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第二章 竜の国の騎士
50.竜の国の騎士
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崖の上をなんとか伝って湖に下りる道を見つけたヒューは、水晶の壁に囲まれた小さな雑木林の中に、二人の姿を見つけ駆け寄った。
二人の姿が間近に迫ってくると、ヒューは歩調を緩めた。
デレクが肩を震わせ泣いている。ラーシアは腕に小さな亡骸を抱き、地面に座ったまま動かない。
「はぁ……」
憂鬱な溜息をつきながらもヒューは進み続け、二人の傍で足を止めた。
俯くラーシアの腕に抱かれる竜の死骸には焦げた穴が空いており、もう手の施しようがない。
「ラーシア、呪いを解いた竜だ。国が丁重に埋葬することもできる。掛け合うか?」
「ヒュー!」
ヒューの問いかけに、デレクが怒りの声をあげ振り返る。
その顔は濡れている。苛立ちを抑え、ヒューは努めて冷静にデレクに告げる。
「とりあえず濡れた上着は脱いだほうがいい。さっさと上がろう。こんなところにいても仕方がない」
湖に落ちた二人の分厚い外套は水を含んでぺちゃんこだった。
悲しむ時間すらラーシアに与えようとしないヒューに、デレクは憤慨し立ち上がったが、ラーシアがそれを止めた。
「いいんだ。大丈夫」
落ち着いた声音で告げると、ラーシアはリジーの体を地面に横たえた。
金色の瞳は瞼に隠され、両手と両足は折り曲げたまま固まっている。
お腹に開いた穴の周りは蔓の炎が移ったせいで焦げている。
ラーシアがリジーのお腹の穴に、手を突っ込んだ。
「ラーシア?」
驚くヒューとデレクの前で、ラーシアはリジーのお腹の中をしばらく漁り、血まみれの手を引きだした。
その手の中には燃えるような赤い核が握られている。
「魔核か?竜とは魔獣の一種なのか」
ということは、ラーシアは魔獣と交わったのかとヒューは顔をひきつらせた。
竜と人の恋愛話は多いし、この国で語られる大半の竜が人に化ける。
しかし竜が魔獣と考えるとにわかに、その伝承はおとぎ話じみてくる。
魔獣が人に化けるなど聞いたこともない。
魔獣は獣であり、資源だ。
魔獣には魔力のもととなる魔核がある。それは魔力の源でもあり、魔力使い達は様々な用途でその石を使う。灯り石もこの力を利用している。通信具も中に呪文を宿した魔核が埋め込まれている。
となれば、竜は新種の魔獣だろう。人のように高い知能を持つ魔獣は発見されていない。
もし竜を見つけて狩ることが出来るなら、その魔核はとんでもない魔力と知能を秘めているに違いない。
「ずいぶん大きくて、しかも複雑な形だ」
興味津々といった様子でヒューが覗き込む。
竜を子供やペットとしてみるより、魔獣と考える方がヒューには自然だ。
「ヒュー!」
デレクがヒューの体を押しのけ、リジーから遠ざけた。
「その辺の魔獣の戦利品と一緒にするな!ラーシアの娘だぞ。それは大事な形見だ」
デレクの怒りを冷静に受け止め、ヒューは両手をあげて争う気がないと示す。
二人がにらみ合っている後ろで、突然炎があがった。
燃えていたのはリジーの亡骸だった。
「竜の体は核を抜くと燃えやすくなるんだ」
そう説明しながら、ラーシアは外套を脱いで炎の傍に座った。
リジーを焼いている炎で衣服を乾かすのはさすがに違うだろうと、ヒューは焚火を起こした。
その周りでデレクとラーシアの服を乾かし始める。
デレクはラーシアを後ろから抱きしめて座った。
「ラーシア……リジーは良い子だった。本当に素晴らしい子だった」
「そうだな……。デレク、ありがとう。心からうれしいよ。役にもたったしね。今のが最後の呪いで良かった」
意外にも冷静なラーシアの言葉に、やはり竜の子を持ちたくなかったのかもしれないとデレクは考えた。
だとしても、デレクはリジーを心から愛しく思っていた。
「リジーの角や、牙、何か燃え残ったら形見に出来ないだろうか?」
もし、竜のもとに戻らなくても済むならば、自分が父親になりたいとまで考えていた。
「いや、全て燃やす。竜は誇り高い生き物だ。死んだ姿は決して人に晒さない」
ラーシアの言葉にデレクは寂しそうに頷いた。
生きている間は人の姿に化け、死の瞬間は人に見つからないように息絶えるのであれば、竜の姿を見た者がいないことも納得だ。
リジーの体はきれいに燃え、黒く焦げた地面だけが残った。
おもむろに、ラーシアは立ち上がった。
二人の男もそれに続く。
デレクは暗く落ち込んでいる。
ヒューはいつも通り感情を消している。
「さて、私の用事は終わりだ。南の島に帰る」
まるで何事もなかったかのように、ラーシアは明るく微笑んだ。
リジーを失った上に、ラーシアまでいなくなってしまう痛みに、デレクは押しつぶされそうになった。
焼け焦げた黒い地面に背を向け、ラーシアは颯爽と歩きだす。
その後ろを外套を拾い上げ、ヒューが追いかけた。
デレクはまだ熱を持つ焦げた地面に手を触れ、語り掛けた。
「リジー。俺はお前を忘れないからな」
デレクは袖で目元を拭うと、身を翻し、二人を追って走り出す。
静まり返った薄紅色の湖に、再び白い霧が立ち昇る。
小さく焦げた地面はまたたくまにその中に覆い隠された。
「竜の目」を後にした三人は、宿に戻って着替えると、体を休めることなく王都に向かって出発した。
南のギニー国へ行くには王都を抜ける必要がある。
夕刻になるまで、三人は無言で街道を進み続けた。
やがて日が暮れ始め、街道を進む馬の足元が見えなくなってくると、ヒューが二人を振り返った。
「前方に見えるあの町で宿をとろう」
デレクとラーシアは黙って同意した。
そこはユロに近い小さな宿場町だった。
客もまばらで、行商人の馬車が通りを何度か駆け抜けていった。
大抵の客は少し無理をしてでも近くにある大きなユロの町に向かうのだ。
今の三人には賑やかな町より、少し静かな町の方が合っていた。
宿の一階の食堂に席をとると、三人は無言で料理を待った。
暇そうな店の主人は、注文の品をあっという間にテーブルに揃えてしまい、会話もない三人は、酒が進む前に並べられた料理を全てお腹におさめてしまった。
「先に部屋に戻る」
ラーシアは結局グラスの酒を一滴も飲まなかった。
席を立ち、二階にあがっていくラーシアを見送ると、デレクは主人に酒を追加注文した。
瓶で酒が運ばれてくると、一杯飲み終えたヒューのグラスにデレクが無断で酒を注ぎこむ。
片方の眉をぴくりとさせたヒューは、自分のグラスにもなみなみと酒を注ぐデレクを見て、仕方なくそのグラスを空けた。
ヒューがグラスを置くと、またデレクが酒を注ぐ。
リジーを失い、ラーシアも失うデレクが、ただ一緒に酒を飲む友を必要としているわけではないことをヒューはわかっていた。
こんなことに巻き込むなと、顔を赤くしながらも酒に酔えないでいるデレクを鋭く睨みつける。
絶対に何も言ってやらないぞと言わんばかりに口を引き結ぶヒューに向かって、デレクがおもむろに口を開いた。
「わかっている。お前が言いたいことは。お前に言わせるなということだろう?いい加減、俺だってわかっている。覚悟がないだけだ。勇気もない。今こそ彼女に寄りそうべきだ。
子供を亡くした彼女の傍に行くべきだ」
手にしていたグラスをヒューに押し付け、ついにデレクは席を立った。
ヒューは無言で、この後の選択に俺は関与しないぞと警告するようにデレクの視線を跳ね返している。
「ヒュー、いつも感謝している。行ってくる」
無関心を貫こうとしていたヒューは、デレクが背を向ける直前、その手首を掴んだ。
驚いてデレクがヒューを振り返る。
「デレク、命は一つしかない。命をかけた決断はどんなに後悔することになっても、貫くしかない。その道を行くしかない時がある。お前は真っすぐで情に厚いが、その分土壇場で弱くなる。彼女に拒まれても、お前が貫きたいなら命をかけるしかない。
俺はいつだって国の為ならあの竜も、ラーシアも手にかける覚悟だ」
「俺のこともだろう?」
迷いのないヒューの目と笑みを含んだデレクの目がぶつかった。
ヒューがついてきたのはラーシアと竜の監視だけではない。
デレクが情に流され国を売らないかどうか見張るためでもある。
異国からきたラーシアと長年王国の平和を脅かしてきた竜の子を、この国が簡単に受け入れるわけにはいかない。
ヒューは常に国と連絡をとっている。
「国はこのままラーシアを行かせるのだろう?」
ヒューはデレクの手首を放した。
「そうだ。竜は高潔な生き物だ。もう生贄を求めないというならそうなのだろう。だが、ラーシアと竜の間の約束は終わっていない。俺達の国の犠牲になり、彼女が人生を失ったとしても、俺達は責任をとらない。
この国に竜との厄介ごとを抱えた彼女の居場所はない」
断言したヒューに背中を向け、デレクは二階に向かう。
その背中を見送り、ヒューは手元のグラスに目を向けた。
そこには一滴も酒が減っていないラーシアのグラスと、考えなしに酒を注ぎ続けたデレクのグラスがそのまま残っている。
さらにヒューのグラスにもデレクのせいでなみなみと酒が注がれている。
ヒューは暇そうな主人を呼び、つまみになりそうな料理を追加注文した。
二階に上がったデレクは、ラーシアの部屋の扉を叩いた。
返事はなかったが、デレクは声をかけて室内に入った。
こじんまりとした部屋には寝台が一つだけ置かれている。
窓辺に置かれたテーブルに背中を向けてラーシアが座っていた。
振り返ったラーシアの手元には預言の書がある。
ラーシアは立ち上がり、椅子を寝台の向かいに置いた。
手でデレクに椅子を勧め、ラーシアは寝台に座った。
「ラーシア……リジーのこと残念だった……」
椅子に掛け、デレクは正面のラーシアを見つめた。
「デレクには可愛がってもらったな……。驚いたよ」
「当然だ。君の子なら、可愛くないわけがない」
真っすぐなデレクの言葉に、ラーシアは目を伏せた。
「ラーシア、俺はずっと揺れていた。君を困らせるようなことはしてはいけないと思っていた。騎士としての立場も考えた。でも、君が生贄として消えたあと、俺はこれで正しかったのかわからなくなった。もしもう一度君に会えるのなら、俺は自分の心に正直になりたいと思った。
でも、君は……もう俺のものではなかった。夫も可愛い子供もいた。俺が入る隙などないと思った。君を困らせるようなことは出来ない。でも……」
「デレク」
ラーシアが遮った。
「リジーを失った。私はまた竜の子を産む」
それは明らかな拒絶だった。竜とラーシアの間にデレクの入る隙などないのだ。
「昨夜は俺と寝たはずだ」
椅子から離れず、デレクは前のめりになった。
腕の中で乱れるラーシアの姿もその感触も全身が覚えている。
「既に竜の子であるリジーがいたからだ。しかし竜の子は失われた。もう一度産む必要がある。私は竜のものだ」
それはラーシアがヒューに語った内容と異なっていた。
ヒューには呪いが解けたから、竜はもう子供には関心がないと教えた。
しかしデレクにはその話をしていない。
デレクはまだ竜が子供を持つために、ラーシアに執着していると思い込んでいる。
その思い込みを利用し、ラーシアはデレクを引き離しにかかった。
「この国は生贄から解放された。竜はこの国に手を出さないと約束した。竜は高潔な生き物だ。その約束は守られる。だけど、私と竜の間で交わした約束は生きている。
私は竜のもとに帰る。もう一度、竜と交わり子供を産まなければならない」
残酷な言葉をデレクに突き付ける。
「もう帰ってこないのだな?」
痛みに堪えるデレクの顔から目を逸らすことなく、ラーシアは冷徹に言い放った。
「そうだ。もう二度と戻らない」
切り捨てるようなラーシアの強い言葉を、デレクは静かに受け止めた。
二人の姿が間近に迫ってくると、ヒューは歩調を緩めた。
デレクが肩を震わせ泣いている。ラーシアは腕に小さな亡骸を抱き、地面に座ったまま動かない。
「はぁ……」
憂鬱な溜息をつきながらもヒューは進み続け、二人の傍で足を止めた。
俯くラーシアの腕に抱かれる竜の死骸には焦げた穴が空いており、もう手の施しようがない。
「ラーシア、呪いを解いた竜だ。国が丁重に埋葬することもできる。掛け合うか?」
「ヒュー!」
ヒューの問いかけに、デレクが怒りの声をあげ振り返る。
その顔は濡れている。苛立ちを抑え、ヒューは努めて冷静にデレクに告げる。
「とりあえず濡れた上着は脱いだほうがいい。さっさと上がろう。こんなところにいても仕方がない」
湖に落ちた二人の分厚い外套は水を含んでぺちゃんこだった。
悲しむ時間すらラーシアに与えようとしないヒューに、デレクは憤慨し立ち上がったが、ラーシアがそれを止めた。
「いいんだ。大丈夫」
落ち着いた声音で告げると、ラーシアはリジーの体を地面に横たえた。
金色の瞳は瞼に隠され、両手と両足は折り曲げたまま固まっている。
お腹に開いた穴の周りは蔓の炎が移ったせいで焦げている。
ラーシアがリジーのお腹の穴に、手を突っ込んだ。
「ラーシア?」
驚くヒューとデレクの前で、ラーシアはリジーのお腹の中をしばらく漁り、血まみれの手を引きだした。
その手の中には燃えるような赤い核が握られている。
「魔核か?竜とは魔獣の一種なのか」
ということは、ラーシアは魔獣と交わったのかとヒューは顔をひきつらせた。
竜と人の恋愛話は多いし、この国で語られる大半の竜が人に化ける。
しかし竜が魔獣と考えるとにわかに、その伝承はおとぎ話じみてくる。
魔獣が人に化けるなど聞いたこともない。
魔獣は獣であり、資源だ。
魔獣には魔力のもととなる魔核がある。それは魔力の源でもあり、魔力使い達は様々な用途でその石を使う。灯り石もこの力を利用している。通信具も中に呪文を宿した魔核が埋め込まれている。
となれば、竜は新種の魔獣だろう。人のように高い知能を持つ魔獣は発見されていない。
もし竜を見つけて狩ることが出来るなら、その魔核はとんでもない魔力と知能を秘めているに違いない。
「ずいぶん大きくて、しかも複雑な形だ」
興味津々といった様子でヒューが覗き込む。
竜を子供やペットとしてみるより、魔獣と考える方がヒューには自然だ。
「ヒュー!」
デレクがヒューの体を押しのけ、リジーから遠ざけた。
「その辺の魔獣の戦利品と一緒にするな!ラーシアの娘だぞ。それは大事な形見だ」
デレクの怒りを冷静に受け止め、ヒューは両手をあげて争う気がないと示す。
二人がにらみ合っている後ろで、突然炎があがった。
燃えていたのはリジーの亡骸だった。
「竜の体は核を抜くと燃えやすくなるんだ」
そう説明しながら、ラーシアは外套を脱いで炎の傍に座った。
リジーを焼いている炎で衣服を乾かすのはさすがに違うだろうと、ヒューは焚火を起こした。
その周りでデレクとラーシアの服を乾かし始める。
デレクはラーシアを後ろから抱きしめて座った。
「ラーシア……リジーは良い子だった。本当に素晴らしい子だった」
「そうだな……。デレク、ありがとう。心からうれしいよ。役にもたったしね。今のが最後の呪いで良かった」
意外にも冷静なラーシアの言葉に、やはり竜の子を持ちたくなかったのかもしれないとデレクは考えた。
だとしても、デレクはリジーを心から愛しく思っていた。
「リジーの角や、牙、何か燃え残ったら形見に出来ないだろうか?」
もし、竜のもとに戻らなくても済むならば、自分が父親になりたいとまで考えていた。
「いや、全て燃やす。竜は誇り高い生き物だ。死んだ姿は決して人に晒さない」
ラーシアの言葉にデレクは寂しそうに頷いた。
生きている間は人の姿に化け、死の瞬間は人に見つからないように息絶えるのであれば、竜の姿を見た者がいないことも納得だ。
リジーの体はきれいに燃え、黒く焦げた地面だけが残った。
おもむろに、ラーシアは立ち上がった。
二人の男もそれに続く。
デレクは暗く落ち込んでいる。
ヒューはいつも通り感情を消している。
「さて、私の用事は終わりだ。南の島に帰る」
まるで何事もなかったかのように、ラーシアは明るく微笑んだ。
リジーを失った上に、ラーシアまでいなくなってしまう痛みに、デレクは押しつぶされそうになった。
焼け焦げた黒い地面に背を向け、ラーシアは颯爽と歩きだす。
その後ろを外套を拾い上げ、ヒューが追いかけた。
デレクはまだ熱を持つ焦げた地面に手を触れ、語り掛けた。
「リジー。俺はお前を忘れないからな」
デレクは袖で目元を拭うと、身を翻し、二人を追って走り出す。
静まり返った薄紅色の湖に、再び白い霧が立ち昇る。
小さく焦げた地面はまたたくまにその中に覆い隠された。
「竜の目」を後にした三人は、宿に戻って着替えると、体を休めることなく王都に向かって出発した。
南のギニー国へ行くには王都を抜ける必要がある。
夕刻になるまで、三人は無言で街道を進み続けた。
やがて日が暮れ始め、街道を進む馬の足元が見えなくなってくると、ヒューが二人を振り返った。
「前方に見えるあの町で宿をとろう」
デレクとラーシアは黙って同意した。
そこはユロに近い小さな宿場町だった。
客もまばらで、行商人の馬車が通りを何度か駆け抜けていった。
大抵の客は少し無理をしてでも近くにある大きなユロの町に向かうのだ。
今の三人には賑やかな町より、少し静かな町の方が合っていた。
宿の一階の食堂に席をとると、三人は無言で料理を待った。
暇そうな店の主人は、注文の品をあっという間にテーブルに揃えてしまい、会話もない三人は、酒が進む前に並べられた料理を全てお腹におさめてしまった。
「先に部屋に戻る」
ラーシアは結局グラスの酒を一滴も飲まなかった。
席を立ち、二階にあがっていくラーシアを見送ると、デレクは主人に酒を追加注文した。
瓶で酒が運ばれてくると、一杯飲み終えたヒューのグラスにデレクが無断で酒を注ぎこむ。
片方の眉をぴくりとさせたヒューは、自分のグラスにもなみなみと酒を注ぐデレクを見て、仕方なくそのグラスを空けた。
ヒューがグラスを置くと、またデレクが酒を注ぐ。
リジーを失い、ラーシアも失うデレクが、ただ一緒に酒を飲む友を必要としているわけではないことをヒューはわかっていた。
こんなことに巻き込むなと、顔を赤くしながらも酒に酔えないでいるデレクを鋭く睨みつける。
絶対に何も言ってやらないぞと言わんばかりに口を引き結ぶヒューに向かって、デレクがおもむろに口を開いた。
「わかっている。お前が言いたいことは。お前に言わせるなということだろう?いい加減、俺だってわかっている。覚悟がないだけだ。勇気もない。今こそ彼女に寄りそうべきだ。
子供を亡くした彼女の傍に行くべきだ」
手にしていたグラスをヒューに押し付け、ついにデレクは席を立った。
ヒューは無言で、この後の選択に俺は関与しないぞと警告するようにデレクの視線を跳ね返している。
「ヒュー、いつも感謝している。行ってくる」
無関心を貫こうとしていたヒューは、デレクが背を向ける直前、その手首を掴んだ。
驚いてデレクがヒューを振り返る。
「デレク、命は一つしかない。命をかけた決断はどんなに後悔することになっても、貫くしかない。その道を行くしかない時がある。お前は真っすぐで情に厚いが、その分土壇場で弱くなる。彼女に拒まれても、お前が貫きたいなら命をかけるしかない。
俺はいつだって国の為ならあの竜も、ラーシアも手にかける覚悟だ」
「俺のこともだろう?」
迷いのないヒューの目と笑みを含んだデレクの目がぶつかった。
ヒューがついてきたのはラーシアと竜の監視だけではない。
デレクが情に流され国を売らないかどうか見張るためでもある。
異国からきたラーシアと長年王国の平和を脅かしてきた竜の子を、この国が簡単に受け入れるわけにはいかない。
ヒューは常に国と連絡をとっている。
「国はこのままラーシアを行かせるのだろう?」
ヒューはデレクの手首を放した。
「そうだ。竜は高潔な生き物だ。もう生贄を求めないというならそうなのだろう。だが、ラーシアと竜の間の約束は終わっていない。俺達の国の犠牲になり、彼女が人生を失ったとしても、俺達は責任をとらない。
この国に竜との厄介ごとを抱えた彼女の居場所はない」
断言したヒューに背中を向け、デレクは二階に向かう。
その背中を見送り、ヒューは手元のグラスに目を向けた。
そこには一滴も酒が減っていないラーシアのグラスと、考えなしに酒を注ぎ続けたデレクのグラスがそのまま残っている。
さらにヒューのグラスにもデレクのせいでなみなみと酒が注がれている。
ヒューは暇そうな主人を呼び、つまみになりそうな料理を追加注文した。
二階に上がったデレクは、ラーシアの部屋の扉を叩いた。
返事はなかったが、デレクは声をかけて室内に入った。
こじんまりとした部屋には寝台が一つだけ置かれている。
窓辺に置かれたテーブルに背中を向けてラーシアが座っていた。
振り返ったラーシアの手元には預言の書がある。
ラーシアは立ち上がり、椅子を寝台の向かいに置いた。
手でデレクに椅子を勧め、ラーシアは寝台に座った。
「ラーシア……リジーのこと残念だった……」
椅子に掛け、デレクは正面のラーシアを見つめた。
「デレクには可愛がってもらったな……。驚いたよ」
「当然だ。君の子なら、可愛くないわけがない」
真っすぐなデレクの言葉に、ラーシアは目を伏せた。
「ラーシア、俺はずっと揺れていた。君を困らせるようなことはしてはいけないと思っていた。騎士としての立場も考えた。でも、君が生贄として消えたあと、俺はこれで正しかったのかわからなくなった。もしもう一度君に会えるのなら、俺は自分の心に正直になりたいと思った。
でも、君は……もう俺のものではなかった。夫も可愛い子供もいた。俺が入る隙などないと思った。君を困らせるようなことは出来ない。でも……」
「デレク」
ラーシアが遮った。
「リジーを失った。私はまた竜の子を産む」
それは明らかな拒絶だった。竜とラーシアの間にデレクの入る隙などないのだ。
「昨夜は俺と寝たはずだ」
椅子から離れず、デレクは前のめりになった。
腕の中で乱れるラーシアの姿もその感触も全身が覚えている。
「既に竜の子であるリジーがいたからだ。しかし竜の子は失われた。もう一度産む必要がある。私は竜のものだ」
それはラーシアがヒューに語った内容と異なっていた。
ヒューには呪いが解けたから、竜はもう子供には関心がないと教えた。
しかしデレクにはその話をしていない。
デレクはまだ竜が子供を持つために、ラーシアに執着していると思い込んでいる。
その思い込みを利用し、ラーシアはデレクを引き離しにかかった。
「この国は生贄から解放された。竜はこの国に手を出さないと約束した。竜は高潔な生き物だ。その約束は守られる。だけど、私と竜の間で交わした約束は生きている。
私は竜のもとに帰る。もう一度、竜と交わり子供を産まなければならない」
残酷な言葉をデレクに突き付ける。
「もう帰ってこないのだな?」
痛みに堪えるデレクの顔から目を逸らすことなく、ラーシアは冷徹に言い放った。
「そうだ。もう二度と戻らない」
切り捨てるようなラーシアの強い言葉を、デレクは静かに受け止めた。
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