死の花

丸井竹

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13.幸福なひととき

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 森のテントから突然現れた女性のことを、ディーンは、はっきりと覚えていたが、その姿は記憶の中の姿とは大きく異なっていた。
もっときれいで清楚な印象だったと思うが、今は少しやつれた感じで、歳もとり、なんとなく娼館によく来る図々しい客にそっくりに見えた。そうした内面は顔ににじみ出るのだ。

しかし昔の面影も確かにある。
アンナはディーンの初恋の女性であり、ディーンは彼女の代わりに娼館に身売りすることになったのだ。

初めて男に体を売った屈辱や痛み、怒りと悲しみといった黒い感情が沸き上がる。
同時に若さ故の自身の愚かさと対面したかのような、苦々しい気持ちにもなった。
無謀な恋に命を懸けることが、男らしいことだと思っていた。
自由な志も、夢も希望も全てが一時の愚かな情熱のために失われてしまった。

自分の命よりも愛し守りたいと思った過去は嘘ではないが、今であれば同じ選択はしない。

「なぜ、ここに?」

ディーンの言葉に、アンナは無理していた笑顔を緩め、ほっと体の力を抜いた。

「王都から逃げて来たの。死の花が咲き始めて商売が傾いて、その、ねぇ……私のために体を売ってくれたのよね。今はその、自由になれたの?」

「あ、ああ……」

レイシャは驚いたが、黙って言葉を飲み込んだ。
アンナはちらりとディーンの隣に立つレイシャに目を走らせた。

明らかにアンナより容姿は整っているし、何よりも若い。
身に着けている物も上質なものだ。
それに比べてディーンの身なりはいたって普通だ。
アンナの目からは、ディーンが金持ちの女性を相手に、うまく稼いでいるように見えた。

「成功していそうね、ディーン……。その、ねぇ、お願い。私、あなたのことを忘れたことは一度もなかったわ。だから、どうか……私のためにいくらか融通してくれない?」

「なんだって?!」

ディーンは絶句した。
その顔を見上げたレイシャは、震える唇を噛みしめた。
ディーンの顔は、その心の動揺のままに痛々しく歪んでいた。
怒りや憎しみ、悲しみ、それから自身を恥じる痛み。
そうした感情の全てを読み取れたわけではなかったが、レイシャの手を握るディーンの手は、汗でびっしょりに濡れ、尋常じゃない力で何度も握り込まれている。
恐らく、ディーンはレイシャの手を握っていることさえ忘れ、拳を握ることで怒りに耐えているのだ。

耐え難い怒りに突き動かされ、レイシャが口を開いた。

「いくら必要なの?いくら払えばディーンと関わらないでくれるの?」

アンナは顔を輝かせた。

「あ、本当ですか?いくらか頂ければ、彼がお返しします。そうでしょう?ディーン、私、あなたにまだ頼ってもいいでしょう?だってあなたは私のことが好きでしょう?」

その図々しい言い草に、ディーンはまた言葉を詰まらせた。
確かに、ずっと心の中で大切にしてきた恋だった。
その若かりし時の思い出のおかげで、正気を失わずにいられたのだという自覚もある。
しかしその思い出はすでに色あせ、ただただ残酷な現実だけがディーンを苦しめ続けた。

恋も愛も、もはや信じられないところまで体も心も汚れてしまった。

ディーンが言葉を探すより早く、レイシャが二人の間に割り込んだ。
フェスターが鞭を使いたくなるような反抗的な態度で、レイシャは刃のようにアンナを睨みつけ、噛みつくように口を開いた。

「好きでしょうですって?好きだった、の間違いでしょう?何年昔の話か知らないけれど、彼が苦しんでいる間、あなたは彼があなたを好きでいられるだけの何かをしてあげたの?仕送りでもしてあげた?
苦しみを埋められるように手紙でも書いた?
彼を何年も苦しめてきたくせに、お金をくれですって?むしろあなたが彼に、お礼とお詫びをするべきよ。
私にも似たような知り合いがいるけど、お金が欲しいなら、土下座でもして素直に頼んだらどう?
無価値な人間のくせに、お金をもらってあげるみたいな言い方は、惨めで滑稽で見ていられないわ。
人を売ってまで自分を守って来たくせに、図々しいにもほどがある。
ディーンに謝りなさいよ!そうしたら、お金はあげてもいいわ。
彼はあなたのために命だけでなく心までも売って何年も苦しんできたのよ?その献身に対して謝罪もお礼も無しにお金を貸せだなんて、そんなこと、絶対に許せない!」

ディーンが口を挟む間もなく、レイシャは一気に言葉を叩きつけた。
その矢継ぎ早に繰り出される攻撃的な言葉と、聞いたこともない激しい怒気を帯びたレイシャの声に、ディーンはすっかり聞き入っていた。
過去の苦い記憶が蘇り、黒く渦巻く感情に支配されかけていたが、その全てをレイシャが吐き出してくれたようだった。

冷静になってみれば、目の前にいる女は、確かに過去の亡霊だ。
もうディーンを傷つけることも苦しめることも出来ない。
苦しみの根源であったことは確かだが、その過程があって今がある。
ディーンは頼もしいレイシャの手をしっかりと握り直した。

「アンナ、君とのことは良い思い出だ。その当時の自分の心に恥じない行動をとったと思う。だけど、長いこと俺は苦しんだ。その間支えてくれたのは彼女だった。
彼女は俺の借金を返済してくれた。もとは君のための借金だ。お礼も無しに次の借金を頼むのか?」

アンナは顔を赤くしたが、金をむしれそうな男を手放す気はなかった。

「私だって探したわ。良心の呵責に苦しんだ。でも、両親が決めたことに逆らえない。歳の離れた夫に苦しめられて、しかも事業が失敗して本当に苦労したのよ。
あなたと一緒になっていればこんな思いはしないですんだのにと何度も思った。
あなたが男娼でも気にしないわ。あなたとやりなおしてもいいわ。あんなに愛し合ったじゃない」

想像を遥かに越えるほどの図々しさに、またもや絶句したディーンの代わりに、レイシャが反撃した。

「いい加減にして!彼は愛を捧げたわ。あなたは?その見返りに何を彼に与えられるの?望まない結婚なんて珍しくもない。そんな小さな不幸と、魂まで売った彼の献身を比べようとするなんてあり得ない!
彼は愛のために大きな犠牲を払った。愛は一方的に捧げられるものではない。あなたから返せる心がないなら愛なんて口にしないで!」

レイシャは懐から財布を取り出し、投げつけた。

「これは手切れ金よ!もうディーンに近づかないで!」

重量のある財布が体に当たり、アンナは悲鳴を上げ数歩逃げた。
大金が落ちる音が通りに響き渡った。
幸い、中身は飛び散らなかったが、周囲には宿に泊まれない避難民たちが溢れている。

そんなテント暮らしをしている人々が一斉に地面に落ちた革袋を見た。
彼らが突進してくる前に、アンナは飛びつくように財布を拾い上げた。

そこかしこから物騒な気配が迫る。

アンナはもうディーンにもレイシャにも目もくれず、背を向けて門に向かって駆けだした。
その背中を数人の男達が追っていく。

その後のことは想像しなくてもなんとなく読めたが、二人は動かなかった。
周囲の宿なしたちが兵士に追われるようにすっかりいなくなると、レイシャの興奮はやっとおさまってきた。
大きく息を吐き、おそるおそるディーンを振り返る。

「余計なことをした?」

申し訳なさそうなレイシャの顔を見て、ディーンは小さく噴き出した。

「いや、嬉しかったよ。なんというか、思い出は思い出のままがいいな……」

二人は見つめ合い、同時に明るく笑いだした。
ディーンは光を跳ね返す鮮やかな緑の木々を見上げ、腕で目元を覆った。
まるで心に沈んでいたどす黒いものがみるみる溶けていくように、目から涙が溢れだした。
心に詰まっていた怒りや憎しみが静かに消えていく。

レイシャも、眩しそうに手を翳し、葉陰から空を見上げた。
嫌な出来事を二人で力を合わせて乗り越えたような気がして、最高に気分が良かった。
誰かと力を合わせるといった経験は、レイシャにとっても初めてのことだった。

別れ難くなり、ディーンは目元を拭うと、レイシャの手を握り、門の方を振り返った。
その手をレイシャも振り払わなかった。

「レイシャ、時間があるなら今日は一緒にいないか?俺のために怒ってくれたお礼もしたいし、その……」

レイシャに惹かれる気持ちを、ついにディーンはごまかすことが出来なくなっていた。

裕福な苦労知らずの女性だと思っていたレイシャが、嫁ぐまで大変な環境で生き延びたことや、愛の無い夫の下で必死に自分らしく生きようと頑張っているところ、それから、金だけの繋がりであるはずの男娼との約束を最後まで守ってくれたこと。
それからディーンの心に寄り添い、心無い元恋人の言葉に対し、自分のかわりに怒ってくれたこと。

夫に鞭打たれるような弱い立場でありながら、誰かのために戦い、笑えるその強さの全てが魅力的だった。

嘘かもしれない、演技かもしれない、同情を買って何か企んでいるのかもしれない。
裏切られ続けてきたディーンの中にはそれでもわずかにレイシャの人柄を真っすぐに信じてはいけないと思う心が残っている。

それなのに、レイシャにならば騙されても良いとも感じている。
ディーンはレイシャの手を引っ張った。

「朝の市場を覗かないか?いつもは寝ている時間だから俺も見たことがないんだ」

「私もない!」

レイシャがうれしそうに叫んだ。
互いに一緒にいられる理由が見つかったのだ。

「鞭でぶたれたくないから、夫のために美味しいものを買ってきたというわ」

レイシャが明るい口調で言った。

「俺はずっと娼館にいたからこの町のことはそんなに詳しくない。いろいろ探索してみたいと思っていたんだ。一人じゃあまり気が進まなくてね」

話し始めれば、レイシャが帰らなくても良い言い訳がどんどん沸いてくるようだった。
二人は目が合うたびに、微笑み合った。

市場で買い物をした二人は、少し休む必要があると理由をつけてディーンの家に向かった。
いつもなら仮眠をしている時間だとディーンが話すと、レイシャは眠った方がいいと勧め、ディーンは眠るまで傍に居て欲しいとレイシャに頼んだ。

さすがに二人で一つの毛布を被ることはできなかったが、二人は娼館でそうしていたように、寝台の上に並んで横たわった。
穏やかな微笑みを浮かべ、レイシャは目を閉じた。
レイシャが寝息を立て始めると、ディーンはレイシャにだけそっと毛布をかけた。
起きていようと思ったが、心の重みの取れたディーンは、少しだけ目を閉じた。


 ひんやりとした風を肌に感じ、ディーンが目を覚ますと、もう窓の外は赤く染まり始めていた。
ディーンは飛び起き、レイシャの肩に触れて優しく揺すった。

「レイシャ、レイシャ、すまない……少し遅くなった。大丈夫だろうか?」

ディーンはレイシャのかごの中にある、夫に買わされた鞭のことを思いだした。
幸福だった気持ちが急速に萎んでいく。
朝出た妻が、夕方まで帰ってこなければ、十分叱られる理由になってしまう。
レイシャの夫はさっそく購入したばかりの鞭を使おうとするかもしれない。

ディーンに揺さぶられ、レイシャは目を覚まし、小さく欠伸をして外を見た。
両手を頭上にあげ、体をゆっくりと伸ばす。

「大丈夫よ。夫は私に関心がないの。たぶん、理由があってもなくても鞭を使いたいのよ」

青ざめるディーンに対し、レイシャは明るく笑った。

「今日のことは自業自得よ。諦めもつくわ。すごく楽しかった。これまでの人生で間違いなく、最高の一日だったわ。ディーンのおかげよ。本当にありがとう」

すっきりと目覚めたレイシャは寝台から下りると、服の皺を手で伸ばした。
ディーンは気が気ではなかった。

「屋敷まで送らせてくれ。君の旦那様に俺が謝りたい」

レイシャは目を丸くしてディーンを見返すと、難しい顔をした。

「そんなことしなくていいわ。夫は気にしないもの」

ディーンはとにかく急ごうと、レイシャの手を引っ張り外に出た。

赤焼けた空の色を見て、ディーンは本格的に焦った。
夜になればどんな言い訳だって通用しない。

レイシャは焦るディーンに促され、素直に走り出した。
裏門を抜けると、ディーンの歩調は突然遅くなった。

町の警備兵たちの目を盗み、王都からの避難民たちが森の陰でテントを立て始めている。
ディーンはレイシャを傍に引き寄せた。

「最近は物騒だ。もう少し先まで一緒に行こう」

森を二つ抜ける細道の途中には墓地もあり、さらにその奥にフェスターの黒の館がある。
不吉な場所であり、誰も近づきたがらない。

ディーンに正体がばれてしまうのではないかとレイシャは心配になったが、墓地の手前までなら大丈夫だろうと考えた。
まだ夕暮れだったが、森の道は既に暗く、ディーンは家から持ってきたランプに火を入れた。
テントを張る人々の姿が見えなくなり、周囲が物言わぬ木立ばかりになると、レイシャは足を止めた。

「ここでいいわ」

ディーンはその先の暗い道を見て躊躇った。

「もう少し一緒に歩こう」

レイシャは頷き、二人はまた少し進んだ。
墓地の手前で、レイシャは足を止めた。

「本当にここでいいわ」

墓地を抜け、小さな森を抜ければもう黒の館だった。
今更ながら人妻であることを思い出し、レイシャはディーンと繋いでいた手をほどこうとした。
ディーンはその力に逆らわず、レイシャの手を自由にした。

なんとなく気まずい沈黙の中、レイシャは目を伏せ曖昧に微笑んだ。

「気にしないでね。本当に大丈夫だから」

これで本当にお別れだ。
最高に幸せな時間だったが、人妻であるという現実が変わることはない。

レイシャは背を向け、ゆっくり一人で歩きだした。
と、その時、ディーンが強い力でレイシャの手首をつかみ、後ろに引っ張った。

レイシャが驚いて振り返ると、ディーンはレイシャの頭を通り越し、その先の暗がりを睨んでいた。
そのただならぬ険しい表情に、レイシャもディーンの見ている方に視線を向ける。

細道の先に、人影らしきものが立っている。
さらに、その横の森から、小枝が割れるような音が響き、大きな影が現れた。

よく目を凝らせば、反対側の木の傍にも誰かがいる。
ランプの灯りの届かない、その薄暗い場所から野太い声がした。

「へぇ。女連れかぁ……」

大きな男達の影が、ゆらりと二人に近づいた。



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