微笑

原口源太郎

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第一章

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 炎は無くなっていた。空は闇が薄れ、寒々とした空気がゆっくりと降りてくるようだった。白み始めた空を背にして、微かな煙を上げる焦げた柱と屋根だけの朽ち果てた家があった。
 娘と息子を寝かしつけた妙子が、あとは私がいるからと言うので、雅彦ももうひと眠りすることにした。ひと時の興奮が過ぎ、ちょうど激しい睡魔に襲われているところだった。
 家に入るとき、雅彦は走りだした消防車の陰に隠れていたパトカーに気付き、姿の見えなかった古田の妻のことを思い出した。これ以上酷いことにならなければいいがと人のいい隣人のことを思いながら、寝室への階段を上った。

 雅彦はどこにでもいるような、ありふれた男だった。背は高いが、目立つほど高くはなく、痩せてはいるが、目立つほど痩せてもいない。頭の回転は速くて機転がきくほうだと自分では思っているが、とぼけた二枚目の風貌からは、そんな風には見えない。頭に白いものがチラチラと混じってきているが、白髪頭になるにはまだ早い。
 夢を見た。
 少女が海にそびえたつ断崖の上の公園を走っていく。
 少女は古田の娘の千夏。
 少女が向かっているのは、海へと落ちている高い高い断崖の端。
 雅彦は懸命に少女を捕まえるために走ろうとする。足が全く動かない。歩くようなスピードでしか走れない。足は鉄でできているように思い。俺は何てとろくさいんだと自分を呪う。それに比べて、少女はシャキシャキと跳ぶように走っていく。
 少女は一番高いところの柵をポンとひとっ跳びで跳び越え、そのまま海に落ちていく。
 海は突然、炎の色に染まり、空は闇に変わる。少女はそのマグマのような海にひらひらと落ちていく。
 雅彦も柵を乗り越えて、海へと跳ぶ。
 少女の姿は消えていた。
 海は青く、波は白い。そこへ雅彦は猛烈な勢いで落ちていく。
 波の打ち付ける岩肌が急激に目の前に迫ってくる。
 心臓が潰されそうな恐怖が押し寄せる。
 そこで目を覚ました。目の前に妙子の心配そうな顔があった。
「あなた、大丈夫?」
「あ、ああ」
 雅彦は苦しげに唸った。
「大丈夫だ」
 嫌な夢だった。頭がずきずきと痛むのは前日の酒のせいではない。
「警察の方がみえてるの。お隣の火事のことを聞きたいんですって」
「わかった」
 頭の痛みは急速に引いていった。
 雅彦が服を着替えている間、妙子が火事の報告をしてくれた。
 古田の妻は、焼死体となって焼け跡の中から発見されたらしい。古田は命に別状は無いようだが、娘はどうなったかわからない。それと火事の出火原因はどうも放火らしいとのことだった。
 それは近所からの噂で、どこまでが本当だかわからない。
 雅彦は窓を開けてみた。消防車は一台もなかったが、赤い消防署の乗用車とパトカーが数台止まっていた。焼け跡を何人かの人達がごそごそと動きまわっている。雅彦の家の庭は踏み荒らされ、花壇も何もかも滅茶苦茶だった。敷地を区切るスチールの柵も所々壊れている。
 古田の娘はもしかしたら死んだのかもしれないと思いながら、雅彦は警察の人間を待たせてある階下の居間へと向かった。

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