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第一章 竜の国
16.竜の痕跡を辿る旅
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宿屋の一階で食事を終えたラルフとラーシアは、部屋に戻ると旅支度を始めた。
ラルフが次の目的地である竜の滝は、歩き慣れているから夜の間に出立しても問題ないと語ったのだ。
それであればすぐに出ようとラーシアはあっさり決断した。
人目につかずに立ち入り禁止区域にも近づけるし、高所に体を慣らすこともできる。
ランタンを腰に吊るしたラルフは、思い出したようにポケットから黒い石を取り出し、ラーシアに渡した。
「ラーシア、これを君に」
「いいのか?」
「ああ。食事をしながら君の提案について考えていた。俺は……シーアの母親に会いに行こうと思う」
喜びに顔を輝かせ、ラーシアはラルフに抱き着いた。
「良かった。彼女、喜ぶと思う!」
まだ少し迷いのある顔で微笑みながら、ラルフは国を離れる前に、ラーシアの観光に付き合うと約束した。
二人は温かな外套に身を包み、部屋を出た。
視界の開けた場所にあるユロの町は、闇に包まれた山々に囲まれ、町の中心部だけがきらきらと輝いている。
二人は明るい通りに出ると、人知れず町を離れ、夜闇に閉ざされた暗い山道を目指した。
いたるところに「竜の滝はこちら」と書かれた看板があり、滑落注意という言葉が添えられている。
道は徐々に細くなり、街灯がなくなり、完全な山道になると町の明かりさえ届かず真っ暗になった。
二人が手にしているランタンも足元ぐらいしか照らせない。
「この辺りは標高が高く、大きな獣はいない。幸いユロの町までは傾斜がなだらかで物は豊富に入ってくる。北のジールスと、このユロの町がマウラ山までの道沿いにある中では大きな町だ」
慣れた様子で山道を歩きだしたラルフが、思い出したように問いかけた。
「しかし、いいのか?デレクたちに知らせなくても」
「いいよ。どうせルト村で合流すると言ってあるし、ちゃんと距離を取らないと、デレクは私と別れたと思ってくれないかもしれないしね。それより夜中の山道は危険だ。私はいいからラルフは自分の足元だけ見てよ」
「ここには何度も来ている。十年も同じような土地を回ったのだから、慣れている。少し登ったところに野宿に最適な洞窟がある。そこで今夜は休もう」
町の灯が遠ざかり、本物の星空が迫ってくると、その吸い込まれそうな輝きに魅入られ、ランタンに灯りを入れていることが冒涜に思えてくる。
「降るような星空だな」
うっとりとラーシアが呟く。
「ああ……竜の伝説にある星の歌のようだ」
「竜が星を食べてしまう話だな。歌っている星を見つけて食べられなくなってしまう。意外と竜は寂しがりだな」
「竜の絵本は国に溢れているが、挿絵を描いた作家を訪ねても誰一人竜を見た者はいなかった。実際に見て描いた人はいないんだ……」
ラルフの寂しそうな声がしんとした闇に揺れた。
ラーシアはラルフの手を握った。
「ラルフ、すまない」
「なぜ君が謝る。君は何も悪くないじゃないか」
「そうだけど……寄り添うことしか出来ないから」
二人は手を繋ぎ、足元をランタンで照らしながら細い岩道を歩き続ける。
「君は不思議な人だな。この国には竜の伝説に魅せられて多くの観光客が来る。だけど、君のようにこの国を深く知ろうとする人には会ったことがない」
「この星空を見たら、もっと近づきたくなるものじゃないか?」
冷たい風に晒され、二人は外套の襟をたて、フードを被った。
冬でなくて幸いだった。
ユロの町で購入した雪山羊の帽子も良い仕事をしている。
星の道を辿るように洞窟までたどり着くと、二人は毛皮のマットを地面に敷き、そこで、再び熱く抱き合った。
「あっ……ラルフ……寒くない?」
大きく足を開いているラーシアも、その中に腰を埋めているラルフも下半身だけ裸だ。
「寒さなんて感じないよ。君はこんなにも温かい」
熱く舌を絡めながら口づけし、二人は互いの体を闇の中で探り合う。
星空がのぞく洞窟の入り口で、二人は原始の時代から変わらぬ、種を継ぐ営みに没頭した。
――
翌朝、二人は足が震えるほど高い場所で目を覚ました。
外を見たラーシアが最初に小さな悲鳴をあげた。
「うわっ!」
後ろから顔を覗かせたラルフが、肩を震わせて低く唸った。
「うーん。こんなに高かったかな。あまり記憶になかったな」
命がかかっているとは思えない呑気な声だった。
洞窟前の道は、二人並べばいっぱいで、その先はさらに細く、尾根を渡るような険しい道が続いている。
眼下は真っ白だった。
霧が立ち上り、まるで空の上にいるようだ。
「すごい景色だ……昨日は夜空ばかり見て歩いていたが、とても景色を見ていられるような場所じゃなかったみたいだな」
ラーシアは上ばかり見て歩いた昨夜のことを思い出し、身震いした。
「ここを抜けて道を下れば雲の下に滝が見えてくる」
持ってきた軽食を食べて荷造りすると、二人は冷たい空気を頬に受けながら歩きだした。
しばらくすると、下り坂になり、白い霧の中に道の先が沈んでいた。
「霧は湿っていて冷たい。ラーシア、上着を首まで上げておいたほうがいい」
ラルフの助言に従い、ラーシアはフードを深く被り、スカーフをしっかり首にまきつけた。
二人は手を繋いで歩きだした。
視界が霧で閉ざされたが、道は続いている。
水の粒子が肌に触れ、ラーシアは鼻をくすぐられ、大きなくしゃみをした。
しかしその音は何かにかき消された。
いつの間にか、ごうごうという水音が迫っている。
「竜の滝だ!行こう!」
ラルフの声が白い靄のなかで響き、ラーシアの手が引っ張られる。
道は再び上り坂になり、突然霧が晴れた。
目に飛び込んできたのは、想像以上に巨大な滝だった。
ちょうど上がり始めた太陽が滝のねもとにかかり、水は黄金色に輝きながら水中に飛び込む竜の尾のように、まっすぐに地上を目指して流れ落ちている。
その長く大きな滝の半ばには雲がかかり、その流れを上と下で区切っている。
下から滝を見上げれば、雲から流れ落ちているように見えるだろう。
「竜が村を焼いた日、突然この岩場が割れて水が噴き出したと言われている」
「なるほど……」
滝が流れ落ちてくる頂は、きれいな平面になっている。
山頂に飛び降りた竜が、山の先端をへし折ったのかもしれない。
二人は滝の根元を目指しその流れを追う。
平面になっている山の頂を数メートル進んだところに再び山肌が立ちはだかり、そこに丸い穴が空いていた。
そこから大量の水が噴き出している。
「パイプのようだな……」
空気も薄く、山道を長く歩いてきたラーシアは大きく肩を揺らしている。
ラルフがラーシアの荷物を引き受けた。
「この穴から飛び出した水は岩場を削り、あそこから落ちている。この裏側に湖があり、そこを迂回していくと竜の爪と言われる焼かれた村の跡がある。
立ち入りが禁じられているため、湖の道には見張りがいる。それ故、見たいならこの岩場をさらに進まないとだめだ」
ラルフが説明し、二人分の荷物を背負って岩の上を進む。
岩場の道は上を向けば空しかなく、眼下を見れば雲ばかりが続いている。
日は高く、常に二人を包む風は冷たい。
時間を忘れてごつごつした岩場を歩き続けると、突然道が平らになった。
そこは張り出した岩棚で、その淵には落ちないように柵が建てられている。
「観光客が来られるのはここまでだ。見てくれ」
ラルフに続き、ラーシアは手すりから下を覗き込んだ。
まるで地獄の底のように真っ黒な地面が広がっている。
その周りは草木があるのに、そこだけは何もない。
三本の爪がひっかいたような形で、爪の根元は丸くへこんでいる。
めまいがするほど高く、そこに何があるのか全く見えなかった。
「雲も霧もなく、ここはいつも真っ黒な地面ばかりが見える。何があるのか知りたくて、手すりを越えて下に降りた。死にかけたが、黒い石を見つけた。見張りのいる塔は少し離れていてここから下りれば見つからない」
「確かに。ここからは真っ黒な地面しか見えないな。村があったとわかるような物はなかったのか?」
「ああ。何もない。ここにも竜花が咲き、全て回収されたと聞いた。
ここの土を研究している学者もいる。呪いをもらう可能性がある。俺達もそろそろ教会に行った方が良いな」
ラーシアが辺りを見回し、他に人がいないのを確かめると、するりと手すりをくぐった。
「ラーシア!危ない、やめろ。死にかけたと聞いていなかったのか?」
「聞いていたよ。だけど本当に何も見えないんだ。見たいだろう?」
「だったら、待て、以前下りた時の跡がある。少しずつ手をかける場所を削って作った。あとロープをかけた岩のへこみもある」
ラルフが手すりを越え、少し窪んだ岩棚の下に潜り込もうとした時、頭上で岩を踏む足音が聞こえてきた。観光客のものではない。
大勢の男達の靴音だ。
ラルフがラーシアの腕をひっぱり岩棚の下の窪みに体を押し込んだ。
二人分の荷物が斜めになった二人の体の隙間にぴったりとはまり、二人の体は完全に岩棚の下の窪みと同化した。
上から声が聞こえてきた。
「いないぞ?まさかこの先に向かったのか?」
「竜の滝と竜の爪痕、この先にはジールスに抜ける山道が続く。どうする?探しに行くとなるとかなり長い道のりだ」
「先触れの話では、ラーシアという女はルト村で合流すると言っていたそうだ。班を分けてそこに最短で向かう組みとこちらの道を行く組みに別れよう」
「一帯を閉鎖して観光客を入れないように各騎士団要塞に伝達しろ」
「観光地と言えば竜の目もあるぞ。山を越えた可能性は?」
「ルト村に向かうなら通らない道だ」
「竜の目なら第十一騎士団が近い。すぐに知らせを出そう」
ラーシアとラルフは岩棚の下で息をひそめ、ラーシアを探しているらしい男達の会話を聞いていた。
しばらくすると足音が左右に分かれて遠ざかった。
二人は目配せし、ラルフが先に穴を出て岩場を下り始める。
ところどころに指を入れる隙間があり、時々現れる突き出た岩には、ロープをひっかけるための傷がつけられていた。ラルフが以前下りた痕跡を辿り、二人は慎重に崖を下り続けた。
途中でロープにぶら下がって休憩し、軽食を食べた。
長い時間をかけ、すっかりあたりが暗くなってきた頃、二人はようやく地上に降り立った。
「もうここからは上がれない。あとは山を迂回して直接ルト村に向かうしかない」
この崖を登らなくて済むと聞くと、ラーシアは心から安堵して、大きく体を伸ばした。
ラルフがランタンに灯りを入れた。
「言っただろう?見張り用の建物はかなり遠くてここで火を焚いてもばれることはない」
ラーシアもランタンに灯りを入れる。
「ラルフは怖くないのか?呪いがあるのだろう?」
竜の痕跡に触れたものは呪いを受ける。
「シーアを失った時に、俺は命を捨てている。それに、教会には時折足を運ぶぞ。ラーシアも一緒に行こう。異国の人間にも呪いは等しく降り注ぐと言われている」
手を繋ぎ、暗闇を進みだすと、ラーシアが問いかけた。
「私と逃げていいのか?騎士達は私を探していた」
「言っただろう?命を捨てていると。それより君が俺のしていることを引き継ぐなら、俺が見てきたものを君に見ておいて欲しい。竜と対話するなら、その材料を多く持っていた方がいいだろう?」
ラーシアは思い出して、竜の石を取り出した。
すると、地面に赤い光がぽつりぽつりと浮かび上がり始めた。
それは炎より暗く、まるで毒を含んだような濁った色で、闇に潜む得体の知れない命のようにうごめいて見えた。
そのぞっとするような光景の中を、二人は慎重に歩き出した。
ラルフが次の目的地である竜の滝は、歩き慣れているから夜の間に出立しても問題ないと語ったのだ。
それであればすぐに出ようとラーシアはあっさり決断した。
人目につかずに立ち入り禁止区域にも近づけるし、高所に体を慣らすこともできる。
ランタンを腰に吊るしたラルフは、思い出したようにポケットから黒い石を取り出し、ラーシアに渡した。
「ラーシア、これを君に」
「いいのか?」
「ああ。食事をしながら君の提案について考えていた。俺は……シーアの母親に会いに行こうと思う」
喜びに顔を輝かせ、ラーシアはラルフに抱き着いた。
「良かった。彼女、喜ぶと思う!」
まだ少し迷いのある顔で微笑みながら、ラルフは国を離れる前に、ラーシアの観光に付き合うと約束した。
二人は温かな外套に身を包み、部屋を出た。
視界の開けた場所にあるユロの町は、闇に包まれた山々に囲まれ、町の中心部だけがきらきらと輝いている。
二人は明るい通りに出ると、人知れず町を離れ、夜闇に閉ざされた暗い山道を目指した。
いたるところに「竜の滝はこちら」と書かれた看板があり、滑落注意という言葉が添えられている。
道は徐々に細くなり、街灯がなくなり、完全な山道になると町の明かりさえ届かず真っ暗になった。
二人が手にしているランタンも足元ぐらいしか照らせない。
「この辺りは標高が高く、大きな獣はいない。幸いユロの町までは傾斜がなだらかで物は豊富に入ってくる。北のジールスと、このユロの町がマウラ山までの道沿いにある中では大きな町だ」
慣れた様子で山道を歩きだしたラルフが、思い出したように問いかけた。
「しかし、いいのか?デレクたちに知らせなくても」
「いいよ。どうせルト村で合流すると言ってあるし、ちゃんと距離を取らないと、デレクは私と別れたと思ってくれないかもしれないしね。それより夜中の山道は危険だ。私はいいからラルフは自分の足元だけ見てよ」
「ここには何度も来ている。十年も同じような土地を回ったのだから、慣れている。少し登ったところに野宿に最適な洞窟がある。そこで今夜は休もう」
町の灯が遠ざかり、本物の星空が迫ってくると、その吸い込まれそうな輝きに魅入られ、ランタンに灯りを入れていることが冒涜に思えてくる。
「降るような星空だな」
うっとりとラーシアが呟く。
「ああ……竜の伝説にある星の歌のようだ」
「竜が星を食べてしまう話だな。歌っている星を見つけて食べられなくなってしまう。意外と竜は寂しがりだな」
「竜の絵本は国に溢れているが、挿絵を描いた作家を訪ねても誰一人竜を見た者はいなかった。実際に見て描いた人はいないんだ……」
ラルフの寂しそうな声がしんとした闇に揺れた。
ラーシアはラルフの手を握った。
「ラルフ、すまない」
「なぜ君が謝る。君は何も悪くないじゃないか」
「そうだけど……寄り添うことしか出来ないから」
二人は手を繋ぎ、足元をランタンで照らしながら細い岩道を歩き続ける。
「君は不思議な人だな。この国には竜の伝説に魅せられて多くの観光客が来る。だけど、君のようにこの国を深く知ろうとする人には会ったことがない」
「この星空を見たら、もっと近づきたくなるものじゃないか?」
冷たい風に晒され、二人は外套の襟をたて、フードを被った。
冬でなくて幸いだった。
ユロの町で購入した雪山羊の帽子も良い仕事をしている。
星の道を辿るように洞窟までたどり着くと、二人は毛皮のマットを地面に敷き、そこで、再び熱く抱き合った。
「あっ……ラルフ……寒くない?」
大きく足を開いているラーシアも、その中に腰を埋めているラルフも下半身だけ裸だ。
「寒さなんて感じないよ。君はこんなにも温かい」
熱く舌を絡めながら口づけし、二人は互いの体を闇の中で探り合う。
星空がのぞく洞窟の入り口で、二人は原始の時代から変わらぬ、種を継ぐ営みに没頭した。
――
翌朝、二人は足が震えるほど高い場所で目を覚ました。
外を見たラーシアが最初に小さな悲鳴をあげた。
「うわっ!」
後ろから顔を覗かせたラルフが、肩を震わせて低く唸った。
「うーん。こんなに高かったかな。あまり記憶になかったな」
命がかかっているとは思えない呑気な声だった。
洞窟前の道は、二人並べばいっぱいで、その先はさらに細く、尾根を渡るような険しい道が続いている。
眼下は真っ白だった。
霧が立ち上り、まるで空の上にいるようだ。
「すごい景色だ……昨日は夜空ばかり見て歩いていたが、とても景色を見ていられるような場所じゃなかったみたいだな」
ラーシアは上ばかり見て歩いた昨夜のことを思い出し、身震いした。
「ここを抜けて道を下れば雲の下に滝が見えてくる」
持ってきた軽食を食べて荷造りすると、二人は冷たい空気を頬に受けながら歩きだした。
しばらくすると、下り坂になり、白い霧の中に道の先が沈んでいた。
「霧は湿っていて冷たい。ラーシア、上着を首まで上げておいたほうがいい」
ラルフの助言に従い、ラーシアはフードを深く被り、スカーフをしっかり首にまきつけた。
二人は手を繋いで歩きだした。
視界が霧で閉ざされたが、道は続いている。
水の粒子が肌に触れ、ラーシアは鼻をくすぐられ、大きなくしゃみをした。
しかしその音は何かにかき消された。
いつの間にか、ごうごうという水音が迫っている。
「竜の滝だ!行こう!」
ラルフの声が白い靄のなかで響き、ラーシアの手が引っ張られる。
道は再び上り坂になり、突然霧が晴れた。
目に飛び込んできたのは、想像以上に巨大な滝だった。
ちょうど上がり始めた太陽が滝のねもとにかかり、水は黄金色に輝きながら水中に飛び込む竜の尾のように、まっすぐに地上を目指して流れ落ちている。
その長く大きな滝の半ばには雲がかかり、その流れを上と下で区切っている。
下から滝を見上げれば、雲から流れ落ちているように見えるだろう。
「竜が村を焼いた日、突然この岩場が割れて水が噴き出したと言われている」
「なるほど……」
滝が流れ落ちてくる頂は、きれいな平面になっている。
山頂に飛び降りた竜が、山の先端をへし折ったのかもしれない。
二人は滝の根元を目指しその流れを追う。
平面になっている山の頂を数メートル進んだところに再び山肌が立ちはだかり、そこに丸い穴が空いていた。
そこから大量の水が噴き出している。
「パイプのようだな……」
空気も薄く、山道を長く歩いてきたラーシアは大きく肩を揺らしている。
ラルフがラーシアの荷物を引き受けた。
「この穴から飛び出した水は岩場を削り、あそこから落ちている。この裏側に湖があり、そこを迂回していくと竜の爪と言われる焼かれた村の跡がある。
立ち入りが禁じられているため、湖の道には見張りがいる。それ故、見たいならこの岩場をさらに進まないとだめだ」
ラルフが説明し、二人分の荷物を背負って岩の上を進む。
岩場の道は上を向けば空しかなく、眼下を見れば雲ばかりが続いている。
日は高く、常に二人を包む風は冷たい。
時間を忘れてごつごつした岩場を歩き続けると、突然道が平らになった。
そこは張り出した岩棚で、その淵には落ちないように柵が建てられている。
「観光客が来られるのはここまでだ。見てくれ」
ラルフに続き、ラーシアは手すりから下を覗き込んだ。
まるで地獄の底のように真っ黒な地面が広がっている。
その周りは草木があるのに、そこだけは何もない。
三本の爪がひっかいたような形で、爪の根元は丸くへこんでいる。
めまいがするほど高く、そこに何があるのか全く見えなかった。
「雲も霧もなく、ここはいつも真っ黒な地面ばかりが見える。何があるのか知りたくて、手すりを越えて下に降りた。死にかけたが、黒い石を見つけた。見張りのいる塔は少し離れていてここから下りれば見つからない」
「確かに。ここからは真っ黒な地面しか見えないな。村があったとわかるような物はなかったのか?」
「ああ。何もない。ここにも竜花が咲き、全て回収されたと聞いた。
ここの土を研究している学者もいる。呪いをもらう可能性がある。俺達もそろそろ教会に行った方が良いな」
ラーシアが辺りを見回し、他に人がいないのを確かめると、するりと手すりをくぐった。
「ラーシア!危ない、やめろ。死にかけたと聞いていなかったのか?」
「聞いていたよ。だけど本当に何も見えないんだ。見たいだろう?」
「だったら、待て、以前下りた時の跡がある。少しずつ手をかける場所を削って作った。あとロープをかけた岩のへこみもある」
ラルフが手すりを越え、少し窪んだ岩棚の下に潜り込もうとした時、頭上で岩を踏む足音が聞こえてきた。観光客のものではない。
大勢の男達の靴音だ。
ラルフがラーシアの腕をひっぱり岩棚の下の窪みに体を押し込んだ。
二人分の荷物が斜めになった二人の体の隙間にぴったりとはまり、二人の体は完全に岩棚の下の窪みと同化した。
上から声が聞こえてきた。
「いないぞ?まさかこの先に向かったのか?」
「竜の滝と竜の爪痕、この先にはジールスに抜ける山道が続く。どうする?探しに行くとなるとかなり長い道のりだ」
「先触れの話では、ラーシアという女はルト村で合流すると言っていたそうだ。班を分けてそこに最短で向かう組みとこちらの道を行く組みに別れよう」
「一帯を閉鎖して観光客を入れないように各騎士団要塞に伝達しろ」
「観光地と言えば竜の目もあるぞ。山を越えた可能性は?」
「ルト村に向かうなら通らない道だ」
「竜の目なら第十一騎士団が近い。すぐに知らせを出そう」
ラーシアとラルフは岩棚の下で息をひそめ、ラーシアを探しているらしい男達の会話を聞いていた。
しばらくすると足音が左右に分かれて遠ざかった。
二人は目配せし、ラルフが先に穴を出て岩場を下り始める。
ところどころに指を入れる隙間があり、時々現れる突き出た岩には、ロープをひっかけるための傷がつけられていた。ラルフが以前下りた痕跡を辿り、二人は慎重に崖を下り続けた。
途中でロープにぶら下がって休憩し、軽食を食べた。
長い時間をかけ、すっかりあたりが暗くなってきた頃、二人はようやく地上に降り立った。
「もうここからは上がれない。あとは山を迂回して直接ルト村に向かうしかない」
この崖を登らなくて済むと聞くと、ラーシアは心から安堵して、大きく体を伸ばした。
ラルフがランタンに灯りを入れた。
「言っただろう?見張り用の建物はかなり遠くてここで火を焚いてもばれることはない」
ラーシアもランタンに灯りを入れる。
「ラルフは怖くないのか?呪いがあるのだろう?」
竜の痕跡に触れたものは呪いを受ける。
「シーアを失った時に、俺は命を捨てている。それに、教会には時折足を運ぶぞ。ラーシアも一緒に行こう。異国の人間にも呪いは等しく降り注ぐと言われている」
手を繋ぎ、暗闇を進みだすと、ラーシアが問いかけた。
「私と逃げていいのか?騎士達は私を探していた」
「言っただろう?命を捨てていると。それより君が俺のしていることを引き継ぐなら、俺が見てきたものを君に見ておいて欲しい。竜と対話するなら、その材料を多く持っていた方がいいだろう?」
ラーシアは思い出して、竜の石を取り出した。
すると、地面に赤い光がぽつりぽつりと浮かび上がり始めた。
それは炎より暗く、まるで毒を含んだような濁った色で、闇に潜む得体の知れない命のようにうごめいて見えた。
そのぞっとするような光景の中を、二人は慎重に歩き出した。
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