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第二章 竜の国の騎士
42.生贄の少女たち
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真夜中になって、デレクとヒューはようやく第二の小屋に到着した。
ヒューは寝ずに山頂を目指そうとするデレクを羽交い絞めにして説得した。
「いいか?俺を殺したくなければここで寝ていけ!それから、俺を置いて先に登ったりしたら今度は俺がお前を殺すぞ!」
ランタンの明かりだけではさすがに山頂は危険だ。
デレクを引きずり小屋に入ると、ヒューは大喜びでそこに寝そべった。
「ああ……もう平らな床さえあれば何もいらないな」
そんなヒューを見ると、デレクも肩を落とし登頂を諦めた。
二階から毛布を運んでくると、ヒューはすでにいびきをかいて床の上で眠っていた。
その上に毛布をかけてやると、デレクも両手を枕にし、隣に横たわる。
全く眠れる気がしなかったのに、デレクはあっさり眠りについた。
二日の行程を一日でかけあがってきた二人の体力は限界だったのだ。
第四騎士団のもう新人でもなくなった二人の騎士は仲良く並んで眠り続けた。
翌朝、二人は、扉を叩く音で飛び起きた。
デレクが第七騎士団が追いついてきたのだと思い、急いで扉を開けた。
その瞬間、デレクの口がぽかんと開いて、動きが止まった。
石のように立ち尽くすデレクの後ろから、ヒューが起きてきて、何気なく戸口を覗き込む。
「え?!」
ヒューも驚きのあまり硬直した。
そこに立っていたのは屈強な騎士ではなく、吹けば飛びそうなか弱い少女の姿だった。
強い風に髪をなびかせ、不安そうな表情で二人を見上げている。
「あ、あの……」
か細い少女の声が冷たい風に乗って小屋に流れ込む。
「下に小屋があるから、ここで待っていろと……」
「だ、誰に言われて?!」
驚き過ぎて言葉を失っていたデレクが突然我に返った。
ヒューがデレクを後ろに引っ張り、扉の前を空ける。
「とにかく入れ。そんな恰好でこの山にいるのは危険だ」
入ってきた少女は一人ではなかった。扉の前に現れた少女の後ろから、隠れて様子を見ていたらしい少女たちが、後からあとから、小屋に入ってくる。
皆、一応服は着ているが、それは生贄用の薄手の白いドレスだった。
靴と外套は皆おそろいで、靴は膝までのブーツで、外套は灰色で薄手の物に見えた。
少女たちは室内に入ると、怯えたように肩を寄せ合い、二人の男をじっと見つめている。
「あ、あの……騎士の方が助けて下さると聞いて……」
先ほどの少女が思い切った様子で一歩、前に出た。
ヒューが問いかけた。
「お前、名前は?」
「シーアです。あっ……いいえ。あのイシャリです……」
イシャリの身代わりで生贄になったシーアのことを突然思い出す。
まさかとヒューが驚く。
隣にいたデレクが突然走り出した。
「デレク!待て!」
追いかけようとして、ヒューは小屋の中で震える少女たちを振り返った。
数えてみれば十三人いる。
それはこれまで生贄に捧げられた少女たちの数に一人、足りない数だった。
山頂の岩の傍らにしゃがみ込んでいたのは、ピンクの外套を着こんだ女で、岩の側面を指で擦り、額を押し当てていた。
「信じられないな。百歳を超えた体でこの山頂まで登ってきたのか。全く余計なことをする」
文句の尽きない女の背後で、突然巨大な炎の柱が噴き出した。
風圧と熱でそれに気づき、女は急いで振り返る。
「やめろ!」
即座に炎は消えた。
近づいてきた不審者に向けて炎を吐いた小さな竜は、女の命令に従い口を閉じると、ぱたぱたと小さな羽をはばたかせ、女の頭を飛び越え、椅子の形をした岩の上に舞い降りた。
女は竜が大人しくなったのを確認し、炎に襲われた何者かに目を向けた。
「大丈夫か?火傷は?」
一歩踏み込んだ足が止まる。
そこには尻もちをついて、呆然と顔をあげる男の姿があった。
それは二の小屋から飛ぶように山を登ってきたデレクだった。
山頂に駆け付けてきたデレクは、岩の椅子の手前で背中を見せて屈んでいる人影を発見した。
一目散にそこを目指して走ってきたデレクだったが、目前で炎の壁が現れたのだ。
反射的に後ろに飛んだのはまさに、騎士の訓練の賜物だった。
炎に焼かれずにはすんだが、そこは足場の狭い山頂で、かろうじて後ろ手に地面を掴んでいた。
慎重に体を起こさなければ、火口の方か、あるいは切り立った岩だらけの斜面の方へ転がり落ちてしまう。
欲しい体がそこにあるのに、すぐには手を伸ばせない。
それでも声は出る。
「ら、ラーシアか?」
呼びかけ、デレクは自分の声に驚いた。
掠れて、震えすぎている。
ラーシアは自分だと気づかないかもしれない。
いや、夢かもしれない。
デレクはどんどん沸き上がる涙で視界を白く染めながら、ラーシアの姿を確認しようと必死に目を凝らした。
穏やかな表情、長い茜色の髪、生き生きとした瞳、ほっそりとした手足、懐かしいラーシアだ。
夢の中で何度も抱いたラーシアの姿がそこにある。
それなのに、それは幻覚だと脳のどこかが告げている。
五年も経ったのに、ラーシアの姿は別れた時のままだった。
「大丈夫か?」
ラーシアが手を差し出しながら一歩前に出た瞬間、デレクは地面から片手を離そうとして、バランスを崩した。
重たい体がぐらりと揺れ、鋭い岩だらけの斜面を転がり落ちる。
体を丸め、なんとか衝撃に耐えようとしたデレクは、未知の感覚に包まれ、さらに驚いた。
体が浮いている。
頭上から風を感じ、デレクは上を向こうとした。
小さな竜のお腹が見える。
鱗に覆われた小さな足がデレクの腰のベルトを掴んでいる。
ぱたぱたと飛び、デレクの体を石の椅子に乗せる。
竜はデレクから離れ、ラーシアの後ろにまた隠れた。
「大丈夫か?」
ラーシアが冷静に問いかける。
「あ、ああ……ラーシア?」
「ああ」
椅子に近づいてきたラーシアの体をデレクが必死に引き寄せた。
腕に掴んだのは夢にまで見たラーシアの生身の体だった。
柔らかく、華奢でしっかりとした実体がある。
頬に触れ、ラーシアの目を覗き込む。
「本当に?全く……年をとっていない……」
「まぁ……そうだね。竜のところでは時が流れない」
懐かしいラーシアの声に、デレクは泣いた。
腕に抱き、その頬に頬を擦り付け、デレクはもう一度確かめた。
「じゃあ、本当にラーシアなのか?本当に?戻ってきたのか?」
「これでもかなり急いだ。お前が変な約束をさせるからだ」
「俺のために戻ったのか?」
ラーシアは複雑な顔をした。違うのかと少し落胆しながらも、デレクはラーシアを強く抱きしめた。
「ラーシア……良いんだ。君が、君が無事なのか、幸せなのか、ずっと知りたかった」
抱きしめたラーシアの向こうに竜の姿が見える。
緑の鱗で覆われ、頭には白く光る角がある。
ずいぶん大きな口で、牙がのぞき、翼は背中で折りたたまれている。
何を考えているのかさっぱりわからない、冷たい金色の瞳がじっとこちらを見つめている。
「ラーシア……あの竜は?あの竜はもしかして……」
ラーシアはデレクの腕から抜け出て、後ろの竜を腕に抱き上げた。
「この子は、私の子供だ」
衝撃的な言葉だったが、デレクはやはりそうなのか、と頷いた。
「そうか……。君はその……竜の妻になったのか?」
ラーシアはまた難しい顔をした。
「そうだな。とりあえず、ここは危険だから下りよう。あと、そこにある女性物のいろんな服は君からの贈り物だろう?せっかくだし袋に入れて持って帰ろう」
デレクは自分が贈り物を置いた岩の上にいることに気づき、はっとしてお尻をどかした。
運んできたばかりの砂糖菓子やお菓子の類は粉々に砕け、ふわふわの帽子やスカーフもぺちゃんこだった。
まさかと思い、デレクは急いで椅子から下りると、ピンク真珠の髪飾りまで砕けていた。
「ああっ!これは良い品だったのに」
さらに、腐ることのない香水瓶が割れているのを見ると、デレクは無事であったドレスや下着を急いでかき集めた。
ラーシアが腰をかがめ、落ちていたスリッパを拾い上げた。
白い毛で出来たぼんぼんが付いている布製で、色はピンクだった。
「まぁ外套は助かったよ。自分の分の上着を忘れていてね。ちょうどここに着替えがあったから、使わせてもらった」
ラーシアが歩き出すと、竜がその後ろを追いかけて飛びあがる。
その後ろを、デレクが慎重に進む。
急な斜面を四つん這いになって下り始めると、竜は岩から岩に飛び移りながらついてくる。
「その、あの竜の名前は?君の子供なのだろう?」
デレクがためらいがちに問いかける。
「……リジーだ」
「女の子か?」
少し間があった。
「そうだな。女の子かな」
デレクはラーシアの反応に首を傾けながら、竜に性別はないのだろうかと考えた。
「そうだ。他の子たちは無事に下についたかな?とりあえず先に行かせたんだけど」
「ああ、ヒューのところにいるはずだ」
「ならば安心だな」
さらさらと滑り落ちる砂利に足をとられ、なかなか前に進めないラーシアを見て、デレクは竜を追い越しラーシアの体を抱き上げた。
「俺が先に行く」
「頼むよ。足場の悪いところは久しぶりなんだ」
「リジーに運んでもらうことは出来ないのか?さっき俺を助けてくれただろう?」
尖った岩だらけの斜面を血だらけになって転がり落ちるところだった。
思い出して、デレクはリジーに視線を向けた。
「リジー、さっきは、ありがとう」
その様子にラーシアが驚いたように目を丸くする。
リジーと呼ばれた小さな竜はデレクの声に反応もせず、ただ岩の上でラーシアが進むのを待っている。
デレクはリジーに無視されても気にした様子もなく、慎重に岩肌を下りていく。
「ここからはロープがある。何度もここに通うことになると思い、少しずつ歩きやすいように手を加えた」
杭を打って繋いだロープの場所をデレクが教えた。
ラーシアはデレクに続き、杭に手を付きながら、リジーに語り掛けた。
「リジー、彼は私の友人だ」
友人という言葉に、デレクは少し傷ついたが、懸命にその気持ちを飲み込んだ。
リジーにとってラーシアは母親で、父親はやはり竜なのだ。
そう考えると、デレクは確かにラーシアの友人だ。
それ以上の関係にはもうなれない。
先ほどはうれしくてラーシアを抱きしめてしまったが、過ぎた行為だったのだ。
「ラーシア……君はいつまでここにいられる?竜の傍に戻るのだろう?」
「そうだね……戻るというか、竜はここにはもう来ない。今回もここに来る予定じゃなかった。リジーがここを見つけてね。
竜からこれまでの生贄を全員取り返した。彼女たちは竜にさらわれてから時が止まっている。さらに言えば記憶もないんだ。
だから彼女たちは生贄の山に連れてこられたところまでしか覚えていない。
家族がもう年をとってしまっていることや、もういないことを教えないといけないし、彼女たちが幸せに暮らせるようになんとか考えてもらえないかと思ってね」
「それまではいられるのか?」
デレクは少し大きな岩を飛び越え、滑り降りると、ラーシアに手を貸した。
その手に導かれ、ラーシアは岩の下に降りた。
険しい岩道はまだ続く。
早朝は霧がかかっていたが、そろそろ視界も晴れて、青空がのぞいている。
冷たすぎない風が遮るものもなく、真っすぐに二人と一匹に吹きつけてくる。
「そうだね。意外とやることが多い。預言者に会えるかな?面会出来たら早いけど」
「預言者様は南の島に戻った。君と同じ故郷だと言っていたぞ」
後ろをついてきていたラーシアが足を止めたことに気づき、デレクが振り返る。
ラーシアはひどいしかめっ面で、珍しく感情をあらわにした。
「なんだって!帰った?!しかも南の島に?!」
「ああ……何か約束をしていたのか?」
ラーシアは不機嫌な顔で歩きだし、大きくため息をついた。
「約束というか、彼とここまでの作戦をたてていた。私は生贄を取り返したし、それにこれからこの国に散らばっている竜の呪いを解かなくちゃいけない。
それを一緒にやるはずだった。私に一人でやれということかな?まだ数年は生きられるはずだろう?私一人に押し付けて帰るなんてひどいじゃないか」
憤慨するラーシアに驚き、デレクが足を止める。
今にも泣き出しそうに顔を歪める。
それに気づいたラーシアが取り繕うように微笑んだ。
「すまない。いろいろと話せないことが多かった。作戦がうまくいくかわからなかったからね。約束できないことは話さない方がいいと思った」
デレクは手を伸ばし、ラーシアの頬に触れたい衝動を堪えた。
リジーが見ているし、ラーシアは人妻なのだから、もう触れられない。
結婚したし、初夜もした。二日間だけ夫婦で過ごした。
それは竜からかすめ取ったわずかな逢瀬の時だった。
ラーシアは預言者と一緒に作戦を立て、この国から生贄をなくし、奪われた少女たちも取り返した。
ただ、デレクには何も知らされなかった。
相談相手にもなれず、何一つラーシアの助けになれていなかったことが心から悲しかった。
「この上着は助かったよ」
デレクの心を読んだかのようにラーシアが、取ってつけたように感謝を告げる。
寂しさを飲み込み、デレクは黙ってラーシアに手を差し出した。
「行こう。食事もまだだろう?第七騎士団があがってくる頃だ。食料もきっと豊富に運んでくる」
二人は手を取り合い、慎重に道を急いだ。
ヒューは寝ずに山頂を目指そうとするデレクを羽交い絞めにして説得した。
「いいか?俺を殺したくなければここで寝ていけ!それから、俺を置いて先に登ったりしたら今度は俺がお前を殺すぞ!」
ランタンの明かりだけではさすがに山頂は危険だ。
デレクを引きずり小屋に入ると、ヒューは大喜びでそこに寝そべった。
「ああ……もう平らな床さえあれば何もいらないな」
そんなヒューを見ると、デレクも肩を落とし登頂を諦めた。
二階から毛布を運んでくると、ヒューはすでにいびきをかいて床の上で眠っていた。
その上に毛布をかけてやると、デレクも両手を枕にし、隣に横たわる。
全く眠れる気がしなかったのに、デレクはあっさり眠りについた。
二日の行程を一日でかけあがってきた二人の体力は限界だったのだ。
第四騎士団のもう新人でもなくなった二人の騎士は仲良く並んで眠り続けた。
翌朝、二人は、扉を叩く音で飛び起きた。
デレクが第七騎士団が追いついてきたのだと思い、急いで扉を開けた。
その瞬間、デレクの口がぽかんと開いて、動きが止まった。
石のように立ち尽くすデレクの後ろから、ヒューが起きてきて、何気なく戸口を覗き込む。
「え?!」
ヒューも驚きのあまり硬直した。
そこに立っていたのは屈強な騎士ではなく、吹けば飛びそうなか弱い少女の姿だった。
強い風に髪をなびかせ、不安そうな表情で二人を見上げている。
「あ、あの……」
か細い少女の声が冷たい風に乗って小屋に流れ込む。
「下に小屋があるから、ここで待っていろと……」
「だ、誰に言われて?!」
驚き過ぎて言葉を失っていたデレクが突然我に返った。
ヒューがデレクを後ろに引っ張り、扉の前を空ける。
「とにかく入れ。そんな恰好でこの山にいるのは危険だ」
入ってきた少女は一人ではなかった。扉の前に現れた少女の後ろから、隠れて様子を見ていたらしい少女たちが、後からあとから、小屋に入ってくる。
皆、一応服は着ているが、それは生贄用の薄手の白いドレスだった。
靴と外套は皆おそろいで、靴は膝までのブーツで、外套は灰色で薄手の物に見えた。
少女たちは室内に入ると、怯えたように肩を寄せ合い、二人の男をじっと見つめている。
「あ、あの……騎士の方が助けて下さると聞いて……」
先ほどの少女が思い切った様子で一歩、前に出た。
ヒューが問いかけた。
「お前、名前は?」
「シーアです。あっ……いいえ。あのイシャリです……」
イシャリの身代わりで生贄になったシーアのことを突然思い出す。
まさかとヒューが驚く。
隣にいたデレクが突然走り出した。
「デレク!待て!」
追いかけようとして、ヒューは小屋の中で震える少女たちを振り返った。
数えてみれば十三人いる。
それはこれまで生贄に捧げられた少女たちの数に一人、足りない数だった。
山頂の岩の傍らにしゃがみ込んでいたのは、ピンクの外套を着こんだ女で、岩の側面を指で擦り、額を押し当てていた。
「信じられないな。百歳を超えた体でこの山頂まで登ってきたのか。全く余計なことをする」
文句の尽きない女の背後で、突然巨大な炎の柱が噴き出した。
風圧と熱でそれに気づき、女は急いで振り返る。
「やめろ!」
即座に炎は消えた。
近づいてきた不審者に向けて炎を吐いた小さな竜は、女の命令に従い口を閉じると、ぱたぱたと小さな羽をはばたかせ、女の頭を飛び越え、椅子の形をした岩の上に舞い降りた。
女は竜が大人しくなったのを確認し、炎に襲われた何者かに目を向けた。
「大丈夫か?火傷は?」
一歩踏み込んだ足が止まる。
そこには尻もちをついて、呆然と顔をあげる男の姿があった。
それは二の小屋から飛ぶように山を登ってきたデレクだった。
山頂に駆け付けてきたデレクは、岩の椅子の手前で背中を見せて屈んでいる人影を発見した。
一目散にそこを目指して走ってきたデレクだったが、目前で炎の壁が現れたのだ。
反射的に後ろに飛んだのはまさに、騎士の訓練の賜物だった。
炎に焼かれずにはすんだが、そこは足場の狭い山頂で、かろうじて後ろ手に地面を掴んでいた。
慎重に体を起こさなければ、火口の方か、あるいは切り立った岩だらけの斜面の方へ転がり落ちてしまう。
欲しい体がそこにあるのに、すぐには手を伸ばせない。
それでも声は出る。
「ら、ラーシアか?」
呼びかけ、デレクは自分の声に驚いた。
掠れて、震えすぎている。
ラーシアは自分だと気づかないかもしれない。
いや、夢かもしれない。
デレクはどんどん沸き上がる涙で視界を白く染めながら、ラーシアの姿を確認しようと必死に目を凝らした。
穏やかな表情、長い茜色の髪、生き生きとした瞳、ほっそりとした手足、懐かしいラーシアだ。
夢の中で何度も抱いたラーシアの姿がそこにある。
それなのに、それは幻覚だと脳のどこかが告げている。
五年も経ったのに、ラーシアの姿は別れた時のままだった。
「大丈夫か?」
ラーシアが手を差し出しながら一歩前に出た瞬間、デレクは地面から片手を離そうとして、バランスを崩した。
重たい体がぐらりと揺れ、鋭い岩だらけの斜面を転がり落ちる。
体を丸め、なんとか衝撃に耐えようとしたデレクは、未知の感覚に包まれ、さらに驚いた。
体が浮いている。
頭上から風を感じ、デレクは上を向こうとした。
小さな竜のお腹が見える。
鱗に覆われた小さな足がデレクの腰のベルトを掴んでいる。
ぱたぱたと飛び、デレクの体を石の椅子に乗せる。
竜はデレクから離れ、ラーシアの後ろにまた隠れた。
「大丈夫か?」
ラーシアが冷静に問いかける。
「あ、ああ……ラーシア?」
「ああ」
椅子に近づいてきたラーシアの体をデレクが必死に引き寄せた。
腕に掴んだのは夢にまで見たラーシアの生身の体だった。
柔らかく、華奢でしっかりとした実体がある。
頬に触れ、ラーシアの目を覗き込む。
「本当に?全く……年をとっていない……」
「まぁ……そうだね。竜のところでは時が流れない」
懐かしいラーシアの声に、デレクは泣いた。
腕に抱き、その頬に頬を擦り付け、デレクはもう一度確かめた。
「じゃあ、本当にラーシアなのか?本当に?戻ってきたのか?」
「これでもかなり急いだ。お前が変な約束をさせるからだ」
「俺のために戻ったのか?」
ラーシアは複雑な顔をした。違うのかと少し落胆しながらも、デレクはラーシアを強く抱きしめた。
「ラーシア……良いんだ。君が、君が無事なのか、幸せなのか、ずっと知りたかった」
抱きしめたラーシアの向こうに竜の姿が見える。
緑の鱗で覆われ、頭には白く光る角がある。
ずいぶん大きな口で、牙がのぞき、翼は背中で折りたたまれている。
何を考えているのかさっぱりわからない、冷たい金色の瞳がじっとこちらを見つめている。
「ラーシア……あの竜は?あの竜はもしかして……」
ラーシアはデレクの腕から抜け出て、後ろの竜を腕に抱き上げた。
「この子は、私の子供だ」
衝撃的な言葉だったが、デレクはやはりそうなのか、と頷いた。
「そうか……。君はその……竜の妻になったのか?」
ラーシアはまた難しい顔をした。
「そうだな。とりあえず、ここは危険だから下りよう。あと、そこにある女性物のいろんな服は君からの贈り物だろう?せっかくだし袋に入れて持って帰ろう」
デレクは自分が贈り物を置いた岩の上にいることに気づき、はっとしてお尻をどかした。
運んできたばかりの砂糖菓子やお菓子の類は粉々に砕け、ふわふわの帽子やスカーフもぺちゃんこだった。
まさかと思い、デレクは急いで椅子から下りると、ピンク真珠の髪飾りまで砕けていた。
「ああっ!これは良い品だったのに」
さらに、腐ることのない香水瓶が割れているのを見ると、デレクは無事であったドレスや下着を急いでかき集めた。
ラーシアが腰をかがめ、落ちていたスリッパを拾い上げた。
白い毛で出来たぼんぼんが付いている布製で、色はピンクだった。
「まぁ外套は助かったよ。自分の分の上着を忘れていてね。ちょうどここに着替えがあったから、使わせてもらった」
ラーシアが歩き出すと、竜がその後ろを追いかけて飛びあがる。
その後ろを、デレクが慎重に進む。
急な斜面を四つん這いになって下り始めると、竜は岩から岩に飛び移りながらついてくる。
「その、あの竜の名前は?君の子供なのだろう?」
デレクがためらいがちに問いかける。
「……リジーだ」
「女の子か?」
少し間があった。
「そうだな。女の子かな」
デレクはラーシアの反応に首を傾けながら、竜に性別はないのだろうかと考えた。
「そうだ。他の子たちは無事に下についたかな?とりあえず先に行かせたんだけど」
「ああ、ヒューのところにいるはずだ」
「ならば安心だな」
さらさらと滑り落ちる砂利に足をとられ、なかなか前に進めないラーシアを見て、デレクは竜を追い越しラーシアの体を抱き上げた。
「俺が先に行く」
「頼むよ。足場の悪いところは久しぶりなんだ」
「リジーに運んでもらうことは出来ないのか?さっき俺を助けてくれただろう?」
尖った岩だらけの斜面を血だらけになって転がり落ちるところだった。
思い出して、デレクはリジーに視線を向けた。
「リジー、さっきは、ありがとう」
その様子にラーシアが驚いたように目を丸くする。
リジーと呼ばれた小さな竜はデレクの声に反応もせず、ただ岩の上でラーシアが進むのを待っている。
デレクはリジーに無視されても気にした様子もなく、慎重に岩肌を下りていく。
「ここからはロープがある。何度もここに通うことになると思い、少しずつ歩きやすいように手を加えた」
杭を打って繋いだロープの場所をデレクが教えた。
ラーシアはデレクに続き、杭に手を付きながら、リジーに語り掛けた。
「リジー、彼は私の友人だ」
友人という言葉に、デレクは少し傷ついたが、懸命にその気持ちを飲み込んだ。
リジーにとってラーシアは母親で、父親はやはり竜なのだ。
そう考えると、デレクは確かにラーシアの友人だ。
それ以上の関係にはもうなれない。
先ほどはうれしくてラーシアを抱きしめてしまったが、過ぎた行為だったのだ。
「ラーシア……君はいつまでここにいられる?竜の傍に戻るのだろう?」
「そうだね……戻るというか、竜はここにはもう来ない。今回もここに来る予定じゃなかった。リジーがここを見つけてね。
竜からこれまでの生贄を全員取り返した。彼女たちは竜にさらわれてから時が止まっている。さらに言えば記憶もないんだ。
だから彼女たちは生贄の山に連れてこられたところまでしか覚えていない。
家族がもう年をとってしまっていることや、もういないことを教えないといけないし、彼女たちが幸せに暮らせるようになんとか考えてもらえないかと思ってね」
「それまではいられるのか?」
デレクは少し大きな岩を飛び越え、滑り降りると、ラーシアに手を貸した。
その手に導かれ、ラーシアは岩の下に降りた。
険しい岩道はまだ続く。
早朝は霧がかかっていたが、そろそろ視界も晴れて、青空がのぞいている。
冷たすぎない風が遮るものもなく、真っすぐに二人と一匹に吹きつけてくる。
「そうだね。意外とやることが多い。預言者に会えるかな?面会出来たら早いけど」
「預言者様は南の島に戻った。君と同じ故郷だと言っていたぞ」
後ろをついてきていたラーシアが足を止めたことに気づき、デレクが振り返る。
ラーシアはひどいしかめっ面で、珍しく感情をあらわにした。
「なんだって!帰った?!しかも南の島に?!」
「ああ……何か約束をしていたのか?」
ラーシアは不機嫌な顔で歩きだし、大きくため息をついた。
「約束というか、彼とここまでの作戦をたてていた。私は生贄を取り返したし、それにこれからこの国に散らばっている竜の呪いを解かなくちゃいけない。
それを一緒にやるはずだった。私に一人でやれということかな?まだ数年は生きられるはずだろう?私一人に押し付けて帰るなんてひどいじゃないか」
憤慨するラーシアに驚き、デレクが足を止める。
今にも泣き出しそうに顔を歪める。
それに気づいたラーシアが取り繕うように微笑んだ。
「すまない。いろいろと話せないことが多かった。作戦がうまくいくかわからなかったからね。約束できないことは話さない方がいいと思った」
デレクは手を伸ばし、ラーシアの頬に触れたい衝動を堪えた。
リジーが見ているし、ラーシアは人妻なのだから、もう触れられない。
結婚したし、初夜もした。二日間だけ夫婦で過ごした。
それは竜からかすめ取ったわずかな逢瀬の時だった。
ラーシアは預言者と一緒に作戦を立て、この国から生贄をなくし、奪われた少女たちも取り返した。
ただ、デレクには何も知らされなかった。
相談相手にもなれず、何一つラーシアの助けになれていなかったことが心から悲しかった。
「この上着は助かったよ」
デレクの心を読んだかのようにラーシアが、取ってつけたように感謝を告げる。
寂しさを飲み込み、デレクは黙ってラーシアに手を差し出した。
「行こう。食事もまだだろう?第七騎士団があがってくる頃だ。食料もきっと豊富に運んでくる」
二人は手を取り合い、慎重に道を急いだ。
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骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
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