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海の見えるアパート
海の見えるアパート
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親父は田舎の小さな町工場で人生のほとんどを過ごしてきた。
決して多いとは言えない給料で苦労して姉と僕を大学まで出させてくれた。
姉は大学を出て就職すると、さっさと理想の相手を見つけて結婚してしまった。
僕は名の知れた日本有数の大企業に就職した。親父はそれが自慢だった。
日本全国に何カ所かある工場の一つに僕は配属された。
配属先の工場は地方都市の郊外にある。僕ははじめ会社で紹介された工場近くのアパートに住んでいたけれど、半年後にそこを出た。
工場から離れた小さな港町にある、海の見えるアパートが新しい棲家となった。
通勤に多くの時間をかけてまで移り住んだのには訳がある。
僕は美しい風景を撮るのが好きだった。それは写真でもビデオでもよかった。特に好きなのは海の景色だ。だから海の近くのアパートを選んだ。
僕は大抵、撮ったものを後で見てがっかりする。自分の感激した景色の半分もそこに感動が残っていない。僕はそこがプロと素人との違いだと思った。
プロはそのものを見た時の感動をそのまま、あるいはもっと大きくして人に伝えることができる。素人はもっと小さくしてしか人に伝えられない。
でもそれこそ僕が風景撮影にのめり込んだ理由かもしれなかった。
どうしたらこの美しさ、感動を人に伝えることができるのだろう。
日々研究の毎日で、それが楽しかった。
この頃、特に熱を入れているのが夜の海で、たまに日が暮れてから近くの浜辺に映像を撮りに行った。
夜の海はとても神秘的だ。どこまでも黒くて、音がなければただの広がりでしかない。けれど海は絶えず躍動している。
その躍動感をどうやれば人に伝えることができるのだろう。
そんなことに僕は夢中になった。
朝方に前日から降り続いた雨がやみ、午後にはからっとした青空が広がった。そんな時は空気が澄み切って、遠くの景色や空の星がきれいに見えるので、僕はウキウキして会社から帰ってきた。
夕飯を食べ、暗くなってから僕は機材を持って出かけた。
波をたたえた黒い海はどこまでも広がり、無数の星を抱いた黒い空もどこまでも広がっていて、遥か彼方で交わっている。
僕は月明かりの下の波打ち際で写真を撮った。
「何をしているの?」
不意に声をかけられ、僕はびっくりして振り向いた。
暗くてよくわからなかったけれど、声をかけたのは若い女の人のようだった。
「写真を撮っているところ」
「写真? こんな真っ暗な中で?」
「暗くても写真を取る方法はあるから」
僕は話をしながら、こんな夜中に若い女性と二人で話をしていることに気が付いてドキマギした。
「でも、何もないじゃない。何かあるの?」
「海ではたくさんの波が光っているし、きらきらした星が降ってきそうな空もある」
僕は何だか妙なことを言ってしまったような気がして、慌ててカメラの三脚をたたんだ。
「もう終わり?」
「うん」
この暗い中に若い女の人と二人きりでいるのはまずいと思った。
いくつかのカメラを首にぶら下げた僕は、たたんだ三脚を持って明かりのある所まで歩いた。
「どんな写真になるの? この景色を見てもただ暗いだけじゃない。どんな風になるのか、すごく興味がある」
「まあ、ほとんど黒いだけだよ。それはそれでいいし、そこに色々と手を加えて見栄え良くしたりもする」
「ええ? どうやって?」
僕は明かりの下の防波堤に腰かけた。女の人も隣に座った。
なぜこんな時間、こんなところに一人でいるのだろう。僕はそう思ったけれど、女の人の質問は次から次へと繰り出され、僕はそれに答えるだけだった。
「今はパソコンで色々な加工ができるから。色を微妙に変えたり、形を変えたり、いらないものを消したり。その何て言うか、イラストっぽくしてみたりとか、おもちゃのようにしてみたりとか」
「おもちゃ? この暗い海をおもちゃのようにできるの?」
「いや、それはちょっと難しいと思う。今、そういうのを色々研究中で・・・・」
一時間ほど話しただろうか。ふと僕は知らない若い女性とこんなことをしていていいのかと思った。
「もう帰るよ」
「うん。すごい勉強になっちゃった。さようなら」
「さようなら」
「また会えるといいね」
そう言って女の人は去っていった。
それから何度か僕は夜の海に出かけた。あの人に会えることを期待したけれど、彼女は現れなかった。
「こんばんは」
あの時と同じように、僕は不意に声をかけられた。
初めて出会ってから二カ月経っていた。
僕たちはまた、明かりの下の防波堤に座って話をした。
この前はほとんど僕の趣味のことばかりだったけれど、今度はプライベートなことも含めて、色々なことを話した。
「そろそろ帰らなきゃ」
僕はそう言って立ち上がった。
前回よりも遅くまで話し込んでいた。
「会えてよかった。また会える?」
「うん」
僕はそう返事をした。
「さようなら」
「さようなら。おやすみ」
僕は彼女の姿が見えなくなるまで眺めていた。
僕はもう彼女に会わないと決めた。明日になったら工場近くにアパートを探そう。
彼女は僕の勤める会社の社長の娘だった。
彼女もこの小さな港が好きで、近くにある親戚の家に時々遊びに来ていると言った。
僕は君のお父さんの会社に勤めていると言ったら、彼女はあら偶然ねと言って笑った。僕にとっては笑い事じゃなかった。
僕はもっともっと彼女に会いたかった。
だけど・・・・
だけど。
彼女のことを好きになってしまえば、つらい現実が待っている。この現代社会で身分の違う恋なんてあるはずがないけれど、やっぱり僕にとって身分違いの恋だ。
これ以上、彼女を好きになってはいけない。
二週間後に僕は引っ越しをした。もうあの港近くの砂浜を訪れることはないだろうと思った。
せめて一枚でも彼女の写真を撮っておけばよかったと考えたけれど、逆にそんなことをしなくてよかったと気付いた。
新しいアパートに移り住んで半年ほどたったある日、誰かの来訪を知らせるチャイムが鳴った。僕のアパートに来るのは宅配配達の人くらいだけど、受け取るべき荷物を注文した覚えはなかった。
部屋の外にいたのは彼女だった。
「また会えるって訊いたら、うんって返事をしたじゃない」
彼女はいきなり怒った口調で言った。
「ごめん」
「それで急にいなくなって・・・・」
彼女が顔をゆがめた。
だけど泣きそうな心を何とか落ち着けたように立ち直った。
「どうして?」
また怒ったように彼女が言った。
「僕は一介のサラリーマンで、君は大企業の社長の娘さん。好きになってはいけない人だと思ったから」
「そんなの関係ないじゃない。父だってサラリーマンの社長で、退職すれば会社とは関係なくなる。私の兄だって、父とは全く関係のない仕事をしているし」
「ごめん、悪かった」
これほどまでに彼女が僕のことを想っていてくれたなんて、想像もしていなかった。
それから僕たちは半年前のあの日のように取り止めのないおしゃべりをしてから別れた。
「でも、どうやってこのアパートの場所を見つけたの?」
僕は別れ際に彼女に尋ねた
「それは・・・・、ちょっと父のコネを使ったの」
彼女は言い難そうに言った。
僕はまた、あの大好きな海の見えるアパートに戻ろうと考えながら、去っていく彼女の後姿を見送った。
決して多いとは言えない給料で苦労して姉と僕を大学まで出させてくれた。
姉は大学を出て就職すると、さっさと理想の相手を見つけて結婚してしまった。
僕は名の知れた日本有数の大企業に就職した。親父はそれが自慢だった。
日本全国に何カ所かある工場の一つに僕は配属された。
配属先の工場は地方都市の郊外にある。僕ははじめ会社で紹介された工場近くのアパートに住んでいたけれど、半年後にそこを出た。
工場から離れた小さな港町にある、海の見えるアパートが新しい棲家となった。
通勤に多くの時間をかけてまで移り住んだのには訳がある。
僕は美しい風景を撮るのが好きだった。それは写真でもビデオでもよかった。特に好きなのは海の景色だ。だから海の近くのアパートを選んだ。
僕は大抵、撮ったものを後で見てがっかりする。自分の感激した景色の半分もそこに感動が残っていない。僕はそこがプロと素人との違いだと思った。
プロはそのものを見た時の感動をそのまま、あるいはもっと大きくして人に伝えることができる。素人はもっと小さくしてしか人に伝えられない。
でもそれこそ僕が風景撮影にのめり込んだ理由かもしれなかった。
どうしたらこの美しさ、感動を人に伝えることができるのだろう。
日々研究の毎日で、それが楽しかった。
この頃、特に熱を入れているのが夜の海で、たまに日が暮れてから近くの浜辺に映像を撮りに行った。
夜の海はとても神秘的だ。どこまでも黒くて、音がなければただの広がりでしかない。けれど海は絶えず躍動している。
その躍動感をどうやれば人に伝えることができるのだろう。
そんなことに僕は夢中になった。
朝方に前日から降り続いた雨がやみ、午後にはからっとした青空が広がった。そんな時は空気が澄み切って、遠くの景色や空の星がきれいに見えるので、僕はウキウキして会社から帰ってきた。
夕飯を食べ、暗くなってから僕は機材を持って出かけた。
波をたたえた黒い海はどこまでも広がり、無数の星を抱いた黒い空もどこまでも広がっていて、遥か彼方で交わっている。
僕は月明かりの下の波打ち際で写真を撮った。
「何をしているの?」
不意に声をかけられ、僕はびっくりして振り向いた。
暗くてよくわからなかったけれど、声をかけたのは若い女の人のようだった。
「写真を撮っているところ」
「写真? こんな真っ暗な中で?」
「暗くても写真を取る方法はあるから」
僕は話をしながら、こんな夜中に若い女性と二人で話をしていることに気が付いてドキマギした。
「でも、何もないじゃない。何かあるの?」
「海ではたくさんの波が光っているし、きらきらした星が降ってきそうな空もある」
僕は何だか妙なことを言ってしまったような気がして、慌ててカメラの三脚をたたんだ。
「もう終わり?」
「うん」
この暗い中に若い女の人と二人きりでいるのはまずいと思った。
いくつかのカメラを首にぶら下げた僕は、たたんだ三脚を持って明かりのある所まで歩いた。
「どんな写真になるの? この景色を見てもただ暗いだけじゃない。どんな風になるのか、すごく興味がある」
「まあ、ほとんど黒いだけだよ。それはそれでいいし、そこに色々と手を加えて見栄え良くしたりもする」
「ええ? どうやって?」
僕は明かりの下の防波堤に腰かけた。女の人も隣に座った。
なぜこんな時間、こんなところに一人でいるのだろう。僕はそう思ったけれど、女の人の質問は次から次へと繰り出され、僕はそれに答えるだけだった。
「今はパソコンで色々な加工ができるから。色を微妙に変えたり、形を変えたり、いらないものを消したり。その何て言うか、イラストっぽくしてみたりとか、おもちゃのようにしてみたりとか」
「おもちゃ? この暗い海をおもちゃのようにできるの?」
「いや、それはちょっと難しいと思う。今、そういうのを色々研究中で・・・・」
一時間ほど話しただろうか。ふと僕は知らない若い女性とこんなことをしていていいのかと思った。
「もう帰るよ」
「うん。すごい勉強になっちゃった。さようなら」
「さようなら」
「また会えるといいね」
そう言って女の人は去っていった。
それから何度か僕は夜の海に出かけた。あの人に会えることを期待したけれど、彼女は現れなかった。
「こんばんは」
あの時と同じように、僕は不意に声をかけられた。
初めて出会ってから二カ月経っていた。
僕たちはまた、明かりの下の防波堤に座って話をした。
この前はほとんど僕の趣味のことばかりだったけれど、今度はプライベートなことも含めて、色々なことを話した。
「そろそろ帰らなきゃ」
僕はそう言って立ち上がった。
前回よりも遅くまで話し込んでいた。
「会えてよかった。また会える?」
「うん」
僕はそう返事をした。
「さようなら」
「さようなら。おやすみ」
僕は彼女の姿が見えなくなるまで眺めていた。
僕はもう彼女に会わないと決めた。明日になったら工場近くにアパートを探そう。
彼女は僕の勤める会社の社長の娘だった。
彼女もこの小さな港が好きで、近くにある親戚の家に時々遊びに来ていると言った。
僕は君のお父さんの会社に勤めていると言ったら、彼女はあら偶然ねと言って笑った。僕にとっては笑い事じゃなかった。
僕はもっともっと彼女に会いたかった。
だけど・・・・
だけど。
彼女のことを好きになってしまえば、つらい現実が待っている。この現代社会で身分の違う恋なんてあるはずがないけれど、やっぱり僕にとって身分違いの恋だ。
これ以上、彼女を好きになってはいけない。
二週間後に僕は引っ越しをした。もうあの港近くの砂浜を訪れることはないだろうと思った。
せめて一枚でも彼女の写真を撮っておけばよかったと考えたけれど、逆にそんなことをしなくてよかったと気付いた。
新しいアパートに移り住んで半年ほどたったある日、誰かの来訪を知らせるチャイムが鳴った。僕のアパートに来るのは宅配配達の人くらいだけど、受け取るべき荷物を注文した覚えはなかった。
部屋の外にいたのは彼女だった。
「また会えるって訊いたら、うんって返事をしたじゃない」
彼女はいきなり怒った口調で言った。
「ごめん」
「それで急にいなくなって・・・・」
彼女が顔をゆがめた。
だけど泣きそうな心を何とか落ち着けたように立ち直った。
「どうして?」
また怒ったように彼女が言った。
「僕は一介のサラリーマンで、君は大企業の社長の娘さん。好きになってはいけない人だと思ったから」
「そんなの関係ないじゃない。父だってサラリーマンの社長で、退職すれば会社とは関係なくなる。私の兄だって、父とは全く関係のない仕事をしているし」
「ごめん、悪かった」
これほどまでに彼女が僕のことを想っていてくれたなんて、想像もしていなかった。
それから僕たちは半年前のあの日のように取り止めのないおしゃべりをしてから別れた。
「でも、どうやってこのアパートの場所を見つけたの?」
僕は別れ際に彼女に尋ねた
「それは・・・・、ちょっと父のコネを使ったの」
彼女は言い難そうに言った。
僕はまた、あの大好きな海の見えるアパートに戻ろうと考えながら、去っていく彼女の後姿を見送った。
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