない。
 もちろん上から目線で、彼女を見下すことが出来るようになれば、性癖が改善するかとも思った。
 姉にレイプされて以来、俊の性癖は基本的に、小さな女の子にしか反応しない。
 幸いにもロリコンというわけではなく、小柄な女の子であれば、ちゃんと反応はしてくれたのだ。

 一方的ではなかったと言われて、過去の記憶を探ってみるが、もう随分と前のことであるため、はっきりとはしない。
 ただ彩から感じる敵愾心のようなものが、感じられなくなったのは確かだ。
 心情的にはむしろ、母よりも彩に対して、俊は母性を感じていたと思う。
 だからこそ彼女を支配する人間に対して、憎しみを抱くことになる。
(けれど俺に、そんなものを一方的にどうにかする力なんてない)
 それは彩も期待していないのだ。

 そもそも彩が支配から脱せないのは、二つの理由がある。
 一つは単純に男の権力が強く、その及ぶ範囲から逃れれば、報復があるであろうこと。
 そしてもう一つは現在の彩の楽曲が、かなりの部分ゴーストのものであるため、歌う曲がなくなってしまうということ。
 他にも色々とあるが、大きな障壁がその二つである。

 この二つをどうにかするための手段は、彩も色々と考えてはいた。
 一つには事務所の移籍であって、これは契約更新のタイミングで、他のレコード会社のレーベルに移るという手段がある。
 作られた虚像の部分はあっても、彩は現在の日本を代表する歌姫だ。
 タレントとしての側面もあるため、本人の価値が充分に高い。
 彼女を手に入れられるならば、所属事務所やレコード会社を敵に回してもいい、という他の大手レコード会社自体はあるだろう。
 ただし慎重に準備をしていかなければ、どんな報復をされるのかは分からない。

 楽曲提供の部分に関しては、それこそ俊の役割だ。
 ノイズでは使えない曲というのが、それこそ彩に歌わせればいい。
 彩が抜けるというのは、今までのスタッフも使えなくなるということだ。
 また報復手段というのが、どういうものになるのかも分からない。
 俊としてはそのあたり、さすがに自分がどうにか出来るものではないと思っている。
 そこは彩も、伝手を作り続けてきたのだ。

 問題を片付けるのには、時間もかかるだろう。
 屈辱を与えることを好む男に、それだけまだ体を任せる。
 そうは言ってもあちらは、彩自体にはある程度飽きているというのもある。
(ふざけた話だ)
 面子や支配欲が、どの程度のものであるのか。
 それによってこの問題は、大きく難易度が変わる。



 俊はノイズのメンバーには、この件に関しては話さない。
 少なくとも今の時点では、話しても何も解決の力にはならない。
 年末の年越しフェスに集中してほしい、ということもあった。
 それにこれは彩と自分の問題であるのだ。
 ずっと長く、俊を蝕んでいた、女性に対する嫌悪。
 恋人を作っていた期間でさえ、ある程度のそれが残っていた。

 完全になくなったわけではないが、それでもおおよそは解消している。
 それは俊の作る曲の制限を、広げていくものになるかもしれないのだ。
 逆にそれがあったからこそ、作れていた曲もあったのかもしれないが。
 しかし月子には歌えない曲を作り、ボカロにも歌わせていなかったのは、いつかこんな機会のためのものであったのか。
 今から思えば、という話である。
 彩が歌うような歌を作ってしまって、それを発表するのが嫌だった。
 囚われている自分を見るようで、死蔵していた楽曲。
 今の俊がブラッシュアップして、そのまま使えるような曲がいくつもある。

 もちろんゴーストなどに甘んじるつもりはない。
 ただ楽曲のうち、曲は提供しても詩は彩に考えてもらう。
 元々彼女は、作詞の方に実力があった人間だ。
 今もゴーストに曲を使ってもらっても、歌詞は自分の歌いやすいように書いている。
(この世界、ややこしいことが多すぎる)
 いっそのこと自分が全てを叩き壊してやりたい。
 破壊願望が幾つになっても消えない俊は、永遠の厨二病であるのかもしれない。
 だがそういった厨二病を極めていけば、大きなアーティストになれるものだ。

 この計画に必要なのは、まず権力である。
 一刻も早く彩を解放してやりたいと思っても、そう都合よくはいかない。
 一番いいのはもう向こうから、興味をなくさせることだ。
 しかしそれは相手が、彩のどこに価値を見出しているか、というものが重要になる。

 普通の商売女や、そうでなくても玄人の女を愛人にすればいい。
 だがあえて表の名声も持っている彩を、そういった扱いにすること。
 それは歪んだ支配欲や、名声欲につながっているのだろう。
 これを想像することは、別に難しくはない。
 一般に彼女を作る時でも、別に好きなわけではなかった相手が、周囲からの評価の高い人間であった場合、ステータスを重視して付き合ってみたりする。
 過去の俊がこういうタイプで付き合って、そしてさほどの愛情も与えなかったために振られたので、分からないでもないのだ。

 俊が本当に恋愛をするならば、相手にもなんらかのプロフェッショナルであることを求める。
 ルックスやスタイル、または目に見えるステータスを軽視するわけではないが、何かを痛烈に求めている人間。
 ある意味においては、尊敬出来る相手を選ぶのだ。
 もっとも実際はこういう夫婦関係であると、離婚も多くなったりする。
 対等ではなくある程度、お互いの依存がなければ、人間性は長続きしないのだ。
 弱さを見せられない相手との関係など、持続させるだけでも疲れてしまう。



 俊は彩の動きに関して、阿部にはある程度話した。
 具体的に話したのは、彩が事務所を移籍したい、という動きをしていることである。
 レコード会社との幹部との関係については、また他の計画を考えないといけない。
 一番簡単というか単純なのは、その人物を失脚させてしまうことだろう。
 だが俊は、音楽に関するスキルと事務的なスキルは持っているが、そういう陰謀に関する手段は分からない。
 社内政治に関しては、阿部の方がよく分かっているだろう。

 ただ阿部に確認したところ、今の彩とその権力者との関係は、表面的にはお互いが得をしているというものになる。
 彩に対して金をかけることは、会社全体で行っていること。
 その彩が稼いでいるわけであるが、彩が稼がなくなれば重役の発言権も落ちる。
 阿部が考えていたのは、俊が楽曲提供をすることで、ややマンネリと言われてきた彩にてこ入れをすること。
 それと引き換えにノイズの宣伝もするという、ごく真っ当なものであった。

「彩と件の重役は、愛人関係でもあるはずだから」
 そう少し俊の表情を窺ったのは、二人の関係を聞いていたからである。
 俊と彩の間には、敵対関係に近いものがあるが、逆に関係が良化してお互いに利用し合うなら、悪いことではないというのが彼女の感想だ。
「愛人関係って、けっこう知られているものなんですか?」
「噂程度はいくらでもあるけど、私の場合は父がその重役とは反対の派閥の人間だから、少し詳しく知っているのよ」
「ちなみに阿部さんとしては、そういった関係で売り出すことは、どう考えてます?」
 阿部はそう言われて、不快気な表情を隠そうとはしなかった。
「彩はそんなことをしなくても、普通に売れたシンガーだと思う。時間はかかっただろうけど。この業界は実力だけで売れるものじゃないから、どういう手段を使おうとそれは、彼女の自由ね」
 不快ではあるが、それを認められないほど、若いわけではない阿部である。

 ただ、そういったことに耐えられない人間もいる。
「ルナなんかは精神的に脆いところがありそうだから、貴方も注意しなさい。私の方も気をつけてるけど」
 顔出しをしないということは、やはり良かったのであろう。
 確かに月子は枕営業などは、絶対に出来ないタイプであると思う。
 もしもそれを強要したら、精神が壊れてしまうような。

 しかしGDレコードの権力構造が、分かったのは幸いである。
「俺たちと彩がコラボでもして、彼女をこちらに引き抜いたら、ひょっとしてその重役は失脚しますか?」
「それは……準備をしてからの話だけど、可能性はあるわね」
 社内政治というものは、俊の関知するところではない。
 ある程度理解は出来るが、それにすすんで関わろうとも思わない。
 必要なのは自分たちに、どれだけ便宜を図ってもらえるか、ということなのだ。

 阿部の立場としては、出来ることなら彩という手駒は、自分の属する派閥に入れたいと、当たり前のこととして考えている。
 ただそれを実際に行うのは阿部であっても無理で、その母体レーベルの社長である父親でも無理だ。
 レコード会社の重役などが、どういう力関係を持っているのか、俊には分からないし阿部も全てを把握しているわけではない。
 それでも一つの武器となる、とは考えているのだが。



「ストップ! ちょっと俊さん、集中して!」
 そう声を上げたのは、珍しくも暁であった。
 明日のフェスのセッティングなどは終えて、今は最後のリハを場所を変えて行っている。
 俊はほとんど自動的に演奏をしていたが、さすがに集中力を欠きすぎていた。
 他のメンバーも、それに気づいてはいたらしい。
 セッティングなどについても、今回は全体を把握することなく、それぞれのメンバーに任せていた。
 普段とは違う様子なのは、誰もが気づいてたのだ。

 陰謀をめぐらせているのは、俊の個人としての仕事である。
 今はノイズのリーダーとして、一時間弱のステージを成功させなければいけない。
 夏のフェスの成功から、タイアップでの告知など、ノイズは確かに上り調子ではある。
 ただ全く未知の領域に対して、俊はリソースを使いすぎていた。

 他のメンバーも一応、彩がわざわざ俊を訪ねて、そして二人が話したのは知っている。
 ただその結果がどうであるのかは、俊は話していない。
 年末の年越しフェスに集中するのが重要だと、分かっていたからだ。
 しかし当の俊が、それに集中出来ていない。
 ならば気になってしまうのも、仕方がないというものだ。
 演奏のクオリティが落ちれば、メンバーが気になるのは当たり前だ。

 俊としては手先だけを動かしていた、自分を認識してしまっている。
「ああ、悪い。……少しだけ休憩しよう」
 彩との関係改善は、悪いことではない。
 むしろずっと自分の中に残っていた、澱がなくなっていくのを感じる。
 これがいいことなのか、悪いことなのか。
 普通の人間にとっては、もちろんいいことであるのだろう。
 だが何かを表現する人間にとっては、負の感情は悪いものばかりとは言えない。

 音楽しかないという人間が、その魂の全てをかけて歌うことは、ブルースとなって聴衆の心を揺るがす。
 作曲や作詞についても、負の情念から生み出されたものこそが、かえって心を打つことはあるのだ。
 盗んだバイクで走り出したい、若者というのは存在する。
 それを代わりに歌ってくれる人間は、やはり必要なのだろう。



 今ならラブソングが作れるかな、と俊は思った。
 新しく生み出されたものに、失ってしまった負の感情。
 顔を洗って鏡を見れば、そこにはまだ醜い感情の抑圧を受けた、男の顔が写っている。
(まだ、彩から完全に解放されたわけじゃないんだな)
 姉が体を売って、この業界でスターに上り詰めたという事実。
 そしていまだに、その関係を断ち切れていない。

 俊の彩に対する、負の感情はだいぶ薄れている。
 しかし今は逆に、彩を解放してやらなければいけないという、そんな使命感のようなものがある。
 自分と寝た女が、他の男に好きにされているという、歪な所有欲。
 姉に持つべきものではないが、そうしたのは彩である。

 トイレから出た俊の前には、暁が一人いた。
「ああ、もう大丈夫だから」
「俊さん、一人で抱えすぎないでね」
 ギターを持っていない時の暁は、普通の女の子になる。
 いや、むしろ人間関係の構築が、苦手な人間というものになるのだろうか。
 友達の作れない人間であるが、コミュニケーションも出来ないというわけではない。
「技術的なことでは俊さんにしか出来ないこともあるけど、何か問題があるなら、あたしもお父さんも力になるし」
「……アキは可愛いなあ」
 およそ頭一つ分ほども小さな、小柄な少女。
 そんな存在に心配されるとは、俊はよほど調子が悪く見えたのか。

「ちょっと言い過ぎたかなって、思ってはいるんだよ?」
「いや、他の皆も思ってたさ。アキが一番遠慮がなかっただけで」
 一番古くからの付き合いというなら、確かに暁なのである。
 もっとも父の死後はしばらく、関係性は断たれていたが。
「ちょっとだけ、甘えさせてもらおうかな。ハグしていいか?」
「ええ? 俊さんってそういう甘え方するタイプだったの?」
「俺のことなんて、アキはまだ全然知らないと思うぞ」
 短い距離を詰めて、俊は暁の小さな体に手を回す。
 おかしな意味など感じさせない、純粋な感じのハグ。 
 母性に薄いと思う母親も、帰ってくれば普通に抱きしめてくる。
「……フェスが終わったら、あたしたちにも話してね」
 抱きしめると言うよりは支えるように、暁も手を回す。
 そして俊の背中を、優しくポンポンと叩いたのであった。
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