死の花

丸井竹

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40.死の花

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 二人がソルト町郊外の開けた場所に、二階建ての小さな家を建てたその年、ついにフェスターの屋敷の尖塔が風で吹き飛んだ。
風の強い季節のことだったが、レイシャはそれをディーンから聞いて、怒りを込めて「やっぱり!」と叫んだ。

いつか落ちるとずっと思っていた物が、実際落ちたのだから、レイシャが住んでいた時にも、落ちる可能性は十分あったはずだ。今更ながら、フェスターに文句が言いたいとレイシャは憤った。

温かな暖炉の前で、ディーンはレイシャの話を聞きながら穏やかに笑った。
妻を鞭打つ恐ろしい夫も、陰鬱な黒い屋敷も死の呪いさえ、既に遠い昔のことであり、二人は新しい日常の中にあった。

ディーンは仕事上どうしても教えを乞う必要があり、まだフェスターのもとに通っていた。
古代語の解読師としては一流の域に達したディーンだったが、フェスターが後ろにいるとなれば、一般の解読師には太刀打ちできないような難易度の高い書物がどんどん送られてきてしまう。
まだまだ学ぶことは尽きなかった。

逆にフェスターが二人の家を訪れることもあった。
それ故、レイシャがフェスターに、風で飛んだかつての自分の部屋について文句を言う機会はちゃんと残っていた。

とはいえ、フェスターに文句を言ったところで、フェスターからは、冷笑か、あるいは冷徹な眼差し程度のものしか返ってこないだろうから、レイシャの溜まった不満がすっきり消えるわけでもなかった。

フェスターはレイシャの機嫌をとりにくるのではなく、ディーンのところに送られてくる古の魔力で書かれた本を読みにくるのだ。

二人の都合もきかず、フェスターはふらりと新居にやってきては、部屋の片隅で読書に耽った。

そんな時、レイシャは食事やお菓子を三人分用意して、なんとなく以前のようにテーブルを囲みフェスターを受け入れた。
相変らず何を考えているのかわからないフェスターだったが、レイシャが用意した甘いココアまで飲み干し、好きなだけ本を読むと深夜になる前に帰って行った。


 しばらくはそんな新居生活が続いたが、次第にそんな穏やかな日常は望めなくなっていった。
レイシャが身ごもり、あれやこれやと準備に追われ、子供が生まれてみれば毎日が戦場のようになった。
そんな中でも、フェスターは相変わらずで、まるで太陽か月のように動じず、優雅に本を読んで帰って行った。
そんな姿を目にすると、二人もなんとなく平常心を取り戻し、交代でフェスターとお茶を飲み、休憩をとりあった。

良くも悪くも、二人の日常に関心のないフェスターは、ディーンの良き師であり、レイシャの命を救ってきた元夫であり、傍にいれば頼もしい存在だった。


数年が経ち、冬の冷たい風と春先の温かな日差しが溶け合うような、そんな季節がやってきた。

その日、ソルト地方に続く平原の風はいつも以上に強かった。
その風に乗って、二人の家の庭先に、ふわりと黒い胞子が舞い落ちた。

それは死の花の胞子で、また誰かが気まぐれに飛ばしてきたものだった。

しかし、そこに死の花は咲かなかった。
かわりに、見たこともない小さな花が咲いたのだ。

庭先で遊んでいた少年がそれに気づき、白い花を摘むと、地面には小さな焦げ跡のようなものが残った。
少年は気づかず、花だけ持って玄関に向かった。

それを虚空に現れたフェスターが呼び止めた。

「待て、面白い物を持っているじゃないか」

黒いローブを風にはためかせ、フェスターは地上に降り立つと少年の前に屈みこんだ。

「フェスター様、何かありました?」

レイシャがエプロンで濡れた手を拭きながら家から出てきた。
その後ろから、ディーンが分厚い本を抱えて飛び出してくる。

フェスターは少年の手から花を奪い取り、ふっと息を吹きかけた。
途端に白い花はピンク色に変わり、宝石のように輝いた。

「魔力を持った花ですね」

この辺りでは見かけない花弁の形に、ディーンは不安げに風の吹いてきた方を見た。

「ママにあげていい?」

少年がフェスターに問いかけた。
フェスタ―はあっさり手にしていた花を少年に返した。

少年は母親のもとに駆けていき、ピンクに変わった花を差し出した。

「あ、ありがとう」

レイシャは本当にこの花は大丈夫なのかと確認するように、ディーンを振り返った。
ディーンも不安そうに首を傾ける。

「この家にある分には問題ないだろうな」

意味深な言い方をして、フェスターが扉へ向かう。
フェスターが問題がないと言うのであれば大丈夫だろうと、少年の両親はほっとした表情になった。

「それよりディーン、新しい書物が発見されたそうではないか。早く見せろ」

「あ、はい!最近古代書物の管理室で、本棚の後ろから新たな扉が見つかったのですが、その先の地下室から大量の書物が発見されたのです。王宮では解読できる人がいなかったらしく、かなり古いものが数冊送られてきています」

ディーンとフェスターが室内に入っていくと、レイシャは手にしたピンク色の花を陽ざしにかざしてみた。
少年も隣から花を見上げる。

「ママ、蝶になるよ」

少年が指を向けると、ピンクの花弁が震え始め、蝶の羽に変わった。
ゆっくりと羽ばたき、旋回しながら空中に上がっていく。
魔力を持って生まれた息子を母親は優しく抱き寄せ、その頭を撫でた。

「とってもきれいだったわ。見せてくれてありがとう。さあ、お客様にお茶を入れないとね」

子供は母親の腕から飛び出し、庭石の上を飛び跳ねながら家に向かっていく。
活発な息子の後ろを追いかけながら、レイシャはもう一度空を見上げた。

飛び立とうとしていた蝶が何かに弾かれたように引き返し、溶けるように霞んで消えた。
あとはどこまでも澄み渡る空に、細切れの白い雲だけが風まかせに流れているばかりだ。

しばらくぼんやり立っていると、戻らない妻を心配した夫が玄関から顔を出した。

「レイシャ?」

優しい声音にレイシャは温かく微笑む。
いつの間にか地面にあった黒い染みのようなものは消えていた。

小道の脇に作られた花壇の花が穏やかな風に揺れ、甘い香りを放っている。

迎えに来た夫の手を取り、レイシャはすこしだけ背伸びをした。
ディーンが腰を屈める。

二人の唇が優しく重なった。

と、その時弾けるような子供の声が聞こえてきた。
二人は驚いて顔を離し、家の方に視線を向ける。

もしフェスターが子供の遊び相手をしているのだとしたら、それは絶対に見逃せない瞬間だ。

まさかと思いながらも、二人は手を取り合い、玄関に向かって駆けだした。



――

百年後。

王宮の最深部に位置する古代書物の保管庫に、師匠である年老いた公認解読師とその弟子の姿があった。
二人は朝から書物の整理に追われていた。

梯子の上で本を並べていた師匠が、傍らに置かれた本に手を伸ばし、眉をひそめた。

下で同じように書物の整理をしているはずの弟子が、熱心に分厚い本を読んでいる。
どこの棚に並べるべきか、その確認のために多少は読む必要があるが、その時間が長すぎては仕事は終わらない。

「まだ本は数百冊もあるのだ。じっくり読むのは終わった後にしろ」

師匠に注意され、若い弟子は慌てたように手元の本を閉じた。

「すみません!聞いたことのない植物の名前に興味惹かれて読んでしまいました。先生、死の花という花を見たことがありますか?花は白く根から茎の部分が黒くなっている魔力で出来た花です。これは実在したものなのか、あるいは、空想上のものなのか、どちらなのでしょう?」

師匠の方も、実際にそれを目にしたことはなかったが、当時のことを知る人々から話は聞いたことがあった。

「その花はこの国に深刻な被害をもたらした。それは真実だ。しかし最後の花が消えてから百年間、目撃した者は一人もいない。研究用の花も種も、枯れた姿でさえ残っていない」

「実在していたのでしょうか?」

空想上の植物を描いた図鑑も存在している。
実際に存在したかどうか、証拠がなければ確かめようがない。
半信半疑の弟子に、師匠も曖昧に首を横に振った。

「歴史上存在した花ではあるが、私も見たことがない。だが、絶滅して正解だ。それは悪意を養分に繁殖する、邪悪な魔力で出来た花だった。人に強い力をもたらしたが、その性質上、人を呪うために使われ、多くの人々が命を落とした」

「なるほど、そんなものがあらわれたら、国中が白い花で埋め尽くされてしまいそうですね」

弟子の言葉に師匠も苦笑する。
悪意のない世界など存在しないし、殺意を形にして人を攻撃できるとしたら、どんな陰謀に使われるかわからない。

「永遠に幻の花であった方が良い」

師匠の言葉に弟子も同意し、その本を一番下の棚に運ぶ。

そこに本を差し込もうと斜めに傾けた時、小さな紙がひらりとページの合間からこぼれ落ちた。
弟子は腰を屈めそれを拾い上げると、ランプの下で再び本を開き、どのページがはずれたのかと探し始める。
それにはページが記載されていなかった。
仕方なく、弟子は最初の一文に目を走らせる。

『最新追記事項』

最後の研究結果かもしれないと、弟子は背表紙に近い部分のページをめくる。
と、何も記載されていないページを発見し、手を止めた。
黄ばみが二種類に別れたページで、中央に四角い紙を張り付けてあったかのような痕跡があった。

その色の変わっている四角い部分に、落ちた紙を当てはめると、ぴたりとはまる。
簡易古代文字で書かれたその文章は、弟子にも読める魔力で書かれており、一級公認解読師を目指す弟子は好奇心に駆られ、記載されている文章を読み解いた。

『死の花の魔力は強固であり、死の呪いから逃れることは難しいが、愛を信じる者には効き目が弱くなる傾向がある。死の花の天敵は、強固な愛を持つ者である』

その下に、弟子夫婦の肖像と説明書きのついた絵があった。
幸せそうな夫婦の両脇には子供の姿もある。
未来に希望や夢を予感させるようなそんな幸福な光景だった。

「先生、死の花がまた復活する日が来ても、人は生き残るかもしれません」

弟子は明るい声で、上に向かって叫んだ。
師匠は上からじろりと弟子を見おろし、まだ同じ本を読んでいるのかと問いかけるように首を傾けた。
その咎めるような視線に、弟子は急いで落ちた紙を挟んで本を閉じた。

そして絶滅した植物について書かれた本が並ぶ棚の、一番端に立てて入れた。

その本の背表紙には、名前が刻まれていたが、弟子は気づかなかった。
何度も人の手に擦られ、少し欠けているが、注意して見れば、フェスターと読める。

一流の魔術研究家であったフェスターの著作は何冊もあり、その本は専用の棚に並べられていたが、死の花について書かれたその本だけが、日の差さない暗がりにひっそりと置かれることになった。

他の絶滅植物について書かれた書物を、数冊まとめて同じ棚に入れ終えた弟子は、大きく背中を伸ばして欠伸を噛み殺した。

「昼前にもうひと仕事終えてしまおう」

さりげなく、居眠りをするなよと釘を刺した師匠の言葉に、弟子は慌てて手を動かす。
選別しなければならない本がまだたくさん残っている。

天窓から差し込む淡い光の中、手元にランプを置いた二人は、太古の知恵と歴史を記した本に囲まれ、書棚の整理を続けた。

やがて、日が暮れる前に作業を終えると、二人は速やかに部屋を出ていった。
待つほどもなく、灯りの無い書庫内は、漆黒の闇に閉ざされた。



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