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第二章 竜の国の騎士
47.帰ってきた少女
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喉が枯れるまで悲鳴を上げ続けたヒューは、途中から死んだように静かになった。
どこかの岩山に叩きつけられたとしても、もう防ぎようもない。
突然腰がぐんと横にひっぱられ、さらに反対側にふりこのように揺れた。
リジーが空中で動きを止め、今度は急降下し始める。
「うっぷ……」
吐き気を堪え、最後は何が何だかわからないうちに固い地面にお尻がついた。
地面だと気づいた途端、ヒューは腰のロープを急いで解いた。
リジーがまた飛び始めたらどこに連れて行かれるかわからない。
それが終わると、ヒューは隣に落ちたデレクの肩を揺り動かした。
腰のランタンを取り外してかざしてみると、地面に横たわるデレクはすっかり白目をむいている。
「これぐらいで気を失うとは案外情けない」
ラーシアも腰ひもを急いで解いている。
その向こうで何かが燃えている。
「リジー!」
ラーシアの声に従い、リジーが飛んでいく。
何が起きているのかわからないまま、ヒューは飛び起き腰の剣を確かめる。
ラーシアの視線の先に赤く燃える岩が見える。
なんとも気持ちの悪い禍々しさを感じ、ヒューの背中にぞっとしたものが走る。
「ラーシア!説明しろ!」
ヒューが剣を引き抜いた瞬間、その岩が突然真っ二つに割れた。
中から飛び出してきたのは巨大な生き物で、伸びあがった頭には三つの目があり、岩のような体からは巨大な棘が生えている。
口は縦長で喉まで裂けていた。
「うわぁぁぁっ!」
初めてみる魔物の姿に、ヒューは叫びながらも両手でしっかり剣を握り、一歩も下がることなく耐えた。
「焼け!」
ラーシアの命令が飛ぶと同時にリジーが口を開け、強い光を放つ炎を魔物に向けて吐き出した。
瞬く間にその恐ろしい形状の魔物が灼熱の炎に包まれる。
耳をつんざくような断末魔が夜闇を切り裂き、震わせた。
それは脳を揺り動かすような我慢ならない声だった。
たまらず、ヒューは耳を押さえてうずくまる。
失神中のデレクが飛び起きた。
「ラーシア!」
気を失っていた割には、守りたい女のことはよく見えている。
デレクはラーシアに飛びつき、その体を強引に抱きしめた。
それから、何かが燃えていると気づいた途端、今度はラーシアを庇うように後ろに放りだした。
その手には既に剣が握られ、油断なく身構える。
とんでもない音が響き渡っているが、何かが襲ってくる様子はない。
デレクの目には、それは岩から生えた木が燃えているように見えた。
その中心からあがる金切り声は、あっという間に静かになった。
リジーは炎を吐き終え、ラーシアの傍に戻っていた。
「なんだ?何が起きた!」
デレクが叫ぶ。その後ろで身構えていたヒューは、デレクを憎たらし気に睨んだ。
「あれを見なかったのか。全く嫌なやつだな」
明るい笑い声が響いた。
デレクに後ろに押しやられ、弾みで尻もちをついていたラーシアが笑っている。
「確かに、衝撃的な生き物だったな。あれは。ハハハっ!見られなかったとは残念だ」
「俺は早く忘れたいよ」
ヒューが地面に座り込んでいるラーシアに手を差し出す。
その手をとって、ラーシアが立ち上がる。
二人が同時に尻を叩いて泥を落とすのを、デレクは納得いかないような顔で見る。
リジーが飛んできて、なんとなく手を差し出したデレクの腕の中におさまった。
鼻を押し付け、丸くなるリジーをデレクは優しく抱いて、その背を撫でてやる。
ヒューはデレクの鼻に指を突き付けた。
「言っておくが、その一歳の娘とやらは、大人の背丈の二倍はある巨大な化け物を、たった今、一瞬で燃やし尽くしたんだからな。そんな、可愛いものじゃないぞ!」
デレクはきょとんとしたが、ヒューからしたら恐怖しかない。
愛らしい猫のような竜が、騎士でも怯むような相手を一瞬で倒してしまったのだ。
そんなものを腕に抱いてかわいがるなど正気の沙汰じゃない。
「くくくくっ……」
ラーシアは笑いを堪え、腕で口を押えた。
しかし、抑えきれず、ついに腕を下ろした。
「ヒューの言葉はいつも正しい。ハハハっ」
デレクはさっぱりわからないといった顔をして、もう一度燃えている岩に目を向ける。
それはもう地面と同じ高さまで溶け、どろどろの溶岩にしか見えなかった。
ラーシアはデレクの横に立った。
「これも預言者の書いていた通りだ。呪いが呪いを呼ぶ」
ヒューは疑わしそうにラーシアを睨んだ。
預言者の残していった予言書は、南の島の言葉で書かれておりラーシアにしか読めない。
読める部分は最初のページに書かれた、呪いを解きに戻った者に渡して欲しいという、この国の人間に宛てた文章だけだった。
「さて戻るか」
ラーシアの言葉に二人の男は縮み上がった。
「ここがどこだろうと、俺はもう今夜はここで寝るぞ」
視界もきかない闇の中、足もつかない空中を投げ飛ばされるのはご免だった。
ヒューの文句に珍しくデレクが同意した。
「ラーシア、今夜の移動はもう無理だ」
「濡れたズボンを洗う必要もあるしな」
すまして言ったラーシアの言葉に、ヒューが爆笑し、デレクはラーシアにこれまた珍しく怒った。
「そういうことこそ口に出して言わなくていいだろう!」
普段は思念を読めても、読めない振りを貫いているラーシアの余計な一言だった。
デレクは失神ついでに失禁していたのだ。
リジーがデレクを慰めるように鼻でデレクの腕を撫でた。
「リジー!水場があるかな?」
デレクに問いかけられ、ぱっちりと金色の目を開け、リジーは闇の中を飛び出した。
リジーは水場を探すのも得意なのだ。
「よく働く一歳児だな」
ヒューの嫌味は日常だった。三人はランタンを掲げ、リジーの飛んで行った方向へ歩き始めた。
――
バレア国の南にあるギニー国は国土の大半が海に突き出た半島になっている。
その最南端にあるシタ村は小さな漁村で、時折南の海から船が流れ着く。
南の海を渡ってきた大抵の者達が魔法使いだと名乗り、ギニー国を通過してバレア国に向かう。
漁業が主な産業であるギニー国ではたいした商売が出来ないからだ。
バレア国は豊かで仕事もあり、おとぎ話のような竜にまつわる観光地がたくさんある。
不思議な力を持つ者達は、国の神秘性を高めるため、バレア国も入国に寛大だ。
それ故、ギニー国の首都と内陸のバレア国を繋ぐ街道はこの国でもっとも賑わっている場所だといえる。
漁村に住んでいた若い者達もどんどん都会に流れ、漁村には年寄りばかりが残っている。
そんな漁村のシタ村に五年前、珍しく働き盛りの男が一人やってきた。
一人暮らしの年配の女の家に住みつき、地道な漁生活を送り始めたのだ。
その日も男は温かな日差しの下、浜辺で網を編んでいた。
と、波の音に混じって女の声が聞こえてきた。
男がはっとして振り返ると、年配の女が慌てたように駆けてくる。
「大変よ!大変なのよ!」
網を砂の上に置いて、男が立ち上がる。
大変だと叫んで走ってきたわりに、女は口をぱくぱくさせてなかなか、続きを話そうとしない。
ただ、無言で後ろを指さしている。
その指の差す方へ視線を向けた男は、目を見開いて口をぽかんと開けた。
浜辺を一人の少女が歩いてくる。
海風に髪をなびかせ、幼さの残るその顔に不安そうな表情を浮かべている。
夢だろうかと、目を擦ろうとした男はそれをやめた。
目を擦っている間に消えてしまったら取り返しがつかない。
現実であるわけがない。なぜならば、少女は十五年前に別れた時と全く同じ容姿をしていたのだ。
夢であるならば一秒でも長くその姿を目に焼き付けたいと男は思った。
しかし少女の姿は消えることなく迫ってくる。
「まさか……」
一歩踏み出した男の心に、当時の愛が溢れるように蘇る。
彼女は当時のままそこにいる。
しかし、男の上には十五年の月日が流れている。
十五年前と変わらぬ姿をしている彼女の目に、老いた恋人の姿はどう映るだろうか。
少女の後ろには彼女を送ってきたと思われるバレア国の懐かしい騎士の隊服が見える。
生贄が戻った話は、まだギニー国の最南端にあるシタ村まで届いていなかった。
男はどうしていいのかわからないまま、ゆっくり少女に向かって歩き出す。
少女の母親は自分の目が信じられず、顔を覆って泣いている。
希望を打ち砕かれるのが恐ろしくて直視できないのだ。
「ラルフ?」
か細い、怯えたような少女の声が確かにラルフの耳に届いた。
どれだけ守りたかっただろう。
そんな声を聞いて、守りたくない男がいるだろうか。
ラルフは走り出した。
二十も年上で、日に焼け、皺も増えた。
手も体も傷だらけで、昔のような若くきれいな青年ではない。
時を止めたような少女はまるで子供のように幼く見える。
「シーア!」
自制しようとしても無理だった。
男の足は次第に速まり、少女の姿が間近になる。
怯えた様子で少女は足を止めて立ち尽くす。
その体をラルフは震える両手を広げ、そっと抱きしめた。
「シーア、シーアなのか?本当に?本当に?どうして、どうしてこんな……。ああ……すまない。すまなかった……守れなくて……」
細くしなやかな少女の感触が腕におさまった瞬間、ラルフの頭にラーシアの言葉が浮かんだ。
ラルフがラーシアに惹かれ始めた時、ラーシアはただ、「シーアを愛し抜け」と言ってラルフの心を跳ねのけた。
ラーシアもまた、預言者と同じ力を持っていた。ラーシアにはこの未来が見えていたのだ。
「シーア……」
だとしたら、この後の未来も、幸せなものに違いない。
「ラルフ……私……」
シーアの声は不安そうに震えている。
ラルフにとって、恋人が生贄になった日は十五年も昔のことだったが、シーアにとってはそうではない。
アンリに犯され、ラルフにばらされたくなければ生贄になれと脅されたのはつい最近のことだ。
心も体も大きく傷ついている。
ラルフは安心させるように優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。もう何も心配はいらない。俺にとっては十年以上も前の出来事だ。アンリからとっくに聞いている。しかも仕返しもした。君は気に入らないかもしれないが、もう何も心配いらない。俺が何年君を探したか聞いているか?十年以上だ。それからここに来て、君の母親の世話になっていた」
シーアは少しの間をおいて、小さな声で確認した。
「……知ったうえで探してくれていたの?」
「当然だ。守れなくてすまなかった。一人で苦しませて怖い思いをさせた。シーア、少し歳をとったが、今度こそ、俺は君のそばにいたい。俺に君を守らせてくれないだろうか。愛している」
多少混乱してはいたが、シーアが何よりも願ったものはそこにあった。
小さく頷いたシーアの体を、ラルフは改めて強く優しく抱きしめた。
年配の女が泣きながら二人に近づいてきた。この少女の母親だった。
十五年も昔に失われた娘が帰ってくるなど思いもしなかった母親は、永遠にかなわないと思っていた夢を口にした。
「私が世話をしていたなんて嘘だよ。ラルフは、私の生活を助けてくれていたんだ。シーア、シーア、花嫁は遅れるものだというけれど、花婿を待たせすぎだよ!」
娘の花嫁姿を今度こそ見ることが出来る。
「母さん!」
ラルフが腕を緩め、シーアは駆け出し、昔より老いた母親に抱き着いた。
その後ろから、ラルフが二人を抱きしめた。
三人は体を寄せ合い、砂の上に座り込んで泣き続けた。
どこかの岩山に叩きつけられたとしても、もう防ぎようもない。
突然腰がぐんと横にひっぱられ、さらに反対側にふりこのように揺れた。
リジーが空中で動きを止め、今度は急降下し始める。
「うっぷ……」
吐き気を堪え、最後は何が何だかわからないうちに固い地面にお尻がついた。
地面だと気づいた途端、ヒューは腰のロープを急いで解いた。
リジーがまた飛び始めたらどこに連れて行かれるかわからない。
それが終わると、ヒューは隣に落ちたデレクの肩を揺り動かした。
腰のランタンを取り外してかざしてみると、地面に横たわるデレクはすっかり白目をむいている。
「これぐらいで気を失うとは案外情けない」
ラーシアも腰ひもを急いで解いている。
その向こうで何かが燃えている。
「リジー!」
ラーシアの声に従い、リジーが飛んでいく。
何が起きているのかわからないまま、ヒューは飛び起き腰の剣を確かめる。
ラーシアの視線の先に赤く燃える岩が見える。
なんとも気持ちの悪い禍々しさを感じ、ヒューの背中にぞっとしたものが走る。
「ラーシア!説明しろ!」
ヒューが剣を引き抜いた瞬間、その岩が突然真っ二つに割れた。
中から飛び出してきたのは巨大な生き物で、伸びあがった頭には三つの目があり、岩のような体からは巨大な棘が生えている。
口は縦長で喉まで裂けていた。
「うわぁぁぁっ!」
初めてみる魔物の姿に、ヒューは叫びながらも両手でしっかり剣を握り、一歩も下がることなく耐えた。
「焼け!」
ラーシアの命令が飛ぶと同時にリジーが口を開け、強い光を放つ炎を魔物に向けて吐き出した。
瞬く間にその恐ろしい形状の魔物が灼熱の炎に包まれる。
耳をつんざくような断末魔が夜闇を切り裂き、震わせた。
それは脳を揺り動かすような我慢ならない声だった。
たまらず、ヒューは耳を押さえてうずくまる。
失神中のデレクが飛び起きた。
「ラーシア!」
気を失っていた割には、守りたい女のことはよく見えている。
デレクはラーシアに飛びつき、その体を強引に抱きしめた。
それから、何かが燃えていると気づいた途端、今度はラーシアを庇うように後ろに放りだした。
その手には既に剣が握られ、油断なく身構える。
とんでもない音が響き渡っているが、何かが襲ってくる様子はない。
デレクの目には、それは岩から生えた木が燃えているように見えた。
その中心からあがる金切り声は、あっという間に静かになった。
リジーは炎を吐き終え、ラーシアの傍に戻っていた。
「なんだ?何が起きた!」
デレクが叫ぶ。その後ろで身構えていたヒューは、デレクを憎たらし気に睨んだ。
「あれを見なかったのか。全く嫌なやつだな」
明るい笑い声が響いた。
デレクに後ろに押しやられ、弾みで尻もちをついていたラーシアが笑っている。
「確かに、衝撃的な生き物だったな。あれは。ハハハっ!見られなかったとは残念だ」
「俺は早く忘れたいよ」
ヒューが地面に座り込んでいるラーシアに手を差し出す。
その手をとって、ラーシアが立ち上がる。
二人が同時に尻を叩いて泥を落とすのを、デレクは納得いかないような顔で見る。
リジーが飛んできて、なんとなく手を差し出したデレクの腕の中におさまった。
鼻を押し付け、丸くなるリジーをデレクは優しく抱いて、その背を撫でてやる。
ヒューはデレクの鼻に指を突き付けた。
「言っておくが、その一歳の娘とやらは、大人の背丈の二倍はある巨大な化け物を、たった今、一瞬で燃やし尽くしたんだからな。そんな、可愛いものじゃないぞ!」
デレクはきょとんとしたが、ヒューからしたら恐怖しかない。
愛らしい猫のような竜が、騎士でも怯むような相手を一瞬で倒してしまったのだ。
そんなものを腕に抱いてかわいがるなど正気の沙汰じゃない。
「くくくくっ……」
ラーシアは笑いを堪え、腕で口を押えた。
しかし、抑えきれず、ついに腕を下ろした。
「ヒューの言葉はいつも正しい。ハハハっ」
デレクはさっぱりわからないといった顔をして、もう一度燃えている岩に目を向ける。
それはもう地面と同じ高さまで溶け、どろどろの溶岩にしか見えなかった。
ラーシアはデレクの横に立った。
「これも預言者の書いていた通りだ。呪いが呪いを呼ぶ」
ヒューは疑わしそうにラーシアを睨んだ。
預言者の残していった予言書は、南の島の言葉で書かれておりラーシアにしか読めない。
読める部分は最初のページに書かれた、呪いを解きに戻った者に渡して欲しいという、この国の人間に宛てた文章だけだった。
「さて戻るか」
ラーシアの言葉に二人の男は縮み上がった。
「ここがどこだろうと、俺はもう今夜はここで寝るぞ」
視界もきかない闇の中、足もつかない空中を投げ飛ばされるのはご免だった。
ヒューの文句に珍しくデレクが同意した。
「ラーシア、今夜の移動はもう無理だ」
「濡れたズボンを洗う必要もあるしな」
すまして言ったラーシアの言葉に、ヒューが爆笑し、デレクはラーシアにこれまた珍しく怒った。
「そういうことこそ口に出して言わなくていいだろう!」
普段は思念を読めても、読めない振りを貫いているラーシアの余計な一言だった。
デレクは失神ついでに失禁していたのだ。
リジーがデレクを慰めるように鼻でデレクの腕を撫でた。
「リジー!水場があるかな?」
デレクに問いかけられ、ぱっちりと金色の目を開け、リジーは闇の中を飛び出した。
リジーは水場を探すのも得意なのだ。
「よく働く一歳児だな」
ヒューの嫌味は日常だった。三人はランタンを掲げ、リジーの飛んで行った方向へ歩き始めた。
――
バレア国の南にあるギニー国は国土の大半が海に突き出た半島になっている。
その最南端にあるシタ村は小さな漁村で、時折南の海から船が流れ着く。
南の海を渡ってきた大抵の者達が魔法使いだと名乗り、ギニー国を通過してバレア国に向かう。
漁業が主な産業であるギニー国ではたいした商売が出来ないからだ。
バレア国は豊かで仕事もあり、おとぎ話のような竜にまつわる観光地がたくさんある。
不思議な力を持つ者達は、国の神秘性を高めるため、バレア国も入国に寛大だ。
それ故、ギニー国の首都と内陸のバレア国を繋ぐ街道はこの国でもっとも賑わっている場所だといえる。
漁村に住んでいた若い者達もどんどん都会に流れ、漁村には年寄りばかりが残っている。
そんな漁村のシタ村に五年前、珍しく働き盛りの男が一人やってきた。
一人暮らしの年配の女の家に住みつき、地道な漁生活を送り始めたのだ。
その日も男は温かな日差しの下、浜辺で網を編んでいた。
と、波の音に混じって女の声が聞こえてきた。
男がはっとして振り返ると、年配の女が慌てたように駆けてくる。
「大変よ!大変なのよ!」
網を砂の上に置いて、男が立ち上がる。
大変だと叫んで走ってきたわりに、女は口をぱくぱくさせてなかなか、続きを話そうとしない。
ただ、無言で後ろを指さしている。
その指の差す方へ視線を向けた男は、目を見開いて口をぽかんと開けた。
浜辺を一人の少女が歩いてくる。
海風に髪をなびかせ、幼さの残るその顔に不安そうな表情を浮かべている。
夢だろうかと、目を擦ろうとした男はそれをやめた。
目を擦っている間に消えてしまったら取り返しがつかない。
現実であるわけがない。なぜならば、少女は十五年前に別れた時と全く同じ容姿をしていたのだ。
夢であるならば一秒でも長くその姿を目に焼き付けたいと男は思った。
しかし少女の姿は消えることなく迫ってくる。
「まさか……」
一歩踏み出した男の心に、当時の愛が溢れるように蘇る。
彼女は当時のままそこにいる。
しかし、男の上には十五年の月日が流れている。
十五年前と変わらぬ姿をしている彼女の目に、老いた恋人の姿はどう映るだろうか。
少女の後ろには彼女を送ってきたと思われるバレア国の懐かしい騎士の隊服が見える。
生贄が戻った話は、まだギニー国の最南端にあるシタ村まで届いていなかった。
男はどうしていいのかわからないまま、ゆっくり少女に向かって歩き出す。
少女の母親は自分の目が信じられず、顔を覆って泣いている。
希望を打ち砕かれるのが恐ろしくて直視できないのだ。
「ラルフ?」
か細い、怯えたような少女の声が確かにラルフの耳に届いた。
どれだけ守りたかっただろう。
そんな声を聞いて、守りたくない男がいるだろうか。
ラルフは走り出した。
二十も年上で、日に焼け、皺も増えた。
手も体も傷だらけで、昔のような若くきれいな青年ではない。
時を止めたような少女はまるで子供のように幼く見える。
「シーア!」
自制しようとしても無理だった。
男の足は次第に速まり、少女の姿が間近になる。
怯えた様子で少女は足を止めて立ち尽くす。
その体をラルフは震える両手を広げ、そっと抱きしめた。
「シーア、シーアなのか?本当に?本当に?どうして、どうしてこんな……。ああ……すまない。すまなかった……守れなくて……」
細くしなやかな少女の感触が腕におさまった瞬間、ラルフの頭にラーシアの言葉が浮かんだ。
ラルフがラーシアに惹かれ始めた時、ラーシアはただ、「シーアを愛し抜け」と言ってラルフの心を跳ねのけた。
ラーシアもまた、預言者と同じ力を持っていた。ラーシアにはこの未来が見えていたのだ。
「シーア……」
だとしたら、この後の未来も、幸せなものに違いない。
「ラルフ……私……」
シーアの声は不安そうに震えている。
ラルフにとって、恋人が生贄になった日は十五年も昔のことだったが、シーアにとってはそうではない。
アンリに犯され、ラルフにばらされたくなければ生贄になれと脅されたのはつい最近のことだ。
心も体も大きく傷ついている。
ラルフは安心させるように優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。もう何も心配はいらない。俺にとっては十年以上も前の出来事だ。アンリからとっくに聞いている。しかも仕返しもした。君は気に入らないかもしれないが、もう何も心配いらない。俺が何年君を探したか聞いているか?十年以上だ。それからここに来て、君の母親の世話になっていた」
シーアは少しの間をおいて、小さな声で確認した。
「……知ったうえで探してくれていたの?」
「当然だ。守れなくてすまなかった。一人で苦しませて怖い思いをさせた。シーア、少し歳をとったが、今度こそ、俺は君のそばにいたい。俺に君を守らせてくれないだろうか。愛している」
多少混乱してはいたが、シーアが何よりも願ったものはそこにあった。
小さく頷いたシーアの体を、ラルフは改めて強く優しく抱きしめた。
年配の女が泣きながら二人に近づいてきた。この少女の母親だった。
十五年も昔に失われた娘が帰ってくるなど思いもしなかった母親は、永遠にかなわないと思っていた夢を口にした。
「私が世話をしていたなんて嘘だよ。ラルフは、私の生活を助けてくれていたんだ。シーア、シーア、花嫁は遅れるものだというけれど、花婿を待たせすぎだよ!」
娘の花嫁姿を今度こそ見ることが出来る。
「母さん!」
ラルフが腕を緩め、シーアは駆け出し、昔より老いた母親に抱き着いた。
その後ろから、ラルフが二人を抱きしめた。
三人は体を寄せ合い、砂の上に座り込んで泣き続けた。
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