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生きとし生ける者の世界へ

14. ぎこちなくも平和なひととき

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「……ウィギル」
「はい、何でございましょう?」
「言っておくが。おまえ達が想像しているような事態ではない。誤解するな」
「かしこまりました(そういうことにいたします)」
「違うからな」
「さようでございますね(そういうことにいたします)」
「………………」
「………………」

 執事の無表情は、今日も一部の隙もなく完璧だ。オスカーは眉間にしわを刻みつつ嘆息した。
 完璧な色味と芳香の茶を含みながら、舌に残る苦みに顔をしかめそうになった。何故だろう、このブレンドにそんな茶葉は使っていないはずなのに。



 目覚めた直後、ぼんやりオスカーを見つめ返していた少年は、急に「ひえっ!?」と叫んで飛び起きた。
 大量の疑問符を飛ばしながら呆然とし、次にハッとした様子でシーツの感触を確かめ、己の頬をぺたぺた触り、左胸に手を当て……そしてもう一度オスカーを見て……ぐしゃりと顔を歪め、子供のように泣き出した。
 あやし方など得手ではないオスカーは面食らい、ひとまず抱きしめてみたが、ますます嗚咽はひどくなった。しゃくりあげながら「ぼくは生きてる?」と繰り返すのに、ただひたすら「ああ、そうだ」と返すことしかできなかった。
 とても大変な思いをしたのだが、使用人からすれば全く違う見え方になったようだ。

 そもそも使用人達は、「客人が密かに一人滞在することになる。事情のある人物ゆえ、決して外部に漏らしてはならない」とだけ通達されていた。気難しい主人がこの館に客人を招くなど、あのリアム=ヴェリタスを除いてほとんどない。しかも時期は早ければ数日中、滞在が長期に及ぶときては青天の霹靂へきれきでしかなかった。さらに着替えや身の回りの品をすべてこちらが手配するというのだから、その客人とやらはますます尋常ではない。
 されど彼らはレムレスの使用人。かつて王国の危機を退け、歴史に名を刻んだ高名な大賢者レムレス、その名を賜ったあるじに仕える者としての矜持は王城の使用人にすら負けぬ。余計な疑問を表に出しはせず、粛々と客人を迎える準備をした。

 そして今朝、その『客人』は突然現われた。―――主人の寝室に。

 かの部屋で何が起ころうと、音や振動は一切外に伝わらない。それでも、つやつやと黒髪の美しいしなやかな少年が、一糸纏わぬしどけない姿で、しかも目を真っ赤に泣き腫らしているとなれば、何があったかは一目瞭然。
 レムレスをあるじに戴き、たとえ王族のご来臨であろうと完璧に仕事をこなせる自負のあるウィギルは、一ミリの動揺も表に出すことなく二人に朝のご挨拶をし、召使い達もシーツにくるまって恥ずかしそうに震えている少年へ「ご滞在中はわたくしどもがお世話をさせていただきます」と澄ました顔でご挨拶をし、そして他の者へ光の勢いで伝達した。―――「旦那様がいたいけな少年をかどわかしてきた」と。

 ウィギルは身支度をすませた主人がテラスに下りてくるのを見計らい、無言・無表情で茶の準備をし、あるじが根負けするまでジ――――――……と見つめ続けた。そこから先ほどの会話に至ったのである。

「ウィギル。……あの少年は半精霊のような存在だ。それが人に変じたもの、とだけ今は承知しておけ。後日ヴェリタスと彼の待遇について打ち合わせがある。詳細はそののちに話す」
「承知いたしました(そういうことにいたします)」

 盛大に溜め息を吐き出しそうになり、寸前で止まった。介添えとともに、件の少年がおぼつかない足取りでテラスに現われたのだ。

「うわぁ、すごい…………ぁ」

 目が合った。

「―――」

 黒い瞳が潤み、ぶわわ…と頬が紅潮した。
 無垢でありながら、昨夜の名残と今朝の大泣きで目元が染まり、何ともいえない艶やかさを醸し出している。
 オスカーは息を呑んだ。今さらになって、彼の全身をこんなに明るい場所で目にしたのは初めてなのだと気付いた。
 館の中で最も陽射しの入るテラス。すぐ背後に控えているウィギルからも、ひっそりと息を呑む気配が伝わる。

 この国の民の容姿は暗い色の割合が少なく、漆黒の髪など滅多に見かけない。それだけでも印象的なのに、黒曜石の瞳となればさらに稀少だ。鏡を挟んでそんなやりとりをしたら、彼はあっけらかんと「そういうお話、あっちの世界にたくさんありましたよ。僕のいた国では黒髪黒目なんて珍しくないんですけどね~」と笑い飛ばしていた。
 別の世界がどうであろうと、ここではとにかく珍しい。遠い異国に黒髪黒目の民族はいるらしいが、その国とは国交がなく、せいぜい噂で耳にするぐらいしかない。

 男の基準では小柄。女性の標準より背は高い。成長期ならばまだ伸びるだろう。すんなりとした身体に、彼のために仕立てさせた部屋着は黒絹の上下。愛し子や精霊憑きは己の髪色の同系色を好む傾向があり、彼もそうではないかと思ったのだ。
 短期間で仕立てたにしては素晴らしい出来栄えだ。シンプルでいて上品なシルエット、彼の不思議な雰囲気が引き立ち、よく似合っている。

 鏡を挟んで会話をする時は、映った自分の姿のせいで彼の姿が隠れてしまい、距離を開けねばならなかった。はたから見る者がいれば、己に語りかける変人かナルシストでしかなかったろう。
 決まりの悪さを誤魔化すために、目線をそらしたり考え込むフリをして、彼の姿をしっかり見ることはできなかった。昨夜にしても、灯りは燭台に灯した数本の蝋燭ろうそくのみだ。
 互いの間を遮るものが何もない、邪魔な要素のない環境でしっかり向かい合うことが叶い、オスカーは正直、ずっと浮かれている。

 今朝方などは、夜明けを迎えても実体化したままの少年に少なからず感動を覚え、つい髪を撫でてしまった。好奇心の対象に触れたがる子供の行動だと自嘲を禁じ得なかったが、別世界の魂と語らうのも、その魂の血肉を蘇らせるのも、オスカー自身が生まれて初めてなのはもちろん、王国史上初の試みなのである。
 成功する確信はあった。その通りになったからといって、高揚感が消え去るわけではなかった。

(動いている。目の前で……)

 対面に用意された一人がけのソファに、二人の侍女がさりげなく導いた。林檎のように頬を火照らせたまま、彼女らの手を借りてぎこちなく座る。その弱々しさは見る者の庇護欲をこれでもかと掻き立てた。
 背後の執事と侍女の方角から、無言の非難がざくざくと伝わってきた。少年の足元がおぼつかないのは、初めての身体に無体を働いたせいだと確実に思われている。
 あながち間違ってもいないので、そこは否定できないオスカーだった。
 むしろ彼自身、疲労の漂う少年の様子に、自分がそこまでダメージを与えてしまったのかとヒヤリとしたのだが……。

「―――もしや、皮膚感覚がほとんど回復していないのか? 歩けてはいるようだが」
「えっ、あっ……その。はい。だいぶ感触がわかるようになったんですけど、まだ鈍くて」

 ……自室で食事を摂らせるべきだったか。早まったな。
 この少年がどうやらテラスという場所を大いに気に入っているのは、ミシェルとの会話から判断した。最近のミシェルの趣味や関心事は、ほぼすべて彼の趣味や関心事の真似だったのだから。
 しかし今さら自室に戻らせるのも手間だし、体力の浪費でしかない。それにオスカーの推測は外れていなかったようで、ソファからこの場所を見回す彼の顔には「うきうき♪」と書かれていた。

「ありがとう」

 ひざ掛けをふわりと乗せた侍女に、少年はごく自然に微笑みかけた。その一瞬だけ彼女は目を瞠り、すぐに目を伏せて頭を垂れた。
 ウィギルの目がきらりと光った。―――この御方は、上位者としてふるまい慣れている。
 そして座り方。クッションの弾力を気に入ったのか、無邪気に楽しそうに触れている。平民のようにおっかなびっくりではない。何より、背筋が伸びて姿勢が良い。

「ええと……その……」

 すると、少年がどこか困った様子でウィギルに目をやった。

「執事のウィギルだ。私がレムレスの名を継承して以来ずっと仕えている」

 旦那様が自らフォローを……!?
 執事の中に稲妻が走った。挙動には出さない。

「改めまして、ウィギルと申します。ご挨拶が遅れ、大変失礼いたしました」
「いえ、そんな。ウィギル……さん」
「わたくしに敬称は不要でございますよ」
「……ウィギル」
「はい」
「ええと…………僕は、本名を名乗っていいんでしょうか?」
「構わん。おまえがここで何を話しても、この者達が外へ漏らすことはない」
「それじゃあ……僕は、水谷悠真です。悠真が名前、水谷が家名なんですけど、発音がこちらの方々には多分難しいので、名前で呼んでください」
「かしこまりました。それではユウマ様とお呼びいたします」
「よろしくお願いします」

 ウィギルの脳内手帳にズララララ! と突っ込み項目が列記された。が、何事もなかったかのようにパタリと閉じ、隙のない笑みとともに頷いた。

(本名を名乗っていいのか、とは、どのような意味のご質問なのでしょう?)

 それに、耳慣れない姓と名前。中流階級以上であれば普通に姓がある。けれど自己紹介の際に家名という言葉は使わない。それはそれなりに家格ある者のみが口にする言葉だ。
 遠い異国では常識が異なるのか。それとも。

(……いいえ、わたくしは執事。気になどいたしませんとも)

 気になるのは気のせいであり、詮索など言語道断である。何故なら自分は執事なのだから。
 そうしているうちに、料理の皿を載せたワゴンが運ばれてきた。オスカーの食事はいつも通りだが、客人の少年は消化が良いようにやわらかく、そして量も抑えるようにと指示されている。
 普段はオスカー一人で使っている丸テーブルに、二人分の朝食が並んだ。自分の前に置かれた皿に、何故か少年は戸惑っていた。苦手な食材でも入っていたのだろうか?

 くぅぅうぅ…………

「あ」

 どこかで可愛らしい羽虫が鳴っておりますね。ウィギルをはじめ待機している使用人一同、そういうことにした。
 が、何やら少年の様子がおかしい。

「僕……おなかが、すいてる……?」

 醜態を晒したと恥じている様子はなく、不思議そうに腹部をさすっている。

「これは……美味しそうな、香り……?」

 ふわりと浮かぶ湯気を嗅いで、何故か疑問形。
 そして意を決したように、戦いに挑む戦士さながらの顔つきでスプーンに手を伸ばした。

「自分で持てるか?」
「はい、大丈夫だと思います」

 力みなく数本の指で、スプーンの持ち手をすくう。
 その持ち方に、ウィギルの瞳が再びきらんと光った。―――姿勢ひとつ、さりげない所作ひとつとっても、洗練されている。

「う……お、美味しい……」
「……そうか」
「こ、こんな……食事……いつぶり、だろう……うぅ……」

 微々たる量を少しずつ口に運び、噛みしめる。
 ほんの数口であっという間に涙腺が崩壊した。侍女の差し出す手巾を受け取り、ぬぐってもぬぐっても涙が止まらない。
 料理人も味つけに工夫してはいるが、彼に用意されたのは病人食だ。オスカーは自分の皿と見比べ、かける言葉が見つからなかった。
 壁や柱に同化していた使用人達も、己の目元にソ…と布を当てている。この御方は今まで一体、どんな過酷な生活を送らされてきたのだろう……?

 そして使用人達の間に、『旦那様が不幸な境遇の若君をかどわかしてきた』という物語が爆誕した。


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