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車がいる。街を出るにはバスや電車よりいい。しかし真面な方法でそれを手に入れる術を知らない。
盗るか。
遠い土地に行くだけでいい。そこで車を隠し、乗り物を乗り継いでさらに遠くへ行く。
盗難車の手配がなされる前に車を乗り捨てるには夜に盗み、そのまま出発するしかない。
「社長さんに頼んでみる」
盗めそうな車がないか辺りを探してくるように言うと、由紀がそう応えた。
「これ以上世話にならんほうがいい。迷惑をかける」
「大丈夫。心配しないで」
そう言い、由紀は出かけた。
その由紀が帰ってこない。
朝出かけたまま、夕方になっても戻らない。
由紀にはあまり人気のないところには行くなと言ってあったが、昨夜の奴らが昼間に何か事を起こすとは考えていなかった。
勇治は由紀の身を案じたが、捜しに出かけるわけにはいかなかった。日が暮れてから由紀が会いに行くと言っていた社長の所を訪ねるくらいしかできないが、そこで知らないと言われれば、他に捜す当てはなかった。
川口を頼るか。
勇治は思った。川口の仕事が終わるのを待って話に行くしかない。川口ならこの街で多くの情報を持っている。仲間もいる。あまり世話になりたくはなかったが、そんなことを言っていられる状況ではなかった。
由紀が連れ去られたとしたら例の奴らの仕業としか考えられない。大方、由紀を人質に取り、勇治を呼び出すつもりなのであろう。それならそれでいい。ケリをつける。
夜の帳が下りる頃、一人の男が勇治の元を訪れた。締まった体をした中年の男である。長髪を頭の後ろで無造作に束ねている。
「女を預かっている。汚いやり方だと承知しているが、お前にどうしても従ってもらうため、このような方法を取った。一緒に来ていただきたい」
昨夜の男である。男の態度は有無を言わせぬものがあった。
「支度をする」
「刀を持ってきなさい」
男が、部屋の中に戻ろうとする勇治に言った。
勇治は動きやすい服に着替えた。
誰かと真剣の勝負をさせて見世物にするつもりなのであろうか。
押入れから出した刀を鞘から抜き、刃を見る。刃こぼれ一つしていない。まだ何も斬ったことがないから当然である。
勇治は柄をぎゅっと握りしめて気合を入れると、刀を鞘に納めた。
部屋を出て階下に行くと、さらに数人の男たちがいた。勇治はそのまま黒塗りの大型セダンに乗せられた。ちらりと見た車のナンバーは東京のものであった。刀は取り上げられ、後部座席で両側に男に挟まれて座る。
着いたのは郊外のビジネスホテルであった。
すぐにエレベーターで部屋へと連れていかされる。
「由紀はどこにいる」
部屋に入ると勇治はアパートの部屋を訪れた男に尋ねた。男は後ろに、車で勇治の両側に座っていた男を従えている。
「無事だ。明日帰す」
「で、俺に何をしろと?」
「真剣での勝負をしていただく」
「勝負? 誰と?」
「明日の早朝、迎えに来る。今夜は早く眠り、十分に体調を整えておくことだ」
「俺の質問に答えていないが」
「答える必要はない」
勇治は男の目をじっと見た。男は動じない。
「刀を返してくれ」
「駄目だ」
「真剣で勝負をしろというのなら今夜中に手入れをしておきたい」
男は小考する。
「わかった」
振り向き、共の者に刀を持ってくるよう告げた。
「部屋の外に出ないように。電話も駄目だ。それが守られなかった場合、女の命は保証しない」
勇治は男に跳びかかり、胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな」
男は顔色一つ変えず、落ち着いている。
「私たちに危害を加えても女の無事は保証できない」
勇治は男から離れた。
一人残された部屋で勇治は刀を振った。床に膝を付き、上から振り下ろす。
肩と腕に木刀で打たれた痛みがまだあった。だが剣を振るのに支障があるほどではない。斬り合いになれば痛みも忘れるであろう。
刀は、特別手入れする所はない。柄の巻は買った時のままだが、糸はしっかりしていて巻き直す必要はない。
拳銃は持ってこなかった。ズボンのポケットに入れて歩くには大きすぎる。もし拳銃を持ってきていたなら、もう少し何とかできたかもしれない。だが刀しかない。
本当に斬り合いをするのかわからないが、やらなければならないとしたら本気でやるまでのこと。斬り殺されるかもしれないが、そうなったらそれも運命であり、仕方がない。由紀はこの街で生きていくことを学んだ。たとえ勇治がいなくなったとしても生活していけるであろう。もしかしたらその方が由紀にとって幸せなのかもしれない。
それならば俺は何のために戦おうとしている? 自分のプライドのためか。生きるためか。過信している剣の技のためか?
違う。
由紀だ。由紀のために戦う。由紀を愛してしまった。この命は由紀のためにある。
勇治は心を落ち着け、ゆっくりと目を閉じた。
思えば自分は何と不思議な運命を辿ってきたのであろう。すでに何人もの人を殺した。強盗に盗み。全て生きるためにやってきた。
自分が普通でなくなったのは、いつ、何によってであろうか。幼い頃に始めた剣道か。粋がって始めた柔道やボクシングのせいか。
いや、そんなことはない。今までの自分を否定しているのではない。正しい道を歩いてきたのかと問われれば、頷くことはできないが、決して間違ってはいなかった。幾つも罪を重ねたことを後悔していないといえば嘘になる。確かに人道的には間違ったことをしてしまった。だが自分の選択が間違っていたのではない。巡り合わせが悪かった。弟が殺されなければ、夜の街に染まることなく普通のサラリーマンとして人生を送っていたかもしれない。組事務所での一件がなければ、今でもバーの店長としてのんびりと生きていたかもしれない。ヤクザと付き合いながらも一定の距離を置き、そのまま年老いていったであろう。一生、日本刀を握る経験もなく死んでいったであろう。
自分の人生は大きく平凡という道から外れてしまった。もし明日、どこかの誰かに斬られて殺されるとしたら、そんな自分にふさわしい死に様かもしれない。
だが、生きられるとしたら。
平凡を目指して生きる。決して平凡には戻れないが、平凡に近付くことならできる。由紀とならできる。由紀と二人で生きる。そのために明日、死ぬわけにはいかない。
盗るか。
遠い土地に行くだけでいい。そこで車を隠し、乗り物を乗り継いでさらに遠くへ行く。
盗難車の手配がなされる前に車を乗り捨てるには夜に盗み、そのまま出発するしかない。
「社長さんに頼んでみる」
盗めそうな車がないか辺りを探してくるように言うと、由紀がそう応えた。
「これ以上世話にならんほうがいい。迷惑をかける」
「大丈夫。心配しないで」
そう言い、由紀は出かけた。
その由紀が帰ってこない。
朝出かけたまま、夕方になっても戻らない。
由紀にはあまり人気のないところには行くなと言ってあったが、昨夜の奴らが昼間に何か事を起こすとは考えていなかった。
勇治は由紀の身を案じたが、捜しに出かけるわけにはいかなかった。日が暮れてから由紀が会いに行くと言っていた社長の所を訪ねるくらいしかできないが、そこで知らないと言われれば、他に捜す当てはなかった。
川口を頼るか。
勇治は思った。川口の仕事が終わるのを待って話に行くしかない。川口ならこの街で多くの情報を持っている。仲間もいる。あまり世話になりたくはなかったが、そんなことを言っていられる状況ではなかった。
由紀が連れ去られたとしたら例の奴らの仕業としか考えられない。大方、由紀を人質に取り、勇治を呼び出すつもりなのであろう。それならそれでいい。ケリをつける。
夜の帳が下りる頃、一人の男が勇治の元を訪れた。締まった体をした中年の男である。長髪を頭の後ろで無造作に束ねている。
「女を預かっている。汚いやり方だと承知しているが、お前にどうしても従ってもらうため、このような方法を取った。一緒に来ていただきたい」
昨夜の男である。男の態度は有無を言わせぬものがあった。
「支度をする」
「刀を持ってきなさい」
男が、部屋の中に戻ろうとする勇治に言った。
勇治は動きやすい服に着替えた。
誰かと真剣の勝負をさせて見世物にするつもりなのであろうか。
押入れから出した刀を鞘から抜き、刃を見る。刃こぼれ一つしていない。まだ何も斬ったことがないから当然である。
勇治は柄をぎゅっと握りしめて気合を入れると、刀を鞘に納めた。
部屋を出て階下に行くと、さらに数人の男たちがいた。勇治はそのまま黒塗りの大型セダンに乗せられた。ちらりと見た車のナンバーは東京のものであった。刀は取り上げられ、後部座席で両側に男に挟まれて座る。
着いたのは郊外のビジネスホテルであった。
すぐにエレベーターで部屋へと連れていかされる。
「由紀はどこにいる」
部屋に入ると勇治はアパートの部屋を訪れた男に尋ねた。男は後ろに、車で勇治の両側に座っていた男を従えている。
「無事だ。明日帰す」
「で、俺に何をしろと?」
「真剣での勝負をしていただく」
「勝負? 誰と?」
「明日の早朝、迎えに来る。今夜は早く眠り、十分に体調を整えておくことだ」
「俺の質問に答えていないが」
「答える必要はない」
勇治は男の目をじっと見た。男は動じない。
「刀を返してくれ」
「駄目だ」
「真剣で勝負をしろというのなら今夜中に手入れをしておきたい」
男は小考する。
「わかった」
振り向き、共の者に刀を持ってくるよう告げた。
「部屋の外に出ないように。電話も駄目だ。それが守られなかった場合、女の命は保証しない」
勇治は男に跳びかかり、胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな」
男は顔色一つ変えず、落ち着いている。
「私たちに危害を加えても女の無事は保証できない」
勇治は男から離れた。
一人残された部屋で勇治は刀を振った。床に膝を付き、上から振り下ろす。
肩と腕に木刀で打たれた痛みがまだあった。だが剣を振るのに支障があるほどではない。斬り合いになれば痛みも忘れるであろう。
刀は、特別手入れする所はない。柄の巻は買った時のままだが、糸はしっかりしていて巻き直す必要はない。
拳銃は持ってこなかった。ズボンのポケットに入れて歩くには大きすぎる。もし拳銃を持ってきていたなら、もう少し何とかできたかもしれない。だが刀しかない。
本当に斬り合いをするのかわからないが、やらなければならないとしたら本気でやるまでのこと。斬り殺されるかもしれないが、そうなったらそれも運命であり、仕方がない。由紀はこの街で生きていくことを学んだ。たとえ勇治がいなくなったとしても生活していけるであろう。もしかしたらその方が由紀にとって幸せなのかもしれない。
それならば俺は何のために戦おうとしている? 自分のプライドのためか。生きるためか。過信している剣の技のためか?
違う。
由紀だ。由紀のために戦う。由紀を愛してしまった。この命は由紀のためにある。
勇治は心を落ち着け、ゆっくりと目を閉じた。
思えば自分は何と不思議な運命を辿ってきたのであろう。すでに何人もの人を殺した。強盗に盗み。全て生きるためにやってきた。
自分が普通でなくなったのは、いつ、何によってであろうか。幼い頃に始めた剣道か。粋がって始めた柔道やボクシングのせいか。
いや、そんなことはない。今までの自分を否定しているのではない。正しい道を歩いてきたのかと問われれば、頷くことはできないが、決して間違ってはいなかった。幾つも罪を重ねたことを後悔していないといえば嘘になる。確かに人道的には間違ったことをしてしまった。だが自分の選択が間違っていたのではない。巡り合わせが悪かった。弟が殺されなければ、夜の街に染まることなく普通のサラリーマンとして人生を送っていたかもしれない。組事務所での一件がなければ、今でもバーの店長としてのんびりと生きていたかもしれない。ヤクザと付き合いながらも一定の距離を置き、そのまま年老いていったであろう。一生、日本刀を握る経験もなく死んでいったであろう。
自分の人生は大きく平凡という道から外れてしまった。もし明日、どこかの誰かに斬られて殺されるとしたら、そんな自分にふさわしい死に様かもしれない。
だが、生きられるとしたら。
平凡を目指して生きる。決して平凡には戻れないが、平凡に近付くことならできる。由紀とならできる。由紀と二人で生きる。そのために明日、死ぬわけにはいかない。
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