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高校一年生・春

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 大田家の夕食時に、全員が集まることは少ない。
 普段は父である鉄也が各地を飛び回り、まれにちゃんと家にいても、病院勤めの母がいないことが多いからだ。
 そんな夕食の席でも、ジンは鉄也に野球の話題を振る。
「正直なところ父さんは、あの二人どう思ったの?」
「どうって?」
「全国でも通用するとか、将来はプロになるとかさ」
 息子の問いに対して、鉄也は冷たく返す。
「そういうことは自分で見抜く目を身に付けるんだな」
「そうは言っても、俺には父さんみたいな特殊能力はないんだから」
 鉄也の持つ特殊能力。
 ある意味超能力じみたそれは、選手の完成形を見抜くというものである。

 中学生の終わりごろには感じ始め、大学の最終学年には確信した。
 自分には、才能を見抜く能力があると。
 もっともそれは、成功しない選手を見抜くのは100%確実だが、成功する選手を見抜くのはせいぜい30%。
 才能があったとしても成功するとは限らない。それがプロの世界だと言える。
 怪我で道を閉ざされ、あるいは家庭環境や人間関係に恵まれず、その才能が開花しない。
 怪我で選手としての道を絶たれた鉄也にとっては、そんなことはあってはいけないことだと思えた。
 だから今、こうしてスカウトをしている。

 その鉄也の目から見て、大介はまだしも、直史は危ういものがあった。
「大介は今のままでも充分戦力だからいいんだけど、ナオは体の使い方間違ってるよね? でも投手に下手なアドバイスするのは怖いし」
「あれはな。ちゃんとした投球指導、受けてなかったんだな」
 それでもボールの握り方などは、独学でどうにかしたのはたいしたものだが。
 変化球を指導なしで、しかもあのレベルで習得したというのは、これまた才能と言っていいだろう。
「何かヒントぐらい教えてよ」
「そうだな……確か佐藤の遠投は、部で三番目だったんだよな」
 運動能力テストをしたが、ほとんど全ての部門で、一位が大介二位が岩崎だった。遠投もそうだ。
「けれど一つだけ、佐藤が一番のがあっただろ?」
「伏臥上体反らし」
「それも含めて、体の柔軟性は白石よりも上だったな」

 そう、直史の体の柔らかさは、一年のみならず野球部一だ。おそらく全学年でも一二を争うだろう。
「あんだけ変化球の種類があって、中学時代は完投して、それで故障がない。かけた力を体全体で吸収する、体の柔らかさがあるということだ」
 それはジンも思った。特に凄かったのは、指の柔らかさだ。
 手足の腱を柔らかく伸ばすことは、時間をかければ難しいことではない。しかし直史のボールの握り、特に多投しないフォークの握りをした時は、その指の可動域に驚いたものだ。
 なんでも中学に入るまではピアノを習っていて、それが影響しているようなことを言っていたが。
 体の柔らかさというのは、立派な素質である。
「人間は様々な武器を使うが、火器以外の武器で唯一音速を突破するのは、鞭だ」
 ジンの父らしいと言えば父らしいのだが、謎の知識である。
「鞭という武器の特性は、柔らかいことだな。つまり柔らかいことによって、それぞれの動きが加算されていって、その先端は音速を超える」
「各部位の力が伝わりやすくて、それだけ全身の力が球に込められるってことだよね?」
「まあ、概ねその理解で合ってるな」

 速い球を投げるための条件の一つには、体の柔軟性というものがある。これは単に球速だけでなく、スピンをかけるのにも関係する。
 あとは筋肉に力を入れた時、逆に体を硬直させて、力が逃げないようにする必要もある。
 直史の場合は後者は圧倒的に不足しているが。
「どうやって指導したらいいのかな? シニアのコーチにちょっと相談してみるかなあ」
 ジンは汎用的なトレーニング法や、捕手としてのリード、また試合全体の戦略には通じているが、投手への一からの指導となるとさすがに厳しい。
「そうだな。てっとりばやく球速を上げて戦力を上げるなら、サイドスローに転向だな」
「父さん、自分がサイドスローだったからって……」
「それもなくはないが、ちゃんと考えてるぞ。今のあいつのフォームによる制球力は、全身の力を抑えていることで発揮されている。スピードを上げるなら当然それを解放するわけだが、サイドスローならフォームのチェックが簡単だ」

 投球というのは、全身の筋肉を連動させて行う運動である。
 オーバースローの投手が一番多いのは、それだけ動作が簡単であるからだと思われがちだが、実のところは違う。
 純粋にオーバースローは一番球速の出やすい投げ方ではあるが、その連動した動作からコントロールを導き出すのは難しい。チェックする部分が多いのだ。
 対してサイドスローは、体の回転軸と投げる手の描く回転軸が並行にある。チェックすべき部分は少なくてすむ。
 本来ならスピードの出しにくいサイドスローでも、直史の場合は球速が上がると見たのだ。
「あれでサイドからのシンカーでも使えるようになったら、かなり厄介な投手になるぞ」
「う~ん……」

 白富東の戦力を分析するに、ジンはかなり甲子園を目指す資格はあると計算している。
 強豪勇名館相手に、五回まで無失点だった岩崎。一年の春で140km投げられる投手など、そうそう全国を見渡してもいない。
 鉄也は岩崎の限界を見切っているようだが、高校生レベルでは充分に通用するのだ。それに父が問題にしたのは、岩崎のメンタルの方だ。
 メンタルトレーニングは日本ではまだ未知の領域であり、ノウハウが確立されていない。
 逆に言えばそこを克服できれば、岩崎だってもっと伸びていくはずなのだ。

 本格派と軟投派の二枚の投手に、リリーフも出来る最強の打者。
 正直ジンの最初の予定では、最高でも県でベスト4が限界だと思っていた。しかし予想外の人材が二人もいた。
 後輩をどう引っ張ってくるかは問題だが、3年の選抜と夏には、甲子園に行ける可能性は充分にあると思う。
 あの二人の存在が、ジンに明確に甲子園の背中を見せたのだ。
「甲子園か……行けるかな……」
「俺もあと一歩足りなかったからなあ……」
 そして親子は延々と野球談義を続けるのだった。



 春季大会県大会。
 二度勝てば夏のシード権が獲得出来るという大会で、五回勝てば関東大会に出場出来る。
 正直なところ、二度勝てばあとはどうでもいい。むしろ白富東の戦力を考えるに、練習で地力の底上げに時間を費やしたい。

 そんなジンの思惑通りに、トーナメントは勝ち抜けそうである。
 三回戦の相手が、これまた強豪校の光園学舎高校なのである。

 同じ強豪であっても、二枚看板を持っていた勇名館とは違い、打撃に偏重したチームである。
 もっともそれだけで勝てるわけではないので、そこそこの投手の継投でつないできたチームだ。
 ここまでの試合の平均得点は12.7。コールド三回という強力打線である。
 失点もそれなりで、三点までに抑えているので、悪くはない。

 白富東の県大会における投手リレーは地区大会と同じく、上級生のピッチャーが先発し、岩崎につなぐというパターンであった。
 直史はブルペンで投げることはあっても、この二試合でマウンドに立ってはいない。
 数字だけを見れば、四回登板で三失点。たいした成績とは言えないし、内容を見ても本塁打を食らっている。 
 だが普通の学校の打者相手であれば、試合を作るピッチングは出来るのだが。
 実際に野球部の面々は、直史を認めている。
 勇名館を相手に、本塁打を打たれてさえ、全く動揺を感じさせなかったピッチング。
 それは岩崎には嫉妬や羨望、あるいは憧憬さえ感じさせるものだった。

 そして今回の光園学舎相手では、彼が先発で主役の予定だ。
 なにしろその打線は、直球にはめっぽう強い。
 上級生の直球はすべてホームランボールだろうし、へなちょこ変化球も通用するとは思えない。
 下手をしなくても岩崎でさえ、滅多打ちを食らう可能性が高いのだ。
「と言っても打者のデータはきっちりあるし、コールドを食らうことはないと思うけどね」
 消極的な前向きさをこめて、ジンは言った。



 光園学舎はタイプこそ違え、総合力は勇名館と同じぐらいとも言える。
 だが相性的には、白富東とは悪い。速球に強い打者がそろっているからだ。
 しかしそれも、直史がいなければ、だが。

 その日、直史は高校入学以来初めて、先発のマウンドに登った。
 白富東は後攻なので、マウンドは足跡もない綺麗なものだ。
(久しぶりだな)
 グラウンドの感触を確かめつつ、直史は投球練習を始める。
 調子は良さそうだ。狙うところにびしばし決まる。
 ただ、それを受けるキャッチャーはジンではない。
 右手の負傷は重傷ではないとは言え、送球には影響が出る。
 それにここは春の大会だ。既にシード権は取ったので、無理をする場面でもない。

 それも含めて、この試合は負けそうだ。
 直史は悲観主義者である。そして客観的でもあるため、勝算が低いことを理解している。
 自分が先発に抜擢されたのも、変化球投手であることだからと受け止めている。

 行けるところまでは直史が投げて、捕まったら岩崎へ継投。
 それがプランだと、ジンも最初から話していた。
 ジンがリードしてくれるなら勝率は上がっただろうし、直史もいくらかは気楽に投げられたのだろうが。
(まあ、シードを取れたんだから、それで充分だろう)
 直史も諦めているわけではないが、負けた時の、あるいはピンチを背負った時の、心構えは出来ている。

 彼は負けるのは嫌いだが、負けるにしても自分のピッチングが出来ることを目標にしている。
 負けることに慣れてはいるが、それで練習のモチベーションが下がらないところが、直史の才能の一部だ。
 自分で目標を設定できる人間は、強い。

 そして試合は始まる。



 ひたすら言うが直史は器用なピッチャーである。
 器用と言うよりは、異様と言う方が適しているのかもしれないが。

 右打者に対しては、カーブを主体とした投球。
 カウントを稼ぐのにも、決め球として使うにも、直史のカーブは通用した。
 地区大会からここまでのわずか数日、カーブを捕球することが出来るようになった上級生捕手の努力には頭が下がる。

 そして左打者には、サイドスロー。
 トルネードではなく、普通のサイドスローだ。そしてそれに加えて、一週間で覚えたシンカー。
 この遅い球がばしばしと決まり、直史にしては珍しく、三振を多く取っている。
 一回の表はパーフェクトピッチングであった。

 そして攻撃の方も、既に定型化したものを踏襲している。
 大介の前にランナーが出せば、大介のバットでそれを帰す。
 ランナーがなければ大介が出塁し、盗塁をしてから北村の安打や犠打で帰ってくる。

 光園学舎との戦いでも、見事にはまって一点を先取した。
 大介の打撃に対する期待感は特別であり、白富東の精神的な支柱とまでなっていた。
 長打が打てる打者なのに、盗塁する足まである。敵ならば頭を抱える選手だ。
 ちなみにそんな大介がいるのに、なぜ中学時代は弱小であったかというと、ランナーがいた場合、大介に犠打を指示するようなアホが監督だったからである。 
 地区大会から光園学舎との試合まで、23打数15安打、2HR打点16盗塁4。
 出塁率まで考えると、化物以外の何者でもない成績を残している。ホームランの割合が高いイチローに近い。
 このうち盗塁に関しては、長打が多くて三塁打までやってしまったことと、前の塁が埋まっていたため、比較的少ないと言える。
 なお盗塁成功率は100%である。

 ランナーを帰すことも、自分が帰ることも出来る、万能打者が三番。
 四番の北村は上級生の中では確実に打撃が最も上手い選手で、五番の岩崎は打率はそこそこだが長打力がある。
 この打線によって、大介が帰すか大介が帰るかで、初回に点を取るのが白富東の勝ちパターンとなっていた。



 そんな初回の攻防を終え、いよいよ二回の表である。
 光園学舎の打線は、勇名館の黒田ほどの強打者はいないが、平均的な打率では上回っている。
 そして長打を狙うのではなく、コツコツと当ててくるタイプの打者が多い。

 直史の投球は、基本的には打たせて取るのを基本としている。
 大きなカーブを使うことによって投球自体の幅は広がったが、中学時代と違って守備陣に信頼が置ける以上、無理に三振を狙う必要はない。
 もっとも、一番安全にアウトを狙うという意味では、三振も頭の中に入っている。
(ひたすら淡々と、アウトを積み重ねる)
 直史の頭を占めるのはその理想だ。

 四番と五番に連続ヒットを打たれ、ピンチに陥った二回の表。
 その直後に送りバント失敗でダブルプレー。ランナーが三塁に残る。
 下位打線をキャッチャーフライにしとめ、なんとかこの回も無失点で終えた。

「投球数がけっこう多いな……」
 シーナのつけるスコアを見ながら、ジンは呟く。
 ベンチに入っている彼は、今回は作戦参謀に徹している。
 元々シニアの頃から、特に守備面では監督と話し合いながら、作戦を立てていた。
「でもナオって体力はあるんでしょ?」
 直史の1500m走のタイムは、実は岩崎よりもいい。
 だがそれをもって体力があるとは言わないのだ。
「野球の体力と長距離走の体力は違うからなあ」

 たとえばピッチャーの投球やバッターの打撃は、瞬発力のある運動を何度も行うものである。
 延々とロードワークをするというのは、無駄ではないが本質的な強化ではない。
 だがそれでもシーナが直史を体力があるというのは、彼が長いイニングを投げても、球威が落ちたりコントロールが乱れないことを言っているのだ。
「だってお前、キャッチボール300球投げて疲れるか?」
 直史の投球の本質は、そこであるとジンは判断している。



 試合はあまり淡々とは進まなかった。
 白富東の攻撃は淡々と終わるのだが、光園学舎の攻撃時間が長いのだ。
 またそれを抑えるための、直史の思考時間も長い。

 ピッチングのリズムが悪いと、守備のリズムも悪くなる。
 だが直史の場合はそれがあまりにも極端なので、相手のバッティングもおかしくなる。
 泥仕合にして結局相手を凡退させるところは、直史の立派な個性かもしれない。



 そして気が付けば、七回の裏である。
「そろそろ追加点がほしい~」
 ここまで球数170を超える直史から、遂に弱音が出た。
 もっともその言葉とは裏腹の態度に、ベンチでは笑いが洩れたが。
 直史もまた、こんな自分の言葉が出るのは、かなり意外である。

 くねくねと色々な方向にボールを変化させ、カットさせることでストライク数を稼ぐ。
 決め球にはカーブかシンカーで三振か、スプリットで内野ゴロというのが今日の献立だ。
 もっとも光園学舎の打撃陣のスイングは鋭いため、普通のゴロでは内野の間を抜けていくことが多いが。

(疲れてるのは本当だろうな。けどそれは、肉体的なものじゃなくて精神的なものだ)
 グラウンドに出ないジンだが、それだけに直史の投球の凄みが分かる。
「今日はけっこう、三振取るの多いね」
 スコアをつけながらシーナが呟くが、確かに打たせて取るタイプの直史が、今日は比較的三振でしとめることが多い。
 それも打者の平均値では勇名館を上回る、光園学舎を相手に。
「そういや、ナオって今日、失投が一つもないんじゃない?」
 シーナの言葉に、はっと気付くジンである。

 どれだけの投手であっても、一試合を通じて失投が一つもないというのはありえない。
 直史は確かに失投の少ない投手であるが、それでも今日の出来は良すぎる。
「そんだけ集中してんだよ。ありがたいことに指先の感触もいいし」
 そう言う直史の指は、柔らかく分厚い。
 普通の投手のような、あるいは打者のような、マメでカチカチになった手とは違う。
 柔らかいが、丈夫。それが直史の皮膚の特徴なのだ。

 ここまで七安打を許しているが、得点を許さないところは、かなり集中しているのだろう。
「じゃあそろそろ、追加点取ってくるか」
 そう言ってベンチから出る大介の前で、打者が二人アウトとなる。
 この日の大介は三打数二安打で、盗塁を二つ決めていた。
 ただでさえ打率がいいのに、出塁すればほぼ確実に盗塁を狙ってくる。
 ある意味ホームランバッター以上に、バッテリーにとっては面倒な打者なのである。

 そんな大介に、光園学舎の二番手投手は、低目への直球で勝負する。
 ボール球が外れてツーボール。そして三球目がわずかに内に入る。
「あ」
 と誰かが言ったが、その後を続ける前に、ライナー性の打球がライトスタンドに突き刺さった。
 勇名館戦に続いて、高校通算三本目の本塁打である。
「なんか……あいつ一人だけ、違う次元でバッティングしてないか?」
 呆れたように直史が言い、周囲はそれに頷いた。



 八回の表、さすがに疲れてきた直史だが、まだマウンドは譲らない。
 既に岩崎はブルペンで肩を温めているが、今日の直史の出来は良すぎると言ってもいい。
 外野に向かう岩崎の後を追い、ゆっくりとベンチを出て行こうとする直史に、ジンが声をかける。
「あのさ、出来れば今日は、完投目指してほしいんだよね」
 当初予定では、岩崎がリリーフして終わるはずであった。
「競った試合でガンちゃんが投げると、けっこう負けるんだよ。メンタル弱いし」
「弱い……か」
 なかなか頷けない言葉ではあるが、実際にそうだとは聞いている。
 偉そうな態度に、確かな実力を持つ岩崎だが、メンタルの制御が出来ていない。
 強気弱気という以前の問題らしい。

 その点直史に対しては、ジンははっきりと期待をしている。
 元々投手としての資質の評価は高かったが、勇名館戦で確信した。
 数字だけを見れば岩崎の方がはるかにいい成績を残しているが、最後に勝ったマウンドに立っていたのは直史だったのだ。
「それにもし勝てたとしても、次の試合がね……」
「ああ、まあそのためにはガンを温存しないとな」
 この試合に勝ては県大会ベスト8であるが、次に当たるのはおそらく東明大付属千葉第二高校。
 千葉県では一二を争う強豪校であり、ここ数年は半分ぐらいの確率で甲子園を経験しているのだ。
 野球で大学進学まで出来るので、当然のように強い選手が集まってくる。
 傑出した二枚看板を持っていた勇名館や、打撃力重視の光園学舎より、さらに二回りほど戦力が違う。

 それもまあ、この試合を勝ってからだ。
「完封狙ってみるかな」
 そう言った直史は八回の表に一点を失うのだった。
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